兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第五章 隔絶の向こう側
第三十三話 一歩分の距離


 皇都オーレルディアは、一行にとってあまりにも遠かった。

 

 オウセイの森を出て二夜後、四人は険しい山道を進んでいた。

 グレンが嬉々として手に入れた馬は山道を越えられず、麓の村に泣く泣く預けてきた。しばらくは恨み言が続いていたが、道の険しさが増すにつれ、さすがの彼も口を噤んだ。

 

 山道を選んだのは、評議会の放った追手を避けるためだった。整備された街道を行けば、半昼巡りもかからない。だが、そこには確実に評議会の目がある。強行突破など、選べるはずもなかった。

 

 だからこそ選んだ、幾つもの山と渓谷を越える迂回路。その代償は、今、一行の身体へ重くのしかかっている。慣れぬ山道に、全員の顔へ濃い疲労が滲んでいた。

 さらに一夜前の豪雨で地盤が緩み、足元はひどく不安定になっている。

 

 事故が起きるのは、こういう刻だ。

 

 ケセナが踏み出した岩場が、嫌な音を立てて崩れた。

 

「あ――」

 

 体勢を崩し、ケセナの身体が大きく傾く。

 その先は、底の見えない深い崖だった。

 

「ケセナ!」

 

 叫んだのはラルだった。

 咄嗟のことだった。魔術を唱える暇も、槍を差し出す余裕もない。反射が思考を追い越した彼女は、思い切り手を伸ばし、転落しかけたケセナの右手首を掴んで、力任せに引き寄せた。

 岩場へ引き上げられ、二人は折り重なるように倒れ込む。

 

 だが、次の瞬間。

 

「っあ、あああああぁぁぁぁっ!!」

 

 山々に響き渡ったのは、感謝の言葉ではなく、ケセナの絶叫だった。

 ケセナは狂ったようにラルの手を振り払い、地面を這うように後ずさる。

 琥珀色の瞳は焦点を失い、瞳孔は細く震えていた。

 

「やめて! 離して! 痛いっ!」

 

 彼は自分の右手首――ラルに掴まれた場所を、まるで毒でも塗られたかのように左手で擦り、地面に叩きつけ始めた。そこに残った『他人の手の感触』そのものを削ぎ落とそうとするように、皮膚が赤く腫れ、血が滲んでも止まらない。

 

「ケセナ……? 違う、あたしは……」

 

 ラルが青褪め、彼へ手を差し伸べようとする。

 

「嫌だ!!」

 

 ケセナの悲鳴交じりの怒号に、ラルはびくりと肩を震わせ、空中で手を止めた。

 ケセナの視界は、すでに目の前の山道を映していなかった。

 

 薄暗い地下室。四方から伸びてくる、黒い男たちの手。自分を兵器へ塗り替えようとした、あの冷たく残酷な手。

 その感触だけで、意識は一瞬にしてあの頃へ引き戻されていた。

 

「ケセナ、落ち着け。俺だ。グレンだ」

 

 グレンが低く声を出し、ケセナの視界を塞がないよう、少し離れた位置でゆっくりと膝をつく。

 

「ラルは、お前を助けようとしただけだ。ここは外だ。空が見えるだろう……」

 

 ケセナの荒い呼吸が、喉をひくつかせる。

 誰も動けなかった。

 ラルは宙に浮いたままの自分の右手を、まるで罪を犯した凶器のように見つめ、がたがたと震わせていた。

 プラークルウは口を両手で塞いだまま、涙を滲ませて立ち尽くしている。

 

「ケセナ、意識を戻せ。黄金龍が動いてしまう!」

「おう……ご……っ」

 

 ケセナの右腕が、自ら傷つけた右手首の血に呼応するように、どろりとした黒い熱を帯びた。

 紋章が獲物を狙う蛇のようにのたうち、皮膚を内側から焼き焦がそうとするように、不気味に脈動し始める。

 

 グレンはその禍々しい光景に、かつての戦場を思い出し、背筋が冷えるのを感じた。

 

「ケセナ……?」

 

 グレンに呼ばれ、ケセナの瞳が僅かに動いた。

 少しずつ光が戻り、ケセナは熱を持つ右腕を、震える左手でそっと握り直した。

 

 数息後、平静を取り戻し、自分の命を救ってくれたラルに向かって怒鳴り、拒絶したことへ気づいたのだろう。

 

「ごめん……」

 

 ケセナは逃げるように顔を伏せて言った。

 その背中は、あまりにも小さく、脆かった。

 

「謝らないで」

 

 ラルは、震える右手を左手で強く押さえつけた。

 

「あたしが悪い。分かっていたのに……ごめんなさい」

 

 彼女の目から、一滴の涙が地面へ落ちる。

 グレンは重々しく立ち上がった。

 

「休憩にしよう……。これ以上は歩けないだろう」

 

 ------

 

 その夜巡り、焚き火を囲む四人の間には、言いようのない沈黙が流れていた。

 

 ケセナは誰とも視線を合わせず、言葉も口にしない。ただひたすら、ラルに掴まれた手首にできた、自ら付けた傷を反対の手で隠し続けていた。

 

 記憶を取り戻してから、光精霊はケセナを癒さなくなった。清浄な精霊たちは、黄金龍の気配と、ケセナの傷跡から滲む拒絶に怯えるように、遠巻きに見つめるだけで決して近づかない。元々光魔術が苦手なラルが、早々に治癒を諦めるほどだった。

 

(癒えないのは、身体の傷だけじゃないんだな……)

 

 ケセナは胸の内で自嘲し、じくじくと痛む手首を、いっそう強く守るように握り締めた。

 

