兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
夜巡りの森は、墨を流し込んだように暗く、木々の間を抜ける風は肌を刺すように冷たかった。
先ほどまで森を焼くように満ちていた閃光と熱が嘘のように消え、今は不気味な静寂だけが広がっている。
ケセナとラルは無言のまま、湿った土を踏み締めて歩いていた。
フェイカーが文字どおり『塵』と化した光景が、ケセナの網膜に焼きついて離れない。右腕の黄金龍の紋章はすでに熱を失い、沈黙しているが、その重みだけがやけに生々しく感じられた。
ざっ、と。
前方の茂みが大きく揺れ、ケセナがびくりと身構える。次の瞬間、暗闇の中から巨大な影が飛び出してきた。
「ケセナ! ラル!」
切羽詰まった声。
片手に剣を握り締めたグレンだった。
息を乱し、血相を変えて飛び出してきた彼は、二人の無事な姿を見つけるなり、がくりと肩を落として深く息を吐き出した。
「無事か……! 一体、何があった? 轟音が響いてきたぞ」
グレンの鋭い視線が、ケセナへ向けられる。
「えっと……」
ケセナは口を開きかけたが、言葉に詰まった。
『フェイカーが現れて、俺の右腕が勝手に奴を消し飛ばした』――そんな狂気じみた事実を、どう説明すればいいのか。人を一人、跡形もなく消滅させてしまった右腕への恐怖がぶり返し、咄嗟に言葉が出てこない。
戸惑い、視線を泳がせるケセナの横で、ラルがするりと口を開いた。
「フェイカーが来た」
「フェイカーだと……!?」
グレンの顔色が変わる。
あの魔術団副団長が、結界の消滅に乗じて、ここまで入り込んできた。そう理解した瞬間、グレンはぎりっと奥歯を噛み鳴らした。
鋭い視線で周囲の暗闇を睨みつけ、それからケセナの右肩の服が焦げているのを見咎める。
「怪我をしているのか」
「ああ、大丈夫。平気だから」
こんなもの、大した怪我ではない。
ケセナは右肩を隠すようにしながら、口早に答えた。
「とにかく、話は戻ってからだ……」
グレンは短く告げると、二人を庇うように背後へ回り、家の方角へ歩き出した。
三人は暗い森を抜けていく。
やがて木々の隙間から、家の橙色の灯りが見えてきた。その温かな光が視界に入った瞬間、ケセナはようやく、強張っていた肩の力を少しだけ抜くことができた。
その光の中に、一つの人影が立っていることに気づく。
「キリエさん……?」
家の前。冷たい夜風の中、キリエが腕を組んで立っていた。
長い黒髪が風に揺れている。焦りの色は見せていない。けれど、安全な家の中ではなく外で待っていた。それだけで十分だった。
キリエの牡丹色の瞳が、闇から姿を現した三人――とりわけケセナの無事な姿を捉え、ほんの僅かに緩む。
「無事で良かったわ」
静かで、けれど確かな温度を持った声だった。
彼女は短くそれだけを告げると、冷え切った三人を迎え入れるように、背後の木扉を引き開けた。
古びた木材が軋む。
家の中から、暖炉の薪が爆ぜる音と温かな空気が流れ出してきた――その刻。
「ケセナ様ぁぁぁぁ!!」
耳をつんざくような甲高い悲鳴が、夜巡りの静寂を粉砕した。
開かれた木扉の隙間から、銀髪の小さな身体が、文字どおり矢のような勢いで躍り出てくる。
「えっ、わっ……!」
回避する間もなかった。
封玉へ頑なに籠もっていた剣精、プラークルウの銀髪が、ケセナの視界をいっぱいに埋め尽くす。
勢いよく胸元へ突っ込んできた衝撃で蹌踉めくケセナの顔へ、涙に濡れた柔らかな頬が張りついた。
けれど、どこか懐かしく、ケセナはその感覚に少しだけ安堵する。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が封玉へ籠もって、黄金龍の制御を手放したから……ごめんなさい!!」
「プラウ、落ち着いて……!」
プラークルウの金色の瞳からは、大袈裟なほど大粒の涙が溢れていた。ケセナは窒息しそうになりながら必死に引き剥がし、その小さな身体の震えが、決して大袈裟な芝居ではないことを知る。
「私、怖くて、震えてました!」
「なんで、プラウが震えてるの」
「毎回毎回、置いていかれるものですから」
涙目のまま、プラークルウは、ふふん、と鼻を鳴らす。
最初の飛びつきはともかく、もうこれはわざとだと確信し、ケセナは呆れたように息を吐いた。
「そこ、威張るところじゃないと思う……」
「いいから、中に入れ。冷えるぞ」
涙目で抗議するプラークルウにケセナが呆れていると、背後からグレンが短く促し、三人はようやく温かな家の中へ足を踏み入れた。
暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音が、静まり返った部屋に響く。
グレンは椅子へどっかりと腰を下ろすと、腕を組み、鋭い黒い瞳でケセナを真っ直ぐに見据えた。
ケセナの横には、今度こそ離れるものかと、プラークルウがぴったり纏わりついている。
「さあ、話してくれ。何があった」
静かな、だが逃げ場のない催促。
ケセナは右肩の焦げた服の端を無意識に握り締めながら、ゆっくりと口を開いた。
「森の奥で、フェイカーに襲われました。オウセイの結界が消えた隙を、突かれたんだと思います」
キリエの表情が微かに険しくなる。
「ラルが槍で斬りかかったんですが、まったく通用しなくて……。奴は、魔人の加護だと言ってました」
「魔人の加護……」
グレンが低い声で反芻する。
