兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
人が行き交う中継要塞都市の大通りを、ケセナは亡霊のように歩いていた。
そこは本来なら、絶対に避けるべき場所だ。けれどこの刻のケセナには、『裏道に隠れる』という冷静な判断すら残っていなかった。ただ、『みんなを探さなければ』という焦燥だけが、限界を迎えた身体を無理やり動かしている。
すれ違う人々が近くを通るたび、心臓が張り裂けそうなほど早鐘を打つ。
(怖い……っ)
誰かの腕が揺れ、視線が向くたび、その『手』が自分に向かって伸びてきそうで、恐ろしくて堪らない。吐き気が込み上げ、視界がぐらぐらと揺れた。
「大丈夫かい?」
すぐ近くで、声がした。
あまりにも顔色が悪く、今にも倒れそうにふらついているケセナを見かねて、声をかけてきた者がいたのだ。限界に近いケセナの目は霞んでおり、相手の姿はよく見えない。だが、その声の高さと柔らかい響きから、女性であることだけは分かった。
「だ、大丈夫、です……」
ひゅっと引き攣る喉から、どうにかそれだけを絞り出す。
しかし、相手は離れてはくれなかった。
「大丈夫そうには見えないけどね」
女は、くすりと小さく笑った。
ケセナは重い瞼を無理やり押し上げ、目の前の女を見ようと必死に目を凝らした。霞む視界の中に映ったのは、プラークルウの銀髪とは違う、冷たく透き通るような白銀の髪と、氷のように冷たい青い瞳を持つ女だった。
「おいで。少し休むといい」
女が、ゆっくりと手を差し出してくる。
その『手』を見たその刻、恐怖で限界まで張り詰めていた心臓が、痛みを伴って大きく跳ねた。
喉が閉じる。胸が軋む。焦りだけが膨れ上がる。
(――駄目だ)
絶望と接触の恐怖に耐えきれず、自己防衛のために脳が強制的に機能を停止したかのように、ケセナはそのまま意識を手放し、女の腕の中へ崩れ落ちた。
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意識が急速に浮上し、ケセナは弾かれたように飛び起きようとした。
「っ……!?」
起き上がれなかった。
両手と両足に、鈍く重い違和感がある。慌てて視線を向けると、四肢を寝台の支柱へと固く縛りつける、木製の拘束具が嵌められていた。
(なんだ、これ……こんなもの、魔術で――)
即座に魔力を練り上げ、破壊しようとする。
だが、身体の奥底から引き出しかけた力は、拘束具に触れた途端に霧散し、まるで発動しなかった。
「ちっ……『精霊捕縛』か」
思わず、ケセナの口から舌打ちと、苛立ちの滲む呟きが零れる。
「御明察。流石だね」
入口から声が降ってきた。
顔を向けると、そこには先ほどの白銀の髪を持つ女が立ち、こちらを青い瞳で見据えていた。その表情は氷のように冷たい。だが、ケセナの奥底に眠るオウセイの記憶が、はっきりとその顔を覚えており、無意識のうちに名前が滑り出た。
「白虎族長、レイア・ファンサル……」
「おや、私を知っていたのか? ――化け物」
明確な侮蔑の込められたその呼び方に、ケセナは何も返さず、ただ黙って彼女を見た。
「まあいいさ。大人しくしていてくれ」
レイアは淡々と言い放つ。
