兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
帳の隙間から差し込む昼巡りの光が、室内を白く照らしていた。
ケセナは眩しさに目を細め、小さく欠伸を漏らす。暖炉の火はすでに落とされ、煤の匂いだけが薄く残っている。その静けさは、これから始まる儀式のためだけに整えられたもののようだった。
部屋の中央からは、食卓も椅子もすべて運び出されていた。代わりに床一面を埋め尽くすように、複雑な紋様が描かれている。生々しいほど濃い赤で刻まれたそれは、昼巡りの光の中にあってなお、呼吸するように淡い燐光を放っていた。
その中心に、ケセナは座していた。
部屋へ入ると、キリエはこれを『魔法陣』と呼んだ。ファミラスで行使される『魔術』とは異なる、魔人の力――『魔法』による儀式なのだという。
そのキリエは今、ケセナの正面で背を向けて立っていた。純白の儀式衣は彼女の神秘性をいっそう際立たせており、ケセナは思わず見惚れそうになる。だが、見惚れている場合ではないことは、彼自身がよく分かっていた。
やがて、腰まで届く長い黒髪を揺らし、キリエが振り返る。牡丹色の瞳が、僅かに揺れていた。
見事な装飾の施された杖を、彼女は強く握り直す。
そして、ケセナの右腕を見た。
黄金龍の紋章が、皮膚の下で生き物のように脈打っている。閉じ込められた獣が、檻の内側から爪を立てているようだった。そのたびに熱が走り、ケセナは無意識に顔を顰める。
「準備はいい……?」
魔法陣の外側に立ち、キリエは静かに問うた。
声はいつもどおり冷静だった。けれど、握り締めた杖の先が微かに震えているのを、ケセナは見逃さなかった。
「これが、封印解放の儀式よ。もう、引き返せない」
ケセナは肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「分かっています。俺は……記憶を取り戻します」
そう言って見上げると、キリエは一瞬だけ目を伏せた。
「そう。あなたの本来の記憶。あなたが、自分を守るために捨てたもの」
唇が、ほんの僅かに震える。
「辛さしか、ないかもしれないけれど……」
ケセナは乾いた笑みを浮かべた。頬が引きつる。
「地獄を覗き込むような気分ですよ」
「当然よ。正気を保てる保証すらないわ」
キリエは淡々と返す。
「でも、安心して。万が一の場合は、グレンたちが容赦なく動く」
厚い扉の向こうには、待機している三人の気配がある。グレンの重い存在感。ラルの鋭い静けさ。そして、プラークルウの落ち着かない足音。
「何があっても、止める」
それはケセナへ向けた言葉であると同刻に、キリエ自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
「でも――あなたの魂が耐えている限り、私は止めない」
ケセナは、静かに頷く。
「逃げないと決めたんだ」
それが、一夜前、あの暗い森の中で自分が出した最後の答えだった。
本音を言えば、今も怖い。足が竦むほどに。けれど、それでも求めてしまったのだ。自分という存在を形作った『記憶』の、その先を。
キリエが魔法陣の縁に立ち、両手をかざす。
「始めるわ。抗いなさい、ケセナ……」
刹那、室内の空気が一変した。
魔法陣が爆発するように光を放つ。床に刻まれた紋様が生き物のように蠢き、渦巻く白光が、室内を満たしていた昼巡りの明るさを一瞬で呑み込んだ。
ケセナの右腕に刻まれた黄金龍の紋章が、肉を焼き切るような熱さで激しく脈打つ。
視界が、砕けた。
まるで、玻璃細工が粉々に散るように。
次の瞬間、ケセナは別の場所にいた。
