翌日、事務所に現れたのは、司法試験直前の法学部生と、19歳の妻。
来月、神前式を控えているという。
三三九度はできない――そう神社から正式な拒否回答を受けながら、二人は式を取り消すつもりはない。
「何が欠けていたかを、ちゃんとした形にしたい」。
太田は依頼を受け、大崎神社へ向かう。そこで待っていたのは、68年の矜持を抱えてきた宮司――そして、津本がすでに全てを通していたという事実だった。
訴状は静かに提出され、第一回公判は何事もなく終わる。誰の目にも、平凡な訴訟に見えた。
だが廊下で、一人の男が太田に声をかける。早稲田大学、憲法学者・円山肇。
「気づいた人間が、一人いる」――歯車が、また一つ、動き始める。
「これは三三九度のための訴訟、なんだよな」
太田は言った。
独り言のように、静かに言った。
カウンターの上の紙を見ながら。折り畳まれたA4を。
「まるで十二単だ」
「十二単?」と津本が聞いた。
「そうだ」太田は続けた。「たった一つの、それだけ見れば小さな目的のために、何なんだこの異常に多階層な防壁は」
損害賠償。国賠。補助参加の三重迎撃。神社の逆襲。エタノールスプレー爆弾。憲法32条の盾。適用違憲という着地点。世論と立法府への波及。
全部が、18歳の二人が三三九度を挙げられるようにするため、だ。
その目的だけ取り出せば、拍子抜けするほど小さい。だがその目的を守るために、これほどの層が重ねてある。
「十二単か」と津本は言った。少し面白そうに。「悪くない例えだな」
「褒めてない」
「分かってる」
しばらく沈黙があった。
津本がグラスを傾けた。それから、ふと言った。
「太田、勝ちって何だと思う?」
太田は少し眉を動かした。
「勝ち、だと?」
「ああ」
「勝つことじゃないのか」と太田は言った。「訴訟なら、判決で認容されること。それが勝ちだろ」
「そうだな」と津本は言った。「それはそうさ」
一息置いた。
「だが、俺はこう考えてる」
津本はグラスを置いて、カウンターの一点を見た。考えるときの、この男なりの姿勢だ、と太田は思った。
「負けないこと」
静かな声だった。
「そうして、どんなに小さくてもいいから、守りたい確信を守り切る利益を得ること」
太田は黙って聞いた。
「俺はそう考えてる。」
太田はしばらく、その言葉を頭の中に置いておいた。
転がすのではなく、ただ置いておいた。
負けないこと。守りたい確信を守り切ること。
「哲学みたいな話だ」と太田はゆっくり言った。
「そう言った」と津本は言った。「哲学みたいな話だ、と俺も思う」
「だが」太田は続けた。「この訴訟の設計と、完全に一致してる」
「どういう意味だ」
太田は紙を見た。
「この訴訟、国を完膚なきまでに叩き潰す設計になってない。未成年飲酒禁止法を全面的に否定する設計になってない。訟務局に恥をかかせる設計になってない」
「そうだな」
「全員が致命傷を負わない。だが、守りたい一点は守り切る」太田は言った。「三三九度という、この訴訟が最初から守ると決めていた一点を」
津本は何も言わなかった。
「負けないこと、と、守りたい確信を守り切ること」太田は続けた。「その二つを勝ちと呼ぶなら、この訴訟は最初から、勝ちの形だけを目指して設計されてる」
「大げさな言い方をすれば」と津本は静かに言った。「そういうことだ」
太田はグラスを手に取った。
「津本」
「ん」
「お前が一週間かけてこれを作ったのは」太田は言った。「未成年飲酒禁止法が間違ってると思ったからじゃないな」
「違う」
「この訴訟で国を追い詰めたかったわけでもない」
「違う」
「ただ」太田は言った。「矛盾は、美しくない。」
津本はしばらく黙っていた。
「18歳で婚姻できる。法律上の成人だ。だが同じ法律体系の中で、その婚姻儀礼の核心が禁じられている。前提論と運営ルールがズレている。しかも誰も直そうとしない」
