兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第三十五話 鞘の一撃

 薄暗い宿の一室に、窓の隙間から鋭い昼巡りの始まりの陽が差し込んでいた。

 

 その光に気づき、机に伏せたままのケセナは、ゆっくりと意識を浮上させる。泥のような眠りへ沈む直前、頭を優しく撫でられたような、熱を帯びた大きな手の感触を夢うつつに覚えていた。

 

 幻か、現実か。

 

 確かめようとは思わなかった。

 ただ、自分の中に残った微かな温もりだけを、消えないうちに胸の奥へそっとしまい込む。

 その刻、部屋の扉が静かに開き、ラルとプラークルウが入ってきた。

 

「目、覚めた? ケセナ」

「お目覚めですか! ケセナ様!」

「うん。二人とも」

 

 変わらない二人の姿に、ケセナはほっとしたように微笑む。

 けれど、窓際の玻璃に映った自分の顔はひどく憔悴していて、すぐに視線を逸らした。

 その先で、ラルの手に目立たない灰色の長衣と一本の革紐が握られていることに気づく。

 

「髪、隠さないと。結ぶから、姿勢を正して」

 

 促されるまま、ケセナは椅子へ座り直した。

 ラルが背後に立ち、十分な距離を取る。

 

「動かないで。すぐ終わるから」

 

 ラルが指先を動かすと、目に見えない風が柔らかな布のように働き、ケセナの長い金髪をさらさらと後ろへまとめていく。胸が解けるほど心地よく、それでいて少しくすぐったい。

 ラルは一切彼に触れることなく、繊細な玻璃細工でも扱うような集中力で、その髪を革紐でしっかり結んだ。

 

「終わった……。長衣も羽織って」

 

 ケセナは長衣を羽織り、頭巾を深く被る。

 疲れた顔も見えず、金髪がこぼれ落ちることもない。その姿に、ようやく胸を撫で下ろした。

 

「ありがとう、ラル」

 

 ケセナが微笑むと、ラルはそっけなく視線を逸らした。

 

「ラル、私も!」

 

 その空気を破るように、プラークルウがラルへ飛びつくような勢いで声を上げる。

 

「え、必要、ある?」

「私の髪も長い!」

 

 困惑するラルに、プラークルウが食い下がる。

 ケセナは、くすりと静かに笑った。

 その小さな笑いが、扉を叩きつけるような音に呑まれた。

 

「すぐに発つぞ……。最悪の事態だ」

 

 血相を変えて飛び込んできたグレンの低い声には、隠しきれない焦燥が混じっていた。

 

「最悪の事態……?」

 

 頭巾を深く被ったまま、ケセナが首を傾げる。

 グレンは忌々しげに窓の外へ視線をやった。

 

「一夜前、宿の主人が広めた『触れると激痛が走る毒を持つ熱病の男』という話が、もう兵士たちの耳に入っている。そこへ、評議会が放った一番厄介な老人が入り込んだ……」

 

 もう、そこまで来ている。

 グレンの張り詰めた気配が、そう告げていた。

 

「急ぐぞ。裏口から出る」

 

 慌てて荷をまとめ、部屋を出た。

 だが、動かないプラークルウを呼ぼうとケセナが部屋に戻ると、彼女の銀髪が、目に見えて震えていた。

 

「私の……私の嘘のせいで……?」

 

 珍しく狼狽を隠せない彼女に、ケセナは静かに声をかけた。

 

「プラウのせいじゃない。行くよ、プラウ」

 

 そう言いながら、胸の奥で自分に言い聞かせる。

 

(全部、俺のせいだ……)

 

 その言葉だけは胸の内へ押し込み、ケセナはプラークルウと部屋を後にした。

 

 ------

 

 要塞都市の入り組んだ裏通り。

 昼巡りの始まりの活気が嘘のように、そこだけが不自然な湿った冷気に満ちていた。

 グレンを先頭に、宿の勝手口から足早に影を縫って進む。

 迷路のような路地を抜け、見通しの悪い十字路に差しかかる。

 グレンが片手を挙げ、一行を止めた。

 鋭い視線で辺りを探る。張り詰めた沈黙が落ちる。

 僅かに間を置いて、グレンは小さく息を吐いた。

 

「よし……進むぞ」

 

 背後の三人へ合図を送る。

 安堵して一歩を踏み出した、その刻。

 

「まったく。評議会の連中も、老人の使い方が荒いのぅ……」

 

 霧がかった路地の先から、しゃがれた声が響いた。

 グレンが弾かれたように足を止め、ケセナたちを背中で庇うように立ち塞がる。

 

