兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第三十九話 癒えぬ傷口

「な、なんだよ急に……」

 

 戸惑うガイアを前に、ラルは風を纏わせたまま、氷のように冷たい声で言い放った。

 

「彼に、触らないで」

 

 その声には、剥き出しの敵意と拒絶が滲んでいた。

 ガイアの表情から笑みが消える。

 その視線の先で、ケセナは自分の両腕を抱き締め、小刻みに震えていた。

 

「触るなって、どういうことだ。俺はただ……」

 

 怯えているなら、肩を叩いて笑い飛ばしてやればいい。

 以前の自分なら、そうしていた。

 それを止められた意味が分からない。

 分からないまま、かつてと同じように手が動いていた。

 

 ガイアは風の壁を押し退けるように、一歩踏み出した。

 そのまま、ケセナの肩へ手を伸ばす。

 

「やめてっ!」

 

 ラルの悲痛な制止が届くより早く、ガイアの大きく温かい手が、ケセナの肩に触れた。

 ケセナの喉から、奇妙に引き攣った音が漏れる。

 次の瞬間、琥珀色の瞳からすうっと光が消えた。

 全身が激しく痙攣し、その場へ崩れ落ちる。

 

「なっ……おい、ファル!?」

 

 ガイアが目を見開いた直後、ケセナの腰袋が眩い光を放った。

 

「離れなさい、ガイア・ゾルディクス!!」

 

 光の中から姿を現したプラークルウが、これまで一度も見せたことのない怒気を含んだ声で叫ぶ。

 

「な、なんだ、これは……」

 

 ただ肩に触れただけ。

 ガイアにとっては、本当にそれだけだった。

 だがケセナは呼吸を乱し、地面に蹲りながら、怯えきった顔で自らの腕を掻きむしっている。

 その姿を前に、ガイアは驚愕に目を見開いたまま、伸ばした手を震わせた。

 

「街に流れた噂を、知っているでしょう!」

 

 プラークルウが叫ぶと、ラルが風を纏わせたままガイアの腕を掴み、強引にケセナから引き離した。

 逞しい身体がたたらを踏む。

 

「離れて。それ以上は、あたしが許さない」

 

 ラルは震えるケセナを背中で庇い、改めてガイアを睨みつけた。

 

「癒えたんじゃねぇのか?」

「癒えるはずがない。あれは嘘。ケセナは『触れられること』を、怖れてる」

 

 ラルの峻烈な言葉を受け、ガイアは自分の手を見下ろしたまま動けなくなる。

 洞窟には、荒波の音だけが響いていた。

 

 ガイアの脳裏に蘇ったのは、共に過ごした五星霜と、戦禍の記憶だった。

 

 グレンの家にやって来た、全身傷だらけの幼い子供。

 金の髪と、紅い瞳がひどく印象に残っていた。

 言葉も、まともな歩き方さえも知らないその子に手を伸ばせば、決まって身体を硬直させ、魂が抜け落ちたような怯えを見せた。

 それでもガイアは、いつか笑わせてやるつもりだった。

 

 戦場では、近づくことすら許されなかった。

 グレンに何度も止められた。

 

 あいつに触れるな。

 絶対に近づくな、と。

 

 敵であろうと味方であろうと、彼に触れた者は、膨大な魔力によって放たれた四大魔術の渦に呑み込まれた。

 感情を失い、声すら上げないファルイーアは、その惨状を見ることもなく、ただ立ち尽くしていた。

 

 そんなファルイーアが、つい先ほど、自分に向けて和らいだ表情を見せた。

 だからガイアは、どこかで安堵していた。

 あの地獄は終わったのだと。

 彼はそこから抜け出したのだと。

 

 だが、違った。

 

 触れられることへの恐怖は、記憶を取り戻した今、むしろ剥き出しの傷口になっていた。

 感情を取り戻した分、それは他者への攻撃ではなく、自らを傷つける行為となって現れ、呼吸を奪い、皮膚を掻きむしらせる。

 

 目の前にいる弟分は、癒えぬ傷を抱えたまま、ここまで歩いてきたのだ。

 

 それを悟ったガイアは、奥歯を血が滲むほど噛み締め、その場へ腰を落とした。

 

 手を伸ばせば、壊す。

 声をかけても、今は届かない。

 

 ガイアは、ただ待つしかなかった。

 

 どれほどの刻が過ぎたのか。

 

 壁に背を預け、膝を抱え込んでいたケセナが、ようやく乱れた呼吸を落ち着かせる。

 腕には、自ら掻きむしった赤い痕が残っていた。

 

 ガイアが、苦渋を滲ませた顔で口を開く。

 

「悪かった。具合が悪かったんじゃなかったんだな……」

「俺も、真っ先に言うべきだった。ごめん……」

 

 ケセナが力なく首を振ると、ガイアは自分の赤い髪を乱暴にかき回した。

 

「謝るな。しゃーねぇだろ、こんなの」

 

 それから、ケセナからあえて視線を逸らすように、ラルとプラークルウを見る。

 

「嬢ちゃん。それに剣精。よく、このどうしようもない奴を見捨てずに、ここまで連れてきてくれたな」

「……え?」

 

