ガンダムSEED 幕間:1人のエクステンデッドが救われるまで 作:フェネ
夜明けだった。
スコールは既に通り過ぎ、島には重たい湿気だけが残っている。
雨に洗われた木々は朝日に濡れ、葉先から雫が落ちていた。
海は静かだった。
昨日、自分たちを飲み込んだとは思えないほどに。
穏やかな波が砂浜を撫でては引いていく。
洞窟の外。
ジャスティスのコクピット内。
シンは通信機を耳から離し、深く息を吐いた。
「……よし」
繋がった。
オーブ軍。
そして《アークエンジェル》。
Nジャマーの影響が薄れ、断続的ながら通信が回復したのだ。
現在位置は送信済み。
状況も伝えた。
救助隊も既に出ている。
あとは待てばいい。
本来なら。
「助かった……」
シンは座席にもたれながら、小さく呟く。
イモータルジャスティスは満身創痍だった。
大気圏突入時の負荷が深刻すぎる。
右側メインスラスターは完全に沈黙。
推進器は焼損。
武装系統にも複数のエラー表示。
飛行はほぼ不可能。
戦闘どころか、まともな機動さえ難しい。
無理をさせすぎた。
それはシン自身が一番理解していた。
もし敵が来れば、かなり危ない。
だが、救助が来るのなら問題ない。
あと少しだ。
シンはようやく肩の力を抜いた。
その後ろで。
エトワールは洞窟の入口に座り込み、ぼんやり海を見ていた。
両手首はもう自由だった。
拘束は解かれている。
逃げようと思えば、いつでも逃げられる。
それでも。
エトワールは逃げなかった。
逃げた先に何も無いと、もう分かってしまったからだ。
「……」
視線を落とす。
自分の手。
細くて、頼りなくて。
けれど。
その手は今まで、何度も操縦桿を握ってきた。
ビームを撃った。
ミサイルを撃った。
街を焼いた。
人を殺した。
昨日から、その事実が頭から離れない。
今までは平気だった。
考えなかった。
感じなかった。
薬があった。
教育があった。
命令があった。
だから考えなくて済んだ。
でも。
シンと話した。
食事をした。
名前を呼ばれた。
ただ、それだけだったのに。
殺してきた人たちも、自分たちと同じだったのだと理解してしまった。
普通に生きていた。
笑っていた。
怒ったり、泣いたりしていた。
誰かを愛していた。
シンみたいに。
そんな人たちを、自分は殺してきた。
胸の奥が重くなる。
呼吸が苦しい。
その時だった。
低い駆動音が響く。
エトワールが顔を上げる。
シンも同時に反応した。
「……!」
救助にしては早すぎる。
通信が繋がってから、まだ数分しか経っていない。
オーブ本土から飛んできたとしても間に合うはずがない。
嫌な予感が走る。
海上。
接近するMS部隊。
ウィンダムが三機。
先頭機が砂浜に横たわるデストロイを確認する。
『目標確認。《デストロイ》を回収する』
目標はデストロイ。
領空侵犯をしてでも回収したいほどに、ブルーコスモスはその力を欲しているのだろう。
きっと、エトワールのことも。
「くそっ……!」
シンはコクピットへ滑り込む。
だが。
起動したモニターに並ぶのは警告ばかりだった。
『推進器損傷』
『エネルギー系統不安定』
「分かってる……!」
怒鳴るように返す。
救援は来る。
だが早くても数分。
この状況では、遅すぎる。
敵はデストロイ回収が目的。
だが回収だけで終わる保証などない。
コンパスのパイロット。
デストロイの生体CPU。
見逃す理由がどこにも無かった。
最悪だった。
『コンパス所属機確認!』
『排除する!』
敵機が一斉にジャスティスへ照準を向ける。
「っ!」
シンは機体を動かす。
だが遅い。
飛べない。
避けきれない。
ビームが砂浜を抉る。
爆炎。
衝撃。
機体が激しく揺れた。
「ぐっ……!」
警告音が鳴り響く。
損傷箇所が増えていく。
このままでは押し切られる。
シンは歯を食いしばった。
ここで自分がやられれば。
エトワールは連れ戻される。
また薬を打たれて。
またデストロイに乗せられて。
使えなくなるまで戦わされる。
そんな未来は見たくなかった。
一方。
洞窟の陰から戦闘を見ていたエトワールは、動けずにいた。
シンが撃たれている。
