兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
全員揃って妙に行儀よく真上を見上げたあと、『王の剣』の一行は気を取り直して地下道を進み始めた。
「先生、安心してください。もうあんな顔では、二度と出てきませんから」
先頭を歩くキョウが振り返り、グレンにだけは妙に優しい笑みを向ける。
「ああ、すまない。……ありがとう、キョウ」
グレンは腕の中のケセナを抱き直しながら、眉間に深い皺を刻んだまま、そう返すしかなかった。
思考が止まっていた間に、あの不気味な茶髪の少年は綺麗さっぱり消え失せ、なぜかキョウが古びた箒を仇敵のようにぎりぎりと握りしめていた。事情がまったく呑み込めていないグレンには、複雑な苦笑を浮かべることしかできなかった。
だが、当のキョウはそんな戸惑いに一切頓着せず、前を向いたまま手元の箒へ冷え切った声を落とす。
「で? 出来損ないの箒。何しに私たちの前へ出てきたのよ」
「えっ? だ、だから、ファルイーアが久しぶりにここへ来たから、挨拶でもしようかなって……」
「……本当にそれだけ?」
「はい。本当に、それだけです……」
「消えなさい」
キョウは間髪入れずに言い放つと、箒を自分の膝へ叩きつけ、そのまま真っ二つに折ろうとした。
「あぁぁーーっ!? 待って待って、折らないでくださいぃーーーっ!!」
めきめきと嫌な音を立てる自分の柄に、箒の情けない悲鳴が地下道いっぱいに響き渡る。
本気で箒をへし折ろうとしているキョウを見て、後ろを歩くガイアとラルはすっかり震え上がっていた。二人は盾でも使うように、グレンの広い背中へぴたりと身を寄せて歩いていく。
「……ねえ。なんかキョウ、本当に怖いんだけど」
「馬鹿、声落とせ! 聞かれたら次は俺たちだぞ……!」
切実な囁きは、当然ながらグレンの耳にも届いていた。
それでも今のグレンには、複雑な苦笑を返すことしかできない。
「あ、あのぅ……キョウさん。では、僕はいったい何をすれば……」
首でも絞められるように柄を握り込まれたまま、箒がおずおずと尋ねた。
「とりあえず、その声と口調をどうにかしなさい」
「どうにかと仰いましても……僕、この声で生まれついた刻から――」
「燃やすわよ」
「はいぃぃぃぃいいい!! 変更いたします!!」
(……少し気の毒だな)
絶対的な暴力に屈する哀れな箒を見下ろし、グレンは胸の内でほんの少しだけ同情した。
だが、腕の中で気持ちよさそうに眠るケセナを見れば、キョウが怒り狂う理由も分かる。つい先ほどまでこの箒は、自分たちの大切な家族と同じ声と口調で、平然と心の古傷を抉ってきたのだから。
「……こほん」
不意に、キョウに握られた箒がわざとらしく咳払いをした。
「箒が咳払いした……。無理、気持ち悪い」
背後でラルが、素直すぎる嫌悪をそのまま呟いている。
「『気持ち悪い』とは、いささか心外ですね。かの剣精殿とて、昔はただの喋る武器に過ぎなかったでしょうに」
箒から発せられたのは、先ほどの少年声とは似ても似つかぬ、低く落ち着いた老紳士のような声だった。
「えっ……プラウのこと知ってるの?」
ラルが紫の瞳を見開く。
「ええ、もちろん。あの剣精殿も、人の姿を取れなかった頃は、オウセイ様に『うわっ、刀が喋ってる……』と、かなり露骨に引かれておりましたから」
「…………あー」
その情景をありありと思い浮かべてしまい、グレンは深く納得した声を漏らした。
(だからプラークルウは、あそこまでひねくれたのか……)
応龍皇帝の剣精が、なぜあれほど皮肉屋に育ったのか。長年の疑問が、思わぬ形であっさり解けた瞬間だった。
「……まあ、剣精の昔話はどうでもいいわ」
キョウは興味なさそうに話を切り捨て、改めて手元の箒をじろりと睨む。
「あんたが情報通なのは認めてあげる。これからは、知ってることを有用な順に全部吐いてもらうわ。いい?」
「ええ、もちろん。この老骨に分かる範囲でよろしければ、いくらでも……お嬢様の仰せのままに」
(……あ、落とされたな、こいつ)
つい先ほどまで命乞いしていたとは思えない恭しさで忠誠を誓う箒を見て、ガイアは密かに遠い目をした。キョウの被害者が、また一人――いや一本、増えたのである。
「フィサルーアが真上、玉座の間にいるのは分かったわ。じゃあ城内に他の伏兵は? 何人残ってるの?」
キョウが尋問を続ける。
だが、箒から返ってきた答えは、『王の剣』の予想を完全に裏切った。
「他には誰もおりません。この広い皇宮にいるのは……玉座でふんぞり返っているフィサルーア、ただ一人です」
「はぁっ!?」
ガイアが素っ頓狂な声を上げた。
「皇宮に一人だけだと!? さすがに嘘だろ! あいつには腹心がいただろうが。魔術団の副団長だか何だかいう……」
「フェイカー・ゴルデニアのことでしょうか」
箒が静かにその名を出した瞬間、ラルの赤みがかった金髪がかすかに揺れた。
「そいつだ。あいつはどうした」
「もうおりません」
老紳士めいた声が、淡々と告げる。
「以前、森でファルイーアとラル様を襲撃した際、黄金龍の光に焼かれました。魔人の加護ごと、跡形もなく」
「……何だと?」
グレンの声が低く落ちる。
