兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「どこにいる、ファルイーア」
誰かが、自分を探している。
闇の中へ沈んでいたいという願いすら、叶えてはもらえないのだろうか。
(ああ、そうだ。僕の願いは、何一つ叶わない)
光のある場所は、自分にはない。
否定は無意味。
名は個を表す記号。
それでいい。
自分に、自分なんてない。
生まれてからずっと、切り刻まれていた。
生きたことなんて、一度もなかった。
いつも誰かの人形だった。
感情を隠して、痛みも隠して。
それでも、ただ『生きたい』と心の底で願っていた。
(願ったら、駄目だったんだ……)
自我なんていらなかった。
言葉なんて、知らなければよかった。
記憶の封印なんて、しなければよかった。
あのまま怯えて、『生きる』ことを諦めればよかった。
「ケセナ。どこだ?」
また、誰かが呼んだ。
呼ばないで。
その名まで嫌いになってしまいそうだ。
痛くて、辛くて、逃げ出したあの昼夜、自分につけた嘘の名前。
大好きだった絵本に出てきた、友達の名前。
「――ここにいたのか、ファルイーア」
あの刻と同じ台詞。
ファルイーアは恐る恐る、声のした方へ顔を向けた。
「オウセイ……」
闇の中なのに、なぜか蒼い髪が見えた。
冷え切っていた心が、急速に溶けていく。
どうしてこの人は――
違う。
知っている。
彼がなぜ、自分を助けたのか。
自分の中の応龍を守るためだ。
彼が愛したファミラスを護るために。
結界の一部が欠けないよう、自分という器を失わせないために、彼は魂と魔力を注いだ。
その果てに、彼自身が『不死の呪い』から解き放たれたことも、知っている。
(記憶は全部、僕の中にある)
なのに、オウセイはこうして自我を失わず、自分の前に立っている。
「俺の魂を、お前が繋いだ」
オウセイはそう言って、顔を顰めた。
何を言っているのだろう。
自分の魂に、貴方の魂を繋いだのは、他でもない貴方なのに。
「どうしてこんなことをした……?」
知らない、と言おうとして、ファルイーアは思い出す。
どこかで、自分もまたオウセイを助けたいと願っていたことを。
「その結果、俺はお前の中にいる。今、俺はお前のことがすべて手に取るように分かる。ファルイーア、諦めるな」
諦める?
最初から、諦めるしかない命だったのに。
正統なる皇位後継者などという仰々しい名を押しつけられて、自分が何なのかも分からないのに。
「俺の希望を、お前は知っているはずだ」
ファルイーアは、ああ、と小さく息を吐いた。
奥底で消えずに持ち続けた、たった一つの希望。
それだけが、ファルイーアのすべてだった。
感情を失ってもなお、握り潰さずにいたもの。
そしてオウセイは、それを肯定してくれた。
「知ってます。貴方は俺に、『自分のために生きろ』って、そう言ってくれた」
一瞬で闇が晴れ、真白な空間が広がった。
気づけば、オウセイの姿も消えていた。
同刻に、どこか遠くから、小さな水滴みたいな泣き声と、心を鎮める低い声が聞こえた。
なぜか懐かしいその二つの声に引かれるようにして、ケセナは重い足を前へ出す。
白い靄がケセナを呑み込むが、恐怖はなかった。
ケセナは瞼を下ろし、ゆっくりと押し上げる。
最初に視界へ入ったのは、豪奢な天蓋だった。
(ここは……)
鈍い頭で考えようとした、その刹那。
真横から注がれる二つの気配に気づき、視線を動かす。
そこで、ケセナの心臓が激しく跳ねた。
見知らぬ初老の男。
そして――容赦なく自分の四肢を拘束し、その胸へ死の刃を突き立てた白虎族長、レイア・ファンサルが、自分を見下ろすように手を翳していた。
「――っ!!」
ケセナの身体が、本能のままに跳ねた。
