兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
夜巡りの闇を裂き、エンジはほとんど息も乱さぬまま目的地へ辿り着いた。
禍々しい気配を放つベラリティル本宅。その巨大な正門の前だった。
抱えられたまま、オウセイは門の頂を見上げ、苦い顔をした。
「……どうしたのです、オウセイ殿」
エンジが声を潜めて問う。
正門に埋め込まれた魔力晶石は、すでに修復を終えていた。
不気味な赤光を脈打たせ、再び半円形の強固な結界を張り巡らせている。キョウの矢がない以上、無音で突破するのはほとんど不可能だった。
だが、オウセイは結界を気に留める様子もなく、冷めた声で言った。
「耳を塞げ」
「は?」
唐突な指示に、エンジは眉を寄せる。
「いいから、俺を下ろして耳を塞げ。……何も聞くな」
「……承知しました」
疑問は飲み込んだ。
エンジはオウセイの細い身体を石畳へ静かに下ろす。
足裏が地を踏んだ途端、
「っ……くそ……」
蓄積された疲労と激痛が、ケセナの肉体を容赦なく揺さぶった。
膝が折れかけるのを、オウセイは気力だけでどうにか堪える。
「……まったく。あちこち致命傷すれすれまで傷んでおきながら、治癒魔術を弾く体質とはな。聞いたこともない」
忌々しげにそう吐き捨てつつ、オウセイは大きく息を吸い込んだ。
そして正門の魔力晶石を鋭く睨む。横目で、エンジが両耳をしっかり塞いでいるのを確認した。
もう一度、今度は静かに息を吸う。
そして、先ほどまでの冷えた声音を捨て、どこか芝居がかった甘い声で、五千星霜前から変わらぬ自身の『家』へ呼びかけた。
「やあ、お嬢さん。僕が迎えにきたよ。踊ろうか」
その甘ったるい文句が空間へ溶けた直後。
ぴきっ、と。
正門の魔力晶石が淡い光を放ち、乾いた破砕音とともに、強固だった結界が脆く砕け散った。
「……ふう」
オウセイが短く息を吐く。
結界の消失を確認した、その直後だった。
「誰ですか、今の」
背後から、極めて冷静で、しかし怪訝さを隠しもしない声が落ちてくる。
「!!」
オウセイの肩がびくりと跳ねた。
振り返れば、両耳を塞ぐふりをしながら、指の隙間をわずかに開けていたエンジが、半眼でこちらを見下ろしていた。
有能な情報収集役が、目の前で唱えられた未知の合言葉を聞き逃すはずもない。
「き、貴様……っ、聞くなと言っただろうが!」
「今の、結界解除の合言葉ですか。……それはひとまず置くとして、まさかあの甘ったるい声色まで必要なのですか?」
「……うるさい。仕方ないだろう! ライネルの奴が、悪ふざけで勝手に決めたんだ! あの馬鹿が……っ、ぐっ」
照れ隠しに声を荒らげた途端、限界を迎えていた肉体へ激痛が走り、オウセイの身体が前へ崩れた。
「おっと」
エンジは一切動揺せず、倒れ込む寸前のその身体を流れるように抱き留める。
「……ライネル、ですか?」
抱え上げたまま、エンジは聞き覚えのある名に眉をひそめた。
「……初代応龍皇帝だ」
オウセイは痛みに顔を歪めながら、腕の中で憎々しげに吐き捨てた。
それ以上この話題を続けさせまいとするように、視線を本宅の奥へ向ける。
「結界が戻る前に行くぞ。……中が騒がしい」
「承知しました」
エンジは青年を抱き直し、結界の消えた正門を駆け抜けて、戦端の開いたベラリティル本宅へ踏み込んだ。
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ラルと精霊たちの決死の浄化によって、一度は晴れた重圧。
だが、それは再び広間を満たし始めていた。
グレンたちの抵抗も、そろそろ限界に近い。
どれほど意志の力で撥ね返そうと、神の放つ根源的な絶望は、確実に精神と体力を削り取っていく。
「さあ、あの子を……私の花を、返しなさい……!」
哀神の嘆きが高まり、さらなる波動が放たれようとした、その折。
重厚な扉の向こうから、静かで、しかしはっきりとした足音が響いた。
全員の視線が一斉に入口へ向く。
そこに立っていたのは、息一つ乱していないエンジと、彼に抱えられたままの、熱に浮かされた金髪の青年だった。
「ケセナ……っ!?」
限界まで身体を張っていたグレンが、驚愕と焦燥を滲ませた声を漏らす。
だが青年は、その呼びかけには応えない。
琥珀色の瞳はただ真っ直ぐ、階段の上で涙を流す漆黒の女――哀神だけを見据えていた。
「……お前は、何だ」
オウセイの口から落ちたのは、掠れているのに、古く、重い響きを持つ声だった。
その声が届いた途端、哀神の狂ったような涙が、ぴたりと止まる。
「ああ……愛し子よ。ようやく会えました。我が徒花、さあ、こちらへ。母の許へ」
哀神は熱に浮かされたような恍惚の声を上げ、両腕を差し伸べた。
五千星霜を隔てて。異常な母と哀れな徒花の視線が、血の海と化した広間で静かに交錯する。
「母? 何を言っている」
オウセイはエンジの腕の中で、冷めた声を返した。