自分を助けてくれた人。
自分の話を聞いてくれた人。
名前を呼んでくれた人。
敵なのに。
コーディネーターなのに。
どうしてそんな風にできるのか、まだ分からない。
でも。
胸の奥で目覚め始めた感情だけは、はっきりしていた。
シンが死ぬのは嫌だ。
それだけは確かだった。
視線が向く。
砂浜に横たわる巨大な黒い機体。
《デストロイ》。
考えただけで呼吸が乱れる。
怖い。
また乗れば、また人を殺す。
また、あの頃の自分に戻ってしまう。
命令だけを聞いて。
何も感じないまま。
街を焼き続ける怪物に。
「っ……ぁ……」
足が竦む。
近付きたくない。
もう二度と。
乗りたくない。
なのに。
視界の先で。
ジャスティスが爆炎に飲まれた。
「シン……!」
気付けば、走っていた。
***
砂浜。
倒れ込んだデストロイの足元で、エトワールは立ち止まる。
見上げる。
破壊の神。
人を殺すためだけに生まれた怪物。
自分を縛り付けてきた檻。
怖かった。
近付くだけで吐き気がする。
心臓が痛いほど鳴る。
手が震える。
それでも。
エトワールはコクピットへ飛び込んだ。
シートへ身体を沈めた瞬間。
嫌な記憶が押し寄せる。
薬。
命令。
悲鳴。
炎。
泣き叫ぶ人々。
崩れる建物。
逃げ惑う子供。
全部、自分が見てきた光景だった。
「っ……」
呼吸が乱れる。
怖い。
怖い。
怖い。
身体の震えが止まらない。
それでも。
モニターの向こうには。
今も戦っているシンがいる。
「……お願い」
声が漏れる。
「少しだけでいいから……」
デストロイに。
そして怯えている自分自身に。
一言ずつ言い聞かせる。
「今だけでいい……」
唇が震える。
「あの人を守る力を……貸して……!」
破壊のためじゃない。
守るために。
「起動……!」
震える声。
モニターが点灯する。
赤い警告表示が次々と流れる。
『機体各部損傷』
『冷却系統異常』
『兵装システム一部使用不能』
それでも。
巨体は応えた。
デストロイの無機質な瞳に光が宿る。
ゆっくりと。
巨大な身体が立ち上がった。
***
『なっ……!?』
ウィンダム隊が動揺する。
砂浜に沈黙していた巨体が、ゆっくりと立ち上がった。
朝日を背負った巨大な影。
その姿だけで、周囲の空気が変わる。
《デストロイ》。
その圧倒的な存在感に、ウィンダム隊の動きが止まった。
『生体CPUが勝手に起動したのか!?』
混乱した通信が飛び交う。
エトワールは操縦桿を握り締める。
手が震えていた。
恐怖は消えていない。
むしろ、さっきより強い。
モニターの向こうに映る照準。
敵機を捕捉する赤い枠。
発射可能を示す表示。
全部知っている。
ここから先に何が起きるのかも。
トリガーを引けば。
ビームが飛ぶ。
人が死ぬ。
それだけだ。
今までなら迷わなかった。
命令されれば撃った。
考える必要なんてなかった。
でも。
今は違う。
目の前にいるウィンダムのパイロットたちも、生きている。
シンみたいに。
笑うことがあって。
怒ることがあって。
帰る場所がある。
そんな当たり前のことが、頭から離れない。
「っ……」
呼吸が浅くなる。
撃てない。
撃ちたくない。
でも。
シンを守りたい。
その気持ちだけが、辛うじてエトワールを立たせていた。
デストロイの全火器が展開される。
胸部砲門。
指部ビーム砲。
複数のミサイルポッド。
巨大な火器群が、一斉に敵機を捕捉する。
ウィンダム隊が止まった。
誰も前へ出られない。
発射されれば終わる。
それを全員が知っていた。
『撃て!』
『撃たれる前にやれ!』
指揮官機らしきウィンダムが叫ぶ。
だが。
誰も撃たない。
恐怖があった。
デストロイという存在そのものへの恐怖が。
エトワールは照準を合わせる。
指が震える。
怖い。
撃ちたくない。
でも──。
***
その少し前。
キラ・ヤマトはライジングフリーダムのコクピットで前方モニターを睨んでいた。
オーブ軍ムラサメ隊と共に、シンから送られた座標へ向かっている。
嫌な予感がしていた。
通信が途絶えた。
ほんの数分前まで繋がっていた回線が、急に沈黙した。
偶然とは思えない。
