兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
封印を解く刻は必ず来る――オウセイは、そう確信しているようだった。
だが、記憶を自ら手放したばかりのケセナにとって、それはすぐには受け止めきれない、あまりにも重い言葉だ。
呆気に取られ、口を開けたまま目を泳がせるケセナを見て、オウセイは悲しげに目を伏せる。
「必要な刻が来るさ。いつかはな」
ぽつりと零し、オウセイは刺叉を置いた。
「俺が――」
何かを言いかけて、口を噤む。
悔しげに唇を噛むと、彼は立ち上がり、「あとは頼む」とキリエにだけ小声で残して、足早に居間を出ていってしまった。
「オウセイ?」
我に返って背中へ声をかけたが、彼は振り向かない。
押しつけられた分厚い歴史書を背凭れとの間に挟み込み、ケセナは戸惑いながら正面のキリエを見た。キリエは複雑な表情で、小さく千切った麦餅を見つめている。とても声をかけられる雰囲気ではなく、ケセナも黙って食事を再開した。
居間に重い静寂が落ちる。
かちゃりと食器の触れ合う音だけが、虚しく響いた。
ちらりと視線を上げると、キリエはオウセイと同じように沈んだ顔で、微かに嘆息を漏らしていた。そのたびにケセナは目を伏せ、味のしない食事をどうにか飲み込む。
窓の外の荘厳な景色さえ色褪せて見え始めた頃、沈黙を破ったのはキリエだった。
「仕方ないわ」
静かな声に、ケセナは顔を上げる。
最後の腸詰に刺叉を刺したまま、次の言葉を待った。
「本当はね。あの人、反対だったのよ。記憶の封印も、一人で旅に出ることも」
「え?」
腸詰を口へ運ぼうとしていた手が、空中でぴたりと止まる。
ケセナは驚いてキリエを見つめ返した。
「ごめんなさいね。前を向こうとしているあなたに、こんなことを言うべきではないのだけれど」
「どうして、反対だったんですか?」
恐る恐る尋ねると、キリエは寂しげに微笑み、ふいと俯いた。流れ落ちた長い黒髪が、彼女の表情を隠す。
「記憶の封印が、かえってあなたを苦しめるかもしれなかったから」
「え……?」
「それに、私だけの力では足りなかった。オウセイ様は、ご自身に残された力のほとんどを代償として差し出したの」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
代償。
つまり、オウセイが己の何かを削ったということか。
「代償って……どうして、そんなこと」
「あなたに、これ以上の重荷を背負わせたくなかったの。これまでにも、あなたは多くのものを背負ってきたから」
ケセナの胸の奥で、かっと熱いものが燃え上がった。
記憶を封印する前の自分は、その事実を知っていたのだろうか。
もし知っていたのなら、どうして彼にそんな犠牲を払わせてまで、過去を消すことを望んだのか。
「俺は……」
そんなの、間違っている。
自分のせいで誰かが苦しんだり、何かを失ったりするなんて、絶対に嫌だ。
「キリエさん。俺の記憶を戻して――」
縋るように言いかけた途端、キリエが顔を上げた。
牡丹色の瞳は濡れていた。だが、そこには決して揺るがない強い意志が宿っている。その真剣な眼差しに射抜かれ、ケセナは息を呑んで言葉を詰まらせた。
「その罪悪感を理由にして、あなたの人生を投げ出さないで。あなたが苦しんで考え抜いた結論に、私たちは付き合っただけ。それでいいの。後悔はしていないわ。オウセイ様も、私も」
「でも、オウセイは……!」
納得できず反論しようとするが、キリエの静かな声がそれを遮った。
「ケセナ。記憶の封印は、解かないわ」
