兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
暗い地下室には、子供のように泣きじゃくるケセナの声だけが響いていた。
これまで押し殺してきた恐怖も、痛みも、兵器として縛られていた記憶も。そのすべてを吐き出すような激しい嗚咽を、グレンはただ黙って受け止めている。
その光景を少し離れた場所から見守りながら、キョウはふっと冷たい石壁へ背を預け、ずるりとその場へ座り込んだ。
ケセナの泣き声を聞いて、張り詰めていたものが切れたのだろう。遅れてやってきた恐怖の反動で、弓を握る手が小刻みに震えている。
「……悪かったな」
隣へ立ったガイアが、そんな彼女に声を落とした。
見上げると、ガイアは気まずそうに赤い髪を掻き、彼女の隣へ腰を下ろす。
「俺がローケンスに突っかかって、ファルを庇いきれなかった。……そのせいで、またあの顔をさせちまった。怖かっただろ」
「……」
「四星霜前、俺たちはあの眼を……味方さえ容赦なく刈り取る紅い眼を、ずっと見てきたからな」
ガイアの沈んだ声に、キョウは自嘲するように小さく笑い、震える自分の両手を強く握り締めた。
「……ええ。感情を殺したあの子を見るのは、やっぱり嫌ね。どうしても、あの内乱で見た絶望を思い出してしまう――」
そこで、キョウの声がふいに途切れた。
青銅色の髪が力なく揺れ、赤い瞳がきつく閉じられる。
「……それより、食べられなかった理由まで分かってしまって……私、混乱してる」
「……胃がなかったから、か」
ガイアが、奥歯を噛み締めた。
三星霜齢の頃から、ファルイーアは食事のたびに苦しそうだった。
少し口にしただけで青褪め、吐いて、それでも残すまいと小さな手で匙を握っていた。
「俺たち、何回言った。もっと食えって。大きくなれって……」
「ガイア」
キョウが短く遮った。
けれど、その声も震えていた。
「それ以上は駄目。ファルに聞かせちゃ駄目」
「……っ」
「謝りたいのは、こっちの都合でしょ。あの子は、きっと笑って大丈夫って言うわ。そういう子だもの」
ガイアは、何も言い返せなかった。
「だから、これから間違えない」
キョウは、グレンの胸で泣きじゃくるファルイーアを見つめた。
「食べられないことを、もう絶対に責めない。残しても、吐いても、苦しんでも……あの子のせいにしない」
「……ああ」
ガイアは低く頷いた。
「今度こそ、ちゃんと守る」
「キョウ……」
「私はもう怯えない。一番怖くて、痛い思いをしているのは、いつだってファルなんだから」
悔しそうに唇を噛むキョウの青銅色の頭へ、ガイアの大きな手がぽん、と無造作に乗せられた。
「俺は、ファルをもう二度と『兵器』には戻さねぇ……あいつは笑って怒って泣いてんのがちょうどいい。……ほら、見ろよ」
ガイアが顎でしゃくった先。
そこには、グレンの漆黒の騎士団服を千切れんばかりに握り締め、顔を押し当ててしゃくり上げる金糸の髪があった。
「我慢もせず、大声で泣きじゃくる『兵器』が、どこにいる。あいつはもう、ちゃんと俺たちのファルイーアだ。……守るぞ、あの泣き虫の弟を」
その優しく、力強い言葉に、キョウの目からふっと大粒の涙が零れ落ちた。
「当たり前よ。誰に言ってるのよ、馬鹿ガイア」
乱暴に目元を拭い、キョウは大きく息を吐き出す。
顔を上げた時には、いつもの気の強い『王の剣』の表情に戻っていた。
そんな大人たちのやり取りを知ってか知らずか、大声で泣きじゃくっていたケセナの激しい嗚咽は、次第に小さなしゃくり上げへと変わっていった。
それでも、彼はグレンの胸から離れようとはしない。
ローケンスの錆びた刃に裂かれた胸元を、震える両手で必死に掻き合わせている。誰にも見られたくない傷跡。歪な縫合痕。何もかも隠しきろうとするように、グレンの大きな影の中へ身を縮めていた。