シンは通信の最後で「敵かもしれない」と言っていた。
だからキラは決断した。
アークエンジェルを待たず、MS隊だけを先行させる。
一秒でも早く。
少しでも早く。
『熱源反応確認!』
『前方海域でMS戦闘!』
オーブ軍から報告。
見えてきた。
島周辺。
爆炎。
ビーム。
立ち上る黒煙。
「シン……!」
キラはスロットルを押し込む。
ライジングフリーダムが加速した。
海面を掠めるように飛翔する。
間に合え。
その想いだけだった。
シンは要救助者がいると言っていた。
大気圏で遭遇した敵パイロット。
デストロイの生体CPU。
彼女を守ろうとしていることも、キラには分かっていた。
『前方に大型MSが!』
オーブ軍の通信。
直後。
キラの視界に映る。
巨大な黒い影。
立ち上がった《デストロイ》。
「っ……!」
一瞬、息を呑む。
脳裏をよぎるのはベルリン。
炎上する市街地。
逃げ惑う人々。
巨大な砲撃。
悪夢のような記憶。
だが。
次の瞬間。
キラは違和感に気付いた。
デストロイの砲門が向いている方向。
それは。
傷付いたジャスティスを庇うように。
ウィンダム隊へ向けられていた。
「……あの子が」
キラは理解する。
彼女は今。
シンを守るために。
あの機体へ乗っている。
破壊するためではなく。
守るために。
その事実だけで十分だった。
『シン!』
通信回線を開く。
同時に。
ライジングフリーダムが戦場へ飛び込んだ。
蒼い閃光。
海面を蹴るような速度で接近する。
『なっ!?』
『フリーダムだと!?』
ウィンダム隊が慌てて振り返る。
遅い。
ライジングフリーダムのビームライフルが閃く。
だが。
狙うのはコクピットではない。
ライフル。
スラスター。
センサー。
戦闘能力だけを奪う正確な射撃。
一機。
二機。
三機。
次々と武装が破壊される。
『ぐっ!?』
『武装が!』
『何だこの精度は……!』
さらに後方。
ムラサメ隊が到着する。
敵は数で劣勢となった。
『撤退だ!』
『これ以上は無理だ!』
『目標回収を断念する!』
ウィンダム隊が反転する。
海上へ向かって離脱。
数秒後には水平線の彼方へ消えていった。
***
デストロイのコクピットの中で。
エトワールは、ただ呆然としていた。
耳鳴りがする。
呼吸は浅い。
操縦桿を握っていた手はまだ震えていた。
自分は撃っていない。
誰も殺していない。
その事実が信じられなかった。
震える指先を見る。
白くなるほど力が入っている。
今までなら撃っていた。
命令が下れば。
敵が現れれば。
それが当たり前だった。
考える必要など無かった。
けれど今回は違う。
怖かった。
撃てば、また元の自分に戻ってしまう気がした。
何も感じず、人を殺せていた頃の自分に。
だから撃てなかった。
そして。
そんな自分を助けるように、フリーダムが現れた。
『エトワール!』
通信。
シンの声だった。
『もう大丈夫だ! ハッチ開けられるか!?』
大丈夫。
その言葉が、ひどく遠く聞こえる。
エトワールはゆっくりと視線を動かした。
モニターの向こう。
海岸線にはオーブ軍のムラサメ部隊。
上空にはフリーダム。
全員、自分を見ている。
当然だった。
デストロイ。
大量虐殺兵器。
街を焼き、人を踏み潰し、数え切れない命を奪った怪物。
その操縦者が、自分だ。
「っ……」
息が詰まる。
今更になって。
自分が何者なのかを思い出してしまう。
殺人者。
どれだけ言葉を並べても変わらない事実。
シンは知っているのだろうか。
自分が何人殺したのか。
どれだけの街を壊したのか。
知ればきっと。
今までのようには接してくれない。
怖かった。
だからハッチを開けられない。
そんなエトワールの沈黙を感じ取ったのか。
別の通信回線が開く。
『聞こえるかな』
穏やかな声だった。
初めて聞く声。
『僕はキラ・ヤマト。君を撃つつもりはない』
フリーダムからの通信。
その声には敵意がなかった。
『君の身柄はコンパスとオーブが保護する』
エトワールは理解できず、瞬きを繰り返した。
「……え?」
思わず声が漏れる。
保護。
その言葉の意味が分からなかった。
捕虜ではなく。
処分でもなく。
保護?
