兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第八十九話 おかえり、ファルイーア

 グレンの全体重と殺意を乗せた剣が、ローケンスの脳天へ叩き込まれる。

 

 だが。

 

 刃は頭皮を浅く裂いただけで、まるで見えない分厚い鋼鉄に阻まれたように、ぴたりと止まった。

 

「あはははは! 惜しいなぁ。ただの剣じゃ、僕は砕けないよ?」

 

 脳天に刃を食い込ませ、血を流しながらも、ローケンスは心底愉快そうに笑う。

 声だけではない。内側にある何かそのものが、刃を拒んでいた。

 

「ぐっ……怪物がっ!」

 

 グレンが奥歯を噛み締め、柄を握る腕にさらに力を込める。筋肉が軋み、血管が浮き上がる。

 それでも、刃はわずかたりとも進まなかった。

 

 その刻だった。

 

 ふわり、と。

 押し込もうとする剣の峰に、上から、青白く細い傷だらけの手がそっと添えられた。

 

「……!」

 

 視界の端で金糸の髪が揺れる。

 

 見上げた先にいたのは、巨大な石台で意識を失っていたはずのファルイーアだった。

 背に神々しい黄金龍の双翼を広げ、静かに宙へ浮かび、ただ無言でそこにいる。

 

「……振り下ろして、グレン」

 

 掠れた、小さな声。

 

 けれど、その顔を見た途端、グレンは悟った。

 瞳は琥珀ではない。血を流したような、あの紅だ。

 まだ戻っていない。心を閉ざし、ただ勝つための答えだけを選ぶ『兵器』のまま。

 

 けれど彼は、記憶を取り戻したあの昼夜、居ても立ってもいられず飛び出したグレンを追いかけてきて、言ったのだ。

 

『その手が剣を握って、俺の隣で戦ってくれたから。あの瞬間だけは、俺は人形じゃなくて……隣に立つことを許された人になれる気がしてたから』

 

 その言葉を思い出したグレンに、迷いはなかった。

 

「……うおおおおおおお!!」

 

 短く吼え、グレンは言われるまま、剣へ渾身の力を叩き込む。

 

 ファルイーアは刃へ向けて莫大な魔力を流し込んだ。

 黄金の光が漆黒の剣身を呑み込み、ローケンスを覆っていた理不尽な殻を、薄紙でも剥ぐように溶かしていく。

 

「え?」

 

 初めて、ローケンスの笑みが消えた。

 

「なんで!? 待ってよ、これからが楽しいのにっ!」

 

 喚き散らす声ごと、光を纏った巨刃が叩き斬る。

 

 脳天から胸の奥まで、深々と断ち割る重い手応え。

 ローケンスを支えていた言霊の魔力が霧散し、左右に裂けた身体がずるりと崩れた。

 

 血は流れない。

 

 巨大な石台の脇に倒れ伏した肉体は、ぼろぼろとひび割れ、どす黒い塵へ崩れていく。

 最後には何も残さず、地下室の冷たい闇へ溶けるように消えた。

 

 黄金の光がふっと失せる。

 

 ファルイーアの背から双翼がかき消え、宙にあった華奢な身体が落ちた。

 無防備な胸が石畳へ叩きつけられ、鈍い音が地下に響く。

 

 限界を超えた疲労もある。

 それなのに、彼は呻き一つ漏らさなかった。

 

 痛みを感じないのではない。

 痛みを感じても、それを外へ出す術を失っているのだ。

 

 ただ、紅い瞳を見開いたまま、静かに床へ転がっている。

 

「ケセナっ!」

「ファル!!」

 

 ラルとキョウが弾かれたように駆け出し、グレンの横を抜けようとした、その直後。

 

「待て!! 触るんじゃないっ!!」

 

 グレンの怒声が、地下室の空気を切り裂いた。

 二人の足がぴたりと止まる。

 

「……先生?」

 

 ラルが戸惑いに目を見開く。

 戦いは終わった。傷ついた友を助け起こして、何が悪いのか。そう言いたげな顔だった。

 

「……っ、あ……」

 

 だが、キョウだけは違った。

 

 彼女は足を止めたまま、自分の両手を強く握り締め、小刻みに震え始めていた。

 知っているのだ。四星霜前の内乱で、敵の血に濡れて立ち尽くしていた『紅い瞳の彼』を。

 味方であっても、近づけば容赦なく命を刈り取る、あの絶望を。

 

「……っ」

 

 息を詰まらせるキョウの肩を、グレンが無言で力強く抱き寄せた。

 暴走した彼から部下たちを守るため、あるいは殺める彼を見守るしかなかった。そんな彼女の罪悪感を、少しでも受け止めるように。

 

「大丈夫だ。……俺に任せろ」

 

 その温かい腕の中で、キョウは震える唇を噛み、小さく頷く。

 強張りが少しだけ解けたのを見届けると、グレンは腕を離し、今度は事情を呑み込めず立ち尽くすラルの頭へ大きな手を置いた。

 

「いいか、ラル。……あいつはケセナじゃない」

 

 声は低く、苦かった。

 

「俺が『触れるものはすべて敵だ』と叩き込んだ……四星霜前の殲滅兵器だ」

 

 ラルの紫の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。

 

