兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「もう少し、どうにかならないのか……」
半眼になり、深い溜息とともに呻いたのは、騎士団に入ったばかりの少年、グレン・ラティアだ。
十八星霜齢。
上質な茶色の短衣を纏った黒髪黒目の彼は、その端正な顔を盛大に歪めていた。
視線の先にいるのは、この世界の次代を担うはずの高貴な人物。
「ははは、すまない。いや、面目ないね」
白を基調とした気品ある衣服。それを盛大に泥だらけにして、金髪紅瞳の青年が笑って誤魔化そうとしていた。
皇太子、リュウショウ・ク・フェスカ。
二十星霜齢の、未来の皇帝たるその人は、森の獣道にぽっかりと口を開けた落とし穴へ、見事なまでにすっぽりと嵌まっていた。
「その軽率な振る舞いを、だ」
「うーん、難しい相談だね。望んでやっているわけじゃないんだ。地面が急に僕を求めてくるから」
「お前、俺がいなかったらどうするつもりなんだよ……」
グレンは、この昼巡りの何度目かも分からない溜息をつき、穴の底へ向かって手を差し伸べた。
リュウショウはその手を取り、引き上げられるようにして地上へ戻る。泥を払う仕草だけは優雅だが、どう見ても全身泥まみれだ。
「すまない、グレン。いつも助かるよ」
「少しは反省しろ。お前に付き従う護衛が、皇宮の連中じゃなくて俺だからいいものの……」
「いいじゃないか。君がいてくれる。僕は君がついてきてくれると信じて、前だけを見て歩けるんだ」
「あのなっ! それは足元を見なくていい理由にはならないだろう!」
グレンの至極真っ当な小言を鼻歌交じりに聞き流し、リュウショウは懲りもせず、さっさと前を向いて歩き出した。
ここは皇宮から離れた、名もなき獣道。自然にできたらしい穴が、そこかしこに口を開けている。
だというのに、リュウショウという男は、興を引かれるものを見つけると、足元への注意が完全に消える。
「お、おい。そこ、足元――」
グレンが叫んだ、まさにその数息後だった。
――ずぼっ。
一切の迷いなく、リュウショウの身体が再び地面へ吸い込まれた。
「………………」
もはや声も出ない。
グレンは天を仰ぎ、拳を握り締め、無言で穴へ歩み寄った。
そして、数えるのをとうにやめた救出劇を淡々とこなし、リュウショウを再び地上へ引っ張り上げる。
「なんで見ないんだよ……!」
「いやあ、あの木の実が見たこともない綺麗な青色をしていて、つい」
「つい、じゃない! いつか本当に命を落とすぞ!」
「その折は、君が笑って弔ってくれ。……お、あそこかな?」
泥だらけの皇太子は、叱り飛ばすグレンを気にする様子もなく、嬉しそうに森の先を指差した。
その先には、森の緑に溶け込むようにして、一軒の小さな家がひっそりと佇んでいる。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
「あの家には、僕が尊敬する人が住んでいるんだ。この昼巡りは、どうしてもグレンに紹介しておきたくてね」
声を弾ませ、ご機嫌に言い放つリュウショウ。
つい先ほどまで泥まみれで穴に嵌まっていた男とは思えぬ切り替えの早さだ。
「お前が尊敬……?」
「僕にだっているんだよ。そんなに妙な顔をしないでくれ」
リュウショウは少しだけ口を尖らせると、グレンを置いて先に家へ向かってしまう。
その後ろ姿を見つめながら、グレンはまた小さく溜息をついた。
リュウショウが自分をこの場所へ連れてきた理由くらい、分からないわけではない。
三星霜前。
まだ騎士団に入る前のことだ。
皇宮の裏庭の片隅、誰も見向きもしない場所で、一人静かに空を見上げていた。
その横顔があまりにも遠く見えて、思わず声をかけた。
あの刻から、リュウショウは折に触れてグレンを連れ出すようになった。
皇太子としてではなく、一人の青年として。
そしてグレンもまた、気づけば彼の背を追うことが当たり前になっていた。
(だからこそ、紹介しておきたい、か)
リュウショウが大切にしているものを、友である自分にも見せたい。
そういうことなのだろう。
あの昼巡りの出会いを思い返しながら、グレンも家へ向かって足を進めた。
――やがて、二人は目的の家の前へ辿り着く。
リュウショウは迷いなく扉の把手に手をかけた。
「おい、戸を叩かないのか」
「あ」
グレンの指摘に、リュウショウは間の抜けた声を漏らす。
「忘れていたよ……」
「忘れるな」
反省したのかどうかも怪しいまま、リュウショウがそのまま扉を開けようとした、その刻。
ばぁんっ!!
