合意の射程   作:nelldrip

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受任

「ああ、利益相反、信義則違反は確かに主張できる」

太田は言った。

 

「だが」

津本が続きを引き取った。

「なんとか無理矢理にでも、ねじ込もうとしたら、お前どうする?」

 

太田は黙った。

 

津本は続けた。補足するように、静かに。

「補助参加の利害関係の認定は、裁判所は比較的広く認める傾向がある。参加の形態、範囲を限るなど、否定しきれるものではない」

 

太田はカウンターに視線を落とした。

 

その通りだ。補助参加の要件認定において、日本の裁判所は利害関係を広く解釈してきた。

国が利害関係人であることは明白で、利益相反の主張をしても、参加の範囲を争点に限定する、補助参加の態様を制限する、といった形で裁判所が折衷案を出してくる可能性が高い。

 

異議申し立ては時間稼ぎにはなる。だが弾ききれない。

 

では。

太田は頭の中で、問いを立て直した。

 

補助参加を弾けない、という前提で考える。国がねじ込んできた、その後に何が起きるか。

国が補助参加人として入ってきた瞬間、何が変わるか。

何が、使えるか。

 

太田はゆっくり口を開いた。

 

「補助参加人として国が入ってきた場合」

 

「ああ」

 

「補助参加人は、被参加人の宮司側を勝たせるために参加する。国の主張は、この法律の適用は適法だ、になる」

 

「そうだな」

 

「だが」太田は続けた。

「補助参加人の地位には、制約がある。被参加人、つまり宮司側の意思に反する行為はできない」

 

「民事訴訟法第45条だな」

 

「そう」太田は言った。

「宮司側の訴訟代理人と、補助参加人である国の主張が、もし食い違ったとしたら」

 

津本は黙っている。

 

「宮司側の弁護士が、ある局面で、法律の解釈に疑義がある、あるいは今回の適用は過剰だったかもしれない、という方向に舵を切ったとしたら」

 

太田はそこで止まった。

 

「宮司側の弁護士が、こちらと通じていれば」

 

言ってから気づいた。

 

津本はじっと見つめていた。

 

「被告側の弁護士は本気でやる、と言っていた」太田はゆっくり言った。「本気でやる、というのは、宮司側として国に勝ちに行く、という意味じゃないんだな」

 

「続けろ」と津本は静かに言った。

 

「宮司側の弁護士は」太田は言った。「補助参加してきた国と、宮司の利益が一致しない局面を、意図的に作る。宮司は本来、三三九度をやりたかった。法律があるから止めざるを得なかった。その立場を前面に出せば、国の補助参加の主張と、被参加人の実態が、乖離し始める」

 

太田はそこで息を吸った。

 

「補助参加人が入ってきた瞬間に、法廷の中で国と宮司の間に亀裂を走らせる。国は宮司を助けに来たつもりが、宮司との間で主張が噛み合わなくなる」

 

カウンターの上で、グラスの氷が音を立てた。

 

太田は津本を見た。

 

「これが、ねじ込まれたときの対処か」

 

津本はグラスを持ち上げた。

 

なにも、言わなかった。

 

ただ、少し飲んだ。

 

その顔が、また笑っていた。抑えているが、笑っている。

 

「違うのか」と太田は言った。

 

「お前は、普通だよ」と津本は言った。

 

「なに、気を悪くするな。もう少し、壊れていて欲しい、と思っただけだ」

 

津本はグラスを置いた。

 

「いい線はいっている。だがまだ、浅い」

 

「浅い?」太田はどういうことか、と思った。

 

「いいんだよ、国は、いていい。いなくても、いい」

 

「どういうことなんだ?」

太田はグラスを手に取りながら、いった。

 

「津本」

「もったいぶるな」

 

「何をだ」

 

「補助参加を弾く、という問いを立てた。俺が利益相反を言ったとき、弱いと言った。ねじ込まれたらどうする、という問いに、俺は宮司と国の亀裂を使う、と答えた」

 

「ああ」

 

「だがそれも、お前が最初から考えていた手の一つだろう。俺が追いついたところで、お前はまだ先にいる」

 