『安心して』
キラは静かに続ける。
『君を傷付ける人は、ここにはいない』
エトワールは唇を震わせた。
そんな言葉を向けられた記憶がない。
生まれてからずっと。
誰かに必要とされたことはあった。
兵器として。
部品として。
消耗品として。
だが。
一人の人間として扱われたことは無かった。
『降りてくるだけでいい』
キラの声は変わらない。
『……もう戦わなくていい』
その言葉に。
胸の奥で何かが揺れた。
戦わなくていい。
そんな未来を、一度も想像したことがなかった。
自分は戦うために作られた。
そう思っていた。
戦わなければ価値がない。
そう教えられてきた。
だから。
その言葉が理解できない。
理解できないのに。
どうしようもなく涙が出そうになった。
その時。
砂浜を走る人影が見えた。
シンだった。
ジャスティスを降りて。
砂を蹴り上げながら真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「エトワール!」
見上げながら叫ぶ。
「もう終わった!」
その声は必死だった。
「降りてこい!」
まるで。
自分が降りてくることを信じているみたいに。
エトワールの喉が震えた。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
震える指で解除操作を行う。
そして。
デストロイのハッチがゆっくりと開いた。
***
数分後。
エトワールは砂浜に座り込んでいた。
肩には毛布が掛けられている。
温かい。
それなのに身体の震えは止まらなかった。
周囲にはオーブ兵たち。
警戒はされている。
当然だ。
自分はデストロイのパイロットなのだから。
だが。
誰も銃を向けていない。
怒鳴り声も飛んでこない。
それが逆に落ち着かなかった。
少し離れた場所ではキラがオーブ軍と話している。
「彼女はコンパス預かりにしてください」
「しかし危険性が……」
「分かっています」
キラは静かに答える。
「それでも、彼女はシンを助けた」
エトワールは俯いた。
助けた。
そんな言葉を向けられる資格が自分にあるのだろうか。
今まで殺してきた人たちは消えない。
壊した街も戻らない。
焼いた命も。
奪った未来も。
何一つ無かったことにはならない。
なのに。
どうして。
こんな風に扱われるのだろう。
「……なあ」
隣にシンが座る。
エトワールは顔を上げられない。
「わたし……」
声が震える。
「いっぱい、人を殺した」
言葉にした瞬間。
胸の奥が痛んだ。
「街も壊した……」
呼吸が浅くなる。
「なのに、なんで……」
なんで助けるのか。
なんで見捨てないのか。
なんで怒らないのか。
その続きを。
シンは察したらしい。
少しだけ黙って。
それから口を開く。
「……罪は消えないと思う」
エトワールの肩が震えた。
否定しない。
許されるとも言わない。
それが逆に救いだった。
「死んだ人は戻らないし」
シンは海を見る。
「壊れたものも戻らない」
波の音が聞こえる。
「だから多分、一生忘れられない」
エトワールは唇を噛んだ。
そうだ。
きっと忘れられない。
死んでいった人たちは戻らない。
それでも。
「でもさ」
シンは続ける。
「だからお前も死ねって話には、ならないだろ」
エトワールは目を見開いた。
「……え」
思わず顔を上げる。
シンは少しだけ困ったように笑っていた。
「少なくとも俺は、そう思わない」
穏やかな朝の海を見ながら言う。
「生きて、悩めばいい」
その言葉に。
エトワールの呼吸が止まった。
「苦しくても」
「辛くても」
「逃げずに考え続ければいい」
罪は消えない。
それでも。
それを抱えながら生きることはできる。
そう言われた気がした。
生きていいのだと。
エトワールという一人の命を。
肯定された気がした。
その瞬間。
視界が滲む。
ぽろり、と涙が落ちた。
止めようとしても止まらない。
次から次へと溢れてくる。
嬉しいのか。
悲しいのか。
自分でも分からない。
ただ。
初めてだった。
こんな風に生きていていいと言われたのは。
シンは何も言わない。
慰めもしない。
無理に励ましもしない。
ただ。
エトワールが泣き止むまで、隣に座り続けていた。