ガンダムSEED 幕間:1人のエクステンデッドが救われるまで   作:フェネ

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第二話:雨

 雨の匂いがした。

 

 空は重たい雲に覆われている。

 

 灰色の雲が低く垂れ込み、昼だというのに島全体は薄暗かった。

 

 湿った風が洞窟の中まで吹き込んでくる。

 

 遠くで雷の音も聞こえた。

 

 波の音だけが、妙に大きく響いている。

 

 寄せては返す海鳴りが、途切れることなく耳に残った。

 

 エトワールは洞窟の壁にもたれたまま、ぼんやりと火を見つめていた。

 

 ぱち、ぱち、と薪が爆ぜる。

 

 火の粉が舞う。

 

 薄暗い洞窟の中で、その色だけがやけに鮮明だった。

 

 両手首には、簡易拘束具。

 

 イモータルジャスティスの予備ワイヤーを流用したものらしい。

 

 細い金属ワイヤーを二重に巻き、簡易ロックで固定している。

 

 きつくはない。

 

 動こうと思えば多少は動ける。

 

 岩肌に擦れば、時間をかければ外せるかもしれない。

 

 それが逆に、不思議だった。

 

 ブルーコスモスなら違う。

 

 もっと強固に拘束する。

 

 逃亡の可能性は徹底的に潰す。

 

 抵抗すれば薬を打たれる。

 

 あるいは痛みでその意思を消される。

 

 そういう扱いに慣れていた。

 

 でも、目の前の彼はそうしなかった。

 

「ほら」

 

 缶詰が投げ渡される。

 

 エトワールは反射的に受け止めた。

 

 少し熱い。

 

 金属表面がまだ温かい。

 

 火で炙ったのだろう。

 

「……なに、これ」

 

「メシ」

 

 シンは当然みたいに言った。

 

「食わないと倒れるぞ」

 

「……毒」

 

「入れてねぇよ」

 

 呆れたような返事。

 

 シンは火の近くへ座り込み、濡れたインナースーツを絞っていた。

 

 海水と雨で重くなった布地から、水滴がぽたぽた落ちる。

 

 その腰には拳銃。

 

 エトワールは無意識に視線を向ける。

 

 今なら。

 

 奪えるかもしれない。

 

 シンが油断している今なら。

 

 武器を取って、撃って。

 

 それで終わる。

 

 コーディネーターは敵だ。

 

 殺さなければならない。

 

 そう教えられてきた。

 

 小さい頃から。

 

 薬を打たれながら。

 

 ラボで。

 

 何度も。

 

 コーディネーターは人類の敵。

 

 宇宙の化け物。

 

 だから殺せ。

 

 それが、自分たちの正義なのだと。

 

 なのに。

 

 その考えを浮かべた瞬間、胸の奥に強烈な違和感が走った。

 

 気持ち悪い。

 

 胃の奥がざわつく。

 

 頭の奥が軋む。

 

 さっきまで、自分を助けていた相手だ。

 

 水を渡して。

 

 火を起こして。

 

 食事をくれた。

 

 それを撃つのか?

 

 自分は。

 

「……っ」

 

 エトワールは視線を逸らした。

 

 考えたくなかった。

 

 どうしてこんな風に思うのか、分からない。

 

 今までなら、こんなことで迷わなかった。

 

 命令された相手を撃つだけだった。

 

 なのに今は。

 

 頭の中で繰り返される“敵を殺せ”という言葉と、自分の感覚が噛み合わない。

 

 火を見つめる。

 

 温かい。

 

 そんなことを思ったのも、いつぶりか分からなかった。

 

 調理された食事は、まともに食べた記憶がない。

 

 栄養剤。

 

 薬。

 

 訓練。

 

 それだけだった。

 

 不意に、腹が鳴った。

 

 エトワールは反射的に身体を縮こませる。

 

 聞かれたかもしれない。

 

 そう思った。

 

 だが、シンは何も言わなかった。

 

 缶詰の蓋だけをナイフで開け、自分も別の携行食を齧っている。

 

 エトワールは少しだけ迷ってから、缶詰へ視線を落とした。

 

 肉と豆の煮込み。

 

 簡素な保存食。

 