津本はしばらく黙っていた。

 

それから、珍しく、はっきりと笑った。

 

「さすがだな、お前」

 

「何がある」

 

「補助参加を、法的に拒むんじゃない」津本は言った。「ただし、政治的に、割に合わなくさせる方法が、ある」

 

太田は眉を動かした。

 

「政治的に?」

 

「国が補助参加を申請した事実が、外に出たとき」津本は静かに続けた。「何が起きると思う?」

 

「ここでもう一つ爆弾があるんだよ」

 

津本は静かに言った。

 

「なんだと?」

 

「国が来るなら、国賠で利益相反を言う。それでもしがみつくなら、最大限利用するのさ」

 

津本はそこで少し間を置いた。

 

「被告側の準備書面、あるいは法廷での主張として、こう言う」

 

一息。

 

「当社の主張は一貫しており、本訴訟における未成年飲酒禁止法は合憲である」

 

太田は黙って聞いた。

 

「未成年者はいかなる形でもアルコールを摂取することは許されておらず」

 

津本の声は穏やかだった。穏やかだが、一言一言に重さがあった。

 

「仮に原告らが主張するようなエタノールスプレーや、奈良漬、アルコール入り菓子があるのであれば、それが取り締まられていないことこそが違法状態である」

 

太田は少し眉を動かした。

 

「そして」

 

津本は続けた。

 

「これは訟務局が本件訴訟において被告及び被告代理人に補助参加をしたことが、明確に支持しているのは明らかである」

 

沈黙があった。

太田はしばらく、その言葉の構造を頭の中で展開していた。

展開するほどに、顔が変わっていくのが自分でも分かった。

 

「待て」と太田は言った。

 

「どうした」

 

「これは」

 

太田は言葉を選んだ。いや、選べなかった。

「これは」もう一度言った。「国が補助参加した事実を使って、国自身に、エタノールスプレーも奈良漬も違法だと主張させる、ということか」

 

「主張させるんじゃない」と津本は言った。「国の補助参加が、その主張を支持していると宣言するんだ」

 

太田はカウンターに手をついた。

 

論理の展開が、頭の中で走り始めた。

国が補助参加した。

国の立場は、未成年飲酒禁止法の適用は適法、という主張だ。

原告側はその補助参加の事実を使って、では国の立場に従えば、エタノールスプレーも、奈良漬も、アルコール入り菓子も、全て違法ということになる、と宣言する。

そして国の補助参加が、その論理を公式に支持している、と。

 

「国は」太田は言った。「否定できない」

 

「できるか?」

 

「できない」太田は続けた。

「補助参加を取り下げれば、この訴訟から手を引くことになる。取り下げずに残れば、その論理を暗黙に支持し続ける姿勢になる。どちらに転んでも」

 

「詰んでる」と津本は静かに言った。

 

太田は額に手を当てた。

 

「しかもこれは」太田は言った。「法廷の外に出た瞬間に、どうなる」

 

「どうなると思う?」

 

「エタノールスプレーが違法。奈良漬が違法。アルコール入り菓子が違法。国の補助参加がそれを支持している、という話が、メディアに出る」

 

太田はそこで少し笑った。笑いを抑えられなかった。

 

「医療現場が黙ってない」

 

「黙らないだろうな」

 

「食品業界も黙ってない」

 

「黙らないだろうな」

 

「製菓業界も、調味料業界も、全部巻き込まれる。そして国は、自分の補助参加によって、その全部を敵に回した形になる」

 

「政治的に、割に合わなくなる」と津本は言った。「さっき俺が言いかけた話だ」

 

太田はしばらく黙っていた。

頭の中で、全体の構造がもう一度回った。

新郎新婦の損害賠償。神社の国賠。補助参加。宮司と国の亀裂。そしてこの爆弾。

国が入ってきた瞬間に、国自身が抱える矛盾が、法廷の内外で同時に爆発する。

 

「津本」と太田は言った。

「お前、本当に化学屋か」

 

「だから素材開発だ」

 

「層を重ねて界面で何が起きるか考える仕事だと言ったな」

 

「言ったな」

 