太田は続けた。
「矛盾を正すための最小限の介入を、最大限の防壁で守った。それがこの設計だ」
津本はグラスを持ち上げた。
飲まずに、少し傾けた。琥珀色が揺れた。
「守りたい確信」と津本は言った。「俺の場合、それは小さいよ。本当に小さい」
「小さくない」と太田は言った。
「小さいさ」
「小さくない」太田は繰り返した。「18歳で結婚する二人にとって、それは小さくない」
沈黙があった。
今夜一番、静かな沈黙だった。
ジャズが一曲終わって、次が始まるまでの、わずかな間があった。
太田はグラスを置いた。
「津本」
「なんだ」
「正式に聞こう」
津本が太田を見た。
「この訴訟の原告代理人、引き受ける」
太田は言った。
「提訴までじゃない。最高裁大法廷まで、付き合ってやる」
津本はしばらく太田を見ていた。
それから、静かに言った。
「今日の酒代くらいは、奢ってやるよ」
「それだけか」
「なんだ、今日止まるネカフェ代まで欲しいのか?」
「お前は…俺を何だと思ってんだ」
マスターが遠い端でグラスを磨いている。
新橋の地下のバーで、深夜に。
十八年ぶりに再会した二人が、三三九度のために、最高裁を動かす準備を始めた夜だった。
---
午後二時の約束だった。五分前に、インターホンが鳴った。
太田は受付に出た。
ドアを開けると、二人が並んで立っていた。
男の方が先に頭を下げた。
「霧島と申します。本日はよろしくお願いします」
きちんとした礼だった。背筋が伸びていて、視線が定まっている。緊張はしているが、怯えてはいない。
霧島、と太田は頭の中で繰り返した。
「どうぞ、中へ」
二人を応接室に通した。
ソファに並んで座った二人を、太田は正面から見た。
男の方は若い。だが若い、という印象の手前に、何か別のものがある。落ち着き、というか、物事を順番に考える習慣が身についている人間の、静かな佇まいだ。
「法学部の三年生だと聞きました」と太田は言った。
「はい」と霧島は答えた。「今年、司法試験を受けます」
太田は少し眉を動かした。
在学中受験だ。法科大学院ルートではなく、予備試験を経た受験だろう。それ自体、相当な準備が要る。
「今年、という意味は」
「七月に受験します。婚姻届を出したのが先月です」
太田は頷いた。
司法試験の直前に、婚姻届を出した。そして今、この事務所に座っている。
女性の方を見た。
小柄だった。ソファに座ると、少し足が浮きそうになるのを、気づかれないように踏ん張っている。そういう細かいところまで、太田は職業柄、見てしまう。
年齢は19歳、と津本から聞いていた。
「霧島さん」と太田は言った。女性の方に。
「はい」と彼女は答えた。
声は静かだったが、芯があった。
「従姉妹同士、ということですね」
「はい。小さい頃から一緒に育ちました」彼女は少し間を置いた。「変に思われるかもしれませんが」
「思いません」と太田は言った。
それは本心だった。
彼女は少し肩の力が抜けたように見えた。
「挙式のことを、聞かせてもらえますか」と太田は言った。
霧島が少し背筋を伸ばした。
「はい。先月、婚姻届の受理と同時に、神前式の日程を押さえました。式場は都内の神社で、宮司の方に事前相談をした際に、三三九度については」
「書面で断られた」
「はい」霧島は言った。「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律を根拠として、妻が二十歳に達していないため、三三九度の実施はできないと。正式な書面で」
太田は頷いた。
「その書面は、手元にありますか」
「持参しました」
霧島がバッグから封筒を取り出した。太田は受け取って、中を確認した。
神社の公印が押された、一枚の書面。根拠条文が明記されている。日付がある。
証拠として、これ以上ないくらい綺麗な形だ、と太田は思った。
「式は、いつですか」と太田は聞いた。