(壊れてた方が、楽だった気がする)

 

 感情を殺し、何も感じず、何も見ず、何も話さなかったあの頃。

 今よりもずっと過酷な場所にいたはずなのに、そんな考えが胸の奥から滲み出してくる。

 

 オウセイの五千星霜まで流れ込んで、胸の中はもう、自分のものだけではなかった。

 自分という形すら、少しずつ曖昧になっていく。

 

(消えたい……消えたい……)

 

 記憶を封印する前に強く祈り、訴えた言葉が脳裏を掠めていく。

 

(生きてほしいと願ったのに、生きたいと叫んでたのに……)

 

 どれが誰の感情かさえも分からない。

 ケセナはきつく瞳を閉じた。

 

 焚き火の爆ぜる音だけが響き、やがてプラークルウが努めて明るい声を上げた。

 

「はい、ケセナ様! 熱いので気をつけてくださいね」

 

 彼女は小さな両手で木製の盆を支え、その上に載せた熱い汁物の入った木杯を、ケセナの前へ差し出していた。

 以前の彼女なら、直接木杯を手渡し、そのまま腕に抱きついていただろう。

 だが今は、一定の距離を保ったまま、決して指先が触れないよう、盆という『橋』を挟んでいる。

 

「ありがとう、プラウ」

 

 ケセナがおずおずと手を伸ばし、木杯を受け取る。

 その指先が震えていないことを確かめて、プラークルウはふわりと微笑み、ぱたぱたと自分の定位置へ戻っていった。

 

「ねえ、ケセナ」

 

 汁物を飲もうとした刻、少し離れた場所からラルが声をかけた。彼女はまだ、ケセナの顔を真っ直ぐには見られていない。

 

「髪、少し伸びた?」

「え、そうかな」

「うん。邪魔そう。あとで、風で切ってあげる。触らなくても、できるから……」

 

 ぶっきらぼうな言い方だった。

 だが、それが彼女なりに必死に考えた、今のケセナとの関わり方なのだと分かった。

 

「お願いするよ、ラル」

 

 ケセナが微笑むと、ラルは僅かに耳を赤くして、小さく頷いた。

 二人の会話が途切れたところで、ケセナは木杯を両手で包み込み、温かな汁物を少しだけ口に含んだ。

 

 いつもの量――壊れた身体でも、かろうじて受け付けるはずの、僅かな量。

 けれど、予想よりも早く身体はそれを拒絶した。

 こみ上げる強烈な吐き気に、ケセナは咄嗟に飲むのをやめ、音を立てないよう木杯を地面へ置いた。口元を手の甲で覆い、込み上げるものを必死に飲み下す。

 

(だめだ……。これ以上は、吐く)

 

 幸い、誰も気づいていない。これ以上、彼らの顔を曇らせたくなかった。

 ケセナは密かに息を吐き、背筋をそっと伸ばした。

 

 そしてふと、焚き火の向こうへ視線を向ける。

 グレンは焚き火の反対側で、黙々と剣を磨いていた。

 ケセナと視線が合うと、グレンは無意識に、剣を拭う大きな手を布で隠すように伏せた。

 

 自分の視線が彼にまで気を遣わせているのだと察し、ケセナはなるべく自然を装って立ち上がり、ゆっくりとグレンの側へ歩み寄った。

 

「グレンさん、一夜後の行程だけど……」

 

 手が触れない絶妙な距離で声をかけると、グレンは静かに剣を鞘へ収め、重い音を立てて立ち上がった。

 

「ああ、険しい山道になる。だが、俺が前を行く。お前は後ろを警戒しろ」

 

 そう言って、グレンは黒塗りの硬い鞘を、ケセナへ向けて真っ直ぐ差し出した。

 

「何かあれば、迷わず掴め」

「うん……。ありがとう、グレンさん」

 

 ケセナはそっと鞘に手を置いた。

 人の肌の温もりが恐怖の対象になってしまった今、その冷たく硬い感触が、何よりの救いだった。

 

「みんな、ごめん。俺の我儘に付き合ってもらってるのに、俺がこんなので……」

 

 ケセナがぽつりと呟く。

 自分という存在のせいで、仲間たちに細心の注意を払わせ、不自由な距離を強いている。その申し訳なさが、夜巡りの寒さと共に胸へ沁みた。

 

 すると、プラークルウがぱんぱんと服を叩いて立ち上がった。

 

「何言ってるんですか! 私たちは、今のケセナ様が一番好きなんです。髪が金色になっても、ちょっと難しいことを言うようになっても、ケセナ様はケセナ様ですから!」

「そう。これが私たちの『今の形』」

 

 ラルも、静かに言った。

 グレンは差し出した鞘を持ったまま、深く頷く。

 

「ケセナ。お前がその傷を抱えたまま進むと言うなら、俺たちはついて行く」

 

 一拍置いて、低く続ける。

 

「それだけだ……」

 

 ケセナは、焚き火の光に照らされた三人の顔を順番に見つめた。

 触れ合うことはできない。肌の温もりを感じることも、今の彼には耐え難い。

 

 けれど、この『一歩分の距離』を隔てて注がれる眼差しが、何よりも温かく、自分を人間として繋ぎ止めてくれていることを、痛いほど感じていた。

 

「うん……」

 

 黄金龍の紋章が、微かに熱を帯びる。

 だが不思議と、今はその拍動が以前ほど不気味には感じられなかった。

 夜巡りの風が山を駆け抜け、四人の静かな休息を包み込む。

 

 触れられないまま、それでも彼らは同じ火を囲んでいた。じゅう

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