その痛ましい様子に、ガイアは立ち上がり、自分の真紅の外套を脱ぐと、震えるケセナの背へそっと掛けた。
「ファル、これ着とけ。あちこち焦げて破けてるけど、ないよりマシだろ」
ぶかぶかの外套に包まれ、ケセナがびくりと肩を揺らす。濡れた睫毛の奥から、そろりとガイアを見上げた。
「でも……ガイア、寒いでしょ……」
まだ涙の混じる、小さな声。
自分がこんな有様でも、真っ先に他人の寒さを心配する。その優しさに、ガイアは思わず目元を緩めた。
「はんっ、俺は朱雀の炎だぜ? こんな地下の冷えなんざ、どうってことねぇよ」
にかっと笑い、頼もしげに自分の胸を叩いてみせる。
「ありがとう……」
その底抜けの明るさと、外套に残る確かな体温に、ケセナは安堵したように少しだけ肩の力を抜いた。
外套の端を震える指で胸元へ掻き寄せ、隠しきれない傷跡を覆うように握り締める。
それを合図にしたように、ラルもようやく恐る恐る近づいてきた。
触れていいのか迷うように、少し離れたところで膝をつく。
ラルは、外套に包まれたケセナを見つめたまま、唇を強く噛んでいた。
南方地区で初めて会った刻から、彼の身体があまりにも軽いことも、食べられる量が少なすぎることも、ずっと気になっていた。
胃がなかった。
その一言で、今まで見過ごしてきた違和感のすべてが、残酷なほど腑に落ちてしまった。
けれど、今ここで同情を向ければ、ケセナはきっと困った顔をする。
だからラルは、震えそうになる声を押し殺し、いつも通りに膝をついた。
「……ケセナ、どこか痛い?」
ラルは紫の瞳を揺らして、顔を覗き込んだ。
その声にケセナがゆっくり振り向いた。
「……平気」
短く答えたあと、ケセナは無意識に視線を逸らした。
彼にとって『痛み』は隠すものだった。
だから隠す。
それは彼の中に染みついてしまった、あまりにも根深い悪い癖だ。
外套で胸元を覆ったまま、ケセナは再びグレンの胸に顔を埋める。
「……はぁ」
その様子を見て、キョウはわざとらしく大きな溜息を吐いた。
それから立ち上がり、グレンの腕の中にいるケセナの前へずいと歩み寄った。
「その顔は我慢してる顔よ、ファル。痛い刻は痛いってちゃんと言いなさい」
そんな誤魔化しなど見抜いているとでも言うように、キョウは遠慮なく手を伸ばし、金髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「……っ、痛」
「え!?」
顔を顰めるケセナを見下ろし、キョウがぎょっとする。
「キョウ、それが一番痛い……ちょっと……頭が、痛くて」
「全然平気じゃないじゃない!」
キョウが慌てて手を離し、思わず声を張り上げる。
するとケセナはびくりと肩をすくめ、両手で耳を塞ぐように身を縮めた。
「……たぶん、魔力が尽きかけてるのと疲労、だと思うから……。ごめん、大きい声、やめて……頭に響く」
ひどく掠れた声だった。
魔力の使いすぎと度重なる自傷。肉体の傷は塞がっても、尋常ではない消耗そのものはどうにもならない。
その場にいた誰もが、言葉を失った。
本当なら、このまま眠らせてやりたい。何も聞かず、何もさせず、ただ温かい場所へ連れ帰ってやりたい。
けれど、ここはベラリティル本宅の地下室だ。ローケンスは消えたが、すべてが終わったわけではない。
「……休ませてやりたいが、猶予はないぞ、ケセナ」
グレンが、保護者の顔を引っ込め、再び指揮官の声で告げた。
この地下室から逃げるためではない。ここまで潜り込んだ目的を果たすための言葉だ。
「……分かってる。あそこ――」
ケセナはグレンへ寄りかかったまま、震える指で暗い壁の一角を示した。
「あそこの石壁……一つだけ、押せる石がある。押せば、左右に開く……そういう術式にしてある……」
「壁ぇ?」
