兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「な、なんだよ急に……」
戸惑うガイアを前に、ラルは風を纏わせたまま、氷のように冷たい声で言い放った。
「彼に、触らないで」
その声には、剥き出しの敵意と拒絶が滲んでいた。
ガイアの表情から笑みが消える。
その視線の先で、ケセナは自分の両腕を抱き締め、小刻みに震えていた。
「触るなって、どういうことだ。俺はただ……」
怯えているなら、肩を叩いて笑い飛ばしてやればいい。
以前の自分なら、そうしていた。
それを止められた意味が分からない。
分からないまま、かつてと同じように手が動いていた。
ガイアは風の壁を押し退けるように、一歩踏み出した。
そのまま、ケセナの肩へ手を伸ばす。
「やめてっ!」
ラルの悲痛な制止が届くより早く、ガイアの大きく温かい手が、ケセナの肩に触れた。
ケセナの喉から、奇妙に引き攣った音が漏れる。
次の瞬間、琥珀色の瞳からすうっと光が消えた。
全身が激しく痙攣し、その場へ崩れ落ちる。
「なっ……おい、ファル!?」
ガイアが目を見開いた直後、ケセナの腰袋が眩い光を放った。
「離れなさい、ガイア・ゾルディクス!!」
光の中から姿を現したプラークルウが、これまで一度も見せたことのない怒気を含んだ声で叫ぶ。
「な、なんだ、これは……」
ただ肩に触れただけ。
ガイアにとっては、本当にそれだけだった。
だがケセナは呼吸を乱し、地面に蹲りながら、怯えきった顔で自らの腕を掻きむしっている。
その姿を前に、ガイアは驚愕に目を見開いたまま、伸ばした手を震わせた。
「街に流れた噂を、知っているでしょう!」
プラークルウが叫ぶと、ラルが風を纏わせたままガイアの腕を掴み、強引にケセナから引き離した。
逞しい身体がたたらを踏む。
「離れて。それ以上は、あたしが許さない」
ラルは震えるケセナを背中で庇い、改めてガイアを睨みつけた。
「癒えたんじゃねぇのか?」
「癒えるはずがない。あれは嘘。ケセナは『触れられること』を、怖れてる」
ラルの峻烈な言葉を受け、ガイアは自分の手を見下ろしたまま動けなくなる。
洞窟には、荒波の音だけが響いていた。
ガイアの脳裏に蘇ったのは、共に過ごした五星霜と、戦禍の記憶だった。
グレンの家にやって来た、全身傷だらけの幼い子供。
金の髪と、紅い瞳がひどく印象に残っていた。
言葉も、まともな歩き方さえも知らないその子に手を伸ばせば、決まって身体を硬直させ、魂が抜け落ちたような怯えを見せた。
それでもガイアは、いつか笑わせてやるつもりだった。
戦場では、近づくことすら許されなかった。
グレンに何度も止められた。
あいつに触れるな。
絶対に近づくな、と。
敵であろうと味方であろうと、彼に触れた者は、膨大な魔力によって放たれた四大魔術の渦に呑み込まれた。
感情を失い、声すら上げないファルイーアは、その惨状を見ることもなく、ただ立ち尽くしていた。
そんなファルイーアが、つい先ほど、自分に向けて和らいだ表情を見せた。
だからガイアは、どこかで安堵していた。
あの地獄は終わったのだと。
彼はそこから抜け出したのだと。
だが、違った。
触れられることへの恐怖は、記憶を取り戻した今、むしろ剥き出しの傷口になっていた。
感情を取り戻した分、それは他者への攻撃ではなく、自らを傷つける行為となって現れ、呼吸を奪い、皮膚を掻きむしらせる。
目の前にいる弟分は、癒えぬ傷を抱えたまま、ここまで歩いてきたのだ。
それを悟ったガイアは、奥歯を血が滲むほど噛み締め、その場へ腰を落とした。
手を伸ばせば、壊す。
声をかけても、今は届かない。
ガイアは、ただ待つしかなかった。
どれほどの刻が過ぎたのか。
壁に背を預け、膝を抱え込んでいたケセナが、ようやく乱れた呼吸を落ち着かせる。
腕には、自ら掻きむしった赤い痕が残っていた。
ガイアが、苦渋を滲ませた顔で口を開く。
「悪かった。具合が悪かったんじゃなかったんだな……」
「俺も、真っ先に言うべきだった。ごめん……」
ケセナが力なく首を振ると、ガイアは自分の赤い髪を乱暴にかき回した。
「謝るな。しゃーねぇだろ、こんなの」
それから、ケセナからあえて視線を逸らすように、ラルとプラークルウを見る。
「嬢ちゃん。それに剣精。よく、このどうしようもない奴を見捨てずに、ここまで連れてきてくれたな」
