兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「情けないにも程がある話なんだけど……ほら、ファルイーアって、筋金入りの方向知らずだろう?」
ケセナ・レフィードと名乗った人形は、自分の失敗談でも語るように困った顔で笑い、茶髪の後頭部を掻いた。
「どこでどう迷ったのか、案の定、盛大に道を外してさ。よりにもよって、警備の厳しい『皇帝陛下の私室』にぽろっと出ちゃったんだよ。そこで偶然、この隠し扉の術式を動かしちゃって、そのままここへ転がり込んできたってわけ」
「…………」
あまりにも間の抜けた逃亡劇――いや、迷子騒ぎの顛末に、張り詰めていた『王の剣』の殺気が、すうっと抜け落ちていった。
彼らは知っている。グレンの腕の中で眠るこの青年が、救いようのない方向知らずであることを。
「……またそんな無茶苦茶な迷い方を……」
弓を下ろしたキョウが、こめかみを押さえるように息を吐く。
グレンも、ガイアも、ラルも、そろって毒気を抜かれた顔で肩を落としていた。
「でね。オウセイが迎えに来るまでのあいだ、泣きべそかいてるファルイーアと僕が遊んであげたんだ」
一行の呆れ顔を面白がるように笑いながら、人形は穏やかな声で昔語りを続けた。
「あの頃の僕は、魔法を一つ仕込まれただけの、棒切れみたいな古い箒だったんだけど、ファルイーアがね、僕と友達になりたい、名前を教えてって言うんだ。けど、僕はただの箒だし、名前なんてないよって返したら――」
人形はそこで言葉を切り、ファルイーアを抱いているグレンを真っ直ぐ見た。
「ファルイーアが、こう言ったんだ。『名前、僕があげる! 僕の名前も、グレンがくれたっ』って」
「……っ」
グレンの息が、不自然に詰まった。
檻から逃げ出し、暗い地下道で一人きりで泣いていた幼い少年。
その子が、グレンから与えられた名前と愛情を、どれほど大事に抱えていたのか。
無垢で、健気で、どうしようもなく優しいその記憶に、グレンは胸を締めつけられ、無言のまま腕の中の温もりを抱き直した。
「そうして彼が僕に『ケセナ』って名前をくれて……その強い魔力と、あの刻のファルイーアの奥底にあった願いに引っ張られて、僕はこの姿になったんだよ」
薄暗い地下道で、本物とそっくりの顔をした人形は、この場所で生まれた奇妙で温かな『友達』のはじまりを、静かに微笑みながら語った。
「ほら、どう見ても僕、敵じゃないでしょ?」
ケセナ・レフィードは語り終えると、本物と同じ茶色の瞳を細め、人懐っこく首を傾げた。
「『ほら』って言われてもなぁ……」
ガイアが赤い頭を掻きながら、やりづらそうに唸る。
話の中身がどれだけ温かくても、自分たちの大事な家族と同じ顔、同じ声をした得体の知れない存在を、すぐに受け入れられるはずもなかった。
そんな『王の剣』の警戒を察したのか、人形は少しだけ口を尖らせ、大袈裟に肩をすくめた。
「つれないなぁ。僕、敵じゃないって分かってもらうために、こんなに秘密を明かしたのに。まだ足りない? ……もっと特別な話でもしようか?」
ケセナ・レフィードは、悪意の欠片もない笑顔のまま、とんでもない言葉を落とした。
「あの四星霜前の内乱で。心を閉ざして、『兵器』として血にまみれていた刻のファルイーアが、胸の奥で本当は何を思っていたのか、とか」
ぴしり、と。
地下道の空気が、刹那に張り詰めた。
それは、ずっと彼に寄り添ってきたグレンですら、決して踏み込めなかった場所だ。
彼自身の最も深く、最も暗く、未だ癒えていない傷だった。
その禁域へ、この人形は、気の利いた昔話でも披露するような顔で、平然と足を踏み入れた。
「……お前、何を言って……っ」
腕の中の温もりを強く抱えたまま、グレンの低い声がかすかに震える。
「だってグレンさん、本当は知りたくないの? グレンさんが大事に育てて、それから戦場で使える形に作り替えた、ファルイーアの本当の気持ち」
人形は、子供が残酷な真実を悪気なく口にするみたいに、首を傾げて微笑んだ。
「名前をくれて、愛をくれた大好きな人が、自分をあの地獄へ叩き込んだ。だから、心が壊れきる前に、自分で感情を殺すしかなかった……あの頃のファルイーアの、悲鳴」
「…………っ!!」
ぎり、と。
グレンの奥歯が、血が滲みそうなほど強く鳴る。
反論などできるはずがない。
それは、グレンが忘れたことのない後悔であり、消えることのない罪悪感そのものだった。
「でも、僕は知ってるんだ。グレンさんが、未だにそれを――」
「――いい加減、黙ってくれる? 『お人形さん』」
凍りつくような声が、無邪気な語りを真っ二つに断ち切った。
地下道の空気が、先ほどまでの呆れ混じりの緩みから一転、肌を刺すような殺気に塗り替わる。
切れたのは、他でもない。
誰よりもファルイーアを愛し、その心を土足で踏みにじる真似だけは絶対に見過ごさない、キョウだった。
「……黙って聞いていれば。たかが『箒』のくせに、人の心を知ったみたいな口、利かないで」
「だってキョウ、ここにいれば情報が勝手に流れ込ん――」
