兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第二十九話 黄金龍に抗う者

 夜巡りの森は、墨を流し込んだように暗く、木々の間を抜ける風は肌を刺すように冷たかった。

 

 先ほどまで森を焼くように満ちていた閃光と熱が嘘のように消え、今は不気味な静寂だけが広がっている。

 ケセナとラルは無言のまま、湿った土を踏み締めて歩いていた。

 フェイカーが文字どおり『塵』と化した光景が、ケセナの網膜に焼きついて離れない。右腕の黄金龍の紋章はすでに熱を失い、沈黙しているが、その重みだけがやけに生々しく感じられた。

 

 ざっ、と。

 前方の茂みが大きく揺れ、ケセナがびくりと身構える。次の瞬間、暗闇の中から巨大な影が飛び出してきた。

 

「ケセナ! ラル!」

 

 切羽詰まった声。

 片手に剣を握り締めたグレンだった。

 息を乱し、血相を変えて飛び出してきた彼は、二人の無事な姿を見つけるなり、がくりと肩を落として深く息を吐き出した。

 

「無事か……! 一体、何があった? 轟音が響いてきたぞ」

 

 グレンの鋭い視線が、ケセナへ向けられる。

 

「えっと……」

 

 ケセナは口を開きかけたが、言葉に詰まった。

『フェイカーが現れて、俺の右腕が勝手に奴を消し飛ばした』――そんな狂気じみた事実を、どう説明すればいいのか。人を一人、跡形もなく消滅させてしまった右腕への恐怖がぶり返し、咄嗟に言葉が出てこない。

 

 戸惑い、視線を泳がせるケセナの横で、ラルがするりと口を開いた。

 

「フェイカーが来た」

「フェイカーだと……!?」

 

 グレンの顔色が変わる。

 あの魔術団副団長が、結界の消滅に乗じて、ここまで入り込んできた。そう理解した瞬間、グレンはぎりっと奥歯を噛み鳴らした。

 鋭い視線で周囲の暗闇を睨みつけ、それからケセナの右肩の服が焦げているのを見咎める。

 

「怪我をしているのか」

「ああ、大丈夫。平気だから」

 

 こんなもの、大した怪我ではない。

 ケセナは右肩を隠すようにしながら、口早に答えた。

 

「とにかく、話は戻ってからだ……」

 

 グレンは短く告げると、二人を庇うように背後へ回り、家の方角へ歩き出した。

 

 三人は暗い森を抜けていく。

 やがて木々の隙間から、家の橙色の灯りが見えてきた。その温かな光が視界に入った瞬間、ケセナはようやく、強張っていた肩の力を少しだけ抜くことができた。

 その光の中に、一つの人影が立っていることに気づく。

 

「キリエさん……?」

 

 家の前。冷たい夜風の中、キリエが腕を組んで立っていた。

 長い黒髪が風に揺れている。焦りの色は見せていない。けれど、安全な家の中ではなく外で待っていた。それだけで十分だった。

 キリエの牡丹色の瞳が、闇から姿を現した三人――とりわけケセナの無事な姿を捉え、ほんの僅かに緩む。

 

「無事で良かったわ」

 

 静かで、けれど確かな温度を持った声だった。

 彼女は短くそれだけを告げると、冷え切った三人を迎え入れるように、背後の木扉を引き開けた。

 

 古びた木材が軋む。

 家の中から、暖炉の薪が爆ぜる音と温かな空気が流れ出してきた――その刻。

 

「ケセナ様ぁぁぁぁ!!」

 

 耳をつんざくような甲高い悲鳴が、夜巡りの静寂を粉砕した。

 開かれた木扉の隙間から、銀髪の小さな身体が、文字どおり矢のような勢いで躍り出てくる。

 

「えっ、わっ……!」

 

 回避する間もなかった。

 封玉へ頑なに籠もっていた剣精、プラークルウの銀髪が、ケセナの視界をいっぱいに埋め尽くす。

 勢いよく胸元へ突っ込んできた衝撃で蹌踉めくケセナの顔へ、涙に濡れた柔らかな頬が張りついた。

 けれど、どこか懐かしく、ケセナはその感覚に少しだけ安堵する。

 