「お前を陛下に献上すれば、我が一族の立場は安泰だからね。逃げようなんて考えない方がいい。精霊の力を封じるその拘束具は、私にしか外せない」
それだけ告げると、レイアは踵を返し、木扉の向こうへ消えていった。
拘束具を信じ切っているのか、それとも外にも兵を控えさせているのか。
扉の向こうには、複数の気配が沈黙したまま立っていた。
ケセナは部屋を見回した。
ごく普通の部屋だ。四肢を繋ぐ拘束具以外に、これといった仕掛けは見当たらない。
白虎族が対魔術師用に保有する捕縛具だろう。
オウセイの記憶が、その用途を即座に理解していた。
どうにか抜け出そうと足掻くが、木製の拘束具はぴくりとも動かず、手首や足首の皮膚が擦れて血が滲むばかりだった。魔力も使えない。力任せにも外せない。レイアの言葉は真実だった。
(ああ、もう探しにすら行けない――)
ゆっくりと俯いた、その直後。
絶望の底に沈んだ『ケセナ』と入れ替わるようにして、泥濘のような深淵から静かに呼び覚まされたものがあった。
圧倒的な魔力を誇り、ただ命じられるままに破壊を撒き散らした兵器。
感情を持たず、痛みすら理解しない『ファルイーア』。
「…………」
琥珀色の瞳が開く。
そこに、ケセナの柔らかい光はない。オウセイの冷えた理性もない。あるのは、生命の灯が消えたような空虚だけだった。
眼前の障害を排除する。
その衝動だけが、この状態の彼を動かしていた。
寝台に縛りつけられた両手両足から、ぎしぎしと嫌な音が鳴り始める。
絶対に外れないはずの特注の拘束具を、ファルイーアは『内側』から破壊しようとしていた。
それは、彼自身が戦場で編み出した力の使い方だった。
本来は絶対的な防御を誇る応龍族の『守護の壁』。その術式を、拘束具と皮膚の間にあるわずかな隙間へ極限まで圧縮し、一気に外側へ膨張させる。
鼓膜を叩く轟音とともに、四肢を拘束していた木枠が内側から爆ぜた。
木片が飛び散る。
当然、その反動は術者自身にも牙を剥いた。
手首と足首の肉は大きく抉れ、過剰な摩擦と熱によって皮膚は黒く焦げついている。
だが、ファルイーアは一切それを気にしない。
表情一つ動かさず、砕け散った拘束具を無感動に見下ろす。
ぽた、ぽた、と。
抉れ、焼け焦げた傷口から、血が床へ滴る。
ファルイーアはそのまま、ゆっくりと寝台から降り立った。
裸足が冷たい床を踏む。自分の血の海を踏みしめている自覚すらない。
そして、空洞のような瞳を虚空へ向けたまま、己の奥底に眠る最大魔力を、無制限に解放し始める。
部屋の空気がびりびりと震える。
凄まじい密度の魔力が暴風となって渦を巻いた。
扉の向こうで、慌ただしい足音が走る。
それすら、ファルイーアの耳には届いていなかった。
それはまさに、かつて世界を絶望の底に突き落とした兵器の起動そのものだった。
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迷路のような路地裏を走っていたラルが、弾かれたように足を止めた。
「っ……!」
肌を刺すような悪寒。
大気そのものが悲鳴を上げている。
ラルには聞こえた。
自然界に漂う無数の精霊たちが、意思を強制的に捩じ曲げられ、一点へ収束させられ、次々に『消えていく』断末魔が。
(――ケセナの魔術!)