暗い地下室だった。
光の届かないその空間は、湿気に満ちた空気がねっとりと肌へまとわりついている。歪な巨大な石の周りに、幾つもの黒い影が群がっていた。大人たちだ。誰もが不気味な笑みを浮かべ、石の上に横たわる小さな身体へ手を伸ばしている。
がり、がり、と耳障りな音が響く。
赤い液体が、石の上から床へと流れ落ちていた。
声も出せないまま、その中心から小さな手が上へ伸びる。
助けを求めるように。
だが、その手は、ぱたりと力なく落ちた。
鉄錆に似た、濃い血の臭いが鼻を刺す。
場面が変わる。
肌を焼く、猛火の熱。
崩れ落ちた町。
空を裂くほどの悲鳴が、何千、何万と重なって響いている。逃げろと誰かが叫んでいる。愛する者の声か、自分自身の絶叫か、それすらも判然としない。
炎。風。水。土。
底知れぬ力が、すべてを平等に灰燼へと変えていく。
誇りも、歴史も、愛も。
何もかもが、等しく無へ還っていく。
そして、その破壊の中心にいるのは――血まみれの、小さな影だった。
蹂躙される者と、蹂躙する者。
そのどちらの中心にいるのも。
他ならぬ、自分自身――ファルイーアだった。
「っ、が……あぁっ!」
ケセナの喉から、ひび割れた悲鳴が漏れる。
息ができない。視界が明滅する。魔法陣の光が室内で激しく脈打った。
「ケセナ! 耐えなさい!」
遠く、深い水底から響くように、キリエの声が聞こえた。
けれど、その声はもう届かない。
記憶の奔流は止まらない。
「あ……ああ……っ」
空気を求めて大きく口を開く。涎が顎を伝う。
肉が裂ける痛み。骨を削られる感覚。
「やめろ……。触れるな……っ!」
両手が宙を切る。迫り来る幻影を、必死に払いのける。
目の前には、積み上がる死体の山。
悲鳴。
嗚咽。
血の匂い。
何もかもが赤かった。
「俺は……俺が、殺し……っ」
嗚咽が漏れる。
「もう、見せるな……っ」
両手で目を覆っても、脳裏へ焼きついた光景は消えない。
そうして最後に訪れるのは、圧倒的な虚無だった。
だが。
その地獄の底から、まったく別の記憶が滲み出してくる。
柔らかな木漏れ日が差し込む、静かな森。
琥珀色の瞳を持つ、蒼い髪の男。
救世主と呼ばれながら、それを否定し続けた男。
オウセイ・カイラーヌ。
彼は、血に塗れ、心を壊したファルイーアを、ただ穏やかな目で見つめていた。
彼もまた、五千星霜という途方もない苦痛の中を生き抜いてきたはずなのに。どうして、あんなふうに静かでいられたのか。
ファルイーアとも、ケセナとも異なる、オウセイの長すぎる贖罪の記憶が、濁流となって流れ込んできた。
「なんで……」
ケセナの呟きは、涙混じりの拒絶だった。
記憶が混ざっていく。
自分のものではないはずの、五千星霜の痛みが入り込む。
深い悲しみ。慈しみ。諦念。祈り。
そして、世界を救うために下した、あまりにも残酷な決断。
ケセナは、理解してしまった。
オウセイが、なぜ滅びの力である黄金龍を応龍族の長の右腕へ託したのかを。
なぜ、こんな呪いのような運命を、彼ら一族へ背負わせたのかを。
何よりも。
『お前は、俺がずっと待ち望んでいた……俺を殺してくれる者だ』
その言葉の意味を。
(ああ、貴方の魂が、僕と繋がったから……)
自分の奥底に流れていた魔力の源が、誰のものだったのか。
その答えまで、嫌というほど理解してしまった。
ぬるりと、黄金龍が蠢いた。
右腕の熱が、限界を超えて増していく。
「やめろ……。来るな……!」
ケセナの身体は、悪寒に襲われたように激しく震えた。咆哮する黄金龍。囁くオウセイ。二つの存在が、内側から自分を引き裂こうとしてくる。
(逃げない。ここで呑まれたら、俺は俺でなくなる!)
