ガンダムSEED 幕間:1人のエクステンデッドが救われるまで 作:フェネ
雨の匂いがした。
空は重たい雲に覆われている。
灰色の雲が低く垂れ込み、昼だというのに島全体は薄暗かった。
湿った風が洞窟の中まで吹き込んでくる。
遠くで雷の音も聞こえた。
波の音だけが、妙に大きく響いている。
寄せては返す海鳴りが、途切れることなく耳に残った。
エトワールは洞窟の壁にもたれたまま、ぼんやりと火を見つめていた。
ぱち、ぱち、と薪が爆ぜる。
火の粉が舞う。
薄暗い洞窟の中で、その色だけがやけに鮮明だった。
両手首には、簡易拘束具。
イモータルジャスティスの予備ワイヤーを流用したものらしい。
細い金属ワイヤーを二重に巻き、簡易ロックで固定している。
きつくはない。
動こうと思えば多少は動ける。
岩肌に擦れば、時間をかければ外せるかもしれない。
それが逆に、不思議だった。
ブルーコスモスなら違う。
もっと強固に拘束する。
逃亡の可能性は徹底的に潰す。
抵抗すれば薬を打たれる。
あるいは痛みでその意思を消される。
そういう扱いに慣れていた。
でも、目の前の彼はそうしなかった。
「ほら」
缶詰が投げ渡される。
エトワールは反射的に受け止めた。
少し熱い。
金属表面がまだ温かい。
火で炙ったのだろう。
「……なに、これ」
「メシ」
シンは当然みたいに言った。
「食わないと倒れるぞ」
「……毒」
「入れてねぇよ」
呆れたような返事。
シンは火の近くへ座り込み、濡れたインナースーツを絞っていた。
海水と雨で重くなった布地から、水滴がぽたぽた落ちる。
その腰には拳銃。
エトワールは無意識に視線を向ける。
今なら。
奪えるかもしれない。
シンが油断している今なら。
武器を取って、撃って。
それで終わる。
コーディネーターは敵だ。
殺さなければならない。
そう教えられてきた。
小さい頃から。
薬を打たれながら。
ラボで。
何度も。
コーディネーターは人類の敵。
宇宙の化け物。
だから殺せ。
それが、自分たちの正義なのだと。
なのに。
その考えを浮かべた瞬間、胸の奥に強烈な違和感が走った。
気持ち悪い。
胃の奥がざわつく。
頭の奥が軋む。
さっきまで、自分を助けていた相手だ。
水を渡して。
火を起こして。
食事をくれた。
それを撃つのか?
自分は。
「……っ」
エトワールは視線を逸らした。
考えたくなかった。
どうしてこんな風に思うのか、分からない。
今までなら、こんなことで迷わなかった。
命令された相手を撃つだけだった。
なのに今は。
頭の中で繰り返される“敵を殺せ”という言葉と、自分の感覚が噛み合わない。
火を見つめる。
温かい。
そんなことを思ったのも、いつぶりか分からなかった。
調理された食事は、まともに食べた記憶がない。
栄養剤。
薬。
訓練。
それだけだった。
不意に、腹が鳴った。
エトワールは反射的に身体を縮こませる。
聞かれたかもしれない。
そう思った。
だが、シンは何も言わなかった。
缶詰の蓋だけをナイフで開け、自分も別の携行食を齧っている。
エトワールは少しだけ迷ってから、缶詰へ視線を落とした。
肉と豆の煮込み。
簡素な保存食。
でも、匂いがした。
食べ物の匂い。
胃が痛いほど空腹を訴えてくる。
「……」
恐る恐る、一口だけ食べる。
温かかった。
その瞬間。
身体の奥が、ぞわりと震えた。
熱が落ちていくみたいだった。
冷え切っていた内側へ、少しずつ感覚が戻ってくる。
気づけば、エトワールは無言で缶詰を食べ続けていた。
シンは何も言わない。
ただ火の番をしながら、時折外の様子を見ている。
監視されているはずなのに。
妙に静かだった。
***
シンは火を見つめながら、内心で小さく息を吐いていた。
正直、かなり困っていた。
敵兵を拾った。
しかもデストロイの生体CPU。
本来なら拘束して、引き渡す。
それだけの話だ。
コンパスの規定でも、その対応が正しい。
下手に情をかけるべき相手じゃない。
でも。
視界の端に映る少女は、どうにも放っておけなかった。
細い。