「この訴訟、全部がそうだな」太田は言った。「一枚一枚の層は、それぞれ独立して機能する。だが重なったとき、界面で何が起きるかを、最初から計算してある」

 

津本はグラスを持ち上げた。

 

何も言わなかった。

 

ただ、少し飲んだ。

 

太田はその横顔を見た。

 

「一個だけ確認させてくれ」と太田は言った。

「お前はこの訴訟で、最終的に何を勝ち取りたい。判決の先に、何を見てるんだ」

 

津本はしばらく黙っていた。

今夜一番長い沈黙だった。

 

「三三九度を」と津本はゆっくり言った。「18歳で結婚する二人が、ちゃんと挙げられるようになること」

 

太田はその言葉を聞いた。

 

シンプルだった。拍子抜けするほどシンプルだった。だからこそ、重かった。

 

「それだけか」

 

「それだけだよ」と津本は言った。「層を何枚重ねても、最後に守りたいのは、それだけだ」

 

「そうして、補助参加のコストを高くするもう一つの槍がある」

 

津本は静かに言った。

 

「未だあるのか」

 

太田はグラスを置いた。

「聞かせてくれ。俺はお前が何を言ってももう驚かんよ」

 

そう言いながら、内心では既に驚く準備をしていた。この男の話を聞くたびに、もう底だろうと思ったところから、さらに一層下があった。

 

津本は少し姿勢を整えた。

「被告に、こう主張させるのさ」

 

「本訴において、被告並びに被告代理人は国家賠償請求を提訴しており」

 

太田は黙って聞いた。

 

「にも関わらず、利害を敵対する関係として、国家が介入を行おうとしている」

 

うん、とそこまでは分かる。

 

「これは明確に、利害を敵対する相手へ、訴訟戦略や心情の共有を求めることであり、到底受け入れることが出来ない。」

 

太田はそこで少し息を吸った。

 

「もし国が補助参加を申し出るというのであれば」

 

津本は続けた。一言一言、刻むように。

 

「まず本訴に関して提訴した国家賠償請求を、直ちに認めろ」

 

太田は動かなかった。

 

「それにならない場合」

津本の声は穏やかだった。

 

「国の補助参加申請はいたずらに本訴の進行を妨害し、迅速な裁判の進行を国が侵害する行為である。被告並びに被告代理人が正統に保護されるべき、憲法第32条、裁判を受ける権利の侵害として、到底認められない。」

「被告代理人として、そのような行為をする国に訴訟戦略の共有など絶対に行えないことを、この場にて宣言する。」

津本はそこで止まった。

 

「とな」

 

沈黙があった。

太田はカウンターの一点を見ていた。

頭の中で、構造が展開していった。

 

神社は国を国賠で訴えている。その神社に対して、国が補助参加を申請する。神社側は言う。国賠で争っている相手が、別の訴訟で自分たちの側に立とうとしている。

利害が敵対する相手に、訴訟戦略を共有しろというのか。それが受け入れられないなら、まず国賠を認めろ。認めないなら、その補助参加申請は憲法第32条の侵害だ、と。

 

太田は額に手を当てた。

「国が補助参加を強行しようとした場合」とゆっくり言った。「国は二つの選択肢しかない」

 

「一つ、神社への国賠を認める。そうすれば補助参加の障害は消えるが、自分たちの怠慢を公式に認めたことになる。法律の瑕疵を認めた国が、その法律の適法性を主張するために補助参加する、という自己矛盾が生じる」

「もう一つ」

「国賠を認めずに補助参加を強行する。そうすれば神社側から憲法第32条違反を主張される。裁判を受ける権利を侵害している、という主張が法廷に出る。国が、憲法訴訟の場で、憲法違反を別途指摘される」

 

太田はそこで手を額から離した。

 

「どちらに転んでも」

 

「詰んでる」と津本は言った。二度目だった。

 

「詰んでる、な」太田は繰り返した。「しかも今度は、国が憲法32条違反という新たな傷を負うリスクまで背負う」

 

「補助参加を諦めるのが、国にとって最も傷が浅い」津本が、フォローするようにいった。

 