「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が封玉へ籠もって、黄金龍の制御を手放したから……ごめんなさい!!」

「プラウ、落ち着いて……!」

 

 プラークルウの金色の瞳からは、大袈裟なほど大粒の涙が溢れていた。ケセナは窒息しそうになりながら必死に引き剥がし、その小さな身体の震えが、決して大袈裟な芝居ではないことを知る。

 

「私、怖くて、震えてました!」

「なんで、プラウが震えてるの」

「毎回毎回、置いていかれるものですから」

 

 涙目のまま、プラークルウは、ふふん、と鼻を鳴らす。

 最初の飛びつきはともかく、もうこれはわざとだと確信し、ケセナは呆れたように息を吐いた。

 

「そこ、威張るところじゃないと思う……」

「いいから、中に入れ。冷えるぞ」

 

 涙目で抗議するプラークルウにケセナが呆れていると、背後からグレンが短く促し、三人はようやく温かな家の中へ足を踏み入れた。

 

 暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音が、静まり返った部屋に響く。

 グレンは椅子へどっかりと腰を下ろすと、腕を組み、鋭い黒い瞳でケセナを真っ直ぐに見据えた。

 ケセナの横には、今度こそ離れるものかと、プラークルウがぴったり纏わりついている。

 

「さあ、話してくれ。何があった」

 

 静かな、だが逃げ場のない催促。

 ケセナは右肩の焦げた服の端を無意識に握り締めながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「森の奥で、フェイカーに襲われました。オウセイの結界が消えた隙を、突かれたんだと思います」

 

 キリエの表情が微かに険しくなる。

 

「ラルが槍で斬りかかったんですが、まったく通用しなくて……。奴は、魔人の加護だと言ってました」

「魔人の加護……」

 

 グレンが低い声で反芻する。

 

「フェイカーの炎が迫ってきて、受けるしかなくて……。その刻、俺の右腕が勝手に熱を持って、頭の中へ直接、声が響いたんです。『我を使え』って」

 

 それまで騒がしかったプラークルウでさえ、息を呑んで静まり返った。

 

「それから、右腕からものすごい光が溢れ出して……」

 

 ケセナは言葉を区切った。

 黄金龍の放った純粋な暴力。魔人の加護ごとフェイカーを一瞬で跡形もなく塵に帰した、あの圧倒的な蹂躙。

 言えば、もう戻れない気がした。自分が、取り返しのつかない化け物だと認めてしまう気がした。

 

「気がついたら……フェイカーは、いなくなってました」

 

 ケセナは俯き、一番残酷な事実を飲み込んで、そう締めくくった。

 

 グレンの鋭い眼光が、一瞬だけケセナの震える指先へ落ちる。

 何が起きたのか、そのすべてを察したわけではないだろう。だが、グレンはそれ以上を追及しなかった。

 

「ラルはどうだ? お前からも、そう見えたか?」

 

 壁際に立っていたラルは、淡々と答える。

 

「光で何も見えなかった。光が消えたら、フェイカーもいなかった」

 

 嘘ではない。あまりにも強烈な閃光に視界を奪われ、ラルが次に目を開けた刻には、あの魔術団副団長の姿はどこにもなかったのだ。

 グレンは目を閉じ、深く考え込んだ。

 

 あのフェイカーが、ただ目を焼かれた程度で退くとは思えない。

 執念深いあの男なら、確実にケセナの首を狙ってくるはずだ。

 

 だとしたら――黄金龍の力の片鱗。その気配に恐れをなしたか。

 あるいは、ケセナがその力に呑まれかけているか。

 

 重い沈黙が続く中。

 

「でも」

 

 ラルが、静かに言葉を継いだ。

 全員の視線が、紫色の瞳を持つ少女に集まる。

 ラルはケセナを真っ直ぐに見つめ、はっきりと告げた。

 

「ケセナ、右腕の黄金龍に『黙れ』って言った」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 部屋の空気が、ぴたりと止まった。

