兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「一夜、ください……。今は、決められない」
吐き捨てるようにそう言い残し、ケセナは覚束ない足取りで部屋を出ていった。
茶色の髪がグレンたちの横を抜けていく。けれど、誰も止められず、振り向くこともできなかった。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
ひたすら歩く。
どこへ向かっているのか、自分でも分からない。
記憶を取り戻せば、壊れるかもしれない。
黄金龍に呑まれるかもしれない。
その予感が、胸に貼りついて離れなかった。
「そんなの、想定外だよ……」
愚痴を零しながら歩き続け、気づけば家を抜け出し、森の奥へ足を踏み入れていた。
どれほど歩き続けたのか。いつしか陽は大きく傾き、紅葉を始めた木々の間から、冷たい空気が流れ込んでいた。森はすでに夕暮れを越え、深い闇を迎え入れ始めている。
頭を冷やしたい。
だが、考えるほどに分からなくなる。
「なんで、迷ってるんだよ……!」
小さく舌打ちをする。
立ち止まれば、深く考えてしまう。だから止まれなかった。
「ケセナ……」
背後から声がした。
振り向かなくても、誰か分かる。ラルの声だ。
ケセナは足を止め、ゆっくり振り返った。
「ついてこないでよ」
眉を顰め、吐き捨てるように言う。
だがラルは少し距離を空けたまま、黙って立っているだけだった。
「一人にしてほしいなら、帰る」
「だったら、帰って」
苛立ちを隠さず言い放つが、それでもラルは動かなかった。
その沈黙が妙に重くて、ケセナは堪らず視線を逸らす。
数息の沈黙。
やがてケセナは、彼女になら打ち明けてもいい。そんなふうに思った。
なぜかは分からない。
ただ、彼女の不思議な紫色の瞳が、真っ直ぐに自分を見続けているから。
それだけの理由だった。
「怖い……」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「何が?」
ラルの声は静かだ。
ケセナは地面を見つめたまま答える。
「黄金龍と、自分が怖い」
ラルはじっと見ているだけだった。
慰めも、失望も、叱咤もない。
ただ、ケセナが次の言葉を吐き出すのを待っていた。
「俺、記憶を取り戻したら、みんなを守れるんじゃないかって思ってた……」
声が震える。
見せられた断片の過去を知るのは怖い。
それでも、自分のせいで苦しむ応龍族たちを守りたかった。非道な裁きを受ける彼らは、何も罪を犯していない。
記憶を取り戻せば、何かできると信じていた。
けれど、オウセイは死に、自分は壊れるかもしれないと言われ、右腕には黄金龍がいる。
最悪の現実ばかりを突きつけられ、眩暈がした。
「なんだよ……。狂気って……」
ラルは何も言わない。
その沈黙が、余計に胸を締めつけた。
顔を上げ、首を少し傾けて、ケセナは言った。
「俺、どうすればいい?」
ラルは口を開きかけて、閉じる。
無責任に「大丈夫」と言わない、その不器用な沈黙が、今のケセナには拒絶より重く感じられた。
「ごめん……。選ぶのは、俺だよね」
ケセナが自嘲気味に息を吐いた、その刻だった。
くしゃり、と枯れ葉を踏む音がした。
オウセイの張った強固な結界内であるはずの森に、あり得ない足音が響く。
森の奥で何かが動き、ラルの表情が変わった。
次の瞬間、黒い影が木々の間から音もなく現れる。
「ほう。そちらから出てきてくれるとは、好都合だ。結界が消滅した隙に覗いてみれば……これは最高の褒美だな」
「フェイカー!」
ラルが叫ぶ。
ケセナの身体が強張る。
怖いのは、フェイカーではない。
また暴れ出すかもしれない、自分の右腕だった。
「結界が、消滅した……?」
オウセイがこの森に張っていた結界が、彼の死とともに崩れたのだろう。