 十数歩先。

 昼巡りの始まりの靄の中に立っていたのは、真っ白に整えられた長髪と長い髭を蓄え、杖をついた小柄な老人だった。深く刻まれた皺。今にも折れそうな細い身体。どこからどう見ても、百星霜齢近いよぼよぼの老人にしか見えない。

 だが、その姿を見たグレンの口から漏れたのは、絶望に似た呻きだった。

 

「ツェヴァン様……」

「久しいのぅ、玄武の坊や」

 

 老人は、細めた目の奥で爬虫類のように冷たい光を放ち、くっくっと喉を鳴らす。

 青龍族長、ツェヴァン・ロン。

 グレンに剣を叩き込んだ、数少ない相手。

 そして、今もなお、勝てると思えない男だった。

 だが、ツェヴァンの濁った視線は、弟子であるグレンではなく、その背後へ隠れるケセナを捉えていた。

 

「そこの影におるのが、探し求めていた『大逆人』かのぅ」

「……」

 

 グレンが無言で剣を抜く。

 硬く冷たい鋼の擦れる音が、路地に響いた。

 

「なんじゃ、物騒な鉄の棒など抜いて。相変わらず血の気の多い奴だのぅ」

 

 ツェヴァンは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 グレンの額に汗が滲んだ。

 

「大人しくその背中の男を渡してはくれぬかのぅ。この老体に、あまり無理をさせないでおくれ」

「お断りします」

 

 グレンが剣を正眼に構えた、次の刹那。

 鼓膜を破るような落雷の音とともに、ツェヴァンの姿が掻き消えた。

 

「なっ――」

 

 ケセナが瞬きをするより早く、ツェヴァンはグレンの懐へ潜り込んでいた。手にした杖が、精巧な仕込み刀であることが露わになる。

 雷の精霊による神速の踏み込み。

 水の精霊による流れるような剣閃。

 ケセナの目には、その動きすら捉えられない。

 甲高い金属音とともに火花が散り、グレンの巨体が僅かに後ろへ押し込まれた。

 

「くっ……!」

「どうした坊や。ずいぶんと剣の筋が悪くなっておるぞ」

 

 老人の皮を被った化け物が、笑いながら剣を振るう。

 一撃、二撃、三撃。

 グレンは完全に防戦一方となり、彼がこれほどまでに圧倒される姿を、ケセナは初めて見た。

 

(このままじゃ、グレンさんが……死ぬ!)

 

 胸の奥で、何かが冷たく弾けた。

 自分は、かつて何だった。

 応龍の、何と呼ばれていた。

 

 泥人形。

 化け物。

 

 ――『兵器』。

 

 そうだ。

 自分は、敵を殲滅するためだけに作られた殺戮兵器だったはずだ。

 

「プラウ」

 

 ケセナの低く、冷たい声が響く。

 その声音の変化に、プラークルウが肩を揺らした。

 彼女は光の粒子となり、ケセナの手の中へ一本の『宝刀』として顕現する。

 

「ケセナ!?」

 

 前へ出ようとするケセナを止めようと、ラルが無意識に手を伸ばした。

 だが、直前でその手は空を切る。

 

(触れちゃ、駄目……!)

 

 彼に触れれば、彼を狂乱させてしまう。

 その一瞬の躊躇いが、ケセナを引き止める唯一の機会を奪った。

 

「ケセナ! やめろ! お前に敵う相手じゃない!」

 

 グレンが血を吐くような声で制止する。

 だがケセナは、ツェヴァンの前に歩み出て、抜き身の宝刀を構えた。

 その琥珀色の瞳は、一切の感情を排した玻璃玉のように澄み切っている。

 

「“僕”は――」

 

 その言葉を合図に、周囲の大気が爆発的に膨張した。

 詠唱はなかった。

 ただ、ケセナが敵と定めた刹那、火が噴き、水が裂け、石畳が牙を剥き、風が刃になった。

 

 路地が炎に包まれ、石畳が隆起し、水刃と真空の刃が老人の身体を削り取るべく殺到する。

 それは、内乱の際に敵も味方も震え上がらせていた『泥人形』の力そのものだった。

 けれど、届かない。

 

「ほう……。あの感情の抜け落ちた『泥人形』が、随分と人らしい顔をするようになったではないか」

 

 ツェヴァンは雷を纏い、凄まじい速度でそのすべてを躱し、水流の剣で難なく切り裂いてみせた。魔術の嵐を易々と潜り抜けた老人が、ケセナの眼前へ迫る。

 