痩せすぎている。
肩も腕も、骨ばっていた。
肌色も悪い。
まともな生活をしてきた人間の身体じゃない。
それなのに、あんな巨大な機体を動かしていた。
大気圏突入なんて無茶までやらされて。
シンは無意識に奥歯を噛む。
思い出す。
ステラ。
あいつも、こんな風だった。
薬で感情を抑え込まれて。
戦うことだけを教え込まれて。
兵器として使われて。
最後には──
「……」
シンは無意識に拳を握る。
あの時、自分は救えなかった。
守ると言ったのに。
結局、何一つ間に合わなかった。
今でも夢に見る。ステラのことを。
だからなのかもしれない。
目の前の少女を、見捨てられないのは。
似ている。
外見はあまり似ていないが。
同じ、目をしている。
敵なのに。
放っておけばいいはずなのに。
そう思えなかった。
***
「……逃げないのか」
不意に、シンが聞いた。
火を見つめたままの声だった。
責めるような響きはない。
ただ純粋な疑問のように聞こえた。
「え?」
エトワールは顔を上げる。
「拘束、簡易的なやつだし」
シンはワイヤー拘束へ視線を向ける。
「本気で暴れれば、時間かければ外せるだろ。今なら逃げられる」
エトワールは少し黙った。
逃げる。
その言葉が、妙に遠く感じる。
逃げて、どこへ行くのか。
帰る場所なんて無い。
基地へ戻れば、またMSに乗せられる。
薬を打たれて、戦わされる。
壊れるまで。
使えなくなるまで。
それは“帰る”とは違う。
ただ回収されるだけだ。
「……ないから」
「何が」
「逃げる場所」
シンは押し黙った。
火が小さく爆ぜる。
洞窟の中へ雨音が響き続ける。
その沈黙に、エトワールは妙な居心地の悪さを覚えた。
彼は、自分を責めない。
敵なのに。
怒鳴りもしない。
殴りもしない。
それが逆に辛かった。
憎まれた方が楽だった。
化け物扱いされた方が慣れている。
なのにシンは、自分を普通の人間みたいに扱う。
それが、胸の奥を落ち着かなくさせた。
***
火の音だけが響く。
エトワールは、缶詰を食べ終わっていた。
急いで食べたせいで、口の端には少しソースがついている。
自分では気づいていない。
「おいし……かった」
ぽつりと漏れた言葉。
自分でも驚くくらい小さな声だった。
「そりゃよかった」
シンは少し笑う。
自然な笑い方だった。
馬鹿にするでもなく、警戒するでもなく。
ただ普通に返しただけ。
その瞬間だった。
脳裏に、光景が蘇る。
炎。
崩れる建物。
逃げ惑う人。
泣き叫ぶ子供。
ビーム。
爆発。
焼ける街。
デストロイのコクピットから、それを見下ろしていた自分。
今までは実感がなかった。
標的。
敵。
排除対象。
そういう記号でしかなかったからだ。
モニター越しの点。
消える熱源。
崩れる建造物。
ただ、それだけ。
でも。
今は違う。
目の前の彼と、あの人たちが重なる。
笑っていたかもしれない。
食事をしていたかもしれない。
誰かを待っていたかもしれない。
普通に生きていた人たち。
目の前のシンみたいに。
押し込められていた想像力が、一気に爆発する。
今まで見ないようにされていたもの。
感じないように潰されていたもの。
それが、急に現実になる。
「──っ」
胃がひっくり返る。
息が詰まる。
視界が揺れる。
エトワールは洞窟を飛び出した。
「お、おい!」
シンも慌てて立ち上がる。
外は豪雨だった。
叩きつけるような雨。
灰色の海。
風が唸る。
エトワールは浜辺で膝をつき、激しく吐いていた。
「ぁ……っ、ぅ……!」
呼吸が乱れている。
肩が震えている。
細い身体が、雨に打たれて小刻みに揺れていた。
「わたし、が……っ……」
シンは近づきかけて、止まる。
何を言えばいいのか分からなかった。
慰める資格なんて、自分にあるのか。
死んだ人間は戻らない。
どんな理由があっても、消えた命は返ってこない。
だから、ただ黙って立っていた。
「わたしが、殺した……!」
エトワールは頭を抱える。
今まで壊してきたものが、一気に押し寄せていた。
焼いた街。
踏み潰した建物。