枯渇していたはずの魔力が、生存本能に押し上げられるように一瞬だけ弾ける。
それまで二人が行っていた治療の術式が、ぱん、と音を立てて弾かれた。
「くっ!?」
「レイア様!」
体勢を崩した二人を前に、ケセナは全身を走る激痛に喘ぎながらも、無理やり上体を起こした。
震える腕で後ずさる。
傷ついた身体は言うことを聞かない。それでも力任せに動かすたび、四肢の傷口が開き、流れ出た血が純白の敷布を赤く染めていった。
じりじりと後退し、寝台から滑り落ちる。
「っ、くるな……!」
喉から絞り出した怯えきった声が、部屋に響いた。
ケセナは壁際まで身を引きずり、縮こまるように身体を強張らせる。
焦点の合わない瞳は、狂乱の縁を彷徨っていた。
レイアが息を呑み、ガイアが駆け寄ろうとする。
だが、それよりも早く。
「ケセナ」
低く、深く響く声が、部屋の空気を震わせた。
びくりと肩を跳ねさせ、ケセナが声のした方へ目だけを向ける。
そこに立っていたのは、見慣れた漆黒の制服に身を包んだ、大きな男。
悲しげな顔で、それでもいつも自分を守ってくれた男。
(どうして……)
ケセナはゆっくりと顔を向けた。
そこにいた。
置いていかれたと思っていたはずの男が、確かにそこにいた。
自分はまた、化け物になって暴走してしまった。
だから当然、見捨てられて、置いていかれたのだと思っていた。
自分の前に、彼がいるわけがない。
いるはずがないのに。
口が動く。
けれど、音は生まれなかった。
もう一度、確かめるように目を見開く。
そこにあるのは幻ではなく、確かに自分を見つめ返す黒い瞳だった。
「グレン……?」
小さな吐息で縋るように問うケセナへ、グレンは無言で、力強く頷いた。
グレンが叩き込んだ、痛みを逃がすための呼吸を繰り返しながら、ケセナは壁際に寄りかかったまま、震える右手をグレンへ向かって伸ばした。
指先が痙攣しても構わずに。
助けて、と求めるように。
だが、グレンはその手を取ろうとはしなかった。
触れた瞬間、また壊してしまうかもしれない。
その恐怖が、グレンの腕を止めていた。
それでも、ケセナは手を伸ばし続けた。
ぽたぽたと腕から血が落ちる。
激痛が走る。
それでも、その指先はグレンだけを求めていた。
「グレン……!」
次の瞬間。
ケセナは痛む身体で地を蹴り、自らグレンの胸の中へ飛び込んだ。
「ケセナ……?」
グレンは何が起きたのか分からなかった。
あのケセナが、自分からこの腕の中へ飛び込んでくるなど、あるはずがない。
あれほど他者の接触を忌避し、魂を削り取られるように震えていたケセナが――
「グレン……! グレン!!」
その呼び方と息遣いに、胸の中で泣いているのが誰なのかを、グレンは悟った。
ファルイーア。
胸の中の小さな青年は、肩を震わせ、まるで呪文のように何度もその名を呼んで泣いている。
グレンはその細い身体を、恐る恐る、それでも壊れ物を扱うように優しく、そして強く抱き締めた。
「ファルイーア……」
身体が揺れ、さらに深く胸へ顔を埋める。
グレンは大きな手で、その背を一定の間隔でゆっくりと撫でた。
突き放されても、あの内乱で隣にあった『手』と、何度も抱き上げてきた『胸』。
それらはファルイーアを人として繋ぎ止め、小さな希望を失わずにいられた、大切な場所だった。
震えが、少しずつ治まっていく。
全身の強張りも抜けていく。
呼吸が整っていく。
そして、ファルイーアの虚無も消えていった。
「グレン……さん……」
顔を上げた彼の琥珀色の瞳には、どこか頼りなさは残っていたが、それでもはっきりとした意志の光が戻っていた。
「ああ。そうだ。ケセナ。怖い思いをさせて、すまなかった」
