兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
陽が昇り、過酷な夜巡りが終わりを告げた。
陽の昇る頃の靄に包まれた森へ足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。肌を刺していたフェイカーの淀んだ殺気は嘘のように消え去り、代わりに清浄な気配が一行を包み込んだ。オウセイの結界内へ無事に辿り着いたのだと悟り、グレンは深く胸を撫で下ろす。
腕の中のケセナは高熱に魘されているものの、荒れ狂っていた呼吸は憑き物が落ちたように穏やかになっていた。結界を吹き抜ける風はどこまでも優しく、まるでオウセイの『願い』そのもののように彼を包み込んでいる。ケセナの魂もまた、その温もりに無意識のうちに安堵したのだろう。
だが、折に触れて漏れる譫言には、無理やり見せられた『記憶の断片』への強い恐怖と拒絶が色濃く滲んでおり、それを聞くたびにグレンは痛ましげに眉を顰めた。
「見えてきた……。先生、家!」
静寂を裂いたラルの声に、グレンはケセナを馬の背へ慎重に預け、自らも地に降り立つ。
視線の先、森の奥深くにひっそりと佇む小さな家があった。その庭では、蒼い髪の男――オウセイが、まるで最初から彼らが訪れることを知っていたかのように、椅子へ深く腰掛けている。傍らには、キリエが静かに立っていた。
「オウセイ……っ!」
安堵と焦燥の入り混じった声を漏らし、グレンが庭へ足を踏み入れた、その瞬間。
「――動くな」
地を這うような冷たい声が、耳元で囁いた。
「何をしに来たの?」
前方にいたはずのキリエが、いつの間にか間合いを詰め、グレンの喉元へ鋭い剣を突きつけていた。いつ動いたのかさえ分からない。グレンの額を冷たい汗が伝う。
「待て、俺だ。グレンだ」
「分かっている。その子……」
牡丹色の瞳は冷え切っていた。キリエの視線はグレンではなく、馬の背で熱に浮かされているケセナへ注がれている。
「封じた記憶をこじ開けて、今度はこの子から何を奪うつもり?」
「違う!」
どう弁明すればいいのか、グレンには分からなかった。ラルもまた、絶対的な強者の放つ気迫に呑まれ、身動きひとつ取れずに固まっている。焦燥に唇を噛んだ、その刻だった。
「よせ、キリエ……」
静かにオウセイの声が響く。
椅子から立ち上がった彼は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。以前よりもどこか輪郭が透き通って見え、グレンは思わず息を詰まらせる。伸びた蒼い髪が、その奥にある琥珀色の瞳を半ば隠していた。
キリエは無言で剣を引き、一歩下がってオウセイへ道を譲る。
「ケセナ。聞こえているか?」
それは、グレンがこれまで一度も聞いたことのないほど、慈愛に満ちた優しい声だった。
オウセイは馬の背からケセナをそっと抱き取ると、その右腕に浮かぶ悍ましい痣を一瞥した。途端に、彼の眉間へ深い皺が刻まれる。
「お前、こいつの封印を無理やりこじ開けたな……」
「ファルイーアだという確信が欲しかった。リュウショウの仇だという確信が」
グレンが言い訳ひとつせず罪を認めると、オウセイは痛ましげにケセナの額へ触れた。
「愚か者め……」
静かに、だが重く吐き捨てると、オウセイは振り返ってキリエへ指示を飛ばす。
「キリエ、奥へ。プラウは?」
「プラークルウなら、ここに」
キリエがケセナの腰袋から、淡く明滅する封玉を取り出した。
「ああ」
短く応じ、オウセイはケセナを抱えたまま家の中へ消えていく。
残されたグレンとラルは、張り詰めていたものが切れたように、揃って膝から崩れ落ちた。
