兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第四十七話 白虎の檻

 人が行き交う中継要塞都市の大通りを、ケセナは亡霊のように歩いていた。

 

 そこは本来なら、絶対に避けるべき場所だ。けれどこの刻のケセナには、『裏道に隠れる』という冷静な判断すら残っていなかった。ただ、『みんなを探さなければ』という焦燥だけが、限界を迎えた身体を無理やり動かしている。

 すれ違う人々が近くを通るたび、心臓が張り裂けそうなほど早鐘を打つ。

 

(怖い……っ)

 

 誰かの腕が揺れ、視線が向くたび、その『手』が自分に向かって伸びてきそうで、恐ろしくて堪らない。吐き気が込み上げ、視界がぐらぐらと揺れた。

 

「大丈夫かい?」

 

 すぐ近くで、声がした。

 

 あまりにも顔色が悪く、今にも倒れそうにふらついているケセナを見かねて、声をかけてきた者がいたのだ。限界に近いケセナの目は霞んでおり、相手の姿はよく見えない。だが、その声の高さと柔らかい響きから、女性であることだけは分かった。

 

「だ、大丈夫、です……」

 

 ひゅっと引き攣る喉から、どうにかそれだけを絞り出す。

 しかし、相手は離れてはくれなかった。

 

「大丈夫そうには見えないけどね」

 

 女は、くすりと小さく笑った。

 ケセナは重い瞼を無理やり押し上げ、目の前の女を見ようと必死に目を凝らした。霞む視界の中に映ったのは、プラークルウの銀髪とは違う、冷たく透き通るような白銀の髪と、氷のように冷たい青い瞳を持つ女だった。

 

「おいで。少し休むといい」

 

 女が、ゆっくりと手を差し出してくる。

 その『手』を見たその刻、恐怖で限界まで張り詰めていた心臓が、痛みを伴って大きく跳ねた。

 喉が閉じる。胸が軋む。焦りだけが膨れ上がる。

 

(――駄目だ)

 

 絶望と接触の恐怖に耐えきれず、自己防衛のために脳が強制的に機能を停止したかのように、ケセナはそのまま意識を手放し、女の腕の中へ崩れ落ちた。

 

 ------

 

 意識が急速に浮上し、ケセナは弾かれたように飛び起きようとした。

 

「っ……!?」

 

 起き上がれなかった。

 両手と両足に、鈍く重い違和感がある。慌てて視線を向けると、四肢を寝台の支柱へと固く縛りつける、木製の拘束具が嵌められていた。

 

(なんだ、これ……こんなもの、魔術で――)

 

 即座に魔力を練り上げ、破壊しようとする。

 だが、身体の奥底から引き出しかけた力は、拘束具に触れた途端に霧散し、まるで発動しなかった。

 

「ちっ……『精霊捕縛』か」

 

 思わず、ケセナの口から舌打ちと、苛立ちの滲む呟きが零れる。

 

「御明察。流石だね」

 

 入口から声が降ってきた。

 顔を向けると、そこには先ほどの白銀の髪を持つ女が立ち、こちらを青い瞳で見据えていた。その表情は氷のように冷たい。だが、ケセナの奥底に眠るオウセイの記憶が、はっきりとその顔を覚えており、無意識のうちに名前が滑り出た。

 

「白虎族長、レイア・ファンサル……」

「おや、私を知っていたのか? ――化け物」

 

 明確な侮蔑の込められたその呼び方に、ケセナは何も返さず、ただ黙って彼女を見た。

 

「まあいいさ。大人しくしていてくれ」

 

 レイアは淡々と言い放つ。

 

「お前を陛下に献上すれば、我が一族の立場は安泰だからね。逃げようなんて考えない方がいい。精霊の力を封じるその拘束具は、私にしか外せない」

 

 それだけ告げると、レイアは踵を返し、木扉の向こうへ消えていった。

 拘束具を信じ切っているのか、それとも外にも兵を控えさせているのか。

 扉の向こうには、複数の気配が沈黙したまま立っていた。

 

 ケセナは部屋を見回した。

 ごく普通の部屋だ。四肢を繋ぐ拘束具以外に、これといった仕掛けは見当たらない。

 白虎族が対魔術師用に保有する捕縛具だろう。

 オウセイの記憶が、その用途を即座に理解していた。

 

