兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
くすくす、くすくす。
青白い光球だけが照らす地下室に、ローケンスの笑い声だけが乾いたように響いていた。魔力の気配も、術式の発動も見せず、朱雀の長を壁まで吹き飛ばした理不尽な力。その場にいた者たちは、本能的な恐怖に身体を強張らせ、指先一つ動かせずにいる。
しかし、グレンだけは違った。
押し潰されるような異様な気配に耐えながら、じりじりと歩を進め、床でえずき続けるケセナのもとへ辿り着く。
「……ケセナ、立てるか」
低く呼びかけ、痙攣する肩を庇うように手を伸ばした、その刻だった。
「……え?」
グレンの手が、虚しく暗闇を掻く。
触れる寸前、ケセナの姿が消えたのだ。
「ケセナっ!」
グレンが血相を変えて叫ぶ。
消えたのではない。動いたのだ。
達人であるグレンの目でさえ見失うほどの神速。踏み込みの予備動作も、床を蹴る音も、風を裂く音すらない。
踏み込んだ瞬間、間にあった距離だけが失われたような異常な動きで、ケセナは巨大な石台の前、ローケンスの眼前にまで肉薄していた。
「そう。ここ、ここ。やっぱりここが落ち着くんだね」
ローケンスが心底愉快そうに笑う。
「ほら、寝よう? 君、好きだったもんね。よく静かに寝かされてたじゃない」
石台へ跳びかかっていたケセナの身体が、巨大な見えない手に掴まれたように軌道を変えられ、血塗れの石台へ強引に引き寄せられていく。
逆らうことなど許されない、言霊による強制。
だが、石台へ叩きつけられる寸前、ケセナは空中で強引に身を捻り、その内側から何かを解放した。
炎、水、風、土。
あらゆる属性の精霊が、彼の周囲へ凄まじい密度で顕現する。極彩色の魔力が重なり合い、死を孕んだ衣のように彼を包み込んでいく。
無言で石台の縁へ魔術を叩きつけ、爆風を起こす。爆風に押し戻される勢いを利用し、石台の縁を足場にして、ケセナは何事もなかったかのように暗い地下室の石床へ滑り降りた。
金糸の髪が揺れる背中が、わずかに丸まっている。顔は俯いたままだ。
「……っ、ファルイーア!!」
グレンの悲痛な叫びが、腐臭の満ちた地下室へ響く。
だが、ケセナは振り向かない。
間違いない。
全精霊を纏って立つその背中は、先ほどまで仲間と笑い、怯え、涙を流していた青年『ケセナ』のものではなかった。
痛みを遮断し、心を殺し、目の前の標的を殲滅するためだけに存在する最強の兵器、『ファルイーア』だ。
「あはは。そっちなの? そっちは遊べないじゃない」
ローケンスは、面白くてたまらないというように笑う。
「いいよ。じゃあ、そっちで遊ぼうか」
その無邪気な声とともに、彼はつい先ほどまで愛おしそうに抱えていた『十九星霜前の胃袋』の瓶を、まるで飽きた玩具でも捨てるように、何の躊躇もなく後方へ放り投げた。
硬い玻璃が砕け散る。
保存液と赤黒い臓器が、冷たい石畳へ無残にぶちまけられた。
「もうこっちの方が面白そうだし」
ローケンスは、ころころと笑う。
「じゃあ、潰れて」
言葉が、そのまま現実になる。
ファルイーアの華奢な身体が、見えない無数の鋼線で締め上げられたかのように、空中でぎりぎりと圧縮された。骨が軋み、肉が食い込む嫌な音が地下室に響く。
ファルイーアは外側の圧へ抗うのではなく、自らの身体の内側から膨大な魔力を爆発させた。
「――っ!!」
肉が裂ける、生々しい音。
拘束を内側から破壊した反動で、ファルイーアの四肢から肉が抉れ、鮮血がぽたぽたと床へ落ちていく。それでも、その顔には苦悶一つ浮かばない。瞬きすらない、完全な無表情だった。
(……ジェグヌで拘束を壊した折と同じ……!)