腕の中のケセナは、何も知らないように眠っている。
その胸の奥で隠し続けていたものが、箒の口からあっけなく暴かれた。
「ラル」
グレンが、ゆっくりと名を呼ぶ。
ラルは紫の瞳を伏せ、短く息を吐いた。
「……本当」
「なぜ黙っていた」
「ケセナが、言いたくなさそうだったから」
それ以上、問い返す者はいなかった。
グレンは腕の中のケセナを見下ろした。
眠る青年の顔は、ひどく穏やかだ。だが、その奥にどれほどの恐怖と罪悪感を押し込めてきたのか、想像するだけで胸が軋む。
黄金龍に呑まれ、自分の意思ではない力で人を消し飛ばした。
その事実を、彼が平然と語れるはずがない。
「……この件は、ケセナには聞かない」
最初にそう言ったのは、グレンだった。
低く、けれど迷いのない声だった。
「必要なら、俺たちが知っていればいい。こいつにもう一度思い出させる必要はない」
「同感ね」
キョウが静かに頷く。
先ほどまで箒へ向けていた怒気は、もうなかった。ただ、眠る弟を守る姉の顔だけがそこにある。
「ファルが話したくなったら、その刻に聞けばいいわ。こっちから抉ることじゃない」
「……ああ」
ガイアも、珍しく何も茶化さなかった。
「ファルは、ただでさえ自分を責めすぎる。俺たちが聞いたところで、楽になるわけじゃねぇ」
ラルは、唇を引き結んだまま小さく頷いた。
「……ごめん。黙ってて」
「謝ることではない」
グレンは短く遮った。
「お前は、ケセナを守った。それだけだ」
その言葉に、ラルの肩からほんの少しだけ力が抜けた。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
黄金龍が何を焼いたのか。
ケセナがその事実をどれほど恐れていたのか。
知ってしまった以上、忘れることはできない。
だが、眠る青年の傷口を、わざわざ暴いて確かめる必要もない。
彼が目を覚ましたあとも、この話はしない。
それが、その場にいる全員の答えだった。
「嘘は申しておりません。情報にも狂いはございません」
箒は声を落とし、静かに続けた。
「…………腹心を失ったとはいえ、皇宮に兵が一人もいないのは異常だ」
ガイアの横で、グレンも険しい顔をして考え込む。
自分の命を狙う者たちが押し寄せてくる本丸で、狂王は兵を一人も置かず、ただ一人で待っている。
自暴自棄か。それとも、護衛など不要と思えるだけの確信があるのか。
静かすぎる敵地の有様に、一行の間へ緊張が走った。
「……護衛など、あの狂王には必要ないのでしょう。いえ、正確には『置いていない』のです」
箒は淡々と続けた。
「彼は誰のことも信じてなどいない。信じているのは、ただ一つ……己の内に巣食う『魔人の力』のみですから」
「……なるほどな」
グレンが呟き、前を見据える。
「彼がたった一人で玉座に座っているのは、ファルイーア、ただ一人を待っているからです。自らの手で彼を殺し、今度こそ自分こそが『真の皇帝』だと証明するために」
そこまで語った箒の声が、かすかに震えた。
老執事めいた落ち着きの奥から、暗い地下道で泣いていた幼子へ寄り添った『友達』としての願いが滲み出る。
「……どうか、彼を殺させないでください。ファルイーアは、僕の大切な『友達』ですから」
「……当たり前でしょ。殺させるわけない」
箒の言葉へ、ラルが迷いなく言い切った。
紫の瞳には、鋭い戦意と殺意がすでに宿っている。
「ケセナは絶対に死なせない。……あたしたちが、あの玉座で偉そうに座ってるフィサルーアを殺す」
その言葉とともに、地下道の最奥――一行の前に、重厚な石造りの扉が静かに姿を現した。
ここを抜ければ、真上はもう狂王の本丸だ。
キョウの手元で、木の柄へ戻った箒が、深く一礼するように声を落とす。
「では、私はここまで。……この場で、皆様の吉報をお待ちしております」
「……もう二度と、ファルの真似はしないでね」
キョウは手にした木の柄を、少し乱暴に、けれど倒れないよう壁へ立てかけた。
「畏まりました。『友達に似た友達』には、もう二度となりません」
「……微妙に癪に障る言い回しね。やっぱりへし折っておこうかしら」
「ああああっ! 違います、そういう意味ではなくてですね!?」
「そう。残念」
またしても命の危機を感じたのか、箒はがたがたと柄を震わせた。
それから、老紳士の声音へ戻って静かに告げる。
「……ファルイーアが目を覚ましたら、ただの『箒』が会いたがっていたとお伝えください。あと、オウセイ様にも……どうかお元気で、と」
「ああ。……必ず伝える」
グレンは短く、だが確かな誓いを込めて頷いた。
そして、ガイアが重厚な扉の取っ手へ分厚い手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
重い摩擦音が地下道に響き、五千星霜の間、閉ざされていた境界が静かに開いた。
その先は――敵の本丸たる皇宮。
幼いファルイーアが迷い込み、この地下道へ転がり込んだという『皇帝の私室』だ。
腕の中では、肝心の主戦力が相変わらず呑気な寝息を立てている。
前代未聞。
『王の剣』は、主戦力を熟睡させたまま、狂王の待つ玉座へと踏み込むことになった。