ガイアが目を瞠り、示された方へ駆け寄る。
――五千星霜前。
初代応龍皇帝ライネルと、右腕だったオウセイが密かに掘り進めた地下道。
誰にも知られず皇帝の寝室へ至るための抜け道。
「お前、五千星霜前からどんだけ用意周到なんだよ……」
呆れたようにぼやきながらも、ガイアは獰猛な笑みを浮かべて壁を探り始める。
だが、ケセナから返ってきたのは、ふにゃりと眠たげな声だった。
「……違うよ」
「あ?」
その言葉にガイアは、壁に手をつけたまま首を傾げた。
「ライネルが……どうしても街で麦酒を飲みたいって、駄々こねるから……俺は、それに付き合わされて……抜け道掘るの、手伝わされただけ……」
「…………は? なんだよ、それ」
「あいつ、街の酒場が……好きで、さぁ……」
そこまで言って。
限界まで酷使された肉体の疲労と、ようやく訪れた安堵が、一気に押し寄せたのだろう。
ケセナの瞼はゆっくり閉じ、ことん、とグレンの胸へ額を預けた。そのまま、穏やかな寝息が静かに落ちてくる。
「ケセナ、寝ちゃった」
「おい、こら! 一番大事なところで寝るなよ!!」
ラルの呆れた声と、ガイアの情けない声が地下に響いた。
「……ったく。世話の焼ける王様だ」
グレンは深く、それでいてどこか安堵の混じる息を吐くと、膝の裏と背中に腕を回し、眠るケセナの身体をそっと抱き上げた。
(……胃が、ない……か……)
両腕の中に収まったその身体に、胃という臓器そのものが欠けているという事実が、改めて胸へ重くのしかかる。
華奢で食が細いだけだと思っていた。いつ抱き上げても軽いこの身体が、いつか当たり前の重みを持つと信じていた。
だが、それはもう叶わない。
抱き上げたグレンの太い腕に、ぎりっと力がこもる。
その無念の横顔を見たガイアとキョウもまた、口を引き結んで眠るケセナを見つめていた。
(もう二度と、ファルに兵器の顔はさせねぇ)
(絶対に、私たちが守り抜く)
言葉を交わすまでもない。大人たちの間に、かつてないほど強い決意と静かな殺意が共有された。
けれど、このまま沈黙していれば、全員が怒りと後悔に呑まれる。
だからグレンは、その空気を振り払うように、いつもの呆れたような口調を作った。
ケセナを大事に抱きかかえたまま、壁を探るガイアの背中へ声をかける。
「せめてどこを押すかまで言ってから寝ろ」
「マジでそれな! 酒場行きの抜け道どこだよ!」
地下室に男二人の愚痴が響く。
死臭と血の匂いが染みついた最悪の場所で、それでもぶつぶつ言い合いながら壁を探り続ける背中は、妙に温かかった。
しかし、壁を撫で回しても、それらしい石は見つからない。
「ああもう、どこだよ! いっそ燃やすぞ!」
「落ち着け。石壁は燃えない。……退け、俺が斬る」
「だから剣でどうにかなる話じゃねぇだろ! 先生こそ落ち着けって!!」
その横で。
ラルが何も言わず、壁の根元へしゃがみ込んだ。
ほとんど消えかけた魔力の残滓が、床際の小さな石の奥で淡く瞬いている。
最下段の床と接するぎりぎりの位置にある、小さな石。
それを指先で、かちりと押し込む。
直後、重い地鳴りのような音を立て、石壁がゆっくり左右へと動き始めた。
「「……え?」」
男二人の間抜けな声が綺麗に重なる。
ラルはそんな二人を見上げもしなかった。
何食わぬ顔で立ち上がり、小さく息を吐くだけだった。
「……光ってた」
「先に言えよ!」
即座に噛みついたのは、ガイアだった。
「だって、二人とも必死だったし」
「見ていたなら、もっと早く押せ」
眠るケセナを抱え直しながら、グレンも当然のように続く。
「騒がしかったから」
ぴしゃり、とラルが言い切る。
ガイアがぐっと詰まり、グレンは深々と眉を顰めた。
「馬鹿ねぇ……」
キョウの呆れた呟きが落ちる。
そんな騒がしさの中でも、ケセナだけは何も知らず、穏やかな顔で眠り続けていた。