「来月です」と霧島の妻が答えた。
太田は顔を上げた。
「来月」
「はい」彼女は言った。「取り消すつもりはありません。三三九度ができなくても、式は挙げます」
太田はその言葉を聞いた。
取り消すつもりはない。
三三九度ができなくても、式は挙げる。
「なぜ、取り消さないんですか」と太田は聞いた。意地悪な質問ではない。確認が必要だった。
彼女はしばらく太田を見た。
「挙げたいんです、式を」と彼女は言った。「三三九度のために式があるわけじゃない。でも三三九度は、式の中になければいけないものだと思っています。だから、できないままで挙げることが、どういうことなのかを、ちゃんと残したいんです」
太田は少し黙った。
「記録として、残す、ということですか」
「訴訟のためだけじゃないです」彼女は言った。「私たちの式として、何が欠けていたかを、知っておきたいんです」
太田はしばらく、二人を見た。
法学部三年、司法試験直前、21歳。
19歳、従姉妹、来月に式。
「一つだけ聞かせてください」と太田は言った。
二人が太田を見た。
「この訴訟は、長くなります。最高裁まで行く可能性があります。その間、二人の生活の中心に、この裁判が居続けることになる。それは覚悟していますか」
霧島は少し間を置いた。
「覚悟というより」と彼は言った。「俺が法律を学んでいるのは、こういうときのためだと思っています」
「こういうとき?」
「矛盾しているものを、正面から見て、正面から考えるためです」
太田はその言葉を聞いた。
妻の方を見た。
彼女は霧島を見ていた。それから太田を見た。
「私は」と彼女は言った。「彼と一緒に挙げた式が、どういうものだったかを、ちゃんとした形にしたいだけです」
太田は少し天井を見た。
一週間前の、新橋の地下のバーが頭をよぎった。
津本の声が聞こえた気がした。
三三九度を、18歳で結婚する二人が、ちゃんと挙げられるようになること。それだけだよ。
いや、19じゃねーか。と野暮なツッコミを思いながら、太田は二人を見た。
「分かりました」と言った。
「引き受けます」
---
大崎神社は、住宅街の中にひっそりとあった。
最寄り駅から歩いて十分。商店街を抜けて、細い路地を入ると、急に空気が変わる場所だった。鳥居が見えて、参道の砂利が白く光っていた。
平日の午後三時。参拝客はいない。
太田は鳥居の前で少し立ち止まった。弁護士として神社に来るのは初めてだった。相続絡みで宗教法人の書類を扱ったことはあるが、こうして境内に足を踏み入れるのとは違う。
砂利を踏む音が、静かに響いた。
社務所のインターホンを押すと、すぐに応答があった。
「太田先生ですね、お待ちしておりました」
太田は少し眉を動かした。
通されたのは、社務所の奥の小部屋だった。八畳ほど。古い木のテーブルと、椅子が四つ。窓から境内の木々が見える。
宮司はすでに座って待っていた。
宮本、68歳。
白髪で、顔に深い皺がある。だが眼光が鋭い。老いた、という印象より、長く積み重ねてきた人間の、静かな重さがある人物だった。
太田が名刺を出すと、宮本も名刺を返した。神社の公印が入った、古風なデザインだった。
「わざわざお越しいただきました」と宮本は言った。
「こちらこそ、お時間をいただきまして」
定型の挨拶を交わしながら、太田は内心で少し警戒していた。
神社側がどういうスタンスで来るか、まだ分からない。書面で三三九度を断った側だ。防衛的に来るか、あるいは何らかの条件を提示してくるか。
お茶が出た。
宮本がゆっくりと口を開いた。
「津本さんから、おおよそのことは伺っております」
太田は湯飲みを持ちかけた手を、止めた。
津本め。
頭の中で、その名前が浮かんだ。
やりやがったな。
話を全部通してやがる。一週間前、新橋の地下のバーで太田が乗ると言った。その翌日か、翌々日か、この男はもう大崎神社に連絡を入れていた。
