射程の合意
――水でもいいじゃない、おいしければ――
序章 思考実験の夜
「津本、お前はほんとに変わらねーな」
太田慎吾は、グラスを傾けながら正面の男を眺めた。
ダブルブレストでブラウンのオッドベスト。懐中時計をひっさげ、ゴージが高く細めのラペルのチャコールグレーのジャケット。三つボタンを一つも閉じないで着る。
それにあわせるは履くのも脱ぐのも面倒そうなブーツ。
雨も降っていないのに、ご丁寧にステッキ型のグリップの傘を杖代わりにする。
こいつは昔からこうだ。イギリスだかロシアにかぶれていたが、それは今も健在だと思った。
カウンター越しに並ぶ瓶たちが琥珀色の光を反射している。
新橋の、名前もよく知らない小さなバーだ。
津本に連れてこられた店で、たぶん彼が気に入っているのだろう、
マスターと二言三言交わして奥の席に案内された。
太田はそういう店の使い方が昔から苦手で、会社の近くのチェーン居酒屋しか知らない自分がいっそう「しがない」感じがしてくる。
「変わらないのはお前だ。中学のときからなにも変わっていない。だが、それがいい」
津本慎二はそう言って、太田にはよくわからない酒を一口飲んだ。
ビエヒシモ?名前を聞いても、何だそれは、としか思わなかった。ウィスキーだろうか、それにしては妙に甘ったるい香りだ。
大学以来だ、と太田は思った。
卒業式を終え、列車で一瞬すれ違い「流石に仕事までは一緒じゃなかったか」と確認し合ったて以降。十年は経っている。
互いに三十四になって、こうして飲んでいる。
津本は化学系メーカーに入って研究開発をやっていると聞いていた。
LinkedInで繋がっていたが、お互い投稿もしない人間なのでそれが何の意味をなしていたかは不明だ。
今日偶然、品川の乗り換えホームで見かけたのを機に、「飲むか」という流れになった。
こういう再会の仕方は嫌いじゃない、と太田は思う。
「で、今何やってるんだ、具体的に」
太田が問うと津本が答える。
「言っても守秘義務とかあるからざっくりにしか言えんぞ。まぁ・・素材開発だ。機能性の膜とか、表面処理とか。聞いたところで地味なものさ」
「地味ってことはないだろう」
太田が言うと、津本が返す。
「いや地味なもんだよ。華やかじゃない。ただ、面白い」
それが津本らしかった。
中学のときも、文化祭の出し物より文化祭の当日の動線設計に熱中するタイプだ。
誰も気にしないところを、ひとりで深く掘っている。
太田は自分の仕事を訊かれて、弁護士、と答えた。
「ほぅ、弁護士か。大したものじゃないか」
津本が褒めるが、そんな大したもんじゃない、本気でそう思っていた。
「全然。俺がやるのなんて、離婚と不倫、あとは遺産相続の整理とかな。まぁ汚れ役みたいなもんよ。社会の最下層で溝をさらう。法廷で大演説、みたいなのは俺の性分じゃねぇ」
「でも弁護士は弁護士だろ」
「弁護士は弁護士だよ。しがない弁護士だけどな」
それが太田の口癖になっていた。しがない弁護士。自嘲でも謙遜でもなく、単なる現状認識として。
話題はとりとめなく流れた。
中学のときの担任の話、当時好きだった漫画の話、同じクラスだったあいつは今何してるんだとか、修学旅行のバスで酔った話とか。
記憶の照合作業のような会話が、二杯目のグラスとともに続いた。
不思議と気詰まりにならないのは、互いに「近況報告で相手を値踏みする」という気がないからだろうと太田は感じていた。
三杯目に入ったあたりで、津本が少し表情を変えた。
何か、ギアが切り替わるときの顔だ。
太田は覚えている。
中学の理科の授業で、教師が間違いを言ったときに津本がああいう顔をして手を挙げた。あの顔だ。
「そう言えば」と津本は言った。
前置きとしてはやや唐突だったが、太田は黙って続きを待った。
「思考実験、付き合ってくれるか」
「俺に?」
「お前、法律の人間だろ。ちょうどいい」
太田はグラスを置いた。「まぁ聞こう」
津本はカウンターの上で指を組んで、少し整理するような間を置いた。