(オウセイ……)
胸が冷えた。ケセナの脳裏に、オウセイの琥珀色の瞳が浮かぶ。
あの瞳の奥にあった、ひりつくような悲しみが蘇り、ケセナは唇を強く噛み締めた。
フェイカーが地面を蹴り、一瞬で距離を詰める。
「っ!」
ラルが瞬時に槍を抜き、横薙ぎに振るった。
だが、刃は弾かれた。金属を激しく打ったような硬い音が、森に響く。
「なっ……!」
確かにフェイカーの身体を斬ったはずなのに、刃は彼の周囲を覆う見えない壁に阻まれていた。
狼狽して後退るラルの手が、痺れたように震えている。
フェイカーは、ふん、と鼻を鳴らした。
「無駄だ。貴様らごときの刃で、我が『魔人の加護』は斬れぬ!」
魔人、という単語に、ケセナは耳を疑い、眉を寄せる。
「魔人……?」
しかし、フェイカーは答えない。
彼の手から放たれた炎の魔術が、容赦なく二人へ振り下ろされた。ケセナは咄嗟に身を引くが、ちりり、と前髪の先が焼ける。
二人は森の中で必死に動き続けた。
こちらの攻撃は一切通らない。回避も限界に近かった。
フェイカーの放った炎の鞭が、ケセナの右肩を掠める。布が焼け焦げ、火傷を負った肌から血が滲んだ。
――その刻だった。
右腕が、異常な熱を帯びた。
「なにっ……!?」
火傷の痛みではない。骨の奥が脈打つ。
右腕に刻まれた黄金龍の紋章が、まるで生き物のように禍々しく鼓動する。
そして――声が響いた。
『宿主』
頭の中へ直接響く悍ましい声に、ケセナの呼吸が止まる。
『我を使え』
右腕が疼く。
『我の糧となれ』
力が溢れてくる。理性など消し飛ばすような、純粋な暴力の力。
壊せると、その声は甘く囁いた。
『この程度の獣など、一瞬で塵にしてやろう』
ケセナは歯を食い縛った。
『我を使え。守れるぞ。貴様が望む者、すべてを』
「やめろ……」
フェイカーが迫る。ラルが再び斬りかかるが、やはり魔人の加護に弾かれてしまう。
「逃げて、ケセナ!」
ラルの悲痛な声が響く。
だが、ケセナの足は動かない。
右腕が焼けるように熱い。声がさらに強くなる。頭が割れそうだった。
『我を使え、我を使え』
フェイカーが止めを刺そうと飛びかかってきた。巨大な炎が眼前に迫る。
『我を見よ。我が力の末端を』
脳内へ低く響いた声とともに、ケセナの意思とは無関係に右腕が跳ね上がった。
黄金龍の紋章から、目を開けていられないほどの閃光が迸る。詠唱も、魔術の構成すらもない。
ただ純粋で凶悪な『暴力の光』が、フェイカーの身体を森の一部ごと呑み込んだ。
「な――」
断末魔の悲鳴を上げる間すらなかった。
閃光が収まった直後、フェイカーの姿は跡形もなく消し飛んでいた。絶対に斬れないと豪語していた魔人の加護ごと、文字どおり『塵』にされたのだ。
森の一部がすり鉢状に抉れ、黒焦げた大地から白煙が上がっている。
あまりにも容易く、呆気ない命の蹂躙。
ケセナは戦慄し、自らの右腕を左手で強く押さえつけた。恐怖で全身から血の気が引いていく。
「消えろ! 黙れっ!!」
ケセナが血を吐くように絶叫すると、紋章の奥から、歪な嘲笑のような響きが脳裏へ滑り込んだ。
『待とう。その心が、闇へ堕ちる刻を――』
その不気味な呪詛を最後に、右腕の熱がすっと引いていく。
頭の中を侵食していた声も、完全に消え失せた。
森に、恐ろしいほどの静寂が戻った。
ケセナは膝から崩れ落ちた。
荒い呼吸だけが残り、乾いた声が喉から零れる。
「こんなに、怖いのに……」
黄金龍の紋章が、僅かに脈を打つ。ケセナはきつく目を閉じた。
先ほどまで命のやり取りがあったとは思えないほど、森の風は穏やかで、葉の擦れる音だけが耳に残る。
ただ、目の前の抉れた地面と焦げた匂いだけが、異常な破壊の爪痕を残していた。
ケセナはその場に座り込んだまま、自らの右腕を見つめていた。
黄金龍の紋章は、今はただの模様のように沈黙している。だが、確かに意思を持って動き、人を容易く消し飛ばしたのだ。