「政治的にも、法的にもか」

 

「そうだ」

 

太田はしばらく黙っていた。

今夜何度目かの沈黙だった。だが今夜一番、中身の詰まった沈黙だった。

 

全体の構造が、頭の中で完成形に近づいていくのが分かった。

 

損害賠償で足場を固める。国賠で国を戦線に引き込む。

補助参加を申請してきたら、政治的コストを爆発させる。

それでも強行しようとすれば、国賠認容か憲法32条違反かという二択に追い込む。

 

国が入ってくる前に蹴る。

入ってきたら最大限利用する。

しがみつくなら詰ませる。

 

三重の迎撃ラインだ。こんな訴訟、自分が訟務局なら、絶対、関わりたくない。

 

「津本」と太田は言った。

 

「さっきのゲームで言えば」

「ボスユニットが来るルートに、対空、対地、スタン、全部仕込んであるな」

 

津本は少し笑った。

 

「まぁそういうことだ」

 

「しかも」太田は続けた。「どのラインで止めても、止めた事実そのものが次の弾になる」

 

「分かってきたじゃないか」

 

太田はグラスを持ち上げた。

残りを見た。もう少しある。

 

「一個だけ聞いていいか」

 

「どうぞ」

 

「これを全部、お前一人で考えたのか」

 

津本はしばらく黙っていた。

 

「先週から、ずっとだ、と言っただろ」

 

「たった一週間だと?」

 

「途中から、LLMを使ったがな。Claudeはいいな、Opusは素晴らしいぞ」

 

「AIチャットかよ」

 

「ああ」

 

太田はグラスを置いた。

 

「お前の仲間に、法律家が一人もいなかったのか」

 

「いなかった」と津本は言った。「だから今夜、おまえに投げてみた」

 

太田はしばらくその言葉を聞いていた。

 

「津本」

「お前が俺に声をかけたのは」太田は言った。「俺が弁護士だからか。それとも、俺だからか」

 

津本はグラスを手に取った。飲まずに、しばらく持っていた。

 

「両方だよ」と彼は言った。「最初から、両方だ」

 

「津本、お前、本当にとんでもない戦略を考えついたってこと、わかってるか」

 

太田は言った。

グラスを置いて、津本を正面から見た。

 

「わかってるつもりだが」

 

「わかってるつもり、じゃ足りない」太田は続けた。「これがどういう意味を持つか、順番に言う」

 

津本は黙って聞く姿勢を取った。

 

「まず、訴訟戦略としての革新性だ。原告と被告を設計段階から連動させ、補助参加を三重の迎撃ラインで封じ、国賠と本訴を並走させることで国を進退窮まらせる。」

「こういう構造の訴訟を、俺は見たことがない。判例として残った場合、今後の憲法訴訟における補助参加対策、国賠の使い方、争点の段階的投入、全部が参照事例になる」

 

太田は一息ついた。

 

「次に、波及効だ。最高裁が違憲判決を出した場合、二十歳未満飲酒禁止法の一律適用という構造そのものが揺らぐ。」

「類似の事案、つまり宗教的儀礼に関わるあらゆる場面で、同じ論理が援用され得る。神道だけじゃない。他の宗教的慣行への規制にも、この判決の射程が及ぶ可能性がある」

 

「続けてくれ」

 

「そして立法への圧力だ。最高裁が動かなくても、この訴訟が世に出た時点で、国会は無視できなくなる。エタノールスプレーや奈良漬が炸裂した後の政治的地形は、立法的解決を一気に現実的にする。」

 

太田はそこで少し間を置いた。

 

「そうして」と続けた。

「今後の訴訟戦略が全部変わる。原告と被告を最初から設計する、という発想が、一度判例として定着すれば、憲法訴訟の組み立て方の常識が変わる。弁護士の世界で、教科書が書き変わる話だ」

 

太田はそこで津本を正面から見た。

 

「お前、これを行おうって、正気か?」

 

一拍置いた。

 

「俺は恐ろしいよ」

 

津本はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

 

「正気さ」

 

グラスを手に取った。

「それに、これを考えるのは、とても刺激的で楽しかったぞ」

 