「ある組織があるとする。業界団体でも、社内ルールでも、法律でも、なんでもいい。その組織には、ちゃんと運営ルールが定められてる。文書化されて、明文化されてる」
「で、そのルールを作るときの前提論、つまり『なぜこのルールが必要か』っていう根拠になってる考え方があるわけだ。ルールの親玉みたいなやつ。その前提論と、実際に定められた運営ルールを、よくよく突き合わせて考えると、ん、なんかズレてるな、となる」
太田は少し考えた。「前提と結論が整合してない、ということか」
「そう。理念と実装のあいだに、気づかれてないか、あるいは気づかれてるけど放置されてる矛盾がある」
「それ自体はわりとよくあることだ」
太田は言った。
職業柄、そういう話には慣れている。
「法律でも定款でも、条文を丁寧に読んでいくと、立法趣旨と具体的規定が噛み合ってない箇所は珍しくない」
「だろうな。問題は運用のされ方だ」
津本は続けた。
「そのルール、実際どう運用されてるかというと、二通りある。一方では、まぁまぁまぁ、となぁなぁに。守られてない。みんなわかってるけど、あんまり厳密にやってもねぇ、という空気で、実態として骨抜きになってる部分がある」
「グレーゾーンの黙認、か」
「そう。でもその一方で、別の場面では、その同じルールを根拠に、頑なに一辺倒に規制をかける。融通ゼロで、これはルールだから、の一点張り」
太田はしばらく黙った。
バーの奥で、マスターがグラスを磨いている音だけがしていた。
「ダブルスタンダード、だな」
「そう」と津本は言った。「緩めるときは緩める。締めるときは締める。でもその基準が、外から見ると全然見えない。というか、多分内側にいる人間にも見えてないんじゃないかと思う。慣習と直感でやってる」
「それで、俺にどう見るか、と訊いてる」
「そう」
太田は腕を組んだ。
弁護士として、という話ではない、と彼は直感した。
津本が求めているのはたぶん法律的な分析じゃなく、もう少し根っこのところにある何かだ。
「お前はどう見てるんだ、先に」
津本は少し笑った。「俺が先に言ったら、お前の答えが誘導されるだろ」
「公平な思考実験にしたいわけか」
「そういうことだ」
太田はもう一口、グラスに口をつけた。
なぁなぁと頑固のダブルスタンダード。
前提論と乖離した運営ルール。
どこかで聞いたような話だ、と思った。
どこかで、ではない。いたるところで見ている話だ。
法廷でも、クライアントの会社の中でも、業界のしきたりの中でも。
問題は、それをどう「見る」かだ。
機能不全として見るのか。合理的な余白として見るのか。あるいはもっと別の何かとして見るのか。
「少し考えさせてくれ」
「もちろん」と津本は言って、あの甘ったるそうな酒を飲み干した。「もう一杯いくか」
「ああ」
マスターに向かって津本が指を立てる。
太田は天井を見上げて、思考をほぐし始めた。
思考実験、と津本は言った。
だが太田には、どこかそれが思考実験だけでは終わらない予感が、このとき既にあった。
二軒目は、津本が迷わず連れていった。
新橋からほんの少し歩いた路地の、地下に降りる店だった。
看板は小さく、店名がかろうじて読める程度の明かりしかない。
知っていなければ通り過ぎる。
階段を降りると、カウンターが十席ほど、奥にテーブルが二つ。
照明は抑えてあって、スピーカーからジャズが低く流れていた。
埃っぽい、とは違う。時間が積もっている、という感じの空間だ。
マスターは五十がらみの、口数の少なそうな男で、津本の顔を見ると無言で軽く顎を引いた。常連の挨拶だ。
「お前、こういうところ好きそうだよな」
太田は店内を見回しながら言った。
「そんな頻繁には来ない」と津本はカウンターの椅子を引いて腰を下ろした。
「大切な旧知の仲との再会じゃないか」
あけすけな言い方だった。照れも皮肉もなく、ただそのまま言う。それが津本だ、と太田は思って、自分も隣に座った。
マスターが無言でメニューを置いていく。
「フロール・デ・カーニャの18年を」と津本。
