兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
夜巡りが明けきる前に目を覚ましたケセナは、グレンとラルが寝ているうちに着替えを済ませた。
ガイアから借りてきたという紺色の上衣は、袖こそ指先まで隠れるが、やはり襟元が広く、首筋の古傷までは隠しきれない。
考えた末、それまで着ていた、切り刻まれ、血の滲んだ紺色の外套を短剣で裂き、首元へ巻くことにした。少々不格好ではあるが、醜悪な傷が見えるよりは幾分ましだ。誰にも見られたくない。その切実な防衛本能が、彼にそうさせた。
グレンとラルを起こさないよう洞窟から出ると、陽が昇ったばかりだというのに、すでに空気はぬるく重かった。
(暑いなぁ……)
繁茂の季を迎えた南方地区の、じっとりとした風に当たりながら、ケセナはぼんやりと虚空を見つめていた。
(俺が……皇位後継者……)
ふと、見せられた映像のような過去の中で、自分へ向けられた言葉が脳裏を過ぎる。
いまだに信じられない。
確かに自分は本来、皇帝直系の証である金髪と紅瞳を持ち、宝刀の主人にもなっている。状況だけを並べれば、そうなのだろう。
だが、身体に残る傷と心が、どうしてもそれを拒んでいた。
(でも、俺のせいで苦しんでいる応龍族たちを見過ごせない)
決意は固かった。
自分が何者であろうと、言われのない罪で罰せられる応龍族の犠牲を、これ以上増やしてはいけない。
だから。
フィサルーアと評議会の前に自分を晒し、ねじ曲げられた真実を正そうと思ったのだ。
「絶対に、止めるんだ」
呟いた決意が、ケセナの視線を鋭くさせた。
空に浮かぶ雲を睨みつけていると、背後の洞窟からグレンとラルが揃って出てきた。
着替えを済ませたケセナを見て、グレンが短く息を吐く。
「ケセナ、おはよう」
「おはよう、ラル。グレンさんも」
「ああ、おはよう」
ラルがすすっとケセナの隣に座り、その様子がおかしくて、グレンは口元を緩めた。
「一夜前、何も食べないで寝ちゃったから、お腹空いてない?」
「うん。少し空いているかな」
「食料、尽きちゃってて。これしかない」
ラルが差し出したのは、小さな林檎だった。
林檎とラルを見比べながら、ケセナがそっと手を伸ばす。
「ありがとう。ラルたちは?」
「私と先生は、フェルナリアに行ったら食べる」
「……え?」
齧りつこうとして動きを止めるケセナに、グレンは言った。
「そういうことだ。食べ終えたら、フェルナリアへ行くぞ」
そうして、林檎を半分ほど食べ終えたケセナは、残りを包み、グレンとラルと共に崖を下り、フェルナリアの廃墟街へ戻った。
------
生活区域の入口では、すでにガイアとキョウが待ち構えていた。
「わざわざ出迎えなくていいのに」
グレンがラルを背後へ隠し、顔を顰めて唸る。
すると、ガイアが柄にもなく、ひどく恭しい口調で口を開いた。
「何をおっしゃいますか。応龍騎士団の団長殿に頼み事をしておきながら、出迎えもせずとは、朱雀の恥でございます。それに、共に『現』皇帝陛下もいらっしゃるとあれば、当然の礼儀でしょう」
「『元』団長な。それに、俺はともかく、ケセナは……」
グレンの制止を無視し、ガイアはその場に仰々しく跪いた。
そしてケセナを真っ直ぐに見上げ、言葉を続ける。
「キョウから話はすべて聞きました、皇帝陛下。我ら朱雀は応龍の家臣。それは今も変わりません。たとえ評議会が応龍を戦犯と呼ぼうと、我らは応龍と共に歩むことを誓う一族でございます」
背後で聞いていたケセナは、面食らって言葉を失った。
完全に豹変したガイアの様子に、ただただ呆気に取られている。
「ガイア。お前、何か勘違いしていないか」