全部、準備してある。
太田が乗ると言う前から、あるいは言った直後から、全ての歯車を動かし始めている。
まったく、とんでもない男だ。
太田は湯飲みを静かに置いた。表情には出さなかった。
「そうでしたか」と太田は言った。「津本から、どのような話を」
「おおむね全部です」と宮本は言った。あっさりと。「訴訟の構造、神社に期待される役割、国家賠償請求の話も」
太田は少し宮本を見た。
68歳の宮司は、太田の視線を受けて、静かに続けた。
「私は、待っておりました」
「待っていた、と言いますと」
「こういう話が来るのを」宮本は言った。「いつか誰かが、正面から問題にする日が来ると思っておりました。正直に言えば、私自身ずっと、引っかかっていたものですから」
太田は少し背もたれに体を預けた。
「書面で断られたとき、霧島さんはどう思われましたか」と聞いた。
宮本は少し間を置いた。
「辛かったですよ」と言った。
静かな言葉だった。
「当人が望んでいる神事を、私が止めた。宮司として、それが一番辛い。法律があるから止めた、それは事実です。だが神職として、それで良かったのかと、ずっと思っておりました」
「法律に従った、という事実は変わらない」
「変わりません。だからこそ」宮本は太田を見た。「その法律の方がおかしいということを、誰かに言ってほしかった」
太田はその言葉を聞いた。
誰かに言ってほしかった。
宮司自身が、この矛盾を抱えてきた。68年間、いや宮司になってからの年月、ずっと。
「息子さんに譲られると聞きました」と太田は言った。
「来年には、と思っております」宮本は言った。「だからこそ、この話が今来たのは、何かの縁かと思っております。私が宮司である間に、決着をつけたい」
「一つ確認させてください」と太田は言った。
「どうぞ」
「国家賠償請求を起こすことになります。神社として、国を訴える形になる。それは」
「構いません」宮本は即答した。
太田は少し驚いた。迷いが全くない。
「理由を聞かせてもらえますか」
宮本はゆっくりと言った。
「私どもは法律に従いました。法律が正しいと思って従ったのではない。法律があるから従った。その結果、霧島さんご夫妻に辛い思いをさせ、おかげでSNSで少し炎上しておりまして…社会からは杓子定規だと言われ、式の件数にも影響が出ております」
「はい」
「それは全て」宮本は続けた。「国が放置してきた矛盾の結果です。私どもは被害者です。それをはっきりさせたい」
太田はしばらく宮本を見た。
「被告代理人の弁護士とも、既に話が」
「津本さんから紹介いただきました」
全部通してある。
太田は小さく息を吐いた。
「津本という男は」と太田は言った。思わず口から出た。
宮本が少し表情を緩めた。
「おもしろい方ですね」
「あれは…おもしろい、という言葉で収まるかどうか」
「ただ」宮本は言った。「本気だということは、伝わりました」
「まぁ…ええ、それは間違いありません」と太田は言った。
帰り際、太田は参道を戻りながら、砂利の音を聞いていた。
空が、夕方に近づいていた。境内の木々が、西日を受けて少し赤い。
太田はポケットからスマホを取り出した。
津本に短いメッセージを送った。
大崎神社、行ってきた。
すぐに返信が来た。
どうだった
太田は少し考えてから、打った。
お前、全部通してやがったな。
返信は一言だった。
もちろん
太田は少し笑った。
参道を出て、鳥居をくぐった。
住宅街の空気が戻ってきた。
しがない弁護士の、妙に忙しくなりそうな日々が、静かに始まっていた。
---
半年後。
舞台が、揃ってしまったか。
太田は事務所の椅子に深く座って、天井を見ていた。
古い天井だ。この事務所を借りたとき、ここだけは直さなかった。妙に気に入っている。しがない弁護士の事務所には、新しすぎる天井より、少し染みのある天井の方が似合う、そんな気がして。