逃げる人影。
その人たちには。
きっと。
家族も。
恋人も。
友人も。
いた。
なのに、自分は。
何も感じなかった。
薬で。
命令で。
戦闘の高揚で。
全部、押し潰されていた。
「っ、ぁ……!」
エトワールの視線が、足元の岩へ向く。
砕けた岩片。
鋭利な破片。
雨に濡れ、鈍く光っている。
その瞬間。
シンは嫌な予感を覚えた。
「おい、待て!」
エトワールが岩片を掴む。
震える手で、自分の首へ向けた。
「やめろ!」
シンは即座に腕を掴んだ。
強引に止める。
岩片の先端が、エトワールの首筋を浅く掠めた。
「離して……!」
「駄目だ!」
振り払おうとする細腕を、シンは力任せに押さえ込む。
軽い。
簡単に押さえ込めてしまう。
それが余計に腹立たしかった。
こんな状態になるまで放置されていたことが。
「死なせるかよ!」
「なんで……っ!」
エトワールが叫ぶ。
「なんで、そんなこと言うの……!」
雨に濡れた顔。
涙なのか雨なのか、もう分からない。
シンは答えに詰まる。
自分でも分からなかった。
敵だ。
人を殺した相手だ。
本来なら憎む側のはずだ。
でも。
「……死んで終わりでいいって、俺は思わない」
それだけは、本心だった。
ステラの時も。
もっと別の道があったんじゃないかと、ずっと考えていた。
だから今度は。
死なせたくなかった。
エトワールの力が抜ける。
岩の破片が、雨の中へ落ちた。
***
洞窟へ戻った後もしばらく、エトワールは俯いたままだった。
火だけが静かに揺れている。
外では雨音が途切れることなく続いていた。
濡れた服から落ちる水滴。
薪が爆ぜる音。
時折吹き込む冷たい風。
それ以外は何も聞こえない。
シンも無理に話しかけなかった。
何かを言えばいいのかもしれない。
けれど、今の彼女に向ける言葉をシンは持っていなかった。
ただ、少し離れた場所で火の番を続ける。
長い沈黙の後。
「……ねえ」
エトワールが小さく口を開いた。
シンが顔を上げる。
「さっき」
震える声だった。
「拳銃、奪おうって思った」
シンは黙って聞く。
「今なら殺せるかもって」
エトワールは自分の手を見る。
何人殺したかも分からない手。
デストロイを動かしていた手。
「なのに、気持ち悪くなった」
理解できない。
「今までなら、そんなこと考えなかったのに」
ぽつりぽつりと話す。
「敵だから殺す。そういうものだった」
「……」
「でも、あなたを撃つところを想像したら……なんか……駄目だった」
胸の奥が痛かった。
吐き気がした。
「変だよね」
シンは少し考えた後、首を横に振った。
「別に変じゃないだろ」
「え……」
「本当に撃ちたいなら、もうやってる」
エトワールは言葉に詰まる。
「拘束だって甘いし、俺だってずっと見張ってたわけじゃない」
シンは肩を竦めた。
「やろうと思えば、もっと前にやれてた」
「それは……」
反論できない。
何度か機会はあった。
拳銃を奪えそうな瞬間も。
逃げられそうな瞬間も。
それでもやらなかった。
いや。
できなかった。
エトワールは俯く。
「でも、わたし……」
言葉が詰まる。
「たくさん殺した」
火が揺れる。
「いっぱい……殺した」
自分の声が、自分のものではないようだった。
「街も壊したし、人も殺したし……」
喉が痛い。
「わたしが乗ってたのが、あの機体だったから」
デストロイ。
破壊のためだけに作られた巨大兵器。
「だから……」
だから自分は許されない。
そう言おうとして。
シンが先に口を開いた。
「責められないだろ」
エトワールが顔を上げる。
「……え?」
「少なくとも俺は責められない」
シンは火を見つめたまま言った。
「どういう訓練されてたのかも、──どんな場所にいたかも、知ってる」
エトワールの身体が僅かに強張る。
「戦うためだけに育てられて、言うこと聞くようにされて、まともな判断なんてできなくされてたんだろ」
その言葉に。
エトワールは何も返せなかった。
誰かにそう言われたことがなかった。
今まで会った人間は二種類だけだった。
命令する側か。