グレンが額に手を当て、深く溜息をついた。
どうやら、隣で得意げに胸を張っているキョウが、話を相当盛って伝えたらしい。
「勘違い、とは?」
「ケセナは……ファルイーアは、皇帝ではない」
「…………は?」
ガイアが赤い瞳を凶悪に細め、跪いたままキョウをぎろりと睨み上げる。
だがキョウは「何よ」と不満げに口を尖らせ、悪びれる様子もない。
「てめぇ……」
ガイアの口から、いつもの乱暴な地声が飛び出した。
勢いよく立ち上がり、キョウの目の前まで詰め寄る。
「誰が皇帝だ、あぁ!? ほんっと、てめぇはでっち上げが好きだな! 俺にこんな恥ずかしい真似をさせておいて、なんだその面は!」
「だって、ファルだもん! この子が言ったのよ! ファルイーアだったって!」
キョウはグレンの背後にいるラルを指差して叫ぶ。
唐突に会話へ引っ張り出されたラルが、迷惑そうに眉を寄せた。
「それに、ファルはいずれ皇帝になるのよ? 間違ってないじゃない!」
「開き直って言うなっ! リュウショウ皇帝陛下は地位を辞し、評議会へ全権を委ねられたって、何度も説明しただろうが!」
「何よ、さっきまで『皇帝陛下』なんて神妙に言ってたくせに!」
「てめぇが『ファルが記憶を思い出して、私こそが次期皇帝だって玉座に宣戦布告した』っつったからだろうが!!」
盛ったどころの話ではなかった。もはや完全な英雄譚の捏造である。
ケセナは反論する気力すら失い、この言い合いはもう止めてほしいと胸中で呟いた。
グレンも同じ気持ちらしく、天を仰いで首を振っている。
そして、この騒音にもう一人、不快感を露わにしている人物がいた。
「捏造、最低……」
ラルの冷え切った声が響くと、ガイアとキョウが彼女を睨みつける。
「うるせぇ!!」
「うっさい!!」
見事なまでに揃った怒声を浴びせられ、ラルが半眼を向けた。
呆れきったケセナがグレンを見上げれば、師匠である彼は完全な放置を決め込んでいた。どうやら、嵐が過ぎ去るのを待つしかないらしい。
だがケセナは、火に油を注ぐかもしれないと思いながらも、おずおずと口を挟んだ。
「あの、俺、その『ファルイーア』だという記憶がなくて……。なんて言えばいいのかな。とりあえず、これから記憶の封印を解きに行く、という感じなんですが」
そんな曖昧な本人の説明を聞いた途端、キョウが雷のごとく目を輝かせた。
「聞いた!? ガイア! やっぱりファルでしょう!」
「おめぇは、人の話をひとつも聞いてねぇな!」
「聞いてたわよ! 封印を解きに行くんでしょ!」
日頃の鬱憤をぶつけ合うような言い合いが再開された。
こちらにも火の粉が飛びそうになり、ケセナはげんなりしながら眺めることにした。
やがて、キョウが唐突に衝撃的なひと言を放った。
「――私も、一緒に行くから」
その場にいた全員が、ぎょっとした。
あまりにも唐突な宣言だった。
「ガイアはここの守りもあるし、行けるのは私だけ。私だって、あの内乱を前線で見ていたんだから、戦力になる。そうでしょ、先生?」
「確かに、そうなんだが……」
話を振られたグレンは、曖昧に言葉を濁してガイアの顔を窺った。
当然、ガイアの表情は怒りを通り越し、さらに凶悪な険しさを増している。
「馬鹿言ってんじゃねぇ! お前が抜けたら、ここに残ってる奴らの飯はどうすんだよ!」
ガイアの、あまりにも現実的で切実な猛反対に、キョウはふふんと自信満々に鼻を鳴らした。
「安心して。あんたには黙ってたけど、料理の弟子が随分と腕を上げたわ。あの子なら、もう一人でも任せられるから」
「あぁ?」
ガイアから、低く不愉快な声が漏れる。
「ルイラが料理に興味を持ってね」
「ルイラだと!? あいつが料理に興味!? 嘘だろ、絶対!!」
