兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
陽の光が部屋を満たしても、家の中は異様な静けさに包まれていた。
暴走を乗り越えたケセナは、寝台の上で深く眠っている。呼吸は安定し、胸は規則正しく上下していた。ただ、右腕に定着した黄金龍の紋章だけが、生き物のように微かに脈打っている。
グレンは寝台の縁に腰を下ろし、その様子を見つめていた。
「死ななかっただけ、上出来か……」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもない。
それでも胸の奥では、同じ後悔が何度も繰り返されていた。
必死に生きようとしていたファルイーアに、過去を見せてしまった。笑い、怒り、泣く。人としてようやく取り戻していたものを、自分はまた、この子から奪うところだった。感情だけではない。その小さな命すらも、奪うところだったのだ。
親友である皇帝リュウショウを殺し、逃亡したうえに記憶まで消している。そのことに腹を立てていた。因果応報だとさえ思っていた。
けれど、呪術『心裸眼』で覗き見た精神世界の真実は――。
背後で、床板が小さく軋んだ。
振り返ると、壁に手をつき、身体を支えるようにしてオウセイが立っていた。
いつ入ってきたのかも分からない。
顔色は灰のように悪く、唇の色も薄い。だが、蒼い髪の奥の琥珀色の瞳だけは、不気味なほど冴え渡っていた。
「お前のお手柄だ、玄武の末っ子」
「気持ちの悪いことを言うな、陰気隠居……」
グレンは、ふん、と静かに鼻を鳴らした。
顔を合わせれば憎まれ口を叩き合う。この二十九星霜、それが彼らの変わらぬ日常だった。
だが、オウセイからの反撃はなかった。
代わりに、重く湿った咳が落ちる。咄嗟に口元を拭ったその仕草に違和感を覚え、グレンの視線は吸い寄せられるように彼の胸元へ落ちた。
そこには、先ほど吐いた血の痕が、服に生々しく残っていた。
「俺は、長くは持たない……」
そう言って、オウセイはケセナの寝顔へ目を向けた。
「だが、死ぬ前にやることがある」
やがて、泣き腫らした目をしたプラークルウを先頭に、ラルとキリエも部屋へ集まってきた。
誰もがケセナの様子を気にしている。だが、オウセイの纏う死の気配が、全員の言葉を奪っていた。呼吸の音すら躊躇われるような重い静寂だけが、部屋を満たしていた。
張り詰めた空気を、オウセイ自身が静かに打ち砕く。
「今回の暴走は、腰巾着がケセナの心を暴き、プラウ、お前が封玉へ閉じこもって『黄金龍』の制御を手放した結果だ。反省しろ」
「申し訳……ありません……」
いつもなら食って掛かるはずのプラークルウが、珍しく項垂れ、消え入るような声で謝罪した。
「おい、意味が分からない。制御とはなんだ?」
「末っ子。お前にも反省しろと言ったはずだが……?」
「している」
「態度に見えんが……まあ、いい」
怪訝に問うグレンへ短く鼻を鳴らし、オウセイは寝台で眠るケセナへ視線を戻した。そして、隠し続けてきた真実をゆっくりと語り始める。
「プラークルウの本来の役目は、代々応龍皇帝の右腕に封じられてきた狂気――『黄金龍』の監視だ。万が一、あれが暴れれば、内側から制御し、鎮める」
「でも……応龍の『祖』だって……」
ラルが純粋な疑問を投げかける。
その瞬間、オウセイの表情がすっと気まずいものに変わった。少しだけ視線を泳がせ、躊躇いがちに口を開く。
「ああ、それは……初代皇帝が『そっちの方が格好いい』とかなんとか言って、そう呼ばせた。ただの後付けの名だ」
「なに、それ……」
あまりにも威厳のない真実に、ラルは呆気に取られて眉を寄せた。
すぐにオウセイの顔から僅かな照れが消え、底知れない暗い眼差しが戻る。
「『黄金龍』は、五千星霜前の『蒼き獣』の一部。俺から剥がれ落ちた『狂気』そのものだ……」
「なんだと……? それを、応龍皇帝の右腕に代々封じてきただと!? ふざけるな、オウセイ!」
グレンが激昂し、立ち上がった。
そのまま大股で歩み寄り、オウセイの血で汚れた胸ぐらを力任せに掴み上げる。歴代の皇帝たちに、そして目の前で眠るファルイーアに、どれほどの業を背負わせてきたのか。その怒りが、グレンの手を震わせていた。