 突然の労いに、ラルが目を瞬かせる。

 

「ちょっと。どうしようもない奴って、酷くない?」

 

 ケセナが思わず口を挟むと、ガイアは意地悪く笑った。

 

「うるせぇ。お前は昔から面倒くさいんだよ」

「うぐっ……」

 

 容赦のない物言いに、ケセナは言葉を詰まらせた。

 その乱暴さは、自分を腫れ物として扱っていない証でもある。

 嬉しくはあったが、素直に喜ぶには複雑だった。

 

「面倒くさい奴で悪かったな」

「そうそう。自覚は大事だぜ」

 

 ケセナが不貞腐れて零すと、ガイアは声を上げて笑う。

 ラルとプラークルウも、そんな二人のやり取りに笑みを浮かべていた。

 

 だが、ガイアの顔つきが、すっと引き締まる。

 

「で。冗談はここまでだ。これから、どうすんだ?」

 

 ラルが身を乗り出し、即答した。

 

「先生を助けなきゃ」

「そうだよ。グレンさんを助けに戻らないと」

 

 ケセナも同調し、壁に手をつきながら立ち上がる。

 服を軽く叩き、付着した砂を払った。

 しかし、ガイアは重々しく首を横に振る。

 

「相手は、あのツェヴァン爺さんだぞ。無理無理」

「でも!」

「お前らが行ったところで、足手纏いになるだけだ」

 

 突きつけられた冷酷な現実に、ケセナは奥歯を噛み締める。

 重い沈黙の中、ガイアの視線がプラークルウへ向いた。

 

「おい、剣精。なんか案はねぇのか?」

「……」

 

 プラークルウは目を伏せたまま、答えない。

 ガイアがさらに一歩踏み込む。

 

「お前、歴代の応龍皇帝に仕えてきた最強の剣精なんだろ。あの化け物爺さんを出し抜く手くらい、なんかあんだろ」

 

 その問いに、プラークルウはしばらく沈黙し、やがて決意したように顔を上げた。

 

「私は、作戦の引き出し係ではありません……」

 

 そこで一拍置く。

 

「でも、一つだけ。あの『青龍』の弱みなら、知っています」

 

 三人が、ほぼ同刻に息を呑んだ。

 長い沈黙の後、プラークルウは厳かに告げる。

 

「虫、です……」

 

 洞窟の空気が、ぴたりと止まった。

 全員の思考が、束の間、完全に停止する。

 そして、最初に堪えきれなくなったのはガイアだった。

 

「ぶっ……おまっ、嘘だろ!」

「そ、それは俺もちょっ……ぷくくっ」

「ふふっ……くくっ……」

 

 ガイアが吹き出し、ケセナも肩を震わせ、ラルでさえ口元を押さえて笑いを堪えきれない。

 

「つーか、あの厳つい爺さんが虫嫌い!?」

「本当ですよ! 昔、応龍の宮殿にでっかい百足が出た刻なんて、半泣きで悲鳴を上げながら走り回ってたんですから!」

 

 プラークルウが得意げに胸を張る。

 

「想像したくもねぇわ!!」

 

 ひとしきり笑いが広がった後、ガイアがすっと真顔に戻った。

 

「で。絶望的に役に立たねぇ情報だな」

「えっ?」

 

 プラークルウの目が丸くなる。

 

「だから、どうやって虫を、あの爺さんの手に握らせるんだよ。考えろ、この豆粒」

「うっ……」

 

 プラークルウが一息に縮こまり、洞窟の中へ再び重い空気が戻ってきた。

 

「とりあえず、様子を見に――」

「待って、ケセナ」

 

 いたたまれなくなって立ち上がろうとしたケセナを、ラルが引き止めた。

 

「あたしが行く」

「ラル?」

「ガイア族長は目立ち過ぎる。ケセナは外へ出るだけで危ない。プラウはケセナの側を離れちゃ駄目」

 

 紫の瞳が、真っ直ぐにケセナを見据える。

 

「だから、行くのはあたし」

 

 理路整然と、揺るぎなく言い切った。

 

「駄目だよ! ラルだって危険だろ! もしツェヴァンに見つかったら……!」

「あたしだって、先生の弟子」

 

 ラルは一歩も引かない。

 

「逃げるだけなら、誰にも負けない」

「でも……!」

 

 押し問答を続ける二人を、ガイアは腕を組み、壁にもたれながら見比べていた。

 そして、やれやれと言いたげに長い溜息をつく。

 

「お前ら、本当に仲いいな……」

 

 呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声だった。

 そのまま、ラルへ視線を向ける。

 

「嬢ちゃん。偵察、頼めるか?」

「任せて」

 

 ラルが力強く頷いた。

 

「ガイア! ラルを一人で行かせるなんて……!」

 

 なおも食い下がるケセナだったが、もう決定は覆らない。

 ラルもガイアも、既に覚悟を決めた顔をしていた。

 

 まただ。

 自分だけが残される。

 

 守りたい相手を、危険な場所へ送り出すことしかできない。

 

 ケセナは洞窟の暗がりへ座り込んだまま、悔しさに唇を噛み締めるしかなかった。

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