デスクの上に、訴状がある。
何度も読み返した。
読み返すたびに、穴を探した。論理の綻び、証拠の薄さ、主張の飛躍。致命的なものは、やはり見当たらなかった。
見当たらないことが、かえって落ち着かなかった。
完璧な訴状など存在しない、というのが太田の経験則だ。どんな訴状にも、どこかに弱点がある。それを分かった上で出す。だがこの訴状は、弱点を弱点として認識しながら、その弱点ごと設計に組み込んである。
津本の設計図が、そのまま訴状になっている。
夫妻から入手した書面がある。
大崎神社からの、正式な拒否回答。
「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律第一条の規定により、未成年者への神酒の提供は行いかねます」
丁寧な、しかし明確な文章で、それは書かれていた。
太田はその書面を何度か読んだ。読むたびに、同じことを思った。
大崎宮司が、四十年の矜持を込めて書いた書面だ。
法律に従わなければならない、という諦めと、従わなければならないことへの静かな怒りが、丁寧な文体の中に滲んでいる。あの宮司なら、この一枚を書くのに、どれほどの時間をかけたか。
そしてもう一枚。
挙式の記録。
太田は手に取って、少し止まった。
三三九度は、水で執り行われた。
ただそれだけが、一行、記録として残っていた。
たった一度きりの挙式で。
霧島安来と、その妻が——小さい頃から話していた神前式を、水で済ませた。
太田はその一行を、しばらく見ていた。
怒りとは少し違う何かが、胃の奥の方に、じわじわと来た。
離婚案件を扱うとき、太田はいつも書類の向こうに人間がいることを思い出すようにしていた。書類は書類だ。だがその向こうに、具体的な顔と声を持った人間がいる。それを忘れると、弁護士は書類の整理屋になる。
今回も、書類の向こうに人間がいる。
ただ今回は——その人間が、最初から笑っていた。
面談のとき、霧島夫妻は怒っていなかった。悲しんでもいなかった。静かに、しかし確かに、前を向いていた。霧島安来は「三三九度のために式があるわけじゃない」と言った。彼の妻は「何が欠けていたかを、知っておきたい」と言った。
怒っていてくれた方が、楽だった。
怒っている依頼人は扱いやすい。エネルギーがある。そのエネルギーを訴訟に向ければいい。
笑顔で背負っているものの重さを、太田は訴状を書きながらじわじわと理解していた。
「水で済ませた三三九度、か」
その一行が、この訴訟の全ての重心だ、と太田は思った。
デスクの電話が鳴った。
「太田です」
「宮本です」宮司の声だった。穏やかな、しかしどこかに緊張を含んだ声。「先日はありがとうございました」
「こちらこそ」太田は言った。「何かありましたか」
「一つ、ご報告を」宮本は言った。「神社側の代理人の件ですが——榊原という弁護士と、正式に話がまとまりました」
太田は、手が少し止まった。
「……榊原、弁護士」
「ご存知ですか」
知っていた。
知っているどころではなかった。
榊原誠司。
宗教法人専門の弁護士として、業界では名の通った人物だ。神社本庁関連の案件を何件も手がけ、宗教と法律の境界線を誰より熟知している。
太田が弁護士になって数年目、研修で一度だけ講演を聞いたことがある。壇上の榊原は、宗教法人と憲法の関係を淡々と語りながら、会場の空気を完全に掌握していた。あれが本物の専門家だ、と思った記憶がある。
被告側の代理人として、これ以上ない人選だ。
いや——被告として戦いながら、同時に原告側の訴訟構造を支える役割を担う代理人として、これ以上ない人選だ。
「……知っています」太田は静かに言った。
「心強い方ですか」
「非常に」太田は言った。少し間を置いた。「——宮司が被告になったとき、これ以上ない代理人だと思います」
