兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
空間そのものが重かった。
冷たい、では足りない。
胸の奥へ泥のように流れ込み、生きようとする力そのものを鈍らせていく、底の見えない哀しみが満ちていた。
グレンは短剣を仕舞い、そのまま剣を引き抜いて構える。
「……くそっ。なんだよ、これ……っ」
ガイアが短剣を取り落としかけながら、乱暴に目元を拭った。
拭っても拭っても、涙が止まらない。
キョウもラルも、立っているだけで胸の内側を握り潰されるような苦しさに襲われ、嗚咽を呑み込むので精一杯だった。
魔力で心を揺さぶられているのとは違う。
もっと深い。命の奥へ、哀しみそのものを流し込まれている。
「……よくぞ参りました。愛しき獣たち」
ぽつりと、地下へ続く階段の先から声が響いた。
そこに立っていたのは、長い喪衣のような漆黒を纏う女だった。
目を逸らしたくなるほど美しい。なのに、その顔にはこの世のありとあらゆる悲嘆を背負ったような陰が差している。
両の目からは、とめどなく涙が零れ続けていた。
本能が告げる。
目の前にいるのは、人でも魔人でもない。
「ティリティシアの神は、本来ひとつでした。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。そのすべてを束ねた『我々』として」
女は静かに語った。涙を流しながら、遠い昔を悼むように。
「ですが、私はそこから零れ落ちたもの。『哀』だけを宿した、欠けた神です」
「哀しみ、だけの……神……?」
グレンが脂汗を流しながら、剣の柄を握り直す。
「ええ。けれど、私は知っています。……貴方たちは、彼を連れてきている」
哀神は胸元で手を組み、恐ろしいほど愛しげに目を細めた。
「私の、愛しい花を」
「花、だと……?」
グレンが低く呻く。
けれど哀神は構わず言葉を続けた。
「神は、人のように子を産めません。己の分かれ身たる『花』を咲かせ、そこから命を産み落とすのです」
漆黒の衣へ、真珠のような涙がぽたぽたと落ちていく。
「あの子は知らないでしょう。自分を生み出したのが、分かたれたすべての神々だと思っている。……けれど違う。あの子という花を咲かせたのは、他ならぬこの私。あの子は、オウセイは、私の徒花」
「……っ!」
グレンの目が見開かれる。
オウセイ・カイラーヌ。
五千星霜前、世界を変えたあの男が。
神々の意志ではなく、この哀しみだけの神から咲いた花だというのか。
信じがたい。
だが、あの男の内にあった底知れぬ孤独と、ティリティシアの魔法が、否定を許さなかった。
「だから、あの子はずっと満たされない。誰にも届かず、誰にも受け止められず、哀しみだけを抱えて生き続けるしかなかった」
哀神は涙を流したまま、上へ手を伸ばす。
「さあ、返しなさい。五千星霜の果てに、ようやく会えたのです。此度こそ私が、この腕で抱き締めてあげる」
その言葉とともに、広間を満たす哀しみが一段深くなった。
息ができない。
胸が塞がる。
生きていることそのものが、どうしようもなく惨めで、虚しく思えてくる。
「ぐ……っ」
「身体が……!」
グレンとガイアが膝をつき、キョウも耐えきれず床へ手をついた。
ラルの頬を涙が伝う。悲しいわけではないのに、心が勝手に泣いていた。
「あの子は、ずっと孤独でした」
哀神の声は、たまらなく優しかった。
「もう戦わなくていい。あの子の底なしの哀しみは、産み落とした私にしか癒せないのです」
「……ふざけるな」
ぎり、と歯を食いしばる音が響く。
グレンだった。
剣を石畳へ突き立て、それを杖代わりにして、神の重圧へ抗いながらゆっくりと立ち上がる。
「あいつは……哀れなんかじゃない」
「まだ抗うのですか」
「オウセイは、面倒臭がりの、世話焼きだ」
「それはあの子の偽り。あの子は――」
「ケセナは哀れじゃない!!」
哀神の言葉を断ち切ったのは、ラルだった。
「ラル……?」
グレンが振り返ると、ラルは顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、それでも紫の瞳だけは強く神を睨んでいた。
「すぐ迷うし! 謝るなって言っても、すぐ謝るし……っ! でも、一緒にご飯食べて、一緒に笑ってくれる!」