 ベラリティルの拷問が彼を壊した。

 けれど、生き残るために「触れる者を殺せ」という防衛本能を植え付けたのは、自分たち大人だ。

 

 グレンの顔には、その自覚が深く刻まれていた。

 

「……っ」

 

 ラルは何も言えない。

 そんな彼女を安心させるように、グレンはかすかに笑みを浮かべた。

 

「お前たちは下がっていろ。……ここは俺がやる」

 

 静まり返った地下室で、グレンは一人、床に倒れたファルイーアへ向かって歩き出した。

 

 落下の衝撃で肺の空気を吐き出したのだろう。

 ファルイーアは肩をわずかに揺らし、空気を求めるように口を開いている。

 けれど、その呼吸は明らかに異常だった。

 

 深く吸って生きようとする呼吸ではない。

 気配を殺し、痛みを押し込み、致命傷を抱えたまま戦うためだけの、浅く小刻みな呼吸。

 

 グレン自身が、叩き込んだ呼吸法だった。

 

 肺は酸欠で悲鳴を上げているはずなのに、苦しいとも言わない。顔も歪めない。

 ただ無表情で、その非人間的な呼吸を繰り返している。

 

(……すまない)

 

 喉の奥までせり上がった謝罪を噛み殺し、グレンは数歩手前で立ち止まる。

 そして、感情を一切削ぎ落とした声で告げた。

 

「……命令だ。立て」

 

 四星霜前、彼を兵器として起動させるために使っていた、呪いの言葉だった。

 

 その直後。

 

 ふらり、と。

 ファルイーアは力なく立ち上がった。

 

 顔は上がらない。

 虚ろな紅い瞳は足元へ落ちたまま、何も映していない。

 

「戦闘終了。戻れ」

 

 グレンの低い声が地下室に響く。

 

 その命令に従い、ファルイーアがゆっくりと歩き出した。

 

 ローケンスに裂かれた衣服の胸元から、複数の古傷が覗いていた。中でも、ちょうど胃のあたりに残る傷が目立ち、グレンはわずかに目を逸らす。

 四肢には、先ほど自ら内側から破裂させた傷の名残が痛々しく刻まれている。

 普段であれば必死に隠すのだろう傷跡。だが、この状態の彼はそれすらしない。

 新しい傷はローケンスに癒され塞がっている。けれど極限の魔力消費と自傷の代償が消えるわけではない。

 

 足元はおぼつかず、ふらつき、数歩進むことすら危うい。

 手を伸ばせば届く距離だ。

 抱き止めてやりたい。支えてやりたい。

 

 それでも、グレンは決して手を貸さなかった。

 

 ここで触れれば、兵器の防衛本能が暴発する。

 彼を再び戦場へ引き戻すことになる。

 

 歯を食いしばり、こみ上げる衝動を抑え込み、グレンはただ、彼が自分の足で来るのを待つ。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 気の遠くなるような数歩を歩ききり、ファルイーアはついにグレンの目の前で止まった。

 

 項垂れた紅い瞳に映っているのは、分厚い漆黒の靴。

 帰るべき場所として刷り込まれた、グレンの足元だった。

 

 それを見届けてから、グレンは張り詰めていた冷酷な仮面を捨てた。

 無骨で、けれどどうしようもなく温かい保護者の声で、静かに告げる。

 

「……よくやった。おかえり、ファルイーア」

 

 びくり、と。

 華奢な肩がかすかに震えた。

 

 ゆっくりと顔が上がる。

 表情はまだ凍ったままだ。

 けれど、底知れない虚無を湛えていたはずの紅い瞳から、ひと筋、涙が零れた。

 

 ファルイーアが目を閉じる。

 

 長い、長い瞬き。

 

 そして再び開かれたその瞳は、もう紅くなかった。

 そこにあったのは、震える琥珀色だった。

 

 心はまだ痛みの底に閉じ込められている。

 それでも、魂の奥底で泣き続けていた『ケセナ』が、確かに帰ってきたのだ。

 

 その変化を見届けた瞬間、グレンは剣を床へ投げ捨てた。

 乾いた金属音が響くのとほとんど重なるように、彼の細い身体を力強く、そして壊れ物のように優しく抱き寄せていた。

 

 その温もりに包まれた途端、彼の異常な呼吸が変わる。

 戦場の呪縛がほどけるように、ぎこちなく、それでも目一杯に空気を吸い込む。

 萎縮していた肺の奥まで、生きるための息が届いていく。

 

 四星霜前の地獄で死んだはずの心が、もう一度、この世界で息をした。

 

「……っ、あ……ぁ、あああっ!」

 

 無表情のまま流れていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。

 ケセナはグレンの漆黒の服へ縋りつくように両手を食い込ませた。

 

「グレンさん……っ! グレンさぁんっ!!」

 

 その泣き声に、兵器の面影はもうどこにもなかった。

 そこにいたのは、理不尽な恐怖に怯え、痛みに耐え抜いた、優しくて臆病な一人の青年だけだった。

 

「ああ……」

 

 グレンは、その小さな手を振り払うことなく、震える背中を何度も何度も撫でる。

 

「怖かったな。……よく頑張った、ケセナ」

 

 グレンはもう一度、しっかりとケセナを抱き締めた。

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