太田はメニューを一瞥して、「同じで」と言った。
こういう店で迷うのが一番格好悪い、という直感だけで決めた。
グラスが来るまでのあいだ、二人はしばらく黙っていた。
気まずい沈黙ではない。ものを考えている沈黙だ。
太田には分かった。津本は急かさない。一軒目からここまで歩いてくる間も、たいして喋らなかった。それで十分だった。
グラスが置かれた。
琥珀色の液体に、大きめの氷がひとつ。ラムか。太田は思った。香りが素晴らしい。
「さて」と津本が言った。「さっきの話だが、お前はどう考えた」
太田はグラスを手に取ったまま、少し間を置いた。
「聞いてもいいか、一個」
「どうぞ」
「そのダブルスタンダード、なぁなぁにする側となぁなぁにしない側、主語は同じか。同じ人間、あるいは同じ組織が、場面によって使い分けてるのか」
「同じ」と津本はすぐ答えた。「同じ主語だ」
太田は頷いた。それが確認したかった。
「じゃあ話が早い」
彼はグラスを置いて、腕を組んだ。
「まず前提として、ルールにズレがある、という話だが、それ自体は俺はさほど驚かない。前提論と運営ルールが完全に整合してる組織なんて、俺は見たことがない。立派な理念があって、そこから導かれたはずの規則があって、でも実際の条文を読むと、なんか途中でねじれてる。よくある。ある意味、人間が作るものの常だと思ってる」
「そうだな」
「問題はその次だ」太田は続けた。「なぁなぁにする部分と、頑なに規制する部分が、同じ主語で使い分けられてる。これは俺には、二つの読み方がある」
「聞かせてくれ」
「一つ目は、悪意なき慣習。つまり、使い分けてるつもりがそもそもない。なんとなくここは厳しく、なんとなくここは緩く、が積み重なって、気づいたら両端が矛盾してる。主語には自覚がない。これは組織が腐ってるというより、老化してる状態だ」
津本は黙って聞いている。
「二つ目は、意図的な非対称。ルールを締める場面と緩める場面に、何らかの利害が絡んでる。誰かに都合がいい方向で、意識的かどうかはともかく、引き締めと黙認が使い分けられてる。こっちは老化じゃなくて、歪みだ」
太田はそこで一度グラスを持ち上げ、飲まずに戻した。
「ただ、俺が厄介だと思うのはな」
「そこじゃないと思ってるんだろ、お前は」と津本が静かに言った。
太田は少し笑った。「話が早いな、お前も」
「続けてくれ」
「一つ目と二つ目が、混在してる場合だ。根っこは慣習の老化なんだが、いつの間にかその歪んだ運用が、特定の誰かの利益構造と合致してしまってる。だから修正しようとすると、利害がある側が、これはルールだ、と言って守りに入る。老化した部分は問いただされないまま、歪んだ部分だけが制度として固定化されていく」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
ジャズのピアノが、低く部屋の隅を流れていた。
津本はゆっくりグラスを傾けて、一口飲んだ。それから言った。
「なるほど、そうか」
「で、どうだ。俺の読みは当たってるか、その思考実験とやら」
津本はしばらく黙っていた。
グラスの氷が、かすかな音を立てた。
「当たってるかどうかより」と彼はゆっくり言った。「お前がそこまで言えるなら、もう一段、聞いてもいいか」
「思考実験は続くのか」
「続く」
太田は背もたれに体を預けた。「どうぞ」
「その構造に」と津本は言った。「お前が、うっかり触れてしまったとしたら」
「うっかり?」
「意図せず。悪意なく。ただ、正直にやっただけで」
太田は眉をわずかに動かした。
「そいつは」
「そいつはどうなる、と思う?」津本の声は穏やかだったが、どこかに重さがあった。「ただ、ルールに書いてあることをそのまま読んで、前提論と照らし合わせたら、あれ、これ通るんじゃないか、と気づいてしまった人間が、その通りにやってしまったら」
太田はしばらく答えなかった。
「それはもう」と彼はゆっくり言った。「思考実験じゃないな、津本」
津本は何も言わなかった。
グラスの中の琥珀色が、静かに揺れていた。