「フェイカーの炎が迫ってきて、受けるしかなくて……。その刻、俺の右腕が勝手に熱を持って、頭の中へ直接、声が響いたんです。『我を使え』って」
それまで騒がしかったプラークルウでさえ、息を呑んで静まり返った。
「それから、右腕からものすごい光が溢れ出して……」
ケセナは言葉を区切った。
黄金龍の放った純粋な暴力。魔人の加護ごとフェイカーを一瞬で跡形もなく塵に帰した、あの圧倒的な蹂躙。
言えば、もう戻れない気がした。自分が、取り返しのつかない化け物だと認めてしまう気がした。
「気がついたら……フェイカーは、いなくなってました」
ケセナは俯き、一番残酷な事実を飲み込んで、そう締めくくった。
グレンの鋭い眼光が、一瞬だけケセナの震える指先へ落ちる。
何が起きたのか、そのすべてを察したわけではないだろう。だが、グレンはそれ以上を追及しなかった。
「ラルはどうだ? お前からも、そう見えたか?」
壁際に立っていたラルは、淡々と答える。
「光で何も見えなかった。光が消えたら、フェイカーもいなかった」
嘘ではない。あまりにも強烈な閃光に視界を奪われ、ラルが次に目を開けた刻には、あの魔術団副団長の姿はどこにもなかったのだ。
グレンは目を閉じ、深く考え込んだ。
あのフェイカーが、ただ目を焼かれた程度で退くとは思えない。
執念深いあの男なら、確実にケセナの首を狙ってくるはずだ。
だとしたら――黄金龍の力の片鱗。その気配に恐れをなしたか。
あるいは、ケセナがその力に呑まれかけているか。
重い沈黙が続く中。
「でも」
ラルが、静かに言葉を継いだ。
全員の視線が、紫色の瞳を持つ少女に集まる。
ラルはケセナを真っ直ぐに見つめ、はっきりと告げた。
「ケセナ、右腕の黄金龍に『黙れ』って言った」
その言葉が落ちた瞬間。
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
グレンも、キリエも。そして、ケセナの胸元にしがみついていたプラークルウも、一斉に目を丸くしてケセナを見た。
「は……?」
最初に間の抜けた声を漏らしたのは、プラークルウだった。
「黙れ、って……ケセナ様、あの狂気にですか? オウセイ様ですら抗えなかった、あの阿呆龍に、喧嘩を売ったんですか!?」
「いや、喧嘩を売ったわけじゃなくて……」
ケセナが慌てて否定しようとした、その刻だった。
「っ、ははははは!」
グレンが腹の底から吹き出すように笑い始めた。
最初は堪えるように肩を震わせていたが、やがて耐えきれなくなったように大声を上げ、ばんばんと自分の膝を叩く。
「黄金龍に『黙れ』か! 傑作だな! そりゃあフェイカーも、尻尾を巻いて退くわけだ」
グレンのその言葉に、ケセナは内心で冷や汗をかいた。
違う。フェイカーは退いたのではない。
黄金龍が一瞬で、跡形もなく消し飛ばしたのだ。
だが、その残酷な真実を口にする前に、グレンの大きく温かな手が、ケセナの頭を乱暴に、けれど優しく撫で回した。
「上出来だ、ケセナ」
グレンの黒い瞳が、深い慈愛と安堵に細められる。
「力に魅入られず、呑まれなかった。お前は自分自身の心で、あの黄金龍を捩じ伏せたんだ。よくやった」
「俺は、ただ……うるさくて、怖かっただけです」
自分は、そんな立派な人間ではない。買い被りだ。
そう言いたかったが、グレンの温かい手と、呆れながらも安堵で涙ぐんでいるプラークルウを見ていると、言葉が喉の奥へ引っ込んだ。
「オウセイ様の目に、狂いはなかったようね」
静かな声が響き、キリエがゆっくりと歩み寄ってきた。
使い古された椅子の傍らからケセナの正面へ立ち、その牡丹色の瞳で、ケセナを真っ直ぐに射抜く。
「オウセイ様が命を削ってまで、あなたを助けた理由が……分かった気がするわ」
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
キリエは目を伏せ、ほんの少しだけ息を吸い込み、覚悟を決めたように、残酷な最終確認を口にした。
「本当に、記憶の封印を解いていいのね?」
その問いに、ケセナは思わず目を伏せた。
脳裏に蘇るのは、フェイカーを一瞬で塵にした、あの規格外の暴力の光。
記憶を取り戻せば、自分は完全にあの黄金龍と一体化してしまうかもしれない。優しい人々を傷つける、世界の敵になってしまうかもしれない。
その前に、壊れてしまうかもしれない。
怖い。足が竦むほどの恐怖が、胸の奥で渦巻いている。
だが。
『もし俺が壊れたら、助けてくれる?』
『当たり前。だけど、壊れなければいい』
暗い森の中で交わした、ラルとの不器用な約束。
頭を撫でてくれるグレン。騒がしく泣いてくれるプラークルウ。
そして、自分のために五千星霜の命を使い切ってくれた、オウセイ。
ケセナは両拳を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。
その琥珀色の瞳には、もう逃げ隠れしない、確かな決意の光が宿っていた。
「はい。お願いします」
迷いのない声だった。
その返事を聞いたキリエは、ほんの一瞬だけ表情を揺らした。
だが、すぐに微笑を作る。
「分かったわ……」
キリエはそれだけを言うと、くるりと背を向けた。
「では、一夜後」
静かに告げ、彼女は一度も振り返ることなく、自室へと戻っていった。
ぱたんと静かに木扉が閉まる。
残されたケセナは、自らの右腕に刻まれた、沈黙する黄金龍の紋章を、今度は逃げることなく静かに見つめ返していた。