 どうにか抜け出そうと足掻くが、木製の拘束具はぴくりとも動かず、手首や足首の皮膚が擦れて血が滲むばかりだった。魔力も使えない。力任せにも外せない。レイアの言葉は真実だった。

 

(ああ、もう探しにすら行けない――)

 

 ゆっくりと俯いた、その直後。

 

 絶望の底に沈んだ『ケセナ』と入れ替わるようにして、泥濘のような深淵から静かに呼び覚まされたものがあった。

 圧倒的な魔力を誇り、ただ命じられるままに破壊を撒き散らした兵器。

 感情を持たず、痛みすら理解しない『ファルイーア』。

 

「…………」

 

 琥珀色の瞳が開く。

 そこに、ケセナの柔らかい光はない。オウセイの冷えた理性もない。あるのは、生命の灯が消えたような空虚だけだった。

 

 眼前の障害を排除する。

 その衝動だけが、この状態の彼を動かしていた。

 

 寝台に縛りつけられた両手両足から、ぎしぎしと嫌な音が鳴り始める。

 絶対に外れないはずの特注の拘束具を、ファルイーアは『内側』から破壊しようとしていた。

 

 それは、彼自身が戦場で編み出した力の使い方だった。

 

 本来は絶対的な防御を誇る応龍族の『守護の壁』。その術式を、拘束具と皮膚の間にあるわずかな隙間へ極限まで圧縮し、一気に外側へ膨張させる。

 

 鼓膜を叩く轟音とともに、四肢を拘束していた木枠が内側から爆ぜた。

 

 木片が飛び散る。

 当然、その反動は術者自身にも牙を剥いた。

 手首と足首の肉は大きく抉れ、過剰な摩擦と熱によって皮膚は黒く焦げついている。

 

 だが、ファルイーアは一切それを気にしない。

 表情一つ動かさず、砕け散った拘束具を無感動に見下ろす。

 

 ぽた、ぽた、と。

 抉れ、焼け焦げた傷口から、血が床へ滴る。

 

 ファルイーアはそのまま、ゆっくりと寝台から降り立った。

 裸足が冷たい床を踏む。自分の血の海を踏みしめている自覚すらない。

 そして、空洞のような瞳を虚空へ向けたまま、己の奥底に眠る最大魔力を、無制限に解放し始める。

 

 部屋の空気がびりびりと震える。

 凄まじい密度の魔力が暴風となって渦を巻いた。

 扉の向こうで、慌ただしい足音が走る。

 それすら、ファルイーアの耳には届いていなかった。

 それはまさに、かつて世界を絶望の底に突き落とした兵器の起動そのものだった。

 

 ------

 

 迷路のような路地裏を走っていたラルが、弾かれたように足を止めた。

 

「っ……!」

 

 肌を刺すような悪寒。

 大気そのものが悲鳴を上げている。

 

 ラルには聞こえた。

 自然界に漂う無数の精霊たちが、意思を強制的に捩じ曲げられ、一点へ収束させられ、次々に『消えていく』断末魔が。

 

(――ケセナの魔術!)

 

 一夜前のものとは比べ物にならない。

 街全体を揺るがすほど、巨大で禍々しい魔力の波動だった。

 ラルは即座に踵を返し、精霊たちが吸い込まれていく『中心』へ向かって全速力で駆け出した。

 

「ラル!?」

 

 後方から猛追してきていたグレンとすれ違う。

 だが、説明している暇などなかった。

 

「駄目、ケセナ……!」

 

 祈るような呟きが口から漏れる。

 あんな規模で精霊を無理やり従わせれば、魔法に搾り取られた折と同じように、精霊が死ぬかもしれない。ただでさえ限界を迎えているケセナ自身の器も、今度こそ完全に壊れてしまう。

 

「駄目っ!!!」

 

 ラルは心臓が破れそうな思いで石畳を蹴った。

 そのただならぬ様子に事態の深刻さを察したグレンと、上空を跳ぶガイアも、一直線にラルの背中を追う。

 

 辿り着いたのは、街の南側に位置する、高い石壁に囲まれた豪奢な屋敷だった。

 屋根伝いに到着したガイアが、眼下の紋章を見て苦々しく顔を歪める。

 

「マジかよ。よりによって、レイアの別宅かよ……」

 