ガイアが素っ頓狂な悲鳴を上げた。
ルイラの名を知らないケセナたちは、揃って首を傾げる。
「ルイラって、誰?」
ラルの真っ直ぐな問いに、ガイアは苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「俺の、十も離れた妹だよ。蝶よ花よと甘やかされて育ったせいで、自分の服すらまともに着られねぇ、親父似の糞生意気なガキだ」
よほど手の掛かる妹らしい。
このままでは、また別の言い争いが始まりそうになり、ケセナは慌てて本来の話題へ引き戻した。
「キョウさん。どうして、一緒に行くなんて?」
するとキョウは、迷いのない真っ直ぐな瞳でケセナを見つめ返した。
「簡単なことよ。あなたがファルイーアだから。ファルなら、今の状況を良しとせず、黙って自ら動き、フィサルーア様や評議会を討とうとすると思ったから」
ケセナは、胸の奥を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
――ファルなら。
その言葉はひどく温かく、そしてひどく残酷だった。
期待。信頼。あるいは、信仰に近い何か。
あまりにも真っ直ぐな思いに、息が詰まる。
「あの……どうして、そこまで……」
「だってあなたは、三から八星霜齢までの五星霜、私たちと一緒に過ごした、大事な弟だから」
「……弟?」
にわかには信じられず、ケセナは首を傾げた。
彼女が愛し、信じているのは、目の前にいる自分ではなく、彼女の記憶の中にいる過去の弟、ファルイーアだ。
自分はファルイーアなのか。それとも、ただのケセナなのか。
自分の中にある記憶の残滓が、静かにざわめき始める。
だが、その思考の波は、グレンの鋭いひと言で断ち切られた。
「駄目だ」
力強く拒絶し、グレンはキョウを射貫くように見据えた。
「キョウ、お前はここにいろ」
「先生!?」
「内乱を戦っただと? 自惚れるな。お前は、ただ戦場にいただけだ。戦った気になるな。それに、お前の戦場は今、ここだろう?」
同行させれば有益なのは間違いない。
だが、この先の旅はあまりにも危険すぎる。ケセナには、グレンの厳格な口調の奥に、愛弟子を案じる不器用な親心がはっきりと読み取れた。
「お前はただ、ファルイーアと一緒にいたいだけだろう。大人になれ、キョウ……」
図星を突かれたのか、キョウもガイアも、それ以上は何も言えなかった。
場に重苦しい空気が沈んでいく。
会話の中心は自分のはずなのに、ケセナはどこか他人事のような疎外感を抱いていた。
見せられた過去の記憶に、自分のものという実感が伴わないせいもあるだろう。会話へ割って入ることを、本能が躊躇させていた。
「ご本人は、どうなんだよ?」
ふいにガイアから問いかけられ、ケセナは目を泳がせた。
「俺、は……」
言葉が出てこない。じわりと額に嫌な汗が滲む。
しばらくの沈黙。
ケセナは右手をきつく握り締めた。
胸の奥から湧き上がってきたのは、小さな、しかし確かな拒絶だった。
分からない。自分が何者なのか、まだ答えは出ない。
けれど。
「キョウさんは……ここにいてください」
絞り出すように、ケセナはそう告げた。
「だ、そうだぜ……」
ガイアが振り返り、キョウを見る。
寂しそうな顔をして、キョウは一歩だけ後ずさった。
そして、静かに頷く。
グレンが安堵の溜息を漏らした、その刻だった。
「――じゃあ、最高のご馳走を作らなきゃ!」
キョウはそれまでの暗い表情をぱっと払い、ことさらに明るい、無理に作ったような声で叫んだ。
それが彼女なりの、精一杯の強がりなのだと。
痛ましげに目を細めたガイアの横顔を見て、ケセナの胸にも鋭い痛みが走った。