だが、オウセイは抵抗しなかった。抗う力など、とうの昔に失われている。なすがままに胸ぐらを掴まれ、自嘲するように小さく息を吐いた。
「そうするしか、方法がなかった……」
振り上げそうになった拳を、グレンはわなわなと震わせながらどうにか堪え、オウセイの身体を乱暴に壁へ押しつけた。
衝撃でオウセイが小さく咳き込む。すかさずキリエが支えようと動いたが、オウセイは右手を上げてそれを制した。
「大丈夫だ」
「しかし――」
「これが、俺の本来受けるべき罰だ」
五千星霜という途方もない歳月を、救世主として孤独に立ち続けた男の、血を吐くような本音だった。
壁にもたれかかり、荒い息を整えながら、オウセイは言葉を続ける。
「ケセナが目覚めたら、隠すつもりはない。応龍の祖の意味……そして」
僅かに言葉を切る。
「なぜ、あの子が世界の敵と呼ばれる運命にあるのかも、だ」
室内の空気が、目に見えない重みを帯びた。
「耐えられるのか……?」
グレンが低く問う。
「まだ子供だぞ」
「だからだ」
オウセイは即答した。
「今のケセナには、『誰かのために泣ける心』がある。それを失う前に、選ばせる」
「選ぶ、って……何を、ですか……?」
掠れた小さな声が、寝台の上から響いた。
全員が一斉に振り向く。
ケセナが、ゆっくりと上体を起こしていた。
琥珀色の瞳はまだ眠たげだったが、確かに現実を捉えている。
オウセイはほんの一瞬だけ目を細め、静かに告げた。
「お前が、この世界を救うか。それとも、壊すか、だ」
陽の光がケセナの瞳に差し込む。
その奥で、右腕の黄金龍の紋章が、確かに脈を打った。
「選ぶのは――」
言い終える前だった。
オウセイの喉が、ひくりと鳴る。
「……っ」
咄嗟に口元を押さえる。
だが、遅かった。指の隙間から、どす黒い血が止めどなく溢れ落ちた。
「オウセイ様!」
ぼたぼたと床を汚す黒い染み。生温かな血から立ち昇る、ひどく鉄錆びた匂いが、清浄だった空気を一瞬で塗り潰した。
キリエが駆け寄ろうとしたが、一歩遅い。
壁にもたれていたオウセイの膝が崩れ、その身体が前のめりに傾ぐ。
「やはり、な……」
苦笑とも諦めともつかない声。
その口元から、さらに血が溢れた。明らかに量が異様だった。
倒れ込む寸前、グレンが咄嗟にその身体を抱き留める。
「おい! 喋るな!」
「無茶、言うな……。俺が話さなければ……誰が話す」
腕の中の身体は、すでに氷のように冷え切っていた。
震えは止まらず、指先にはまるで力が入っていない。
焦点の揺れる瞳が、ゆっくりとケセナへ向く。
「悪いな……。肝心なところで……」
ケセナは動けなかった。
喉が、胸が、きつく締めつけられる。
目の前で血を吐き、倒れているこの人は、絶望の底にいた自分を人として扱い、名を与えてくれ、守ろうとしてくれた人だ。
「オウセイ……」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど弱かった。
それでもオウセイは、確かに聞き取ったらしい。唇だけが僅かに歪む。
「いいか、ケセナ……。選ぶのは、誰でもない。お前だ」
血混じりの掠れた声で紡ぐ言葉に、誰もが息を呑んだ。
オウセイの視線が、真っ直ぐにケセナを射抜く。
「ケセナ……いや、ファルイーア。お前は……世界の敵だ。お前は、応龍と魔人の力を併せ持つ」
「魔人……?」
ケセナの唇が震える。
「お前の右腕に封じられている『黄金龍』。それは狂気だ。五千星霜前、世界を滅ぼしかけた魔人が残したもの。俺が抗えなかった呪縛……」
震える指が、ケセナの右腕を指した。
ケセナは反射的にそこを掴む。内にいる黄金龍が、呼応するように脈を打った。
「だが、お前は違う……。お前だけは、それを扱える。だから、敵なのだ」
そして。
「――世界を壊すか、世界を救うかは、お前次第だ」
「もうやめてください! これ以上喋れば――!」
キリエが叫ぶ。
オウセイには、彼女が何を望んでいるのか、痛いほど分かっていた。
彼女は、自分が『穏やかに最期を迎えること』を強く望み続けている。けれど、今は優先すべきことがある。オウセイは僅かに首を振った。