 グレンも、キリエも。そして、ケセナの胸元にしがみついていたプラークルウも、一斉に目を丸くしてケセナを見た。

 

「は……?」

 

 最初に間の抜けた声を漏らしたのは、プラークルウだった。

 

「黙れ、って……ケセナ様、あの狂気にですか? オウセイ様ですら抗えなかった、あの阿呆龍に、喧嘩を売ったんですか!?」

「いや、喧嘩を売ったわけじゃなくて……」

 

 ケセナが慌てて否定しようとした、その刻だった。

 

「っ、ははははは!」

 

 グレンが腹の底から吹き出すように笑い始めた。

 最初は堪えるように肩を震わせていたが、やがて耐えきれなくなったように大声を上げ、ばんばんと自分の膝を叩く。

 

「黄金龍に『黙れ』か! 傑作だな! そりゃあフェイカーも、尻尾を巻いて退くわけだ」

 

 グレンのその言葉に、ケセナは内心で冷や汗をかいた。

 違う。フェイカーは退いたのではない。

 黄金龍が一瞬で、跡形もなく消し飛ばしたのだ。

 だが、その残酷な真実を口にする前に、グレンの大きく温かな手が、ケセナの頭を乱暴に、けれど優しく撫で回した。

 

「上出来だ、ケセナ」

 

 グレンの黒い瞳が、深い慈愛と安堵に細められる。

 

「力に魅入られず、呑まれなかった。お前は自分自身の心で、あの黄金龍を捩じ伏せたんだ。よくやった」

「俺は、ただ……うるさくて、怖かっただけです」

 

 自分は、そんな立派な人間ではない。買い被りだ。

 そう言いたかったが、グレンの温かい手と、呆れながらも安堵で涙ぐんでいるプラークルウを見ていると、言葉が喉の奥へ引っ込んだ。

 

「オウセイ様の目に、狂いはなかったようね」

 

 静かな声が響き、キリエがゆっくりと歩み寄ってきた。

 使い古された椅子の傍らからケセナの正面へ立ち、その牡丹色の瞳で、ケセナを真っ直ぐに射抜く。

 

「オウセイ様が命を削ってまで、あなたを助けた理由が……分かった気がするわ」

 

 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 キリエは目を伏せ、ほんの少しだけ息を吸い込み、覚悟を決めたように、残酷な最終確認を口にした。

 

「本当に、記憶の封印を解いていいのね?」

 

 その問いに、ケセナは思わず目を伏せた。

 脳裏に蘇るのは、フェイカーを一瞬で塵にした、あの規格外の暴力の光。

 記憶を取り戻せば、自分は完全にあの黄金龍と一体化してしまうかもしれない。優しい人々を傷つける、世界の敵になってしまうかもしれない。

 その前に、壊れてしまうかもしれない。

 怖い。足が竦むほどの恐怖が、胸の奥で渦巻いている。

 

 だが。

 

『もし俺が壊れたら、助けてくれる?』

『当たり前。だけど、壊れなければいい』

 

 暗い森の中で交わした、ラルとの不器用な約束。

 頭を撫でてくれるグレン。騒がしく泣いてくれるプラークルウ。

 そして、自分のために五千星霜の命を使い切ってくれた、オウセイ。

 

 ケセナは両拳を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。

 その琥珀色の瞳には、もう逃げ隠れしない、確かな決意の光が宿っていた。

 

「はい。お願いします」

 

 迷いのない声だった。

 その返事を聞いたキリエは、ほんの一瞬だけ表情を揺らした。

 だが、すぐに微笑を作る。

 

「分かったわ……」

 

 キリエはそれだけを言うと、くるりと背を向けた。

 

「では、一夜後」

 

 静かに告げ、彼女は一度も振り返ることなく、自室へと戻っていった。

 ぱたんと静かに木扉が閉まる。

 

 残されたケセナは、自らの右腕に刻まれた、沈黙する黄金龍の紋章を、今度は逃げることなく静かに見つめ返していた。

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