「良かった……。これで助かるね」
ラルが深い安堵の息を漏らす。だが、グレンの表情は暗く沈んだまま、少しも晴れなかった。
(助かるかどうかは、分からない)
喉元まで込み上げたその不吉な言葉を、グレンは必死に飲み込む。
オウセイとて万能ではない。蒼髪の救世主と祭り上げられてはいても、四星霜前の内乱では実戦向きの術をほとんど使えず、担っていたのは主に情報収集と後方支援だったのだ。
応龍族との繋がりが濃い人物であることは理解している。あのリュウショウが懐いていたくらいだ。それでも、あの男を万能だとは到底思えなかった。
――半刻ほどが過ぎた頃。
家の中から激しい黄金の光が漏れ出した。直後、ケセナの絶叫とも龍の咆哮ともつかない悍ましい声が、森の静寂を切り裂いて響き渡る。
「ケセナ!」
グレンが跳ね起きた瞬間、勢いよく扉が内側から開け放たれた。
飛び出してきたのは、銀髪を振り乱したプラークルウだった。その瞳には、切迫した恐怖と焦りが宿っている。
「この黒馬鹿男! お前が無理やり心をこじ開けるから、魂の均衡が崩れた! このままでは、ケセナ様が『狂気』に呑まれてしまう!」
「均衡? 『狂気』だと?」
「私の制御が、まったく効かない! お前は、なんでいつも余計なことばかり!」
八つ当たりめいたその悲鳴に、グレンは返す言葉を失う。家の中からは、さらに激しさを増した破壊音と呻き声が漏れ聞こえてきた。
「そこを退け、プラウ……」
「黒馬鹿にできることなんてない! あれを力で抑えられるのは……っ!」
プラークルウの制止を待たず、グレンはその小さな肩を押し退けて、家の中へ突き進んだ。
部屋の奥。
そこには寝台の上で黄金の炎に包まれ、壮絶な苦悶の表情を浮かべて身悶えるケセナと、その暴走する右腕へ手を当て、異質な力を必死に抑え込み続けるキリエとオウセイの姿があった。
「オウセイ、代われ!」
「ふん、末っ子。お前に何ができる!」
オウセイは毒づくが、その顔色は蒼白で、口の端からは血が流れている。ケセナの暴走を外側から抑え込んでいる彼の力も、すでに限界に近づいていた。
「いや、できるかもしれん……」
ふと、オウセイの考えが変わる。
自分では、外から押さえつけることしかできない。だが、心の奥底を直接覗き見たこの男にならば、届くかもしれない。
「お前の呪術なら、届くかもしれない。呼べ。ファルイーアではなく……今の、この子を。『ケセナ』を」
グレンは力強く頷いた。寝台の傍らへ膝をつき、暴走する熱い右手を、己の両手でしっかりと握り締める。
「っ……!」
凄まじい熱波がグレンの手を焼き、骨の髄まで届くような激痛が走った。それでも、決してその手を離さない。
「帰ってこい、ケセナ!」
魂を絞り出すようなその叫びは、圧倒的な光の渦の中へ呑み込まれていく。グレンの視界は白く濁り、強く握り締めたケセナの手の感触だけが、唯一の命綱となっていた。
ケセナは、真っ白く何もない空間に立っていた。
目の前には、幼い頃の自分――ファルイーアがいる。虚ろな紅い瞳。血に染まった小さな手と金髪。細すぎる四肢には、無数の傷が刻まれていた。
少年は無言のまま、足元に広がる黒い沼を指差している。
『全部、お前だ……』
脳の髄へ直接響く、恐ろしいほど甘い龍の声。
『捨てよ。我の糧になれ。誰もお前を求めぬ。哀れな人形よ。我がお前を求めよう』
這い寄る黒い泥が足首へ絡みつき、底なしの淵へと引きずり込もうとする。ケセナは抗い難い絶望に顔を歪めた。
『忘れたか。お前は血塗れの兵器。壊れた兵器は、破棄されるのみ』