 でも、匂いがした。

 

 食べ物の匂い。

 

 胃が痛いほど空腹を訴えてくる。

 

「……」

 

 恐る恐る、一口だけ食べる。

 

 温かかった。

 

 その瞬間。

 

 身体の奥が、ぞわりと震えた。

 

 熱が落ちていくみたいだった。

 

 冷え切っていた内側へ、少しずつ感覚が戻ってくる。

 

 気づけば、エトワールは無言で缶詰を食べ続けていた。

 

 シンは何も言わない。

 

 ただ火の番をしながら、時折外の様子を見ている。

 

 監視されているはずなのに。

 

 妙に静かだった。

 

***

 

 シンは火を見つめながら、内心で小さく息を吐いていた。

 

 正直、かなり困っていた。

 

 敵兵を拾った。

 

 しかもデストロイの生体CPU。

 

 本来なら拘束して、引き渡す。

 

 それだけの話だ。

 

 コンパスの規定でも、その対応が正しい。

 

 下手に情をかけるべき相手じゃない。

 

 でも。

 

 視界の端に映る少女は、どうにも放っておけなかった。

 

 細い。

 

 痩せすぎている。

 

 肩も腕も、骨ばっていた。

 

 肌色も悪い。

 

 まともな生活をしてきた人間の身体じゃない。

 

 それなのに、あんな巨大な機体を動かしていた。

 

 大気圏突入なんて無茶までやらされて。

 

 シンは無意識に奥歯を噛む。

 

 思い出す。

 

 ステラ。

 

 あいつも、こんな風だった。

 

 薬で感情を抑え込まれて。

 

 戦うことだけを教え込まれて。

 

 兵器として使われて。

 

 最後には──

 

「……」

 

 シンは無意識に拳を握る。

 

 あの時、自分は救えなかった。

 

 守ると言ったのに。

 

 結局、何一つ間に合わなかった。

 

 今でも夢に見る。ステラのことを。

 

 だからなのかもしれない。

 

 目の前の少女を、見捨てられないのは。

 

 似ている。

 

 外見はあまり似ていないが。

 

 同じ、目をしている。

 

 敵なのに。

 

 放っておけばいいはずなのに。

 

 そう思えなかった。

 

 

***

 

「……逃げないのか」

 

 不意に、シンが聞いた。

 

 火を見つめたままの声だった。

 

 責めるような響きはない。

 

 ただ純粋な疑問のように聞こえた。

 

「え?」

 

 エトワールは顔を上げる。

 

「拘束、簡易的なやつだし」

 

 シンはワイヤー拘束へ視線を向ける。

 

「本気で暴れれば、時間かければ外せるだろ。今なら逃げられる」

 

 エトワールは少し黙った。

 

 逃げる。

 

 その言葉が、妙に遠く感じる。

 

 逃げて、どこへ行くのか。

 

 帰る場所なんて無い。

 

 基地へ戻れば、またMSに乗せられる。

 

 薬を打たれて、戦わされる。

 

 壊れるまで。

 

 使えなくなるまで。

 

 それは“帰る”とは違う。

 

 ただ回収されるだけだ。

 

「……ないから」

 

「何が」

 

「逃げる場所」

 

 シンは押し黙った。

 

 火が小さく爆ぜる。

 

 洞窟の中へ雨音が響き続ける。

 

 その沈黙に、エトワールは妙な居心地の悪さを覚えた。

 

 彼は、自分を責めない。

 

 敵なのに。

 

 怒鳴りもしない。

 

 殴りもしない。

 

 それが逆に辛かった。

 

 憎まれた方が楽だった。

 

 化け物扱いされた方が慣れている。

 

 なのにシンは、自分を普通の人間みたいに扱う。

 

 それが、胸の奥を落ち着かなくさせた。

 

***

 

 火の音だけが響く。

 

 エトワールは、缶詰を食べ終わっていた。

 

 急いで食べたせいで、口の端には少しソースがついている。

 

 自分では気づいていない。

 

「おいし……かった」

 

 ぽつりと漏れた言葉。

 

 自分でも驚くくらい小さな声だった。

 

「そりゃよかった」

 

 シンは少し笑う。

 

 自然な笑い方だった。

 