 白虎族長レイア・ファンサルの拠点。

 なぜケセナがそんな場所にいるのか、ガイアはすぐに勘づいた。

 

(捕まったのか……! 『無慈悲の慈愛』に……っ)

 

 勅令を受け取ったのは四獣の族長だ。

 白虎族長レイアがファルイーア捜索に乗り出していても不思議ではない。

 

 だが、ラルにはそんなことはどうでもよかった。

 そこにケセナがいる。それだけで十分だった。

 ラルは足を止めることなく、固く閉ざされた重い鉄格子の門へ両手を突き出す。

 

「邪魔っ!!」

 

 小柄な身体から、爆発的な風の魔術が放たれる。

 轟音が響き、強固なはずの門がひしゃげ、凄まじい勢いで内側へ吹き飛んだ。

 ラルは、門の残骸が土煙を上げて崩れ落ちるよりも早く、その隙間を縫うように敷地内へ飛び込んだ。

 

 中心へ。

 精霊が泣き叫ぶ、その中心へ。

 

 だが。

 

 彼女の願いも虚しく、その刻は訪れた。

 視界のすべてが、音もなく圧倒的な『白』に塗り潰された。

 屋敷の奥から、膨大な光が溢れ出したのだ。

 

 ケセナではない。

 感情を失った兵器『ファルイーア』が、破壊の術式を編み終え、最大魔術を解き放った光だった。

 

「ラル!!!」

 

 すべてを呑み込む白光と衝撃波が押し寄せる直前。

 背後から飛び込んできたグレンの太い腕がラルを強引に引き寄せ、その小さな身体を庇うように、きつく抱き締めた。

 

 圧倒的な白光。

 凄まじい暴風。

 極寒の冷気と、肌を焦がす熱波が狂ったように入り乱れる。

 抉り取られた破片が、凶悪な礫となってグレンの背中へ叩きつけられた。

 

(ラル……っ!)

 

 これは、耐えきれない。

 それでもグレンは、腕の中にいる愛弟子だけは何がなんでも守り抜くと、己の巨体でラルを覆い隠した。

 

 激痛が走る。

 だが、それもすぐに遠のいていく。

 

 耳鳴りがすべての音を奪い去り、背中を引き裂くような痛みさえ薄れていった。

 自分はきっと、ここで死ぬのだろう。

 

(最後に、あいつに……)

 

 薄れゆく意識の中で、グレンの脳裏に浮かんだのは、ただ一つの後悔だった。

 彼を兵器として扱ってしまったこと。この刻もなお、一人で苦しませてしまっていること。

 最後に、ケセナへ謝りたかった。

 

 嵐が嘘のように止み、不気味な静寂が訪れた。

 腕の中には、確かな温もりが残っている。

 

 ああ、ラルは助けられたのだ。

 

 その事実に安堵し、グレンは最後に愛弟子の顔を見ようと、死を覚悟した黒い双眸をゆっくりと開いた。

 

 だが。

 腕の中で顔を上げたラルの表情は、安堵でも悲しみでもなかった。

 ただ、底知れない『絶望』に満ちていた。

 

 瞳孔は極限まで開き、声にならない悲鳴を上げるように口だけがぱくぱくと動いている。

 その視線は、グレンではなく、グレンの背後――静まり返った屋敷の奥の『一点』に縫いつけられていた。

 

「ラル……?」

 

 ただ事ではない。

 その異様さに、グレンはゆっくりと彼女の視線の先へ顔を向けた。

 

 土煙の晴れた先。

 そこには、最大魔術を発動させたはずのケセナが、崩れ落ちることなく立っていた。

 

 その両脇には、彼を縫い止めるように二人の人物が並んでいる。

 一人は、白銀の髪を持つ白虎族長レイア・ファンサル。

 そしてもう一人は、一夜前グレンと死闘を繰り広げた、師にして青龍族長ツェヴァン・ロン。

 

 二人の達人の手によって、深々と。

 空洞のように虚ろな瞳をしたその細い身体へ、レイアが背から、そしてツェヴァンが腹から、十文字に刃を突き立てていた。

 交差した傷口から、止めどなく赤い液体が溢れ落ちる。

 

「ファルイーア!!!!!」

 

 血を吐くようなグレンの絶叫が、静まり返った街に木霊した。

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