「……え?」
突然の労いに、ラルが目を瞬かせる。
「ちょっと。どうしようもない奴って、酷くない?」
ケセナが思わず口を挟むと、ガイアは意地悪く笑った。
「うるせぇ。お前は昔から面倒くさいんだよ」
「うぐっ……」
容赦のない物言いに、ケセナは言葉を詰まらせた。
その乱暴さは、自分を腫れ物として扱っていない証でもある。
嬉しくはあったが、素直に喜ぶには複雑だった。
「面倒くさい奴で悪かったな」
「そうそう。自覚は大事だぜ」
ケセナが不貞腐れて零すと、ガイアは声を上げて笑う。
ラルとプラークルウも、そんな二人のやり取りに笑みを浮かべていた。
だが、ガイアの顔つきが、すっと引き締まる。
「で。冗談はここまでだ。これから、どうすんだ?」
ラルが身を乗り出し、即答した。
「先生を助けなきゃ」
「そうだよ。グレンさんを助けに戻らないと」
ケセナも同調し、壁に手をつきながら立ち上がる。
服を軽く叩き、付着した砂を払った。
しかし、ガイアは重々しく首を横に振る。
「相手は、あのツェヴァン爺さんだぞ。無理無理」
「でも!」
「お前らが行ったところで、足手纏いになるだけだ」
突きつけられた冷酷な現実に、ケセナは奥歯を噛み締める。
重い沈黙の中、ガイアの視線がプラークルウへ向いた。
「おい、剣精。なんか案はねぇのか?」
「……」
プラークルウは目を伏せたまま、答えない。
ガイアがさらに一歩踏み込む。
「お前、歴代の応龍皇帝に仕えてきた最強の剣精なんだろ。あの化け物爺さんを出し抜く手くらい、なんかあんだろ」
その問いに、プラークルウはしばらく沈黙し、やがて決意したように顔を上げた。
「私は、作戦の引き出し係ではありません……」
そこで一拍置く。
「でも、一つだけ。あの『青龍』の弱みなら、知っています」
三人が、ほぼ同刻に息を呑んだ。
長い沈黙の後、プラークルウは厳かに告げる。
「虫、です……」
洞窟の空気が、ぴたりと止まった。
全員の思考が、束の間、完全に停止する。
そして、最初に堪えきれなくなったのはガイアだった。
「ぶっ……おまっ、嘘だろ!」
「そ、それは俺もちょっ……ぷくくっ」
「ふふっ……くくっ……」
ガイアが吹き出し、ケセナも肩を震わせ、ラルでさえ口元を押さえて笑いを堪えきれない。
「つーか、あの厳つい爺さんが虫嫌い!?」
「本当ですよ! 昔、応龍の宮殿にでっかい百足が出た刻なんて、半泣きで悲鳴を上げながら走り回ってたんですから!」
プラークルウが得意げに胸を張る。
「想像したくもねぇわ!!」
ひとしきり笑いが広がった後、ガイアがすっと真顔に戻った。
「で。絶望的に役に立たねぇ情報だな」
「えっ?」
プラークルウの目が丸くなる。
「だから、どうやって虫を、あの爺さんの手に握らせるんだよ。考えろ、この豆粒」
「うっ……」
プラークルウが一息に縮こまり、洞窟の中へ再び重い空気が戻ってきた。
「とりあえず、様子を見に――」
「待って、ケセナ」
いたたまれなくなって立ち上がろうとしたケセナを、ラルが引き止めた。
「あたしが行く」
「ラル?」
「ガイア族長は目立ち過ぎる。ケセナは外へ出るだけで危ない。プラウはケセナの側を離れちゃ駄目」
紫の瞳が、真っ直ぐにケセナを見据える。
「だから、行くのはあたし」
理路整然と、揺るぎなく言い切った。
「駄目だよ! ラルだって危険だろ! もしツェヴァンに見つかったら……!」
「あたしだって、先生の弟子」
ラルは一歩も引かない。
「逃げるだけなら、誰にも負けない」
「でも……!」
押し問答を続ける二人を、ガイアは腕を組み、壁にもたれながら見比べていた。
そして、やれやれと言いたげに長い溜息をつく。
「お前ら、本当に仲いいな……」
呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声だった。
そのまま、ラルへ視線を向ける。
「嬢ちゃん。偵察、頼めるか?」
「任せて」
ラルが力強く頷いた。
「ガイア! ラルを一人で行かせるなんて……!」
なおも食い下がるケセナだったが、もう決定は覆らない。
ラルもガイアも、既に覚悟を決めた顔をしていた。
まただ。
自分だけが残される。
守りたい相手を、危険な場所へ送り出すことしかできない。
ケセナは洞窟の暗がりへ座り込んだまま、悔しさに唇を噛み締めるしかなかった。