一夜前のものとは比べ物にならない。
街全体を揺るがすほど、巨大で禍々しい魔力の波動だった。
ラルは即座に踵を返し、精霊たちが吸い込まれていく『中心』へ向かって全速力で駆け出した。
「ラル!?」
後方から猛追してきていたグレンとすれ違う。
だが、説明している暇などなかった。
「駄目、ケセナ……!」
祈るような呟きが口から漏れる。
あんな規模で精霊を無理やり従わせれば、魔法に搾り取られた折と同じように、精霊が死ぬかもしれない。ただでさえ限界を迎えているケセナ自身の器も、今度こそ完全に壊れてしまう。
「駄目っ!!!」
ラルは心臓が破れそうな思いで石畳を蹴った。
そのただならぬ様子に事態の深刻さを察したグレンと、上空を跳ぶガイアも、一直線にラルの背中を追う。
辿り着いたのは、街の南側に位置する、高い石壁に囲まれた豪奢な屋敷だった。
屋根伝いに到着したガイアが、眼下の紋章を見て苦々しく顔を歪める。
「マジかよ。よりによって、レイアの別宅かよ……」
白虎族長レイア・ファンサルの拠点。
なぜケセナがそんな場所にいるのか、ガイアはすぐに勘づいた。
(捕まったのか……! 『無慈悲の慈愛』に……っ)
勅令を受け取ったのは四獣の族長だ。
白虎族長レイアがファルイーア捜索に乗り出していても不思議ではない。
だが、ラルにはそんなことはどうでもよかった。
そこにケセナがいる。それだけで十分だった。
ラルは足を止めることなく、固く閉ざされた重い鉄格子の門へ両手を突き出す。
「邪魔っ!!」
小柄な身体から、爆発的な風の魔術が放たれる。
轟音が響き、強固なはずの門がひしゃげ、凄まじい勢いで内側へ吹き飛んだ。
ラルは、門の残骸が土煙を上げて崩れ落ちるよりも早く、その隙間を縫うように敷地内へ飛び込んだ。
中心へ。
精霊が泣き叫ぶ、その中心へ。
だが。
彼女の願いも虚しく、その刻は訪れた。
視界のすべてが、音もなく圧倒的な『白』に塗り潰された。
屋敷の奥から、膨大な光が溢れ出したのだ。
ケセナではない。
感情を失った兵器『ファルイーア』が、破壊の術式を編み終え、最大魔術を解き放った光だった。
「ラル!!!」
すべてを呑み込む白光と衝撃波が押し寄せる直前。
背後から飛び込んできたグレンの太い腕がラルを強引に引き寄せ、その小さな身体を庇うように、きつく抱き締めた。
圧倒的な白光。
凄まじい暴風。
極寒の冷気と、肌を焦がす熱波が狂ったように入り乱れる。
抉り取られた破片が、凶悪な礫となってグレンの背中へ叩きつけられた。
(ラル……っ!)
これは、耐えきれない。
それでもグレンは、腕の中にいる愛弟子だけは何がなんでも守り抜くと、己の巨体でラルを覆い隠した。
激痛が走る。
だが、それもすぐに遠のいていく。
耳鳴りがすべての音を奪い去り、背中を引き裂くような痛みさえ薄れていった。
自分はきっと、ここで死ぬのだろう。
(最後に、あいつに……)
薄れゆく意識の中で、グレンの脳裏に浮かんだのは、ただ一つの後悔だった。
彼を兵器として扱ってしまったこと。この刻もなお、一人で苦しませてしまっていること。
最後に、ケセナへ謝りたかった。
嵐が嘘のように止み、不気味な静寂が訪れた。
腕の中には、確かな温もりが残っている。
ああ、ラルは助けられたのだ。
その事実に安堵し、グレンは最後に愛弟子の顔を見ようと、死を覚悟した黒い双眸をゆっくりと開いた。
だが。
腕の中で顔を上げたラルの表情は、安堵でも悲しみでもなかった。
ただ、底知れない『絶望』に満ちていた。
瞳孔は極限まで開き、声にならない悲鳴を上げるように口だけがぱくぱくと動いている。
その視線は、グレンではなく、グレンの背後――静まり返った屋敷の奥の『一点』に縫いつけられていた。
「ラル……?」
ただ事ではない。
その異様さに、グレンはゆっくりと彼女の視線の先へ顔を向けた。
土煙の晴れた先。
そこには、最大魔術を発動させたはずのケセナが、崩れ落ちることなく立っていた。
その両脇には、彼を縫い止めるように二人の人物が並んでいる。
一人は、白銀の髪を持つ白虎族長レイア・ファンサル。
そしてもう一人は、一夜前グレンと死闘を繰り広げた、師にして青龍族長ツェヴァン・ロン。
二人の達人の手によって、深々と。
空洞のように虚ろな瞳をしたその細い身体へ、レイアが背から、そしてツェヴァンが腹から、十文字に刃を突き立てていた。
交差した傷口から、止めどなく赤い液体が溢れ落ちる。
「ファルイーア!!!!!」
血を吐くようなグレンの絶叫が、静まり返った街に木霊した。