「例えば、こういう事例だ」
津本はそう言って、内ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
A4を三つ折りにしたもので、几帳面に折り目が揃っている。カウンターの上に、すっと置いた。押しつけるでもなく、見せびらかすでもなく、ただそこに存在させた。
太田は一瞬それを見てから、津本の顔を見た。
「お前はいつも面倒なことを出してくる」
昔からそうだった。理科の授業の話もそうだし、修学旅行の前日に「このルートの所要時間、先生の計算おかしくないか」と言い出したのも津本だ。
面倒、というのは悪口ではない。太田にとってそれは、ほとんど称賛に近い言葉だった。
紙を手に取った。
読み始めて、最初の数行で太田の姿勢が変わった。
バーのカウンターに肘をついていた体が、いつの間にか前のめりになっていた。グラスを持っていた手がいつの間にかカウンターに置かれて、両手で紙を持っていた。
*神前婚姻儀礼における飲酒規制の憲法適合性。*
タイトルだけで既に、太田の弁護士としての何かが反応した。
三三九度と未成年飲酒禁止法。
読み進めるほどに、論理の層が積み重なっていくのが分かった。
第19条、第20条、第13条、第24条。それぞれが独立して機能しながら、互いに補強し合っている。
国側が「宗教ではなく習俗」と逃げようとすれば第19条の壁が待ち構えており、「習俗でもない」と逃げようとすれば第13条が受け止める。
三重の構造、と書いてある。その通りだ、と太田は思った。
2022年の民法改正。婚姻年齢の18歳統一。しかし飲酒可能年齢は20歳のまま。
*法律上の成人として婚姻契約を締結しながら、その婚姻儀礼の核心を刑事罰の脅威のもとで禁じられる。*
ここで太田は思わず眉を動かした。
知っていた事実だ。民法改正は知っている。飲酒禁止法も知っている。
だがこの二つを並べて、この角度から見たことはなかった。
医学的立証責任の節で、太田は思わず小さく声が出そうになった。
アルコール消毒剤。うがい薬。みりん。料理酒。アルコール入り菓子。奈良漬・・・
*「盃一杯が有害なら、アルコール消毒もうがい薬も有害だろう」。*
これは綺麗だ、と太田は思った。法律論として綺麗だ、という意味で。
国側が「未成年の健康保護」を根拠に持ち出した瞬間に、この比較例が刺さる。
立証責任の転換。しかも医学的有害性の立証が「不能」という構造。
どぶろく裁判との比較は、さらに精緻だった。
国がどぶろく裁判で勝てたのは、「酒税収入の確保」という具体的な財政的公益を立証できたからだ。
本件で国が持ち出せる正当化根拠は「健康保護」のみだが、一盃の医学的有害性は立証不能。
論理の構造として、国側に逃げ場がない。
訴訟戦略まで書いてある。
確認訴訟。上告理由の構成。刑事裁判に組んだ場合の「無罪しかない」という構造。
そして最後の立法に踏み込む解決。
*「婚姻の届出をした者が神前式において執り行う三三九度の儀においては、この限りでない」*
一行。たった一行の例外規定。反対勢力が存在しない。
太田は読み終えても、しばらく紙から目を離さなかった。
文字を追い直しているのではない。全体の構造を、もう一度俯瞰していた。弁護士として、このシナリオが法廷で、あるいは立法過程で、どこまで機能するかを。
ほぼ、機能するな。
細部に反論の余地はある。
だが骨格は太い。国側の反論ルートを丁寧に潰してある。
これを書いた人間は、国側の弁護士として何度も反論を試みてから書いている。
太田はゆっくりと紙をカウンターに置いた。
津本を見た。
「これ、お前が考えたのか?」
感心したような、呆れたような、その両方が混ざった声だった。
津本はグラスを傾けたまま、表情を変えなかった。
「化学屋が何やってんだって顔してるな、お前」
「いや」太田はもう一度紙を見た。「してる。してるけど、それより」
言葉を選んだ。