「オウセイは自分の力を失ってしまったんですよね? 俺のために、俺のせいで! そんなの、俺は嫌です!」
首を激しく横に振る。納得などできるはずがない。昂る感情を抑えきれず、ケセナの声は悲痛な叫びへ変わっていた。
「俺のせいで誰かが我慢するとか、代償を払うとか、そういうの、凄く嫌なんです! 俺は……!」
「ありがとう。でも、駄目よ」
キリエは姿勢を正し、凛とした声で拒絶した。
それでもケセナは食い下がる。
「どうして!」
「記憶を封印する前の『あなた』も、同じことを言って怒ったわ」
「え?」
封印前の自分の行動を知らされ、ケセナは毒気を抜かれたように押し黙った。
激しい熱がすっと引くのと同刻に、強烈な気恥ずかしさが押し寄せてくる。右手に握ったままの刺叉と、そこに刺さった腸詰がひどく間抜けに見えて、ケセナは慌ててかちゃりと皿へ置いた。
キリエは優しく微笑み、あの刻のオウセイの言葉を紡ぐ。
「『過去の重荷は俺が背負う。お前は、未来に生きる自分だけを見ろ』――オウセイ様は、代償を拒む封印前のあなたに、そう言って笑ったのよ」
ケセナは声に出さず、口の動きだけでその言葉をなぞった。
何度も、何度も。
オウセイの不器用で重すぎる願いを、噛み締めるように。
その姿を見て、キリエは静かに立ち上がった。ケセナの傍まで歩み寄ると、その細い身体をそっと抱き寄せる。
「え……?」
不意の抱擁に、ケセナは戸惑い、身を強張らせた。顔が茹で上がるように熱くなるのを感じ、離れてもらおうと身体を捩る。けれど、キリエの腕は決して彼を離さなかった。
やがて抵抗を諦めて身を委ねると、キリエの温もりと、母性にも似た深い優しさがゆっくりと伝わってくる。
ケセナは抗うのをやめ、静かに瞼を閉じた。
「あなたはね、いつも自分を犠牲にする。オウセイ様も私も、一番強く願ったのは、あなたが誰かのためではなく、自分のために生きることなの」
「どうして、そこまで俺を?」
恐らく、血の繋がりもない他人なのだろう。
それなのに、なぜここまで自分を想ってくれるのか。たまらず問いかける。
「あなたが、『あなた』だからよ」
「俺が、俺だから?」
予想外の答えに戸惑うケセナを、キリエはさらにきゅっと抱き締めた。
「まだ、考えなくていいの。今はそれだけで十分よ」
その慈しむような声に、ケセナは素直に頷いた。
封じた過去の記憶に、その答えがあるのだろう。だが、考えれば考えるほど、過去を欲してしまう。それはオウセイも、キリエも、そして何より自分自身が望んでいないことだ。
だから。
自分のために、まずは一夜後を見る。
その先の昼夜を、自分のために生きる。
オウセイが願ってくれた通り、生きるために。そのために、二人は大きな犠牲を払ってまで過去を封じてくれたのだから。
ようやく自分が記憶を封印した本来の目的を取り戻し、ケセナは小さく息を吐いた。
感情が昂ったばかりに、大切な理由を見失いかけた自分がおかしくて、自嘲気味な笑みが零れる。
「俺、間違えてましたね」
「人は、間違えながら成長するものよ」
キリエは優しくそう言って、ゆっくりと身体を離した。
見上げてくるケセナの真っ赤に紅潮した顔を見て、彼女は安心したようにくすりと笑う。
「もう大丈夫ね」
その柔らかな声に、ケセナは心の靄が晴れたように深く頷いた。
キリエはケセナの顔をじっと見つめると、今度は両手で彼の頬を包むように、そっと添えた。
「キリエさん?」
「記憶は封印したけれど、その金髪と真紅の瞳は、外の世界では少し目立ちすぎるわ。旅立つ前に変えてあげる」
「はい……? 変えるって、どうやって?」
途方もないことをさらりと言われ、ケセナは思わず眉を寄せる。