内側から勢いよく扉が開かれ、リュウショウの身体がたたらを踏む。
扉の向こうに立っていたのは、いかにも機嫌の悪そうな、鋭い眼光を放つ蒼髪の人物だった。
「騒々しい……。表で穴掘りでもしていたのか、貴様らは」
低く、冷えた声。
その人物は、泥まみれの皇太子と呆然と立ち尽くす騎士を交互に見やり、鼻を鳴らした。
「あはは……やあ、オウセイ。急に押しかけてすまないね」
へらりと笑うリュウショウの横で、グレンは本能的に剣の柄へ手をかけていた。
オウセイと呼ばれた男から放たれる、底知れない、どこか死の匂いを纏った気配。
その琥珀色の瞳が、値踏みするようにじろりとグレンを射抜く。
背筋を、氷の刃でなぞられたような冷気が駆け抜けた。
「紹介するよ、オウセイ。彼はグレンだ。僕の大切な友人なんだ」
「友人だと……?」
オウセイは隠そうともしない嫌悪を露わにして、グレンを指差した。
「気でも触れたか、リュウショウ。そいつ、魔力はないが、どろりとした呪力の種を宿している。北の玄武の末っ子だろう」
「……っ!」
どくん、と。
グレンの心臓が大きく跳ねた。
自分が玄武族の出であることは秘匿されているはずだった。ましてや、魔力は一切ないのに、呪術の素養だけは秘めているという歪な体質を、出会って数息の男に見破られるなど。
呪術は、魔力を要さぬ血と精神の業。
自分の中にその種があることだけは、グレンも知っている。だが、一度も使ったことはない。そんなものを本当に己が扱えるとは、到底思えなかった。
「なぜ、それを……。俺に力があるなんて、俺自身も信じちゃいないのに……!」
「ふん。無自覚な呪いほど鼻につくものはない。使えるのか、使えんのか知らんが……宝の持ち腐れだな」
冷酷に急所を突かれた。
だが、リュウショウは動じなかった。泥に汚れた顔に凛とした光を宿し、きっぱりと言い切る。
「いいえ、オウセイ。グレンは信頼できます。僕が選んだ、僕の唯一の友ですから。魔力がなく、呪術など使わなくとも、彼は磨き上げた武で、誰よりも僕を守ってくれる」
迷いのない言葉に、オウセイは「ちっ」と舌打ちし、視線を外した。
「驚かせてすまないね。グレン、改めて紹介しよう。この方こそ、絵本や伝承で語り継がれているあの人だ。――蒼髪の救世主、オウセイ殿だよ」
「……は?」
グレンの思考が真っ白に染まった。
オウセイ。
蒼髪の救世主。
子供が眠る前に聞かされる、五千星霜も昔から語り継がれる生ける伝説。
「お、おい……冗談だろ……?」
目の前に立つのは、泥まみれの皇太子へ文句を言う、不機嫌な男だ。
英雄像とはかけ離れている。だがそのくせ、圧倒的な死の気配だけは本物だった。
「救世主はやめろと、何度も言っているだろう」
オウセイは溜息をつき、二人を家の中へ招き入れた。
透き通った硝子を贅沢に嵌め込んだ三面の窓からは森の光が満ち、壁一面の本棚には隙間なく本が詰められている。
オウセイは大きな椅子へ腰を下ろした。
「何の用だ。まさか、その玄武の末っ子を紹介しに来ただけではあるまい」
「はい。父上からの報告がありまして……」
リュウショウの表情から少年の気配が消え、皇太子の厳格さが宿る。
グレンは隣で冷や汗を流しながら、世界の命運を左右しかねない会話を黙って聞いていた。
重大な報告を終えると、リュウショウは再びぱっと表情を和らげ、信頼を寄せる相手の傍へ親しげに身を寄せた。
その光景があまりにもお伽話とかけ離れていて、グレンはつい口を滑らせた。
「なあ、リュウショウ。もし、そいつが本当に伝説の人物だとしたら、今も生き続けているのはおかしくないか?」
「グレン、そこは気にするところかい?」
「だいたい、全部おかしいだろ! 怪しすぎる! リュウショウ、離れろ。そいつ、魔物か何かだ! お前は騙されてるんだよ!」
グレンの指が、伝説の男を真正面から指差す。
「救世主だったら、もっと威厳があって、こんな不機嫌で不遜で陰気な奴じゃないだろ! 第一、五千星霜だぞ!? それだけの星霜を生きてるわけが――あ」
言い終えるより早く、部屋の温度が凍りついたように落ちた。
「小僧。いい度胸だ……。褒めてやるよ」
オウセイが静かに立ち上がる。
琥珀色の瞳に宿る、本物の殺意。
「表に出ろ。その減らず口、二度と叩けないように思い知ら――」
ばぁぁんっ!!
この昼巡り、何度目かの乱暴な開閉音が響く。
入口に立っていたのは、買い物袋を抱えた黒髪の女性だった。牡丹色の瞳をした、淑やかな美女。だが、その目は怒りに満ちている。
「キリエ……?」
オウセイの問いを無視し、キリエはずんずんと進み、吠えかけていたオウセイの足を全力で踏み抜いた。
――ごぎっ。
「!!!!!!」
悶絶するオウセイへ、キリエは冷ややかに言い放つ。
「年若き者を虐める人は、嫌いです」
キリエが炊事場へ去ったあと、残されたのは、足を押さえてうずくまる救世主と、泥だらけの皇太子。
そして、「この家、終わっている」と確信した騎士だけだった。
これが、グレンとオウセイの最悪の初対面である。
この昼巡りを境に、顔を合わせるたびオウセイは露骨に不機嫌になり、グレンもまた、遠慮なく鼻で笑うようになる。
それでも、リュウショウを挟んだその険悪な縁は、不思議と途切れることがなかった。