 馬鹿にするでもなく、警戒するでもなく。

 

 ただ普通に返しただけ。

 

 その瞬間だった。

 

 脳裏に、光景が蘇る。

 

 炎。

 

 崩れる建物。

 

 逃げ惑う人。

 

 泣き叫ぶ子供。

 

 ビーム。

 

 爆発。

 

 焼ける街。

 

 デストロイのコクピットから、それを見下ろしていた自分。

 

 今までは実感がなかった。

 

 標的。

 

 敵。

 

 排除対象。

 

 そういう記号でしかなかったからだ。

 

 モニター越しの点。

 

 消える熱源。

 

 崩れる建造物。

 

 ただ、それだけ。

 

 でも。

 

 今は違う。

 

 目の前の彼と、あの人たちが重なる。

 

 笑っていたかもしれない。

 

 食事をしていたかもしれない。

 

 誰かを待っていたかもしれない。

 

 普通に生きていた人たち。

 

 目の前のシンみたいに。

 

 押し込められていた想像力が、一気に爆発する。

 

 今まで見ないようにされていたもの。

 

 感じないように潰されていたもの。

 

 それが、急に現実になる。

 

「──っ」

 

 胃がひっくり返る。

 

 息が詰まる。

 

 視界が揺れる。

 

 エトワールは洞窟を飛び出した。

 

「お、おい!」

 

 シンも慌てて立ち上がる。

 

 外は豪雨だった。

 

 叩きつけるような雨。

 

 灰色の海。

 

 風が唸る。

 

 エトワールは浜辺で膝をつき、激しく吐いていた。

 

「ぁ……っ、ぅ……!」

 

 呼吸が乱れている。

 

 肩が震えている。

 

 細い身体が、雨に打たれて小刻みに揺れていた。

 

「わたし、が……っ……」

 

 シンは近づきかけて、止まる。

 

 何を言えばいいのか分からなかった。

 

 慰める資格なんて、自分にあるのか。

 

 死んだ人間は戻らない。

 

 どんな理由があっても、消えた命は返ってこない。

 

 だから、ただ黙って立っていた。

 

「わたしが、殺した……!」

 

 エトワールは頭を抱える。

 

 今まで壊してきたものが、一気に押し寄せていた。

 

 焼いた街。

 

 踏み潰した建物。

 

 逃げる人影。

 

 その人たちには。

 

 きっと。

 

 家族も。

 

 恋人も。

 

 友人も。

 

 いた。

 

 なのに、自分は。

 

 何も感じなかった。

 

 薬で。

 

 命令で。

 

 戦闘の高揚で。

 

 全部、押し潰されていた。

 

「っ、ぁ……!」

 

 エトワールの視線が、足元の岩へ向く。

 

 砕けた岩片。

 

 鋭利な破片。

 

 雨に濡れ、鈍く光っている。

 

 その瞬間。

 

 シンは嫌な予感を覚えた。

 

「おい、待て!」

 

 エトワールが岩片を掴む。

 

 震える手で、自分の首へ向けた。

 

「やめろ!」

 

 シンは即座に腕を掴んだ。

 

 強引に止める。

 

 岩片の先端が、エトワールの首筋を浅く掠めた。

 

「離して……!」

 

「駄目だ!」

 

 振り払おうとする細腕を、シンは力任せに押さえ込む。

 

 軽い。

 

 簡単に押さえ込めてしまう。

 

 それが余計に腹立たしかった。

 

 こんな状態になるまで放置されていたことが。

 

「死なせるかよ!」

 

「なんで……っ!」

 

 エトワールが叫ぶ。

 

「なんで、そんなこと言うの……!」

 

 雨に濡れた顔。

 

 涙なのか雨なのか、もう分からない。

 

 シンは答えに詰まる。

 

 自分でも分からなかった。

 

 敵だ。

 

 人を殺した相手だ。

 

 本来なら憎む側のはずだ。

 

 でも。

 

「……死んで終わりでいいって、俺は思わない」

 

 それだけは、本心だった。

 

 ステラの時も。

 

 もっと別の道があったんじゃないかと、ずっと考えていた。

 

 だから今度は。

 

 死なせたくなかった。

 