「これ、ちゃんとしてるな。法の考え方として、ちゃんとしてる。瑕疵が全くないとは言わないが、骨格が太い。国側の逃げ道を潰してある。どぶろく裁判との比較なんか、特に」
「法律の人間から見てそう見えるなら、まぁよかった」
「よかった、じゃないだろ」
太田は津本を正面から見た。「お前、これを俺に読ませたかった理由があるだろ」
津本はしばらく黙っていた。
ジャズが、一曲終わって、次の曲に変わった。
「さっきの話に戻る」と津本は静かに言った。「前提論と運営ルールがズレてる、という話だ」
「ああ」
「このシナリオで言えば、前提は憲法だ。第19条、第20条、第13条、第24条。それから他者危害原則という近代法の基本。これが前提論」
「そうだな」
「運営ルールは、二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律だ。大正11年制定。百年以上前の法律だ」
太田は頷いた。
「なぁなぁにしてるのは」と津本は続けた。「例えば、七五三の神事で子供に神酒を口につける慣行だ。あれは、誰も罰せられてない。初詣の甘酒だって未成年が飲んでる。正月に家族で一口飲む屠蘇だって、厳密にはアウトだが、誰も言わない」
「黙認だな」
「そう。でも」
津本の声が、少しだけ変わった。
「神前式の三三九度については、たとえば神社や式場が書面で拒否するとしよう。法的リスクを理由に。18歳で法律上の成人として婚姻届を出した当事者が、その婚姻儀礼の核心を禁じられる」
「そこだけ、頑なに規制する」
「同じ神事の神酒を。同じ法律を根拠にして」
太田はしばらく黙った。
グラスを持ち上げて、ラムを一口飲んだ。ゆたかなニカラグアの気配が、喉の奥に静かに広がる気がする。
「ダブルスタンダードの、実例か」と太田は言った。
「思考実験に、骨をつけてみた」
「骨どころか、肉まで全部ついてるだろ」
太田は紙をもう一度見た。「それで、津本」
「ん」
「さっきの問いに戻るが」太田は言った。「その構造に、うっかり触れてしまった人間の話」
「ああ」
「これ」と太田は紙を指した。「これを書いて、どこかに出したのか」
津本は少し間を置いた。
それから、静かに言った。
「出した」
太田はグラスを置いた。
「どこに」
「はっ、今ここで。お前にな」
津本はグラスを置いて、太田を見た。
あっさりした言い方だった。重大なことを言っているのに、まるで「そう言えば、いい店知ってるんだけど」くらいの温度で言う。
「お前な」
太田は思わずそう言った。それ以上の言葉が、一瞬出てこなかった。
化学系メーカーの研究開発職が、最高裁を動かす憲法訴訟の絵を描いて、十八年ぶりに再会した旧友のバーで出してくる。
品川の乗り換えホームで偶然会って、飲むかという流れになって、二軒目のバーのカウンターで。
「だが」と太田は言った。言葉を整理しながら。「なぜ今これを出した」
津本は少し口の端を上げた。
「原告と、被告。両方付き合ってくれるやつに心当たりがある」
「……両方?」
「訴訟として成立させるためには、原告も被告も要る。
それぞれ、動いてくれそうな人間の目処がついてる」
太田は紙をもう一度見た。訴訟ケースの節。
*婚姻日程が確定した18歳・19歳の婚姻当事者が、神前式における三三九度の実施を神社または神前式を実施する店舗に求めるに対し、書面で拒否する。*
「神社側も、乗るのか」
「乗ってくれそうなところに、な。
むしろ神社側も、ずっとこの矛盾を抱えてきてる。
断るたびに、本来やるべき神事を自分たちが止めてる、という後ろめたさがある。
そういう話を、ちゃんと聞いてくれる宮司のツテがある」
「被告側に付き合ってくれる弁護士も、そろってるんだがな、太田」
太田は津本を見た。
「そろってる?」
「ああ。憲法訴訟の経験がある人間で、被告側のロールを引き受けてくれるアテがある。これは茶番じゃない。ちゃんと被告側も本気でやる。そうじゃないと、馴れ合い訴訟だ。最高裁どころか訴訟が成立しない」
太田はしばらく黙っていた。
全体の構造が、頭の中で組み上がっていくのが分かった。
