兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第二十八話 選ぶための夜巡り

「一夜、ください……。今は、決められない」

 

 吐き捨てるようにそう言い残し、ケセナは覚束ない足取りで部屋を出ていった。

 茶色の髪がグレンたちの横を抜けていく。けれど、誰も止められず、振り向くこともできなかった。

 

 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。

 

 真っ先に動いたのは、グレンだった。

 

「先生、待って」

 

 木扉へ向かう大きな背中に、ラルが鋭く声を飛ばす。

 グレンは足を止め、苛立たしげに振り返った。

 

「ケセナを一人で行かせるわけにはいかない。追手はまだ近くにいる」

「あたしが行く。今、先生が追いかけたら、ケセナは余計に逃げる」

 

 グレンは反論しようとしたが、言葉を呑み込んだ。

 心裸眼で無理やり心を暴いた自分に、今のケセナが素直な胸の内を明かすとは思えない。

 

「だが、オウセイが死んだ今、結界がどうなっているか分からない。フェイカーが外にいることも忘れるな」

「分かってる。姿を見失わない距離でついていく。何かあったら、風で先生を呼ぶ」

 

 ラルの紫の瞳に迷いはなかった。

 グレンはしばらく考えた末、厳しい顔で頷く。

 

「絶対に一人にするな。異変があれば、すぐに知らせろ」

「分かった」

 

 短く答え、ラルはケセナのあとを追って家を出た。

 残されたグレンは、閉じた扉を険しい表情で見つめる。

 キリエにはオウセイの亡骸と、封印解放の準備がある。ここまで無防備にするわけにもいかない。

 ラルに任せるしかなかった。

 

 ひたすら歩く。

 どこへ向かっているのか、自分でも分からない。

 

 記憶を取り戻せば、壊れるかもしれない。

 黄金龍に呑まれるかもしれない。

 その予感が、胸に貼りついて離れなかった。

 

「そんなの、想定外だよ……」

 

 愚痴を零しながら歩き続け、気づけば家を抜け出し、森の奥へ足を踏み入れていた。

 どれほど歩き続けたのか。いつしか陽は大きく傾き、紅葉を始めた木々の間から、冷たい空気が流れ込んでいた。森はすでに夕暮れを越え、深い闇を迎え入れ始めている。

 

 頭を冷やしたい。

 だが、考えるほどに分からなくなる。

 

「なんで、迷ってるんだよ……!」

 

 小さく舌打ちをする。

 立ち止まれば、深く考えてしまう。だから止まれなかった。

 

「ケセナ……」

 

 背後から声がした。

 振り向かなくても、誰か分かる。ラルの声だ。

 

 ケセナは足を止め、ゆっくり振り返った。

 

「ついてこないでよ」

 

 眉を顰め、吐き捨てるように言う。

 だがラルは少し距離を空けたまま、黙って立っているだけだった。

 

「一人にしてほしいなら、帰る」

「だったら、帰って」

 

 苛立ちを隠さず言い放つが、それでもラルは動かなかった。

 その沈黙が妙に重くて、ケセナは堪らず視線を逸らす。

 

 数息の沈黙。

 

 やがてケセナは、彼女になら打ち明けてもいい。そんなふうに思った。

 なぜかは分からない。

 ただ、彼女の不思議な紫色の瞳が、真っ直ぐに自分を見続けているから。

 それだけの理由だった。

 

「怖い……」

 

 ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。

 

「何が?」

 

 ラルの声は静かだ。

 ケセナは地面を見つめたまま答える。

 

「黄金龍と、自分が怖い」

 

 ラルはじっと見ているだけだった。

 慰めも、失望も、叱咤もない。

 ただ、ケセナが次の言葉を吐き出すのを待っていた。

 

「俺、記憶を取り戻したら、みんなを守れるんじゃないかって思ってた……」

 

 声が震える。

 見せられた断片の過去を知るのは怖い。

 それでも、自分のせいで苦しむ応龍族たちを守りたかった。非道な裁きを受ける彼らは、何も罪を犯していない。

 記憶を取り戻せば、何かできると信じていた。

 けれど、オウセイは死に、自分は壊れるかもしれないと言われ、右腕には黄金龍がいる。

 最悪の現実ばかりを突きつけられ、眩暈がした。

 

「なんだよ……。狂気って……」

 

 ラルは何も言わない。

 その沈黙が、余計に胸を締めつけた。

 顔を上げ、首を少し傾けて、ケセナは言った。

 

「俺、どうすればいい?」

 

 ラルは口を開きかけて、閉じる。

 無責任に「大丈夫」と言わない、その不器用な沈黙が、今のケセナには拒絶より重く感じられた。

 

「ごめん……。選ぶのは、俺だよね」

 

 ケセナが自嘲気味に息を吐いた、その刻だった。

 

 くしゃり、と枯れ葉を踏む音がした。

 

 オウセイの張った強固な結界内であるはずの森に、あり得ない足音が響く。

 森の奥で何かが動き、ラルの表情が変わった。

 次の瞬間、黒い影が木々の間から音もなく現れる。

 