「だが……緩い。誰かを守ろうとするその心が、お主の刃を鈍らせておる。あの絶対的な『兵器』としての殺意は、どこへ行ったのじゃ?」

「っ!」

 

 ケセナは咄嗟に宝刀を盾にした。

 ツェヴァンの重い一撃が、刀身へ叩きつけられる。

 

「くっ……!」

 

 桁外れの重圧だった。

 膝が砕けそうに折れ曲がり、石畳がめりめりと陥没する。刀を支える両腕の骨が軋み、今にも限界を迎えようとしていた。

 次に振り下ろされれば、確実に両断される。

 死を覚悟した。

 

「ファルイーアっ!!」

 

 グレンの悲痛な絶叫が響く。

 ケセナの視界に、自分を突き飛ばそうと反射的に伸びてくるグレンの大きな『手』が見えた。

 だが、その手は空中で不自然に軌道を変える。

 

 直後、ケセナの胸元へ強烈な衝撃が走った。

 弾き飛ばされ、地面を派手に転がる。

 

 衝撃で指から宝刀がすり抜け、石畳へ甲高い音を立てて転がった。

 刃は淡い光を散らし、次の瞬間、銀髪の小さな少女の姿へ戻る。

 

「ケセナ様っ!」

 

 人の形へ戻ったプラークルウが悲鳴を上げ、倒れ込んだケセナへ駆け寄ろうとする。

 だが、彼女もまた、その手を伸ばせない。

 

 彼を突き飛ばしたのは、グレンの『手』ではない。

 硬く冷たい『剣の鞘』だった。

 極限の命のやり取りの最中でさえ、グレンは決して彼へ直接触れようとはしなかったのだ。

 

「あっ……」

 

 転がったケセナの目へ映ったのは、自分を突き飛ばしたグレンの大きな背中。

 そして――その『ほんの一瞬の遅れ』を突いたツェヴァンの凶刃が、無防備な胸を深々と斬り裂く光景だった。

 鮮血が、昼巡りの始まりの陽に照らされた路地へ赫々と舞い散る。

 

「グレンさん……っ!!」

 

 膝から崩れ落ちる巨体。それでもグレンは、剣を杖代わりにして倒れるのを堪え、振り返りざまに血反吐を吐きながら絶叫した。

 

「ラル! プラウ! ケセナを連れて逃げろ!!」

「嫌だ! グレンさん!!」

 

 ケセナが駆け寄ろうと身を起こすのを見て、グレンはもう一度、自らの命を削るように声を荒げる。

 

「いいから行けぇっ!!」

 

 グレンはツェヴァンの連撃を必死に弾き返し、自らの血塗れの身体を盾にして路地を塞ぐ。

 その絶叫を聞き、ラルは突風を巻き起こしてツェヴァンの視界を一瞬だけ遮った。

 

「ケセナ、早く!」

 

 ラルが必死に叫ぶ。

 彼に触れて引っ張ることができない以上、ラルとプラークルウが前を走り、ケセナがその後を追うしかない。

 背後で激しい剣戟の音と雷鳴が轟く。

 ケセナは何度も振り返りそうになる首を無理やり前へ向け、息がちぎれるほど裏通りを走った。

 

「逃げろたって、どこに行けばいいんですかぁ!!」

 

 走りながら、プラークルウが半泣きで悲鳴を上げる。

 

「とにかく、遠く!」

 

 ラルが叫び返す。

 だが、この見知らぬ迷路のような要塞都市で、当てもなく逃げ切れるはずがない。兵士に見つかれば終わりだ。

 その刹那、ケセナの脳裏に、かつてのジェグヌの風景が掠めた。

 

 オウセイの記憶だ。

 中継要塞都市ジェグヌ。

 切り立った崖。

 絶え間なく荒れ狂う海。

 

(ある……!)

 

「待って! いい場所がある!」

 

 ケセナの叫びに、前を走っていたラルとプラークルウが振り返った。

 

「「え? どこ!」」

 

 二人の声が見事に重なる。

 

「この街の西側、海に面した絶壁に洞窟があるんだ! 海からは波が荒くて入れないし、陸からは道がないから、多分、今の人たちは誰も知らない!」

 

 それは五千星霜前、オウセイがまだ『殺人鬼』として世界中から恐れられ、追われていた頃に身を潜めていた隠れ家だった。

 オウセイの記憶が、ケセナの脳内へ正確な地図を描き出す。

 

「こっちだ!」

 

 今度はケセナが先頭に立ち、西の崖を目指して駆け出した。

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