兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
血のように濃い、ファルイーア本来の瞳。
その虚ろな紅はグレンたちを映した直後、ふっと閉じられた。
限界だった。
魔力で無理やり繋ぎ止められていたファルイーアの身体から力が抜け、そのまま冷たい石床へ崩れ落ちる。
「ファル!」
グレンが血相を変え、支えようと踏み出した、その刹那だった。
『なーんだ。逃げるとでも思った? これから面白くなるところなのに、逃げるわけないじゃない』
誰もいないはずの暗がりから、あっけらかんとした声が落ちた。
同時に、意識を失って倒れたファルイーアの身体が、再び見えない力に攫われる。
「ファルイーア!!」
グレンの手が、空を切った。
宙へ浮かんだファルイーアの身体は、部屋の中央に据えられた禍々しい巨大な石台の上へ、まるで供物のように静かに運ばれていく。
そして、炎に焼かれて消えたはずのローケンスが、その傍らへ何事もなかったかのように姿を現した。
ファルイーアを取り戻すため、『王の剣』の全員が即座に動く。
グレンが真正面から剣を構えて突進し、ガイアが死角へ回る。キョウは後方から射線を確保し、ラルはいつでも飛び込めるよう槍を低く構えて腰を落とした。
「そこで見ててよ。せっかくなんだから」
ローケンスが鼻歌混じりに笑う。
巨大な石台からは、意識を失ったファルイーアの右腕がだらりと垂れ下がっていた。自傷で抉れた腕から血が落ち、黒い床へ滴るたび、石畳が新しい血を吸ってぬらりと光る。
「ファルを返せっ!!」
グレンがあと一歩で巨大な石台へ届く間合いまで肉薄し、躍りかかろうとした。
しかし、見えない硬質な壁に激しく弾かれ、その巨体が大きく後方へよろめいた。
「ああ、可哀想。こんなに壊れちゃって」
ローケンスは、眠るファルイーアを覗き込みながら呟く。
「死なれたら困るよ。まだ全然終わってないんだから。……光たち、治して」
その言葉とともに、地下室の空間が眩く発光した。
無数の光精霊が、急速にこの場へ集まり始める。
その数と密度に、ラルは思わず眉をひそめた。
精霊に愛される麒麟族の自分でさえ、これほどの光精霊を一度に呼び寄せることはまずできない。
(なんなの、この人……)
ラルの麒麟の瞳が、巨大な石台の脇に立つローケンスを捉える。
その瞬間、背筋を冷たい悪寒が這い上がった。
第二城門で対峙した父の時のように、魔人が魂へ寄生しているようには見えない。
なのに、生きている者に必ずあるはずの『魂の形』も、この男の中にはまったく存在していなかった。
生者でもない。死者でもない。魔人でもない。
それなのに、ここに『いる』。
「へえ。弾いちゃうんだ」
ローケンスが、面白がるように目を細めた。
光精霊たちの治癒の光がファルイーアへ触れようとした瞬間、激しい火花が散り、魔力がことごとく弾かれたのだ。
「そういうのはデメンス兄さんの担当だったのに。僕、あんまり詳しくないんだよね」
その名を聞いた瞬間、グレンの顔が戦慄と嫌悪で強張る。
デメンス・ベラリティル。
幼いファルイーアを地下で壊し続けたあの狂犬なら、一夜前の鉄火の門でグレン自身が首を刎ねたばかりだった。
その死んだばかりの肉親を、世間話でもするように口にしたのだ。
ファルイーアの身体は、自分に向けられる治癒魔術を『敵対行動』と認識し、弾き返す極限の防衛状態にあった。
白虎族長レイアと、その伴侶マジョルドによる最高位の複合治癒ですら弾いた絶対拒絶の壁だ。ローケンスの治癒が通るはずもない。
だが、ローケンスはにっこりと笑った。
「でも、そんなの邪魔だよね」
そして、防壁へ向けてただ一言、命じる。
「それ、弾けて」
その軽い言葉だけで。
ファルイーアが命を削って維持していた防壁が、薄い玻璃細工のように粉砕された。
障壁を失い、無防備になった身体へ、無数の光精霊が一斉に降り注ぐ。
「ほら。治る」
ローケンスはうっとりと溜息をついた。
「こんなに壊れてるのに、まだ直る。やっぱりすごいなあ。歴代の応龍皇族の中でも、最高級の素材だよね」
抉れた四肢が、光精霊によって肉を編み直すように塞がっていく。
自衛本能すら言霊一つで粉砕され、ファルイーアの肉体はローケンスの意のままに修復されていた。
そしてローケンスは、自らの懐へ手を差し入れる。
取り出されたのは、医療用の清潔な器具ではなかった。