「知らぬのも無理はありません。神の『哀』たる私が咲かせた花、それがあなたなのですから。……ああ、もう哀しまなくていい。私の胸の中で、永遠に安らかに眠れるのです」
「神は『我々』と名乗る、一つの存在のはずだ」
「ええ。私は、切り離された『我々』の『我』。哀だけを宿した、哀しき『我』です。愛し子よ、あなたは、その『哀』から咲いた花。私の、美しい徒花」
両腕を広げ、恍惚と微笑む哀神へ、オウセイはただ呆れたように息を吐いた。
「ならば答えろ」
その声が、広間の空気を低く震わせる。
「お前たちが『我々』という一つの存在であるなら、そこから零れた『我』のお前でも答えられるはずだ」
聞かねばならない。
この世界へ落とされてから、ずっと胸へ刺さっていた問いを。
オウセイは痛みに焼ける肺へ、なお力を込めて息を吸った。
「――なぜ俺は、神々の駒にされた」
鋭く、逃げ場なく突きつけられた問い。
哀神はびくりと肩を震わせ、再び黒い涙を流しながら、怯えたように自らの肩を抱いた。
「……あなたは……」
震える唇から、神の呪いのような真実が零れる。
「あなたは最初から……この世界の獣たちに殺されるための、『贄』だったのです……っ」
「……贄、だと?」
グレンが顔を歪め、剣の柄を握る手へぎり、と力を込める。
だがオウセイは表情一つ動かさず、ただ哀神へ続きを促した。
「ティリティシアの理において、異常個体である『哀しみ』から咲いたあなたは、許されざる瑕疵でした。……けれど、完全なる神は、自らの分身たる花を、自らの手で殺せない」
黒い涙が石畳へ落ち、不気味な音を立てて床を腐食させていく。
「だから彼らは、あなたを洗脳した。……自我を奪い、殺人鬼『蒼き獣』としてこのファミラスを蹂躙させたのです。獣たちがいずれ反旗を翻し、あなたを討ち果たすように。神々は、自らの手を一切汚さず……この世界の手で、あなたを処分しようとしたのです!」
広間へ、凍るような沈黙が落ちた。
あまりにも矮小で、あまりにも残酷な神の理屈。
オウセイは、抗い続けた。
夜巡りのたびに殺戮を強いられ、昼巡りには血に染まった手を見て絶望した。
「生きたい」と「殺したい」の狭間で引き裂かれた。
親友に永劫の犠牲を強い、同族殺しの報いとして不死を背負った。
五千星霜、泥を啜ってでも生きた。贖罪のためにすべてを差し出し、最後には、たった一人の子供を救うために命を投げ出した。
そのすべての始まりが。
神々が、自分の手を汚さず、目障りな子供を始末したかった――ただそれだけだったのか。
「……てめぇら……っ!!」
誰より早くその意味を呑み込んだガイアが、怒りに顔を歪め、両手へ爆発的な朱雀の炎を吹き上がらせる。
キョウも奥歯を噛み締め、ラルは槍を握る手から血が滲むほど殺気を膨らませた。
グレンに至っては、その外套から滲む怒気だけで周囲の空気が裂けそうだった。
けれど、当のオウセイは。
「――そうか」
怒りも、嘆きも見せなかった。
ただ、心底呆れたように、乾いた息を一つ吐く。
「そんなに小さくて、臆病な連中だったんだな」
「オウセイ……?」
哀神が戸惑いの声を漏らす。
己の運命を知れば絶望し、自分の胸へ縋りついてくると信じていた我が子が、あまりにも穏やかな目をしていたからだ。
「……下ろせ」
静かな命に、エンジは何も言わずオウセイを床へ下ろし、崩れぬよう背を支えた。
自らの足で立ったオウセイは、ゆっくりと哀神へ背を向ける。
「あんたたちが俺を殺そうとしたせいで、本当に地獄みたいだったよ。たくさん殺して、泣いて、何度も死にたいと思った」
静かな、けれど確かな熱を帯びた声が響く。
「でも――俺が必死に抗ったから、出会えた。世界を救うためならって、笑って手を取ってくれた、馬鹿みたいにお人好しに」
ひと呼吸。
その先の言葉は、もう独り言ではなかった。
「……この命を懸けても救いたいと、そう思えた、たった一人の男の子に」
その男の子の隣で、一緒に泣いて、怒ってくれる、家族みたいな馬鹿どもに。
冷たく発光していた琥珀色の瞳が、ふっと柔らかく温度を取り戻す。
それはオウセイの記憶でありながら、間違いなく『ケセナ』としての人間の心が重なった、温かな眼差しだった。
視線の先には、自分を守ろうと武器を構え、神へ本気で怒ってくれている者たちがいた。
グレン。
ガイア。
ラル。
キョウ。
そして、背中を支えるエンジ。
「あんたたち神様が、俺を『哀れな贄』としてこの世界へ捨ててくれたおかげで……俺は、ここにいる」
五千星霜、首に絡みついていた呪縛が、その言葉で音もなく切れた。
神が押しつけた『哀しみ』は、もう彼の名ではない。
「だから、もう消えろ。貴様の戯言は聞き飽きた」
未練の欠片もない切断の言葉。
それを受け、哀神の内側で張り詰めていた何かが、決定的に壊れた。
「あ……ああ……あああああああァァァっ!!」
拒絶された神の、魂を削るような絶叫。
哀神の身体から、これまでの比ではない漆黒の力――理を外れた神の暴走が、逃げ場もなく広間のすべてを呑み込もうと膨れ上がった。