「ほう。そちらから出てきてくれるとは、好都合だ。結界が消滅した隙に覗いてみれば……これは最高の褒美だな」

「フェイカー!」

 

 ラルが叫ぶ。

 

 ケセナの身体が強張る。

 怖いのは、フェイカーではない。

 また暴れ出すかもしれない、自分の右腕だった。

 

「結界が、消滅した……?」

 

 オウセイがこの森に張っていた結界が、彼の死とともに崩れたのだろう。

 

(オウセイ……)

 

 胸が冷えた。ケセナの脳裏に、オウセイの琥珀色の瞳が浮かぶ。

 あの瞳の奥にあった、ひりつくような悲しみが蘇り、ケセナは唇を強く噛み締めた。

 フェイカーが地面を蹴り、一瞬で距離を詰める。

 

「っ!」

 

 ラルが瞬時に槍を抜き、横薙ぎに振るった。

 だが、刃は弾かれた。金属を激しく打ったような硬い音が、森に響く。

 

「なっ……!」

 

 確かにフェイカーの身体を斬ったはずなのに、刃は彼の周囲を覆う見えない壁に阻まれていた。

 狼狽して後退るラルの手が、痺れたように震えている。

 フェイカーは、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「無駄だ。貴様らごときの刃で、我が『魔人の加護』は斬れぬ!」

 

 魔人、という単語に、ケセナは耳を疑い、眉を寄せる。

 

「魔人……?」

 

 しかし、フェイカーは答えない。

 彼の手から放たれた炎の魔術が、容赦なく二人へ振り下ろされた。ケセナは咄嗟に身を引くが、ちりり、と前髪の先が焼ける。

 

 二人は森の中で必死に動き続けた。

 こちらの攻撃は一切通らない。回避も限界に近かった。

 フェイカーの放った炎の鞭が、ケセナの右肩を掠める。布が焼け焦げ、火傷を負った肌から血が滲んだ。

 

 ――その刻だった。

 

 右腕が、異常な熱を帯びた。

 

「なにっ……!?」

 

 火傷の痛みではない。骨の奥が脈打つ。

 右腕に刻まれた黄金龍の紋章が、まるで生き物のように禍々しく鼓動する。

 そして――声が響いた。

 

『宿主』

 

 頭の中へ直接響く悍ましい声に、ケセナの呼吸が止まる。

 

『我を使え』

 

 右腕が疼く。

 

『我の糧となれ』

 

 力が溢れてくる。理性など消し飛ばすような、純粋な暴力の力。

 壊せると、その声は甘く囁いた。

 

『この程度の獣など、一瞬で塵にしてやろう』

 

 ケセナは歯を食い縛った。

 

『我を使え。守れるぞ。貴様が望む者、すべてを』

「やめろ……」

 

 フェイカーが迫る。ラルが再び斬りかかるが、やはり魔人の加護に弾かれてしまう。

 

「逃げて、ケセナ!」

 

 ラルの悲痛な声が響く。

 だが、ケセナの足は動かない。

 右腕が焼けるように熱い。声がさらに強くなる。頭が割れそうだった。

 

『我を使え、我を使え』

 

 フェイカーが止めを刺そうと飛びかかってきた。巨大な炎が眼前に迫る。

 

『我を見よ。我が力の末端を』

 

 脳内へ低く響いた声とともに、ケセナの意思とは無関係に右腕が跳ね上がった。

 黄金龍の紋章から、目を開けていられないほどの閃光が迸る。詠唱も、魔術の構成すらもない。

 ただ純粋で凶悪な『暴力の光』が、フェイカーの身体を森の一部ごと呑み込んだ。

 

「な――」

 

 断末魔の悲鳴を上げる間すらなかった。

 閃光が収まった直後、フェイカーの姿は跡形もなく消し飛んでいた。絶対に斬れないと豪語していた魔人の加護ごと、文字どおり『塵』にされたのだ。

 森の一部がすり鉢状に抉れ、黒焦げた大地から白煙が上がっている。

 あまりにも容易く、呆気ない命の蹂躙。

 ケセナは戦慄し、自らの右腕を左手で強く押さえつけた。恐怖で全身から血の気が引いていく。

 

「消えろ! 黙れっ!!」

 

 ケセナが血を吐くように絶叫すると、紋章の奥から、歪な嘲笑のような響きが脳裏へ滑り込んだ。

 

『待とう。その心が、闇へ堕ちる刻を――』

 

 その不気味な呪詛を最後に、右腕の熱がすっと引いていく。

 頭の中を侵食していた声も、完全に消え失せた。

 

 森に、恐ろしいほどの静寂が戻った。

 ケセナは膝から崩れ落ちた。

 荒い呼吸だけが残り、乾いた声が喉から零れる。

 

「こんなに、怖いのに……」

 