その温もりを確かめるように受け取りながら、ケセナはグレンの胸元へ額をこつんと預け、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
見知らぬ豪奢な部屋。
自分を殺そうとした白虎族長。
状況は何一つ呑み込めていない。
けれど、グレンがいる。
それだけで、自分は安全なのだと理解できた。
「とりあえず、寝台へ戻るぞ。いいな?」
そう声をかけて、グレンがそっと抱き上げる。
その瞬間、ケセナの顔が僅かに歪んだ。
グレンはすぐに気づき、深く溜息をつく。
「痛いなら痛いと言え。何度言ったら分かるんだ」
「え……?」
ケセナはきょとんとした顔をした。
本人にとっては無意識だった。
痛みを他人へ訴えない、あの忌まわしい癖が、まだ身体に染みついたままだったのだ。
「うん……。そうだった」
「痛いか?」
「すごく痛い。この体勢だと、ちょっと死にそう」
「早く言え」
真っ青な顔で正直に答えるケセナを、グレンはさっさと寝台へ寝かせ直した。
傷の具合を確かめる。
四肢も胸も背中も、じくじくとまだ血を滲ませている。
グレンはラルへ顔を向けた。
「薬と包帯を持ってきてくれ」
「あ、薬はあたしの荷物! すぐ取ってくる!」
呆然としていたラルが、はっと我に返って部屋を飛び出していく。
その背を見送ってから、ガイアが寝台の傍らに膝をついた。
ケセナと目線を合わせるようにしゃがみ込み、じっと顔を覗き込む。
「えっと、その……ごめん、ガイア」
「心配させるな! 大馬鹿が!! 大人しく寝てりゃ、こんな……っ、こんな……」
「ガイア……?」
「無事ではねぇけど、無事でよかったよ。ファル……」
ガイアは立ち上がり、安堵の息を吐いた。
それから、迷った末に、昔の癖のようにケセナの頭をわしゃっと撫でる。
「あ……」
ケセナの肩が、びくりと跳ねる。
激しい混乱を起こす――そう思った。
けれど、呼吸は乱れなかった。
ガイアの荒っぽくて、それでも温かい手を、ケセナはただ静かに見つめた。
「ガイアの手も……大丈夫みたい」
そう言って、ふんわりと笑う。
「おう、これからはがしがし撫でてやる」
「遠慮する……」
すぐにラルが薬箱と包帯を抱えて戻ってきた。
グレンはそれを受け取り、手際よくケセナの傷の手当てを始める。
「ケセナ。あたしの治癒魔術だと、傷、治せなくて……」
ラルが申し訳なさそうに声をかけると、ケセナは首を横に振った。
「ううん、いいんだ。ラル。ありがとう」
ラルはそっと、ケセナの冷たい手を両手で包み込んだ。
レイアは複雑な面持ちでそのやり取りを見つめ、小さく息を吐く。
「レイア様。残念ですが、我々の術はこれ以上、彼には施せません」
乱れた燕尾服の襟を整えながら、マジョルドが静かに進み出た。
「我々の魔力を『外敵からの攻撃』と誤認して激しく反発しています。これ以上強引に流し込めば、肉体より先に精神が完全に壊れるでしょう」
「マジョルド。反発されようが構わん。私の魔力で強引にでも傷を塞ぐ。死なせさえしなければ――」
生かすためなら手段を選ばない、冷酷な判断に傾きかけた、その刻。
ケセナの手を握り締めていたラルが、振り返りもせずに言った。
「あたしが、やる。……あたしの魔力なら、ケセナは拒絶しない。あたしなら、きっと!」
「小娘、願望で物を言うな……。私たちが全力で治療に当たる。信じよ」
「信じてないんじゃない」
「なら何だ」
「おばさんに任せるのが嫌」
「誰がおばさんだ」
即座に返ってきたレイアの低い声に、室内の空気が一瞬だけひやりとする。
マジョルドが「まあまあ」と優雅に間へ入り、その場をどうにか収めた。
寝台の上で、ケセナはまだ浅い息を繰り返している。
助かった。
けれど、何も終わってはいない。
白虎の城の静かな一室で、ようやく戻ってきた命は、まだ細い糸一本で繋がれているだけだった。