太田は少し天井を見た。

 

「お前は全く」

 

それ以上の言葉が出てこなかった。怒る気にもなれないし、呆れきることもできない。この男が三年かけて、楽しみながら積み上げてきたものの重さが、今夜のバーのカウンターの上に全部載っている。

 

しばらく沈黙があった。

津本がグラスを置いた。

 

「ただ一つだけ」と津本は言った。

 

「ん」

 

「太田、お前は逆に強く見過ぎなんだよ」

 

太田は眉を動かした。

 

「強く見すぎ?」

 

「ああ、そうだ」津本は言った。「これの落とし所、を考えるんだ」

 

落とし所。

 

太田はその言葉を頭の中で転がした。

 

強く見すぎ、という指摘が引っかかった。

確かに今夜、太田は訴訟の火力と射程のことばかり考えていた。どこまで届くか、どれだけ大きくなるか、どれほどの影響を与えるか。

 

落とし所、とは何か。

 

太田は津本が最初に渡した紙を見た。カウンターの上に、折り畳まれたままある。

 

「なら」と太田は言った。「立法的解決、か?」

 

津本は少し苦笑した。珍しい顔だった。

 

「違うのか」

 

「違憲は違憲さ」と津本は言った。「だが」

 

一息置いた。

 

「極めて限られた状況に限って、違憲の認定、だ」

 

太田はしばらく黙った。

 

適用違憲。

 

日本の憲法訴訟の文脈で、最高裁が取り得る判断の形。法律そのものを全面的に違憲とするのではなく、その法律の特定の適用が違憲である、という判断。

 

「二十歳未満飲酒禁止法を、法令違憲にしない」と太田は言った。

 

「そう」

 

「神前婚姻儀礼における三三九度への適用に限って、違憲とする。適用違憲か…」

 

「そうだ」

 

太田は少し考えた。

 

「それが、落とし所か」

 

「最高裁にとっても」と津本は言った。「全面違憲よりずっと決断しやすい。立法府への影響も、限定的になる。国にとっても、全面敗訴よりは傷が浅い」

 

「全員が、一歩ずつ引ける」太田は感心したように、いった。

 

「そう」津本は続けた。「そして神社は三三九度を執り行えるようになる。18歳で結婚する二人が、ちゃんと式を挙げられるようになる」

 

太田はその言葉を聞いた。

さっきも聞いた言葉だった。

 

*三三九度を、18歳で結婚する二人が、ちゃんと挙げられるようになること。それだけだよ。*

 

「適用違憲という落とし所を最初から見据えて」太田は言った。「この訴訟全体を設計してある、ということか」

 

「強く見すぎると」津本は静かに言った。

「最高裁が引けなくなる。引けなくなると、判断を避けたがる。落とし所があることで、最高裁も動ける」

 

「逃げ道を塞ぐだけじゃなく」太田は言った。「着地点も用意しておく」

 

「タワーディフェンスで言えば」と津本は言った。「ボスを全滅させる必要はない。拠点まで来させなければいい」

 

太田はしばらく黙っていた。

グラスを持ち上げた。残りが少し揺れた。

 

「津本」

 

「ん」

 

「お前、本当に化学屋か」

 

「三回目だぞ、それ」

 

「三回聞いても、信じられないんだよ」

 

津本は少し笑った。

 

今夜一番、柔らかい笑い方だった。

 

グラスを置いて、津本は太田を見た。

 

「この訴訟戦略、原告の要求は一言も、未成年飲酒を解禁しろ、なんて言ってないだろ?」

 

太田は止まった。

一瞬、止まった。

そういうことか。

 

「っ……!」

 

声にならなかった。グラスを持ちかけた手が、途中で止まった。

 

「お前は全く」

 

それしか出てこなかった。

 

*神前婚姻儀礼における飲酒規制の憲法適合性。*

 

射程が絞ってある。未成年飲酒の全面解禁ではない。

神前婚姻儀礼、という極めて限定された文脈における規制の合憲性、それだけを問うている。

 