「それは良かった」宮本は穏やかに言った。「では、後はよろしくお願いします」
電話が切れた。
太田はしばらく受話器を持ったまま、動かなかった。
榊原を連れてきた。
宮司の本気が伺えた。あの榊原を連れてきた、だと。一体いくら積んだのか。あるいは、大崎神社と榊原の間に、既に何らかの繋がりがあったのか。
いずれにせよ。
津本の設計図が、また一段、現実の輪郭を持ち始めていた。
太田は受話器を置いた。
訴状をもう一度手に取った。
霧島安来、原告。大崎神社宮司宮本義孝、被告。
損害賠償請求。
請求の原因として、二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律の神前婚姻儀礼への適用が、憲法第19条、第20条、第13条、第24条に照らして正当化されないことを、順番に、丁寧に、論じてある。
太田は訴状の最後のページを見た。
請求の趣旨。
金額は、象徴的なものだ。重要なのは金額ではない。この訴訟で問われるのは、法律の合憲性だ。
窓の外が、夕暮れに変わっていた。
太田は立ち上がって、窓の外を少し見た。
日本の法理の歴史に、一本の楔が打ち込まれる。
その瞬間が、迫っていた。
しがない弁護士の、小さな事務所の窓から、夕焼けが見えた。
太田は訴状を、デスクの上に戻した。
明日、提出する。
スマホに、メッセージを打った。津本宛てに。
榊原を連れてきたぞ、宮司が。
返信は少し遅かった。珍しい。
それから来た。
知ってた
太田は少し笑った。
全部知っててやがる。
もう一行、打った。
明日、出す。
今度は早かった。
頼んだ
それだけだった。
太田はスマホを置いた。置いて、椅子に深く座り直して、もう一度天井を見た。
古い天井だ。少し染みのある。
しがない弁護士の事務所に、似合っている。
---
訴状の提出は、静かに行われた。
霧島安来、および妻 未来——原告。大崎神社——被告。
請求の趣旨は、シンプルだった。神前婚姻式における三三九度の実施を拒否されたことによる精神的苦痛に対する損害賠償請求。請求額は、二百万円。
太田は提出窓口で書類を受け取られるのを見ながら、妙に静かな気持ちでいた。
始まった、という実感が、あまりなかった。
窓口の職員は、いつもと同じ手順で、いつもと同じように受け取った。角印を押して、受理票を渡した。何十件、何百件と処理してきた動作だ。この訴状が何を含んでいるか、知る由もない。
太田は受理票を受け取って、事務所に戻った。
第一回公判は、東京地裁で行われた。
法廷は小さかった。民事の第一回公判に使われる、こぢんまりとした部屋だ。
太田は開廷前に傍聴席を一瞥した。
弁護士バッジをつけた者が二人。いかにも司法修習生らしき若い顔が三つ。それから、手帳を持った年配の男が一人。
七人。
平日の午後の地裁民事法廷に、七人の傍聴人。多くもなく、少なくもない。
彼らの目には、これはどう映っているだろう、と太田は少し考えた。
神社への損害賠償請求。請求額二百万円。原告は若い夫婦。
平凡。どう見ても、平凡な訴訟だった。
第一回公判は、手続き的な確認事項が中心だった。
当事者の確認、訴状の陳述、答弁書の提出確認。裁判長が淡々と進行する。太田は原告代理人として、淡々と答えた。
被告側——榊原弁護士も、淡々と答えた。
榊原は太田が想像していたより若く見えた。五十代半ば、だろうか。講演で見たときより、少し髪が薄くなっている。だが立ち居振る舞いに、無駄がない。長く法廷に立ってきた人間の、静かな確かさがある。
二人は目が合っても、特に何も言わなかった。
ただ一瞬、榊原が微かに頷いた。
太田も微かに頷いた。
それだけだった。
裁判長が、次回期日を告げた。
それで、第一回は終わった。
傍聴席の何人かが、ぽつぽつと立ち上がり始めた。手帳を閉じた者、スマホを取り出した者。修習生らしき三人が、小声で何か話しながら出ていく。