 エトワールの力が抜ける。

 

 岩の破片が、雨の中へ落ちた。

 

***

 

 洞窟へ戻った後もしばらく、エトワールは俯いたままだった。

 

 火だけが静かに揺れている。

 

 外では雨音が途切れることなく続いていた。

 

 濡れた服から落ちる水滴。

 

 薪が爆ぜる音。

 

 時折吹き込む冷たい風。

 

 それ以外は何も聞こえない。

 

 シンも無理に話しかけなかった。

 

 何かを言えばいいのかもしれない。

 

 けれど、今の彼女に向ける言葉をシンは持っていなかった。

 

 ただ、少し離れた場所で火の番を続ける。

 

 長い沈黙の後。

 

「……ねえ」

 

 エトワールが小さく口を開いた。

 

 シンが顔を上げる。

 

「さっき」

 

 震える声だった。

 

「拳銃、奪おうって思った」

 

 シンは黙って聞く。

 

「今なら殺せるかもって」

 

 エトワールは自分の手を見る。

 

 何人殺したかも分からない手。

 

 デストロイを動かしていた手。

 

「なのに、気持ち悪くなった」

 

 理解できない。

 

「今までなら、そんなこと考えなかったのに」

 

 ぽつりぽつりと話す。

 

「敵だから殺す。そういうものだった」

 

「……」

 

「でも、あなたを撃つところを想像したら……なんか……駄目だった」

 

 胸の奥が痛かった。

 

 吐き気がした。

 

「変だよね」

 

 シンは少し考えた後、首を横に振った。

 

「別に変じゃないだろ」

 

「え……」

 

「本当に撃ちたいなら、もうやってる」

 

 エトワールは言葉に詰まる。

 

「拘束だって甘いし、俺だってずっと見張ってたわけじゃない」

 

 シンは肩を竦めた。

 

「やろうと思えば、もっと前にやれてた」

 

「それは……」

 

 反論できない。

 

 何度か機会はあった。

 

 拳銃を奪えそうな瞬間も。

 

 逃げられそうな瞬間も。

 

 それでもやらなかった。

 

 いや。

 

 できなかった。

 

 エトワールは俯く。

 

「でも、わたし……」

 

 言葉が詰まる。

 

「たくさん殺した」

 

 火が揺れる。

 

「いっぱい……殺した」

 

 自分の声が、自分のものではないようだった。

 

「街も壊したし、人も殺したし……」

 

 喉が痛い。

 

「わたしが乗ってたのが、あの機体だったから」

 

 デストロイ。

 

 破壊のためだけに作られた巨大兵器。

 

「だから……」

 

 だから自分は許されない。

 

 そう言おうとして。

 

 シンが先に口を開いた。

 

「責められないだろ」

 

 エトワールが顔を上げる。

 

「……え?」

 

「少なくとも俺は責められない」

 

 シンは火を見つめたまま言った。

 

「どういう訓練されてたのかも、──どんな場所にいたかも、知ってる」

 

 エトワールの身体が僅かに強張る。

 

「戦うためだけに育てられて、言うこと聞くようにされて、まともな判断なんてできなくされてたんだろ」

 

 その言葉に。

 

 エトワールは何も返せなかった。

 

 誰かにそう言われたことがなかった。

 

 今まで会った人間は二種類だけだった。

 

 命令する側か。

 

 命令される側か。

 

 どちらも、それを当たり前だと思っていた。

 

「だから、お前だけが悪いとは思わない」

 

 シンは静かに続ける。

 

「そんな状態にされたやつを見て、お前が全部悪いなんて言えるほど、俺は偉くないし」

 

 エトワールは唇を噛む。

 

「でも……」

 

 声が震えた。

 

「でも、わたしは許せない」

 

 胸が苦しい。

 

「誰かに許されても、私は……」

 

 焼ける街が浮かぶ。

 

 泣いている人が浮かぶ。

 

「私を……許せない」

 

「それでいいんじゃないか」

 

 シンはそう言った。

 

 びっくりするほど、あっさりと。

 

 エトワールが目を瞬く。

 

「え?」

 

「無理に許さなくていいだろ」

 

 シンは肩を竦める。

 