「三三九度はいいだろ」と津本は言った。

穏やかに、しかし確信を持って。「これの制限は流石に違うだろ。原告の国賠だって、この主張なわけさ」

 

神社側の願いも同じだ。

未成年に酒を飲ませろと言っているのではない。婚姻という人生最重要の契機における、宗教的儀礼の核心を守れと言っている。

 

それだけを言っている。

 

「最高裁が判断を下すとき」太田はゆっくり言った。

「この訴訟は未成年飲酒解禁を求めているのではない、という事実が、判断を極めてしやすくする」

 

「そう」と津本は言った。「適用違憲の射程が、最初から絞ってある。判決文に書くべき内容が、自然と限定される」

 

「国にとっても」太田は続けた。

「未成年飲酒禁止法そのものの根幹は傷つかない。少なくとも18歳以上、限られた量で、かつ衆人の監視のもとに同意を前提に行われる、三三九度という、極めて特殊な文脈への適用が違憲とされるだけだ」

 

「そうして」と津本は言った。

 

少し間を置いた。

「この落としどころであれば、全員が等しく、ちょっとだけWin、って立ち位置なのさ」

 

太田は黙って聞いた。

 

「致命的ダメージのない、消極的適用意見での勝利」

津本はそう言って、指を折り始めた。

「新郎新婦は、三三九度が挙げられなかった損害賠償を得る。そして今後、同じ境遇の18歳19歳の夫婦が、三三九度を挙げられるようになる」

 

一本。

「神社は、法律に従っただけで訴えられた理不尽が公式に認められる。国賠が認容されれば実害の補填も得られる。そして本来執り行うべき神事を、堂々と執り行えるようになる」

 

二本。

「国は、全面違憲という最悪の事態を免れる。未成年飲酒禁止法の根幹は守られる。傷は浅い」

 

三本。

「最高裁は、適用違憲という着地点で、社会的影響を最小限に抑えながら、憲法判断という責務を果たせる」

 

四本。

「そして法学の世界は」津本は少し笑った。「ひっくり返る」

 

太田はしばらく黙っていた。

 

「それを」とゆっくり言った。「始めから餌として、ぶら下げる裁判」

 

「そうだ」と津本は言った。「それがこれさ」

 

太田はカウンターの上の紙を見た。

折り畳まれたA4。几帳面に揃った折り目。

この紙が、全ての設計図だった。その実態は、誰も致命傷を負わない着地点を最初から用意した上で、そこに向かって全員を誘導するための、精巧な地図だ。

 

「津本」と太田は言った。

「お前が言った。この訴訟で守りたいのは、三三九度を18歳の二人がちゃんと挙げられるようになること、それだけだと」

 

「言ったな」

 

「その一点のために」太田は続けた。「全員が少しずつ得をする構造を、設計した」

 

津本は何も言わなかった。

 

「誰かを完全に負かす必要がない裁判を、最初から作った」

 

「そうだな」と津本はようやく言った。「誰かを完全に負かしたいわけじゃない。ただ、矛盾を、正したい」

 

太田はグラスを手に取った。

残りを、ゆっくり飲み干すと、カウンターに置いた。

 

マスターが遠い端で、静かにグラスを磨いている。

ジャズが低く流れている。新橋の地下のバーで、深夜に、二人のおっさんが憲法訴訟の設計図を広げている。

 

太田は小さく笑った。

「しがない弁護士に、最高裁大法廷の違憲判決を取ってこいと言った男が」

 

「ああ」

 

「最初から、全員が少しだけ勝つ裁判を設計してた」

 

「矛盾してるか?」と津本は言った。

 

「矛盾してない」太田は言った。「全員が少しだけ勝つためには、最高裁まで行かなければいけない。だからこそ、最高裁大法廷だ」

 

津本は静かに頷いた。

 

「で」と太田は言った。

 

「ん」

 

「俺への正式な依頼は、いつ聞けるんだ」

 

津本は少し間を置いた。

 

それから、マスターに向かって指を二本立てた。

 

「もう一杯付き合ってくれるなら、今夜、ここで」

 

太田は苦笑した。

 

「終電は、とっくに諦めてるよ」

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