記憶を取り戻すと決意した心も、この闇と罪悪感の前では、あまりにも脆い。一星霜の間に手にした温かな記憶すら、泥に溶けて消えてしまいそうになる。
「俺は……っ」
――その刻だった。
「帰ってこい、ケセナ!」
深い闇を真っ二つに裂く、呆れるほど聞き慣れた声。
右手を握り締められる無骨な感触が、闇を焼き払うほどの熱量をもって、心の奥へ流れ込んでくる。
「グレンさん……?」
胸の奥がじんわりと温かくなり、ケセナは泥から抜け出そうと右足を持ち上げた。だが、すかさずファルイーアが、その足へ縋りつく。
「こっちへ、来て……。ここは、何も感じなくていい。もう……消えよう?」
それは、絶望の果てに、すべてを捨てることでしか生き延びられなかった過去の自分からの、甘い誘惑だった。
その青白く細い手を、ケセナは確かな意思で振り払う。
思い出す。凄惨な応龍狩りを。残酷な過去を。
そして――この一星霜で出会った人々を。笑って暮らす、温かな人たちの顔を。
全部、絶対に失いたくない大切なものだ。
「みんなを守りたい……。それに俺は、自分自身を助けたい」
ケセナは闇に向かって、はっきりと宣言した。
「お前に呑まれるわけにはいかない!」
絶望の底から、ずっと右手を繋ぎ止めてくれていたあの熱へ向かって、力強く手を伸ばす。一筋の温かな輝きが、光の柱となって立ち上った。
「俺は、ケセナ! ケセナ・レフィードだから!」
刹那。
ケセナの魂の深淵から、黄金の光が爆発するように弾け飛んだ。
「――っ、がは……!」
オウセイが大きくのけ反り、大量の鮮血を吐き出した。ケセナの暴走を外側から抑え込んでいた魔力が、ついに限界を迎えて弾き飛ばされたのだ。
狂気じみた熱波が引き、荒れ果てた室内に、深い静寂が戻る。
右腕を侵食していた赤黒い痣は、主の強い意思に屈したかのように、美しく輝く『黄金龍の紋章』へと姿を変えていた。荒れていた呼吸も、穏やかな寝息へと変わっている。
「ケセナ……?」
火傷の痛みに耐えながら、グレンが恐る恐る声をかけた。
ゆっくりと瞼が開く。そこにあったのは、暴走した祖の力に染まった紅でも、記憶を封じたことで変わった茶色でもない。深く温かな琥珀色だった。
「グレンさん……?」
確かな意思の宿った、いつもの声。
グレンは情けなく鼻をすすり、その頭を乱暴に撫で回した。
「痛い……です」
ケセナが小さく呻き、安堵の苦笑を漏らした、その刻。
視界の端で、どさりとオウセイが床へ崩れ落ちた。
「オウセイ様!」
キリエが血相を変えて駆け寄る。
「大丈夫だ、とは言えないかな……」
オウセイは口元の血を拭い、蒼白な顔で自嘲気味に笑った。キリエの肩を借りて立ち上がり、窓の外へ視線を送る。外はすっかり明るく、小鳥の無邪気な囀りが響いていた。
「これで、やっと俺の最期だ……」
消え入りそうなその呟きは、誰の耳にも届かなかった。隣のキリエにすら、聞こえてはいない。
手足は震え、骨の芯まで凍えるように寒い。自分の命が確実に燃え尽きようとしているのを感じながらも、オウセイは振り返り、今度は誰の耳にも届く声で告げた。
「ケセナ。お前は選択をしなければならない。俺は、それを話そう。その上で、封印した己の記憶を求めるというなら――お前の封印を解こう」
昇った陽の光が、ケセナの琥珀色の瞳を真っ直ぐに照らし出す。それは、失われた真実を取り戻すための、過酷な二夜半の始まりでもあった。
「その前に……」
ゆっくりと目を閉じ、厳粛な空気を完全に壊す弱々しい声で、ケセナがぽつりと告げる。
「寝かせて……」
そのまま再び静かな寝息を立て始めたケセナを見て、グレンもオウセイもキリエも、張り詰めていた気を削がれたように、柔らかな笑みを浮かべ、その寝顔を見守るのだった。