原告側に18歳か19歳の婚姻当事者。
被告側に、書面で拒否した神社か式場。
被告側の弁護士も用意してある。
訴訟として成立する最低限の部品が、既に揃っている。
「ただ」
津本が身を乗り出した。
カウンターに肘をついて、声をわずかに落として。
「一人だけ足りないんだよ」
間があった。
「最高裁判所大法廷で、適用違憲の判決を勝ち取る弁護士の役が、いないんだ」
太田の手が、グラスを傾けていた。
その言葉が耳に届いた瞬間、指に力が入らなくなった。
グラスが滑った。
カウンターの縁で、かろうじて引っかかった。転がりかけて、止まった。グラスが少し波打って、こぼれずに収まった。
太田はそのグラスを見ていた。
こぼれなかった、という事実を確認するのに、二秒くらいかかった。
「なっ」
それしか出てこなかった。
津本は身を乗り出したまま、太田を見ていた。真剣な目だった。思考実験の話をしていたときとは、もう別の目だ。
「これは」と津本は言った。
「今まで例を見ない戦略準備と、戦線ごとの逐次新兵器投入戦術に拠る…最高裁判所を動かすゲームだ」
太田はゆっくりグラスを置いた。安全なところに、しっかりと置いた。
「新兵器投入、というのは」
「地裁では訴訟要件と基本的な憲法論を固める。高裁では医学的立証責任の議論を前面に出し、どぶろく裁判との非連続性を全力で叩き込む。最高裁では三重の構造と、まぁ、これはまだ、考え中だ。各審級で争点を絞って、上に行くほど核心に近づいていく。地裁で全部出し切らない。段階的に、最高裁に向けて論点を積み上げる」
「それは」太田は言いかけた。
「それは確かに、よく考えられてるが」
「立法的解決のルートも、並行して走らせる」と津本は続けた。
「訴訟が進むにつれて、この問題が社会的に可視化される。そうすると立法府への圧力になる。司法と立法、両方のルートを同時に動かす。どちらかが先に動いても、それは勝ちだ」
「お前」太田は津本を正面から見た。「いつからこれを考えてた」
「先週から」と津本は短く言った。
「先週?!」
「民法改正が成立したとき。2022年。その瞬間に、あ、これズレが表面化した、と思った。それを先週思い出してな。人を探して、構造を組んだ」
一週間・・・。
太田は天井を見上げた。
品川のホームで偶然会った、という話が、今更別の色合いを帯び始めていた。
「津本」
「ん」
「今日、品川で俺を見かけたのは、本当に偶然か」
津本はわずかに間を置いた。
「……LinkedInで、お前の事務所の場所は知ってた」
「お前な」
「でも声をかけるかどうかは、本当に迷ってた。それは本当だ」
太田はしばらく黙っていた。
怒る気にはなれなかった。なれないのは、それらしくできている、とはいえあまりに前代未聞で荒唐無稽な話が、あの紙の中に確かにあったからだ。
「それを先頭で引っ張る弁護士」と津本はもう一度言った。「それが足りないんだよ、太田」
カウンターの上に、折り畳まれた紙が置いてある。
ジャズが低く流れている。
マスターは遠い端でグラスを磨いていて、こちらを見ていない。
太田は津本を見た。化学系メーカーの研究開発職で、素材開発をやっていて、地味だけど面白いと言った男を。
中学のときから、誰も気にしないところをひとりで深く掘ってきた男を。
「しがない弁護士に」と太田はゆっくり言った。「最高裁大法廷で違憲判決を勝ち取れ、と」
「そう言ってる」
「正気か」
「至って」と津本は言った。「正気だよ」
---
「それに」
津本はそこで、少し笑った。
初めて見る笑い方だった。中学のときも、今夜の最初の一軒目も、津本はどちらかといえば表情を抑えた男だった。
それが今、カウンターの上で指を組みながら、どこか抑えきれないものが滲むような顔をしている。
「戦力の逐次投入、さっきもいったが、まだまだ、あるぞ」
太田の中で、何かが動いた。
弁護士としての警戒心と、それとは全く別の何かが、同時に動いた。後者の方が、少しだけ速かった。
まずい、と太田は思った。