ラルの脳裏に、レイアから聞かされた言葉が蘇る。
『その遺児は、自分の内側から魔力を暴発させ、拘束具を破壊した』
『四肢の肉が削げ、焼けても構わずにな』
ジェグヌで自傷した痕。
幻影のレイアとツェヴァンに胸と背を貫かれた傷。
ただでさえ治りきっていない満身創痍の身体に、ファルイーアはまた新たな傷を重ねている。
(やめて……っ、それ以上、自分を壊さないで……!)
ラルの祈りは、感情を切り落とした兵器には届かない。
血塗れのまま、ファルイーアはローケンスへ向け、無言の魔術を放った。
全精霊を叩きつけるような破壊の奔流。予備動作もなく放たれたそれは、空間ごと抉り取るほどの威力を孕んでいた。
「あー、それは駄目」
ローケンスが、無邪気で軽い調子で言う。
「散って」
その一言だけで。
ファルイーアの放った魔術は、ローケンスの鼻先でぱちんと弾け、霧のように消え去った。
「なっ……!?」
キョウが絶句する。
魔力の相殺ですらない。ただ言葉によって、起きた現象そのものを書き換えている。
ローケンスは消えた魔術の名残を鬱陶しそうに払うと、床へ転がった玻璃片と保存液の中へしゃがみ込んだ。そして、汚れた液と破片にまみれた黒ずんだ肉塊を、素手でぐちゃりと拾い上げる。
両手で包み込むように持ち上げ、ファルイーアを見つめ、首を傾げた。
「ねぇ、前から思ってたんだけど」
子供みたいな、純粋な好奇心の声だった。
「これをお腹に返したら、どうなるんだろうね?」
誰も、声を出せなかった。
「ちゃんと元の場所に戻したら、少しは戻るのかな。違うのかな。ねえ、試してみたいと思わない?」
あまりにも軽い。
殺意ではなく、実験への興味として語られることが、余計におぞましい。
「君の中、どうなってるのか、僕ずっと気になってたんだよ。だって一回抜いたあと、もう見てないし」
ラルの指が、槍の柄へ食い込んだ。
キョウは矢を番えたまま、唇を噛みしめている。
だが、今のファルイーアには、その言葉の意味すら届いていない。虚無を映す紅い瞳は瞬き一つせず、ただ次の殲滅手段を探しているだけだった。
「おいで」
ローケンスが、手招くように指を鳴らす。
「戻してあげるから」
再び、見えない力がファルイーアの身体を血塗られた石台へ引き寄せる。
「――っ!」
その身体が宙を舞うより早く。
グレンが背後から腕を掴み、自身の胸へ強引に引き戻した。
抉れた四肢から飛び散った血が、グレンの黒い騎士服をべっとりと赤く染める。だが、そんなことは一顧だにせず、グレンはファルイーアを背後へ庇い、剣をローケンスへ突きつけた。
「させるわけないだろう」
喉の奥から絞り出すような声だった。
「二度と、この子には指一本触れさせない!!」
その咆哮に呼応するように、王の剣の面々が次々と武器を構えて前へ出る。
「あーあ、さっきは油断したぜ。言霊使いか……厄介で、面白ぇじゃねぇか」
壁へ叩きつけられていたガイアが、口元の血を拭いながら獰猛な笑みを浮かべる。
「ファルを玩具みたいに扱った代償は、きっちり払ってもらうわ」
キョウが弓を限界まで引き絞る。
「ケセナを傷つける奴は、絶対に許さない」
ラルの槍が暗闇の中で冷たく光った。
その決意を見たローケンスは、不思議そうに首を傾げ、唐突に腹を抱えて笑い出した。
「あはははは! なにそれ。ほんと変」
ひとしきり笑ったあと、彼は冷えた目で彼らを見下ろす。
「君たち、なんでそんなに他人のために怒れるの?」
不思議そうだった。
本当に、理解できないという顔だった。