 黄金龍の紋章が、僅かに脈を打つ。ケセナはきつく目を閉じた。

 先ほどまで命のやり取りがあったとは思えないほど、森の風は穏やかで、葉の擦れる音だけが耳に残る。

 ただ、目の前の抉れた地面と焦げた匂いだけが、異常な破壊の爪痕を残していた。

 

 ケセナはその場に座り込んだまま、自らの右腕を見つめていた。

 黄金龍の紋章は、今はただの模様のように沈黙している。だが、確かに意思を持って動き、人を容易く消し飛ばしたのだ。

 ラルが少し離れたところに立ち、近づいてこない。槍を下ろしたまま、じっとこちらを見ていることに気づき、ケセナは顔を上げた。

 ケセナの琥珀色の瞳が自分を捉えた瞬間、ラルは咄嗟に顔を逸らした。

 

(あの人と、同じ色だ――)

 

 蒼い髪の救世主。

 オウセイ・カイラーヌが、最期まで灯していた瞳の色。

 

(違う。目の前にいるのは、怯えて震えている、ただの『ケセナ』だ)

 

 ラルは、すぐに頭を振った。

 ケセナの中にオウセイがいるわけがない。

 色が変わった理由など、どうでもいい。

 優しくて優柔不断なケセナが、目の前に座り込んで怯えているのだから。

 

「怪我、大丈夫?」

 

 ラルの問いに、ケセナは答えなかった。

 ただ、小さく笑う。

 その顔がどこか空虚で、ラルは少しだけ眉を顰めた。

 

「嘘つき……」

 

 言葉を選び、ゆっくりと続けた。

 

「もう、選び終わってるくせに」

 

 ケセナは驚いて目を見開いた。

 無意識に地面の土を強く握り締め、爪の間へ土が食い込む。

 

「まだ、何も……」

 

 言いかけて、止める。

 確かに、胸の中には明確な答えがあった。

 

「選択肢なんて、最初から一つじゃないか――」

 

 胸中で燻っていた絶望が、言葉になって口から零れ落ちる。

 

「そうだね」

 

 それは、短い肯定だった。

 

「ねえ、ラル。俺は……」

 

 琥珀色の瞳を細め、ケセナは肩に絡みつく茶色の髪を見つめた。

 この髪が、今の自分だ。ケセナという人物だ。

 名前など、個を表す記号にすぎないと思っていたのに。

 こんなにも『ケセナ』である自分が愛おしい。

 

「俺のままで、いられると思う……?」

 

 ラルは、すぐには答えなかった。

 森の奥から、夜鳥の声が聞こえる。静かで、優しい森の音だった。

 やがてラルは、ゆっくりと口を開いた。

 

「分からない」

 

 あまりにも正直すぎる答えだった。

 ケセナは小さく息を吐く。

 

「だよね」

「でも、ケセナは大丈夫」

 

 続くラルの言葉に、ケセナは目を瞬かせた。

 

「きっと、大丈夫」

 

 ラルは真っ直ぐに見ている。迷いのない紫の瞳が、ケセナを真っ直ぐに射抜いていた。

 

「さっき、黄金龍に『黙れ』って言った。それが、答えじゃないの……?」

 

 ケセナは何も言えなかった。

 右腕を見る。黄金龍は静かだった。まるで、主の強い意思に屈服したかのように。

 ケセナは立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、少しよろめいた。ラルが咄嗟に手を伸ばしかけたが、ケセナは大丈夫だと示すように、そっとその手を制した。

 

「まだ……」

 

 森の奥を見る。家のある方角を。

 

「まだ、ケセナでいたいけど」

 

 小さく呟き、右腕に刻まれた紋章を強く握り締める。

 

「記憶を取り戻すって、決めてたのに」

 

 ゆっくりと息を吐き出した。

 

「いざとなったら怖がってさ。俺、情けないよね」

 

 ラルは黙って聞いている。

 ケセナは、覚悟を決めたように続けた。

 

「もし……もし俺が、壊れたら」

 

 少しだけ間を置いて、問いかける。

 

「俺を、助けてくれる?」

 

 ラルは即座に言った。

 

「当たり前。だけど、壊れなければいい」

 

 あまりにも簡単な言い方だった。ケセナは思わず笑い声を零した。

 

「簡単に言わないでよ」

「簡単じゃない」

 

 ラルは一歩踏み出し、力強く断言する。

 

「ケセナは、一人じゃないから」

 

 ケセナは一瞬、言葉を失った。

 そして、照れ隠しに小さく目を逸らす。

 

「ずるいよ……」

「何が」

「そういうこと、言うの」

 

 ケセナは顔を背けたまま、一歩足を踏み出した。

 

 家へ向かって歩き出す。記憶を取り戻し、世界の敵と呼ばれる自分と向き合うために。

 ラルも無言で隣に並んだ。彼を助けると決めたから。

 収奪の季の夜巡り。その森の中を、二人の足音が静かに進んでいく。

 ケセナは、自分の右腕を見ないように、前だけを見て歩いた。

 

 けれど。

 

 刻まれた黄金龍の紋章は、彼の決意を嘲笑うかのように、確かに脈打っていた。

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