「俺だって、自分のことを全部許せるわけじゃない」

 

 その言葉には妙な重みがあった。

 

 エトワールは知らない。

 

 ステラのことも。

 

 戦争で抱えた後悔も。

 

 けれど、シン自身もまた多くのものを背負っていることだけは伝わった。

 

「後悔するならすればいい」

 

 シンは言う。

 

「忘れなくてもいい」

 

 火が揺れる。

 

「でもさ」

 

 一度言葉を切る。

 

「それって、考えられるようになったってことだろ」

 

「……考える?」

 

「殺した相手のこと」

 

 エトワールの身体が固まる。

 

「どんな生活してたとか、誰か待ってたとか」

 

 図星だった。

 

「そんなこと考えて苦しくなるなら」

 

 シンは少しだけ笑う。

 

「優しいんじゃないか」

 

 エトワールは言葉を失う。

 

 優しい。

 

 そんな言葉を向けられたことは一度もない。

 

 兵器。

 

 部品。

 

 生体CPU。

 

 そういう言葉しか知らなかった。

 

「私が……?」

 

「少なくとも、本当にどうでもいいなら苦しまないだろ」

 

 シンはそう言った。

 

「だから、今苦しいなら」

 

 少し考えて。

 

「多分、それは悪いことじゃない」

 

 エトワールは俯いた。

 

 胸の奥が熱かった。

 

 苦しいのに。

 

 少しだけ救われるような気もした。

 

 意味が分からない。

 

 長い沈黙の後。

 

 エトワールがぽつりと呟く。

 

「……もう嫌」

 

「ん?」

 

「あの機体」

 

 デストロイ。

 

 洞窟の外。

 

 浜辺に横たわる巨大な残骸。

 

「もう二度と乗りたくない」

 

 声は小さい。

 

 けれど、それは今までで一番はっきりした意思だった。

 

「乗りたくない」

 

 繰り返す。

 

「怖い」

 

 自分でも驚いた。

 

 初めて口にした感情だった。

 

「もう……人を殺したくない……」

 

 唇が震える。

 

「だったら、乗らなくていい」

 

 シンは即答した。

 

「……え?」

 

「そんなもん」

 

 当たり前みたいに言う。

 

「嫌なら乗らないで、いいだろ」

 

「でも……」

 

「乗りたいわけじゃないんだろ?」

 

 エトワールは小さく首を振る。

 

「だったら乗る必要ないじゃないか」

 

 あまりにも単純な答えだった。

 

 けれど。

 

 今まで誰もそんなことを言わなかった。

 

 嫌だと思うことすら許されなかったから。

 

「嫌なら嫌でいい」

 

 シンは本当に当然のことみたいに言う。

 

「それくらい決めていいだろ、自分で」

 

 自分で。

 

 その言葉が胸に残る。

 

 今まで。

 

 そんな選択をしたことがなかった。

 

 何を食べるか。

 

 何を着るか。

 

 どこへ行くか。

 

 何をするか。

 

 全部、誰かが決めていた。

 

 だから。

 

 自分で決めていいと言われても。

 

 どうしていいか分からない。

 

 それでも。

 

 ただ一つだけ。

 

 確かなことがあった。

 

 あの機体には、もう乗りたくない。

 

 それだけは、自分の意思だった。

 

 しばらくして。

 

 シンが少し照れ臭そうに頭を掻く。

 

「そういや」

 

「?」

 

「名前、言ってなかったな」

 

 エトワールが顔を上げる。

 

「シン・アスカ」

 

 当たり前のことみたいに名乗る。

 

「俺の名前」

 

 エトワールは呆然とする。

 

 名前。

 

 そんな普通の会話を、自分に向けるのか。

 

 敵同士なのに。

 

 少し遅れて、エトワールも口を開く。

 

「……エトワール・ラベンダー」

 

 反射みたいに答える。

 

「多分、偽物だけど」

 

 本名じゃない。

 

 それだけは分かっている。

 

 けれど。

 

「じゃあ今はそれでいいだろ」

 

 シンはあっさり言った。

 

「エトワールはエトワールだ」

 

 まるで当然みたいに。

 

 その言葉に。

 

 エトワールは少しだけ泣きそうな顔をした。

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