赤茶けた錆がべっとりと浮き、刃こぼれした解体用の小刀。見るからに鈍く、汚れきった刃物だった。
「新しい道具なんて使わないよ」
ローケンスは楽しそうに笑う。
「言うことを聞かない子には、こういうので十分。清める必要もないし、鈍い方が痛いから」
くすくすと笑いながら、錆びた刃先をファルイーアの衣服へ引っかける。
無造作に、乱暴に、胸元を切り裂いた。
嫌な音を立てて布が裂け、冷たい地下の空気に青白い裸身が晒される。
新しい傷は塞がった。
だが、その華奢な肉体には、実験による無数の古傷、火傷の痕、刃物で裂かれ無理やり縫い合わされた歪な痕が、狂気じみた模様のように全身へ残っていた。
誰にも見られたくないと、ケセナが隠し続けてきた傷跡。
それを、ローケンスは愛撫でもするように指先でなぞる。
「綺麗」
ぞっとするほど素直な声だった。
「ほんとに、綺麗だね」
「やめろぉぉぉっ!! ファルから離れろ、この糞野郎っ!!」
「ファル! 起きて!」
見えない壁の向こうから、ガイアとキョウの怒号が響く。
グレンが剣を叩きつけ、キョウの矢が何度も放たれる。けれど、透明な障壁は傷一つつかず、彼らの抵抗をことごとく弾き返した。
ローケンスは、その叫びを音楽でも聴くかのように楽しみながら、錆びた小刀の腹をファルイーアの腹部へぴたりと当てた。
「ええと、胃があったのは……この辺だっけ」
刃先が、腹を斜めに走る大きく歪な古傷で止まる。
十九星霜前、この台の上で生きたまま腹を裂かれ、臓物を引きずり出された場所だ。
「開けるね」
子供が贈り物の箱を開けるみたいな声だった。
ローケンスは小刀を高く掲げ、その白い腹へ向けて無造作に振り下ろす。
――その刻。
「ケセナ――――っ!!」
地下の淀んだ空気を引き裂き、ラルの絶叫が響いた。
兵器でも、実験体でもない。ラルが呼んだのは、ただ一人の大切な友の名だった。
次の瞬間、ラルの細い身体から爆発的に噴き上がった紫の魔力が、一条の凶閃となってローケンスとファルイーアの間へ撃ち込まれる。
グレンの一撃すら弾いた透明の壁が、その光へ触れた瞬間、凄まじい破砕音を立てて粉々に砕け散った。
「ちょっと、邪魔――」
ローケンスが言い終える前に。
破片の向こう側から、ラルが魔力の尾を引いて踏み込んでいた。
そのまま、白銀の槍の穂先をローケンスの顎下へ突きつける。
あとわずか押し込めば、喉笛を貫き、そのまま脳天まで串刺しにできる間合いだった。
「……君、なに?」
喉元へ死を突きつけられてなお、ローケンスは不思議そうに小首を傾げる。
だが、目の前の少女から溢れ出す魔力――応龍族すら凌駕する、麒麟族の禍々しくも美しい紫を間近に浴びた瞬間。
「あはっ」
恐怖ではない。
未知の玩具を見つけた子供そのものの、底知れない狂喜が瞳に灯った。
「弾けて」
絶対の言霊が放たれる。
ラルの身体を四散させようと、不可視の暴力が空間を歪め――
「……弾けないっ!!」
ラルが、紫の瞳を見開いて吼えた。
言霊が、麒麟の圧倒的な魔力に正面から衝突し、甲高い音を立てて空中で霧散する。
「え」
ローケンスの笑みが、初めて驚愕に止まった。
その一瞬の隙を、ラルは逃さない。
全体重と怒りを乗せた槍が、白い喉を深々と貫いた。
「――っ」
完全に喉笛と頸椎を断つ、必殺の一撃。
後方で見ていたガイアとキョウが息を呑む。
だが。
「あはは……痛いなあ、もう」
ごぼ、ごぼ、と。
喉へ太い槍を突き立てられたまま、即死していて当然の状態で、ローケンスは血を泡立たせながら笑った。
「そうかぁ。君のその目……麒麟か」
ラルの顔から血の気が引く。
「最初にここを狙うんだ。へえ。見つけたんだね、僕の本体」
ローケンスは、自らの喉へ刺さった槍の柄を素手で掴む。
そして、ずぶずぶと肉を引き裂く音を立てながら、強引に引き抜いてみせた。
「でも、惜しいなあ」
後退した喉の風穴から、大量の血が石畳へ降り注ぐ。
それは生きた人間の赤ではない。汚泥のようにどす黒く、鼻を突く腐臭を放つ『黒』だった。
やはり、この男は生者でも死者でもない異物。
だが、ローケンスが体勢を立て直すより早く、弾け飛んだ壁の隙間から『王の剣』の殺意が牙を剥いた。
「……ふざけるな、異常者め」
地を這うような声。
次の瞬間、死角から跳んだ漆黒の影――グレン・ラティアが、一切の容赦を捨てて男の脳天へ真っ向から剣を振り下ろしていた。