「そのうち分かるわ」
ふふっと笑いながら、キリエは彼の頬から手を離した。
温もりが消え、少しだけ肌寒くなった両頬を擦りながら、ケセナの中にキリエへの強い興味が湧き上がってくる。
記憶の封印という神業といい、髪と瞳の色を変えると言ってのけることといい、彼女はいったい何者なのだろうか。
沈んでいた空気を切り替えるように、ケセナは思い切って尋ねた。
「キリエさんは、どうしてそんな力を使えるんですか?」
「『魔術』は、分かるかしら?」
ケセナは首を横に振った。
覚えていない。この世界のことも、歴史も、今キリエが口にした魔術のことも、見事なほど空っぽだ。
「封印し過ぎたかしら……」
キリエの小さな呟きが聞こえたが、ケセナは気にせず先を促した。
「『魔術』ってなんですか?」
「この不思議な力を扱う術は、だいたい『魔術』と呼ばれているわ。生まれつき素質があり、さらに四大精霊のいずれかと契約して、初めて扱えるものなの」
「えっと、生まれつきで、契約が必要?」
「そう。だから、誰でも使えるわけではないのよ」
「へ、へぇ……そうなんですか……」
途端に話が難しくなり、ケセナの頭は真っ白になった。
そんな彼の余裕のない顔を見て、キリエは楽しそうに笑う。
「正確には、私が扱うものは魔術ではないのだけれど。精霊との契約を必要としない力だから。ただ、精霊の力を使うという意味では、似たようなものかしら」
「似て非なる力?」
「そうね。オウセイ様も同じなのだけれど」
そこで言葉を切り、キリエは僅かに言い淀むように、伏し目がちに視線を泳がせた。
しかし、椅子の背凭れに挟まれた分厚い歴史書へ視線を落とし、意を決したように口を開く。
「私たちはね、『魔人』なの。詳しく知りたければ、オウセイ様が渡したその本を読んでみるといいわ」
「え……?」
魔人。
その言葉を聞いた途端、なぜかケセナの胸の奥が冷たく強張った。
言葉の意味も、歴史も何も覚えていないはずなのに。魂の底に沈んだ本能だけが、得体の知れない悪寒となって、微かな警鐘を鳴らしている。
ケセナはその恐怖を誤魔化すように、わざとらしく声を上げた。
「待ってください!」
彼女たちが魔人であるという事実も衝撃だが、それ以上に引っかかることがある。
――本に書かれている?
ケセナは怪訝に思った。
この本は『歴史書』であり、近頃の出来事は載っていないと、オウセイが言っていたはずだ。
だとしたら。
そこに載っているほど昔から生きているということは――。
恐る恐る、頭に湧き上がった純粋な疑問を口にする。
「本に載ってるってことは……キリエさんとオウセイは、いったい何星霜齢なんですか?」
途端、周囲の空気が凍りついた。
キリエの表情が一変していた。
先ほどまでの慈愛に満ちた聖母のような顔はどこへやら。目は吊り上がり、まるで鬼神のような形相でケセナを見下ろしていた。
世にも恐ろしいその顔つきのまま、彼女の固く握られた拳が天へ向かって、ゆっくりと持ち上がる。
「え……あ?」
ただ呆然と見上げるケセナの視界へ向かって、その拳が容赦なく振り下ろされた。
「うあああぁっ!」
直後。
脳天を突き抜けるような豪快な音と凄まじい衝撃に、ケセナは頭を抱えて悶え苦しんだ。
火花が散る視界の中で、キリエのものとは思えない、地を這うような低い声が頭上から降ってくる。
「女性に、星霜齢を聞くものではないわ」
「ごめんなさいぃぃぃ……っ」
頭を押さえて涙目になりながら、ケセナは背凭れと自分の背に挟まれた本を見た。
自分の知らない世界。
自分が忘れた過去。
その両方が、あの分厚い頁の向こうで、静かに彼を待っている気がした。