命令される側か。
どちらも、それを当たり前だと思っていた。
「だから、お前だけが悪いとは思わない」
シンは静かに続ける。
「そんな状態にされたやつを見て、お前が全部悪いなんて言えるほど、俺は偉くないし」
エトワールは唇を噛む。
「でも……」
声が震えた。
「でも、わたしは許せない」
胸が苦しい。
「誰かに許されても、私は……」
焼ける街が浮かぶ。
泣いている人が浮かぶ。
「私を……許せない」
「それでいいんじゃないか」
シンはそう言った。
びっくりするほど、あっさりと。
エトワールが目を瞬く。
「え?」
「無理に許さなくていいだろ」
シンは肩を竦める。
「俺だって、自分のことを全部許せるわけじゃない」
その言葉には妙な重みがあった。
エトワールは知らない。
ステラのことも。
戦争で抱えた後悔も。
けれど、シン自身もまた多くのものを背負っていることだけは伝わった。
「後悔するならすればいい」
シンは言う。
「忘れなくてもいい」
火が揺れる。
「でもさ」
一度言葉を切る。
「それって、考えられるようになったってことだろ」
「……考える?」
「殺した相手のこと」
エトワールの身体が固まる。
「どんな生活してたとか、誰か待ってたとか」
図星だった。
「そんなこと考えて苦しくなるなら」
シンは少しだけ笑う。
「優しいんじゃないか」
エトワールは言葉を失う。
優しい。
そんな言葉を向けられたことは一度もない。
兵器。
部品。
生体CPU。
そういう言葉しか知らなかった。
「私が……?」
「少なくとも、本当にどうでもいいなら苦しまないだろ」
シンはそう言った。
「だから、今苦しいなら」
少し考えて。
「多分、それは悪いことじゃない」
エトワールは俯いた。
胸の奥が熱かった。
苦しいのに。
少しだけ救われるような気もした。
意味が分からない。
長い沈黙の後。
エトワールがぽつりと呟く。
「……もう嫌」
「ん?」
「あの機体」
デストロイ。
洞窟の外。
浜辺に横たわる巨大な残骸。
「もう二度と乗りたくない」
声は小さい。
けれど、それは今までで一番はっきりした意思だった。
「乗りたくない」
繰り返す。
「怖い」
自分でも驚いた。
初めて口にした感情だった。
「もう……人を殺したくない……」
唇が震える。
「だったら、乗らなくていい」
シンは即答した。
「……え?」
「そんなもん」
当たり前みたいに言う。
「嫌なら乗らないで、いいだろ」
「でも……」
「乗りたいわけじゃないんだろ?」
エトワールは小さく首を振る。
「だったら乗る必要ないじゃないか」
あまりにも単純な答えだった。
けれど。
今まで誰もそんなことを言わなかった。
嫌だと思うことすら許されなかったから。
「嫌なら嫌でいい」
シンは本当に当然のことみたいに言う。
「それくらい決めていいだろ、自分で」
自分で。
その言葉が胸に残る。
今まで。
そんな選択をしたことがなかった。
何を食べるか。
何を着るか。
どこへ行くか。
何をするか。
全部、誰かが決めていた。
だから。
自分で決めていいと言われても。
どうしていいか分からない。
それでも。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
あの機体には、もう乗りたくない。
それだけは、自分の意思だった。
しばらくして。
シンが少し照れ臭そうに頭を掻く。
「そういや」
「?」
「名前、言ってなかったな」
エトワールが顔を上げる。
「シン・アスカ」
当たり前のことみたいに名乗る。
「俺の名前」
エトワールは呆然とする。
名前。
そんな普通の会話を、自分に向けるのか。
敵同士なのに。
少し遅れて、エトワールも口を開く。
「……エトワール・ラベンダー」
反射みたいに答える。
「多分、偽物だけど」
本名じゃない。
それだけは分かっている。
けれど。
「じゃあ今はそれでいいだろ」
シンはあっさり言った。
「エトワールはエトワールだ」
まるで当然みたいに。
その言葉に。
エトワールは少しだけ泣きそうな顔をした。