「いい……」
瞳の光が、少しずつ薄れていく。
「ファルイーア……。すべては、お前の記憶の中にある。だから、お前は記憶を……」
言葉は途切れ、声はか細くなる。
それでもオウセイは、もう見えていないはずの瞳で、なおケセナを見据え続けた。
「選べ……。ケセナか……ファルイーアか……。それから……」
最期の言葉に音は乗らず、ただ唇だけが動いた。
『生きなさい』
そう言われた気がして、ケセナは小さく頷いた。
胸の奥で、何かがひどく熱く痛んだ。声を上げれば、そのまま泣き崩れてしまいそうで、唇を噛むことしかできなかった。
オウセイと過ごした記憶は、ケセナには僅か九夜ほどしかない。だが、彼は誰よりも、こんな自分を受け入れてくれていた。
面倒臭がりで、優しい、大きな背中だった。
――そうして。
張り詰めていた何かが、静かに解けた。
オウセイの呼吸が止まる。
五千星霜という、気の遠くなる黄昏が終わった。
誰かが息を呑む音さえ、ひどく遠く聞こえた。
グレンの腕の中で眠るその顔は、不思議なほど安らかだった。
ケセナは震える足で寝台から降り、無言でグレンの腕を引いた。自分が今まで眠っていた、まだ熱の残る寝台へ、オウセイを運ぶために。
グレンと共に支えたその身体は、羽のように軽く、そして恐ろしいほど冷え切っていた。
血に汚れた敷布の上へ寝かされたオウセイを見つめ、ケセナは震える声で呟いた。
「オウセイ……」
返事はない。
けれど、彼が遺した言葉の重みは、確かにケセナの胸に突き刺さっていた。
しばらく、誰も動けなかった。
鉄錆びのような血の匂いだけが、部屋に残っている。
キリエは崩れ落ちそうになるのを堪え、オウセイの傍らに跪いた。
涙は流れていない。ただ、きつく握り締められた両手は白く血の気を失い、何かが決定的に断ち切られたような、虚ろで冷たい目をしていた。
「俺のせい、ですか……」
ケセナの声は、驚くほど小さかった。
すぐには、誰も答えられなかった。
やがて、キリエが立ち上がる。
「違うわ。これは、オウセイ様が望んでいたことよ」
その言葉が深く刺さり、ケセナは唇を強く噛んだ。
泣く資格があるのかすら、分からなかった。受け取ってしまったものが、あまりにも重すぎた。
「嫌な役ばかり、押しつけやがって……」
グレンの呟きは、罵倒にも、感謝にも聞こえた。
外では鳥が鳴いている。
陽は高く昇り、世界は何事もなかったかのように巡り続けている。
しかし、この小さな家の中で、確かに一つの命が終わったのだ。
キリエはオウセイの蒼い髪へそっと指を通し、絡まった前髪を、いつもそうしていたように整えながら囁く。
「オウセイ様。あとは、私の仕事ですね」
その指先が、ぴくりと止まる。
ゆっくりと顔を上げた牡丹色の瞳が、ケセナを捉えた。
責める色でも、縋る色でもない。ただ、逃げ場を許さない目だった。
「それでも、ですか……」
唇が震え、言葉が途切れそうになる。
それでもキリエは続けた。
「あなたの記憶が、あなたを壊すかもしれない。壊れたあなたが、世界を壊すかもしれない」
もう一度、オウセイの髪へ触れる。
(この子は一度、壊れている)
キリエの脳裏に、四星霜前に助け出したファルイーアの姿が浮かぶ。
感情がなく、何も映さない紅い瞳の、今よりもずっと細く壊れていた彼。ファルイーアが苦しみ抜いて出した結論が、あの『記憶封印』だったのだ。解けば、彼はまた壊れるかもしれない。
彼が生きるためにようやく見つけた逃げ道を、今度は自分たちの手で奪い、もう一度あの地獄へ引き戻すことになるかもしれない。
五千星霜を共に過ごした主を慈しむように一度目を伏せ、それから、キリエは真っ直ぐにケセナを見据えた。
「それでも」
キリエは、はっきりと問う。
「あなたはそれでも、記憶を取り戻すつもり?」
部屋に重い沈黙が落ちる。
誰も口を挟まない。答える資格があるのは、ただ一人だった。
ケセナの胸の奥で、何かが静かに軋む。
オウセイが命を削って遺した『願い』が、今、目の前に差し出されている。
ケセナは、ゆっくりと息を吸った。
迷いが、胸の中で確かな重みを持つ。
封印の奥にある『自分』が、怖かった。