ワクワクしている。
自分でも驚くほど、ワクワクしている。
最高裁大法廷で違憲判決を、などという途方もない話を聞かされているのに、全身が前のめりになりたがっている。しがない弁護士の、どこかが。
「医学的根拠とか」と太田は言った。「医学者の証人申請とか、神学者との連携とか、そういう話か」
「そんなんじゃない」
即答だった。
「そんなんじゃない、って……」
「医学者も神学者も、必要なら使う。だがそれは既にこのシナリオに骨格として入ってる。俺が言ってるのは、そういう次元の話じゃない」
太田はしばらく津本を見た。
「どういう次元だ」
津本は身を乗り出したまま、言った。
「これは歴史上みない、前代未聞荒唐無稽で」
一息置いた。
「全ての法学クラスタがひっくり返るような」
また一息。
「革新的で、破壊的で、だが、徹底的にルールに遵守した」
そこで津本は太田の目を真正面から見て、言った。
「最高のちゃぶ台返しだ。」
沈黙があった。
ジャズが一曲終わる間くらいの沈黙だった。
太田は津本を見ていた。津本は太田を見ていた。
マスターが遠い端でボトルを棚に戻す、小さな音がした。
「ちゃぶ台返し」と太田はゆっくり繰り返した。「徹底的にルールに遵守した、ちゃぶ台返し」
「そう」
「法曹が全部ひっくり返る」
「そう」
「前代未聞で荒唐無稽の」
「そう」
太田は額に手を当てた。
「一体何を考えてるって言うんだ、お前は」
津本は少し間を置いた。
それから、静かに、しかしどこか楽しそうに言った。
「それはまだ言えない」
「は」
「お前が乗った時点で、教えてやるよ」
太田は手を額から離して、津本を見た。
「乗る乗らないを、中身も聞かずに決めろと」
「そう言ってる」
「正気か」
「さっきも同じこと聞いたな、お前」
太田は返す言葉がなかった。確かに聞いた。二回目だ。
津本は続けた。
「かけてもいい」
静かだが、確信のある声だった。
「お前はブチ切れ、爆笑し、最高に。やりたくなる、とな。まぁひっくり返すちゃぶ台が用意できるかどうか、はわからんが。」
ブチ切れ。爆笑。やりたくなる。
その三つが同時に成立する何か、というものを、太田は弁護士になってから一度も経験したことがなかった。
そもそもそんなものが存在するのか、という話だ。
だが。
この男が一週間で組み上げた構造が、あの紙の中にある。
骨格が太く、逃げ道を潰してあって、どぶろく裁判との比較が綺麗で、立法的解決まで視野に入っている。
その男が「まだある」と言って、「法学クラスタが全部ひっくり返る」と言って、「徹底的にルールに遵守したちゃぶ台返し」と言っている。
太田は深く息を吸った。
グラスを手に取った。ラムの残りを、ゆっくり飲み干した。
カウンターに置いた。
「もう一杯頼んでいいか」とマスターに向かって言った。
マスターは無言で頷いた。
太田は津本を見た。
「聞かせてもらう前に、一個だけ確認させてくれ」
「どうぞ」
「お前が・・・一週間でこれを組んだのは、本当にこの矛盾が許せなかったからか。それとも、ゲームとして面白いからか」
津本は少し考えた。
珍しく、すぐ答えなかった。
「両方だ」と彼は言った。「最初は前者だった。だが組み上げていくうちに後者になった。今は両方だな」
「正直すぎるだろ」
「嘘をつく意味がない」
新しいグラスが来た。
太田はそれを手に取って、少し傾けた。琥珀色が揺れた。
「わかった」
「乗るか」
「まだそこまで言ってない」太田は言った。「だが、聞く価値はある話だと思ってる。その先を聞いた上で、決める」
津本はそれを聞いて、少し表情を緩めた。
「それで十分だ」
「で、教えてくれるんだろうな。俺が乗る乗らないを判断できる程度には」
「ああ」と津本は言った。「ただし」
「ただし?」
「もう一杯付き合ってくれ。これは、二杯で終わる話じゃない」
太田は苦笑した。
「今夜、終電は諦めろってことか」
「タクシー代くらい出すよ」と津本は言った。それからグラスを持ち上げた。「では、最高のちゃぶ台返しに向けて」