その刻だった。
『――大丈夫。お前なら、この鎖を変えられる』
流れ込んだオウセイの記憶が、声となって耳元で再生された。
ケセナは、血が滲むほど歯を食い締め、両目を見開く。
「黙れ、黄金龍……!」
声を絞り出す。
「俺は、お前には屈しない!」
光が飽和した。
魔法陣が、陽そのものさえ呑み込むほどの白光を放つ。その光の向こうに、キリエの牡丹色の瞳が見えた気がした。
その瞳は、ひどく穏やかだった。
まるで、最初からこうなることを分かっていたかのように。
次の瞬間。
鼓膜が痛むほどの、完全な静寂が落ちる。
ケセナの髪が、開いた窓から差し込む風にさらりと揺れた。
視界に映った前髪からは、見慣れた茶色が消えている。
そこにあったのは、冷たい『金』だった。
しばらく、その髪を見つめたまま呼吸を整える。胸の上下がようやく落ち着き始めた頃、ケセナはゆっくりと自分の手を見下ろした。
「終わった……?」
震える手を見つめる。返事はない。
「キリエさん……?」
顔を上げる。
誰もいなかった。
魔法陣は煤一つ残さず消え失せ、部屋には自分一人だけが取り残されている。
「キリエ……?」
見回す。
だが、その姿はどこにもない。
ざらりと嫌な予感が背筋を走った。ケセナはふらつく足で立ち上がり、勢いよく廊下へ飛び出す。
「グレン! ラル!」
隣室から、待機していた三人が弾かれたように顔を出した。
「終わったのか!?」
グレンが叫ぶ。
そして、次の瞬間、目の前の青年を見て言葉を失った。
ラルの紫色の瞳が見開かれ、プラークルウは手にしていた菓子を床へ落としたまま、ぽかんと口を開ける。
そこに立っていたのは、間違いなく金色の髪をした青年だった。
だが、グレンの知るファルイーアとは、決定的に違う点が一つある。
その瞳は、本来の紅でも、記憶の封印によって変わった茶色でもなかった。
深く、温かな琥珀色。
「ファル、様……?」
プラークルウの口から、かつての名が漏れる。
だが、ケセナはそれに応じる余裕もなく、灰のように青褪めた顔で訴えた。
「キリエが……キリエがいないんだ」
三人が、不可解そうに顔を見合わせる。
瞳の色。
そして何より、『キリエ』という呼び捨て。
グレンは言い知れぬ違和感に引っかかりを覚えつつ、低い声で言った。
「何を言ってる、ケセナ」
「キリエは、どこだ?」
ケセナの声が低くなる。
琥珀色の瞳が、鋭い光を帯びた。
「お前が出てくるまで、俺たちはずっとここで扉を見張っていた。キリエどころか、誰も部屋から出てきていない……」
ラルもまた、無言で頷く。
その瞬間、ケセナの頭の奥で、オウセイの記憶が鋭く弾けた。欠けていた何かが、音を立てて噛み合っていく。
「違う……」
誰へ向けるでもなく、ケセナは呟いた。
「キリエは……彼女は……」
その声に、五千星霜の果てを生き抜いた者の、深く静かな響きが宿る。
プラークルウが震えた。
その声音を、彼女は知っている。
グレンもラルも息を呑んだまま、目の前の青年を見つめている。
ケセナは、いや――そこに立つ『誰か』は、冷酷な真実を静かに告げた。
「キリエは、消滅した」
グレンが一歩、警戒するように後退る。
「『俺』という存在を肯定し続けた彼女は」
琥珀色の瞳が、この世のものではない遠い場所を見ている。
「『俺』の希望を叶えるため、自ら封印の鍵になった」
息の詰まるような、重い沈黙が落ちた。
プラークルウの金色の瞳が細くなる。
彼女は目の前の青年の中に、かつて仕えた主の気配を感じ取っていた。
複雑な眼差しで彼を見つめ、そして、震える声で問いかける。
「ねえ……」
冷たい刃のような、決定的な問いだった。
「今の、あなたは……誰?」
窓から差し込む昼巡りの光が、その異質な青年の輪郭を容赦なく照らし出していた。