ラルが少し離れたところに立ち、近づいてこない。槍を下ろしたまま、じっとこちらを見ていることに気づき、ケセナは顔を上げた。
ケセナの琥珀色の瞳が自分を捉えた瞬間、ラルは咄嗟に顔を逸らした。
(あの人と、同じ色だ――)
蒼い髪の救世主。
オウセイ・カイラーヌが、最期まで灯していた瞳の色。
(違う。目の前にいるのは、怯えて震えている、ただの『ケセナ』だ)
ラルは、すぐに頭を振った。
ケセナの中にオウセイがいるわけがない。
色が変わった理由など、どうでもいい。
優しくて優柔不断なケセナが、目の前に座り込んで怯えているのだから。
「怪我、大丈夫?」
ラルの問いに、ケセナは答えなかった。
ただ、小さく笑う。
その顔がどこか空虚で、ラルは少しだけ眉を顰めた。
「嘘つき……」
言葉を選び、ゆっくりと続けた。
「もう、選び終わってるくせに」
ケセナは驚いて目を見開いた。
無意識に地面の土を強く握り締め、爪の間へ土が食い込む。
「まだ、何も……」
言いかけて、止める。
確かに、胸の中には明確な答えがあった。
「選択肢なんて、最初から一つじゃないか――」
胸中で燻っていた絶望が、言葉になって口から零れ落ちる。
「そうだね」
それは、短い肯定だった。
「ねえ、ラル。俺は……」
琥珀色の瞳を細め、ケセナは肩に絡みつく茶色の髪を見つめた。
この髪が、今の自分だ。ケセナという人物だ。
名前など、個を表す記号にすぎないと思っていたのに。
こんなにも『ケセナ』である自分が愛おしい。
「俺のままで、いられると思う……?」
ラルは、すぐには答えなかった。
森の奥から、夜鳥の声が聞こえる。静かで、優しい森の音だった。
やがてラルは、ゆっくりと口を開いた。
「分からない」
あまりにも正直すぎる答えだった。
ケセナは小さく息を吐く。
「だよね」
「でも、ケセナは大丈夫」
続くラルの言葉に、ケセナは目を瞬かせた。
「きっと、大丈夫」
ラルは真っ直ぐに見ている。迷いのない紫の瞳が、ケセナを真っ直ぐに射抜いていた。
「さっき、黄金龍に『黙れ』って言った。それが、答えじゃないの……?」
ケセナは何も言えなかった。
右腕を見る。黄金龍は静かだった。まるで、主の強い意思に屈服したかのように。
ケセナは立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、少しよろめいた。ラルが咄嗟に手を伸ばしかけたが、ケセナは大丈夫だと示すように、そっとその手を制した。
「まだ……」
森の奥を見る。家のある方角を。
「まだ、ケセナでいたいけど」
小さく呟き、右腕に刻まれた紋章を強く握り締める。
「記憶を取り戻すって、決めてたのに」
ゆっくりと息を吐き出した。
「いざとなったら怖がってさ。俺、情けないよね」
ラルは黙って聞いている。
ケセナは、覚悟を決めたように続けた。
「もし……もし俺が、壊れたら」
少しだけ間を置いて、問いかける。
「俺を、助けてくれる?」
ラルは即座に言った。
「当たり前。だけど、壊れなければいい」
あまりにも簡単な言い方だった。ケセナは思わず笑い声を零した。
「簡単に言わないでよ」
「簡単じゃない」
ラルは一歩踏み出し、力強く断言する。
「ケセナは、一人じゃないから」
ケセナは一瞬、言葉を失った。
そして、照れ隠しに小さく目を逸らす。
「ずるいよ……」
「何が」
「そういうこと、言うの」
ケセナは顔を背けたまま、一歩足を踏み出した。
家へ向かって歩き出す。記憶を取り戻し、世界の敵と呼ばれる自分と向き合うために。
ラルも無言で隣に並んだ。彼を助けると決めたから。
収奪の季の夜巡り。その森の中を、二人の足音が静かに進んでいく。
ケセナは、自分の右腕を見ないように、前だけを見て歩いた。
けれど。
刻まれた黄金龍の紋章は、彼の決意を嘲笑うかのように、確かに脈打っていた。