「呼び捨てにされる筋合い、一つもないのよ!!」
キョウの怒声が、地下道の壁をびりびりと震わせる。
それでも人形は怯えなかった。むしろ、どこか楽しそうにくすくす笑っている。
「怒らないでよ。……相変わらず気が短いなぁ」
「黙りなさいよ、この箒っ!」
「だから、僕はケセナだって言ってるじゃないか」
「『ケセナ』は、そこで寝てるでしょっ!! あの子はね、あんたみたいに無神経に人の傷を抉らないの! いつも周りを気にして、びくびくして、優しすぎるくらいなんだから!」
キョウが、グレンの腕の中で気持ちよさそうに眠る少年を、びしっと指差して怒鳴る。
キョウにとって『ケセナ』とは、愛してやまない心優しい弟、そのただ一人だけだ。
得体の知れない人形が、あの子と同じ顔で、あの子の大切な名前を名乗ることなど、死んでも認めるつもりはなかった。
けれど人形は、そんな剣幕を前にしても、へらへらと愛想のいい笑みを浮かべているだけだった。
怒りも、悲しみも、殺気も、何も届かない。ただ『情報』だけを無邪気に吐き出し続ける姿は、狂気そのものだったローケンスとはまた違う意味で質が悪い。
「……あいつより面倒だわ、ほんと」
キョウが吐き捨てる。
「そんなぁ。ファルイーアが、せっかく僕にくれた名前なのに」
「あーもうっ! なんでこんな刻に限って、その元凶が呑気に寝てんのよっ!!」
どれだけ怒鳴っても、腕の中のケセナは幸せそうな寝息を立てたままだ。
その事実が行き場のない苛立ちに火を注ぎ、キョウはとうとう堪忍袋の緒を完全に切った。
「……いい? あんたは今日から『箒』。ただの箒。人の心の傷を土足で抉るような奴に、あの子の名前を名乗る資格なんてないの。この場で改名よ、この出来損ないの箒!!」
「だ、だって……彼がくれた、大事な友達の証なのに……っ」
理不尽な怒りを真正面から浴びて、さしもの『何でも知っている』不気味な人形も、さすがにたじろいだ。
「いいから! 箒は箒らしく、そこで床でも掃いてなさいっ!!」
「……はいっ!!!」
ファルイーアの奥底と繋がっているせいなのか。単にキョウが怖すぎただけなのか。
人形はキョウの剣幕に完全に気圧され、ぴしっと返事をしたかと思うと――ぽんっ、と間の抜けた音を立てて、魔法が解けたみたいに、ただの『古ぼけた木の箒』へと戻ってしまった。
からん、と。
冷たい石畳に一本の箒が転がる。
つい先ほどまであれほど不気味だった気配が、嘘みたいに消えていた。
「うぉぉ……胃が痛ぇ……」
その一部始終を横で見ていたガイアが、巨体を折り曲げ、顔を引き攣らせながら胃のあたりを押さえて呻く。
「……なによ」
勢いそのままに、キョウが般若みたいな顔でガイアを睨みつける。
「ひっ!? な、なんでもねーよ! こっち見んな!!」
ガイアは慌てて視線を逸らし、さらに小さく縮こまった。
ガイアが骨身に染みて知っている、不変の真理。
どれほど強い魔物より、どれほど不気味な人形より、本気で怒った『お姉ちゃん』に逆らえる者など、昔から一人もいない。
「……そこで死んだふりしてる、ただの『箒』」
底冷えする声で吐き捨てると、キョウは石畳に転がる哀れな木の柄を、容赦なく靴の底でぐりっと踏みつけた。
「……っ、痛いです、キョウさん」
どう考えてもただの木の棒から、少年のくぐもった声が返ってくる。
「えっ、箒が喋ってる……。口どこにあるの? 気持ち悪っ……むぐっ!?」
あまりの光景に、ラルが素直すぎる感想を漏らした。
すると背後から伸びてきたガイアの分厚い手が、彼女の口を強引に塞ぐ。
「馬鹿、黙っとけ……! 飛び火したら次は俺らが死ぬ……っ!」
ラルを羽交い締めにしながら、ガイアが悲痛な声で囁く。
怒れるお姉ちゃんの前では、何でも知っているはずの人形も、朱雀族長も、ただ震えて息を潜めるしかなかった。
「まずは、あんたのえげつない台詞が頭の中で何万回も鳴って、思考が止まってる黒くてでっかい人に謝りなさい!!」
キョウが足元の箒をさらに踏みつけながら怒鳴る。
「えっ、あ、はい! グレンさん、その……僕、何も考えずに……っ」
「言い訳はいらないっ!!!!」
「はいっ!!! ごめんなさい、グレン騎士団長!!」
「……え?」
ただの『箒』から突然大声で謝罪されて、虚空を見つめていたグレンが、そこでようやく顔を上げた。
「よし。はい次!!」
「……えっ?」
だが、キョウの関心はすでに次へ移っていた。
(絶対、先生、今の謝罪ちゃんと聞いてねぇだろ、キョウ……!!)
ガイアは声に出せない突っ込みを胸の内で絶叫するしかない。
口に出したら、自分も踏まれる。
「情報通なんでしょ!? だったら教えなさい! あの忌々しいフィサルーアが、今この城のどこにいるのか!!」
「え、この真上」
「……はい?」
「だから、この真上の『玉座の間』でふんぞり返ってるよ」
箒から告げられた、あまりにも近すぎる答え。
「…………」
キョウも、ガイアも、ラルも、ようやく意識を戻したグレンも。
『王の剣』の一行は妙に行儀よく、そろって同じ角度で、薄暗い地下道の天井――つまり『真上』を見上げた。