「僕、それ、一番分かんないんだよね。自分のことでもないのに、必死になる意味ある?」
唇が、楽しそうに歪む。
「疲れるだけじゃない?」
その声音には、他者の痛みを共有する感覚そのものが、最初から存在しない。
「だから嫌いなんだ。そういうの」
すっと、表情が冷えた。
「まとめて潰れてよ」
空間が軋む。
ローケンスの言葉が、絶対的な重圧となって頭上から叩きつけられた。
石畳がひび割れ、グレンたちの膝が折れそうになる。
だが。
「はっ! 重力操作は俺の得意分野だって言ってんだろ、この餓鬼がぁっ!」
ガイアが自らの周囲の重力を軽くし、床を爆ぜるほど強く蹴った。弾丸のように踏み込むその横を、一つの影が音もなく駆け抜ける。
「ファル!?」
グレンが目を見開く。
いつの間にか、その腕の中からファルイーアが抜け出していた。
「合わせる気か、ファル!」
ガイアが朱雀の焔を解き放つ。
同刻に、ファルイーアもまた、無表情のまま黒い力を放った。
その魔力を見た瞬間、グレンとラルの顔色が変わる。
それは全精霊の輝きではなかった。周囲の精霊を強制的に喰らい、己の力へ変える、どす黒い魔力。
精霊を搾取する、魔人の魔法。
感情を切り落とした兵器は、敵を殲滅するためなら、躊躇なく己の中のオウセイの力まで引きずり出した。
ファルイーアの放った漆黒の魔法は、ガイアの炎へ食らいつくように混ざり合う。
朱雀の純粋な炎を芯に、周囲から搾取した全精霊の魔力が強引に注ぎ込まれる。互いを喰らい合うように増幅したそれは、極彩色に変質した焔となって、ローケンスへ襲いかかった。
「……は?」
ローケンスが、初めて素で眉を上げた。
「なにそれ。聞いてない」
慌てて言霊を紡ぐ。
「消え――」
言い切るより早く、異形の焔は言霊そのものを焼き潰すように直進し、ローケンスの身体を完全に呑み込んだ。
「あつっ……ちょ、待って、熱い熱い熱い!」
炎の中から響いたのは、甲高く苛立った叫びだった。
「なにこれ、意味分かんない! やだ、やだって!」
思い通りにいかないことへの、心底不愉快そうな声音。
次の瞬間、空間が歪み、ローケンスの気配が地下室から完全に消えた。
「……ちっ。逃げやがったか」
ガイアが舌打ちし、壁際へ炎を走らせ、部屋を照らした。燃える炎が、地下室の全貌を浮かび上がらせる。
そして、手を伸ばせば届く距離に、ファルイーアが背を向けて静かに立っていた。
先ほど、自ら拘束を破った代償だ。細い四肢から夥しい血が流れ落ち、衣服も床も赤黒く染めている。
「ファル……」
痛々しいその姿に、ガイアは思わず声をかけ、肩を抱き寄せようと手を伸ばした。
「待て、ガイア!!」
グレンの鋭い制止が飛ぶ。
「……今の『兵器』には触れるな」
その響きに、ガイアの手が止まった。
四星霜前の内乱で、グレンが何度も何度も血を吐くように周囲へ言い聞かせていた言葉。
「なんでだよ! 戦闘は終わっただろ!」
「駄目だ。まだ心が戻っていない」
グレンが低く言う。
「……兵器は、俺以外が触れると暴発する」
その説明に、ガイアは息を呑んだ。
敵意のない接触すら、外部刺激として認識して無差別に反撃する。あの内乱の最中、触れて無事でいられたのは、グレンだけだった。
「マジかよ……」
恐る恐る、ガイアは伸ばしかけた手を引く。
ゆっくりと、ファルイーアが首だけで振り返った。
炎に照らされたその瞳は、いつもの優しい琥珀ではない。
美しくも酷薄な、血のような紅。
あの頃の『兵器』の眼だった。