太田はグラスを持ち上げた。
「……向けて」
二つのグラスが、静かに触れた。
ジャズが、次の曲を始めた。
---
「この訴訟において、何が超えるべき壁か、だよ、太田」
津本はグラスを置いて、静かに言った。
さっきまでの、どこか熱を帯びた空気が、少し変わった。試している、というよりは、一緒に地図を広げようとしている、そういう空気だった。
「超えるべき壁、か」
太田は繰り返した。
グラスを両手で包んで、カウンターの一点を見た。考えるときの癖だ。視線を固定して、頭の中だけを動かす。
津本は何も言わなかった。ただ黙って、グラスを傾けて、待った。
「まず」と太田は言った。「一番手前にある壁から話す」
「ああ」
「訴訟要件だ。確認の利益。これが最初の壁になる」
太田はゆっくり続けた。
「婚姻日程が確定している、という要件で確認の利益を組み立てる、とシナリオに書いてあった。それは筋として理解できる。だが相手方が書面で拒否している、という事実が必要になる。口頭での断りじゃ弱い。書面で、法的根拠を明示した拒否が要る。その証拠を、訴訟提起前に確実に取れるかどうか」
「続けてくれ」
「次の壁は、地裁段階での訴訟指揮だ。裁判官によっては、憲法判断に踏み込む前に、訴訟技術的な処理で終わらせようとする。訴えの利益なし、で門前払いにするか、あるいは法律解釈の問題として憲法論を回避しようとする。いわゆる憲法判断回避の準則だ。合憲限定解釈で逃げられると、最高裁まで行けない」
太田はグラスを一口傾けた。
「三番目は、高裁だ。地裁で勝っても負けても、高裁での論点の組み替えが難しい。医学的立証責任の議論を前面に出す、と言っていたが、高裁の裁判体がそこに食いついてくれるかどうかは、読めない。食いつかなければ、最高裁に上げる論点が薄くなる」
津本はまだ黙っていた。
「四番目」と太田は続けた。「最高裁への上告理由の構成だ。民事訴訟法第312条、憲法違反を上告理由とする。これは条文上は問題ない。だが最高裁が上告受理するかどうかは別の話だ。最高裁は上告を受理しない選択ができる。棄却じゃなく、不受理だ。そうなると憲法判断が出ない。最高裁まで行って、不受理で終わるというシナリオは、リアルに存在する」
太田はそこで少し間を置いた。
「五番目は、大法廷への回付だ。シナリオには最高裁大法廷への回付が見込まれる、と書いてあった。だが小法廷で処理される可能性もある。大法廷に回付されるのは、法令違憲の判断が必要な場合か、判例変更が必要な場合だ。この案件が大法廷案件だ、と最高裁に認識させる論点の組み方が要る」
グラスの氷が、小さな音を立てた。
「そして」太田は言った。「全部超えたとして、最後の壁がある」
「言ってくれ」
「世論だな」
太田は津本を見た。
「最高裁は世論を全く無視できない。特に大法廷の判断は、時代の空気と無関係ではいられない。尊属殺重罰規定の違憲判決も、婚外子相続差別の違憲決定も、背景に時代の変化があった。この案件を、社会がどう受け取るか。18歳で結婚できるのに三三九度ができない、という矛盾を、どれだけ多くの人間が理不尽だと感じるか。それが最後の、そして最も読めない壁だ」
太田はそこで話を止めた。
カウンターに視線を戻して、グラスを置いた。
「以上だ。俺が見える壁は」
津本はしばらく黙っていた。
ジャズが一曲終わる間くらいの沈黙だった。
「全部、正しく見えてる」と津本はゆっくり言った。
「褒め言葉として受け取っておく」太田が言う。
「褒めてる」津本は続けた。「だが太田、お前が挙げた壁は全部、普通の憲法訴訟における壁だ」
太田は津本を見た。
「普通の、と言った」
「そう言った」とは津本だ。
「つまり」
「この訴訟には」
と津本は静かに言った。「もう一枚、壁がある。普通じゃない壁が」
太田はしばらく津本を見ていた。
「それが」と太田は言った。「お前の言う、ちゃぶ台返しに関係してるのか」
津本は答えなかった。
ただ、グラスを持ち上げて、一口飲んだ。
それが答えだった。