平凡な訴訟だった。
そのはずだった——
「少し、よろしいですか」
廊下に出たところで、声をかけてきたのは、年配の男だった。
手帳を持った、あの男だ。
七十前後だろうか。背筋が伸びていて、眼鏡の奥の目が鋭い。学者か、あるいは元裁判官か、と太田は一瞬思った。
「どちら様ですか」太田は言った。
「早稲田の者です」男は名刺を出した。「憲法が専門でして——少し、気になる点がありまして」
太田は名刺を受け取った。
憲法学者だった。
円山、という名前だった。
太田は名刺を見ながら、頭の中で素早く検索した。
円山。早稲田。憲法。
引っかかった。
円山肇。精神的自由権の解釈で、いくつかの論文が引用されている。最高裁の調査官レポートに名前が出てきたことがある。業界では知られた名前だ。
「気になる点、というのは」太田は言った。
男は少し声を低くした。
「請求の原因の、四ページ目です」円山は言った。「憲法十九条、二十条、十三条——三つの条項を、重ねて主張されている」
「はい」
「損害賠償請求で」円山は続けた。「神社を被告に、これを出す理由が——普通は、ない」
太田は少し間を置いた。
「普通は、まぁ…ないですね」太田は言った。
円山はしばらく太田の顔を見ていた。
目が、鋭かった。
法廷で何十年も過ごしてきた人間が、議論の向こうにあるものを見るときの目だ。
表面を見ていない。その下にある構造を見ている。
太田は視線を受けながら、何も付け加えなかった。
円山が静かに言った。
「——続きを、傍聴させていただいても構いませんか」
「傍聴は」太田は言った。「どなたでも自由ですので」
円山は頷いた。それ以上は聞かなかった。
名刺を一枚、太田に追加で渡した。
「何かあれば」とだけ言って、廊下を歩いていった。
太田はその背中を見ていた。
気づいた人間が、一人いる。
法廷の中では、平凡な訴訟だった。
廊下に出た瞬間、そうではなくなり始めた。
太田はポケットに名刺を入れた。
スマホを取り出した。
津本に一行、打った。
憲法学者が傍聴に来てた。
歩きながら返信を待った。
エレベーターのボタンを押したところで、返信が来た。
誰
円山肇。早稲田。
少し間があった。
それから。
それは早い
太田はエレベーターに乗った。
扉が閉まった。
早い、とはどういう意味だ、と太田は思った。
誰かが、この訴訟に気づくのが早い、という意味か。
あるいは——円山という人物が動くのが、津本の想定より早かった、という意味か。
エレベーターが下降を始めた。
どちらにせよ。
歯車が、また一つ、動き始めていた。
この話を書いていて、一番大事にしたのは「依頼人の顔」でした。
前話までは、太田と津本、二人の頭脳戦の話でした。
十二単のように重なる防壁、損害賠償、国賠、補助参加――どれだけ精緻な設計図でも、それが誰のためのものかが見えないと、図面は図面のままで終わります。
霧島夫妻に「怒っていてくれた方が、楽だった」と太田に言わせたのは、その裏返しです。
怒りはエネルギーになりますが、二人が静かに前を向いていたことで、太田は初めて、この訴訟が「勝つための訴訟」ではなく「守るための訴訟」だと、自分の言葉でなく依頼人の態度から理解することになります。
宮司・宮本のくだりも同じです。法律に従った側にも、68年分の「それで良かったのか」という問いがある。
被告になる神社が、実は一番この訴訟を待っていた、という構造は、この物語が「敵」を作らない設計であることの一つの証だと思っています。
そして最後に、円山という観測者を一人だけ置きました。
この訴訟が特殊である、と気づく人間を、物語の中に一人だけ用意しておくことで、読者が「これはおかしい」と感じたとき、一人で気づいたのではなく、円山と一緒に気づいた、という読み方ができるようにしたつもりです。
次話、いよいよ舞台は高裁へ。乞うご期待!