震える声は、途中から怒鳴り声へ変わっていた。
「あたしたちの、大事な家族!」
その叫びに呼ばれるように、ガイアが短剣を床へ突き立て、無理やり身を起こした。
掌には、小さくても消えない朱雀の火が灯っている。
「……へっ。そうだな」
涙を拭いもせず、獰猛に笑う。
「あいつは俺の弟だ。五千星霜前の因縁だか何だか知らねぇが、勝手に『哀れな存在』に決めつけてんじゃねぇぞ、神様」
「本当に迷惑」
キョウもまた、震える膝を叱りつけるように立ち上がった。
「ファルには、まだ笑わせてやらなきゃならないことが山ほどあるの。あんたの胸の中で泣き続けるためにここまで来たんじゃないわ」
神がどれほど哀しみだと呼んでも。
神がどれほど己の花だと呼んでも。
彼らが知っているケセナは、ファルイーアは、そんな言葉だけで括れる存在ではなかった。
熱が、戻る。
広間を満たしていた底なしの冷たさが、わずかに押し返される。
「ああ……なんと哀しい獣の子ら」
哀神は、なおも涙を流していた。
「あの子を苦しみの底へ繋ぎ留めようというのですね」
「繋ぎ留めているのは貴様だ!」
グレンが怒声を叩きつける。
だが哀神は、虚ろな目で微かに首を振った。
「我は神。たとえ欠けても、神は神」
零れ落ちる涙が、黒く濁っていく。
「……あの子は、どこにいるのです? ここには、あの子の哀しみが満ちている。哀は哀を呼ぶ。ならば我は、必ず我が子へ届く」
その言葉とともに、哀の波がさらに濃く広がった。
「……っ、が……!」
「重……っ!」
グレン、ガイア、キョウの三人が同時に顔を歪める。
膝を折りそうになりながら武器を構えようとするが、魂の芯に直接のしかかる重圧がそれを許さない。
抵抗するな。
もう諦めろ。
そんな声なき声が、身体の奥から湧き上がってくる。
だが、その中でただ一人。
「おばさん――」
ラルが槍を真っ直ぐ構え、切っ先を神へ向けた。
「うるさい」
爆ぜた。
ラルを中心に暴風が巻き起こり、石畳を削りながら広間を薙ぐ。
隠密も節制も、もう必要ない。風魔術を全身へ纏わせたラルが、圧し潰すような重圧ごと切り裂いて前へ出た。
砕けた床を蹴り、階段を一気に駆け下りる。
銀の穂先が、神の喉元へ一直線に伸びた。
グレンから叩き込まれた、最短距離の刺突。
風の螺旋を纏うその一撃は、城門すら穿つはずだった。
だが。
「……届きませんよ」
喉元まで僅かというところで、穂先が見えない壁へ阻まれた。
激しい火花が散る。
「っ……!」
ラルがさらに魔力を込め、押し込む。
だが、哀神は指一本動かさない。ただ、その頬を流れ落ちた涙が空中で凝り固まり、幾重もの壁となって槍を受け止めていた。
「悲しい子。暴力では、何も救えないのに」
哀神が目を伏せた、その途端。
黒い涙が形を変え、無数の刃となってラルへ襲いかかる。
「くっ……!」
槍を引き戻し、防戦へ移る。
風を盾にして刃を弾くが、一撃ごとに重い。手が痺れ、虎口が裂け、鮮血が飛ぶ。
「ラル!!」
グレンの声が飛ぶ。
だが、まだ誰も動けない。
「はあっ……!」
ラルは防御を捨てた。
前へ出る。ひたすら前へ。
風刃と槍の連撃が、哀神へ叩き込まれる。
右。左。薙ぎ。突き。返し。
息を継ぐ間もない猛攻。
それでも、届かない。
黒い涙の壁がすべてを弾き返し、哀神の衣の裾にすら触れさせない。
逆に、神から滲み出る絶望がラルの体力を削り取り、黒い刃が細い身体を次々と裂いていく。
頬が裂けた。
肩から血が流れる。
膝が笑う。
「もうやめなさい」
哀神の声は静かだった。
「獣の身で、神の哀を切り裂くことなどできはしない」
次の瞬間、特大の黒刃がラルの胴を薙いだ。
「――が、ぁっ!」
風の鎧が砕け散り、ラルの身体が階段の奥から吹き飛ぶ。
石畳へ叩きつけられ、何度も転がり、血の筋を引いてようやく止まった。
「ラル!!」
キョウの悲鳴が広間に響く。
誰もが、もう立てないと思った。
神と彼らでは、あまりにも格が違いすぎる。
だが。
「……はぁっ……は、ぁ……」
血だまりの中で、ラルの指が動いた。
手放さなかった槍を杖代わりにしながら、ゆっくりと身体を起こす。
ふらついている。
全身が傷だらけだ。
それでも、少女は立った。
神の黒い涙など寄せ付けない、決して折れることのない紫の瞳を、なおも真っ直ぐに階下へ向けて。