合意の射程   作:nelldrip

5 / 6
地裁第二回。太田は憲法四条項を正式に主張に乗せる。

被告・榊原は「法律に従っただけだ」という一点に立場を絞り込み、太田はその一問一答で被告の退路を記録に刻んだ。

三回で結審、判決は請求棄却。だが判決理由の末尾、たった二文に――「制度的齟齬」「立法府における対応が望ましい」――裁判所が残した余白があった。

控訴審で、太田は新しい武器を出す。
立証責任の所在、どぶろく裁判との対比、そして憲法十四条――奈良漬、ウイスキーボンボン、エタノールスプレー。同じアルコールを、なぜこの一盃だけが裁かれるのか。

霞が関の会議室で、訟務局の橋本がこの構図に気づく。が立証責任を負う以上、入らないという選択肢はない。
補助参加に踏み出した訟務局がまきこまれる、前代未聞のリーガルサスペンス、ここに開幕!


補助参加

第2回期日の日。傍聴席が、前回より増えていた。

 

弁護士バッジが四つ。修習生らしき顔が五つ。それから、見慣れない顔が何人かいる。メモを持った若い男女が二人。大学院生か、あるいは記者か。

 

そして——円山の姿があった。

 

今日は手帳だけでなく、分厚いファイルを持っていた。付箋が何枚も貼られている。法廷に来る前に、既に読み込んできた人間の持ち物だ。

 

太田は気づかないふりをして、着席した。

 

開廷すると、裁判長が両者を確認して、原告側からの主張陳述を促した。

 

声の調子を、意図的に整えて陳述した。法廷での声は、熱を入れすぎてはいけない。淡々と、しかし一言一言に重みを持たせる。

 

「原告代理人、太田誠一より、請求原因の主張を申し上げます」

 

霧島夫妻が大崎神社に神前式と三三九度を申し込んだこと。被告がこれを書面で拒否したこと。止むなく水で代替する形で挙式が執り行われたこと。事実関係を、順番に、淡々と述べた。

 

そして——

 

「この拒否の根拠となった法律の適用が、憲法第十三条、第十九条、第二十条、第二十四条の保障する権利と、整合するか否か。以上を、本件の核心的争点として主張します」

 

太田は着席した。

 

傍聴席が、わずかに動いた。動いた、というのは音ではない。空気だ。何人かが、姿勢をわずかに変えた。メモを持った男女が、何かを書き始める。損害賠償請求の法廷に、憲法の条項が四つ並んだ。それが何を意味するか、分かる人間には分かる。

 

裁判長が榊原に目を向けた。

 

榊原が立った。

 

「被告の認否を申し上げます」

 

声は落ち着いていた。四十年の法廷経験が染みついた、静かで重い声だった。

 

「被告大崎神社は、原告夫妻から三三九度の申し込みを受けたこと、および書面にてこれをお断りしたことは、認めます。しかしながら、被告の判断は、二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律の規定に従った、適法かつ正当なものであります」

 

そこまでは想定通りだった。

 

「原告側の主張は——法律に従って行動した被告への、言い掛かりに他なりません」

 

その言葉が、小法廷の空気を少し変えた。感情的な言葉ではない。法律的な意味で、根拠のない請求だ、という主張だ。だがその言葉の選択は、被告の立ち位置を明確に示していた。我々は被害者だ。法律に従った者が、なぜ訴えられなければならないのか。

 

榊原の言葉は——正確に、計算されていた。法律に従っただけだ。言い掛かりだ。それだけだった。国賠には触れなかった。立法不作為にも触れなかった。民法改正との矛盾にも触れなかった。被告は今日、ただの被害者として立っていた。法律という壁の後ろに、完全に隠れていた。

 

裁判長が両者を見渡した。

 

「原告代理人、被告の認否について何かありますか」

 

太田は立った。

 

「一点だけ確認させてください。被告は、本件拒否の根拠を飲酒禁止法の規定のみとされていますが、他に拒否の根拠はありませんか」

 

榊原は少し間を置いた。一秒か、二秒か。その間に、何かを考えた。あるいは何かを確認した。

 

「飲酒禁止法の規定のみです」

 

「ありがとうございます」

 

太田は着席した。

 

たったそれだけだった。問いは一つ。答えは一つ。しかしその一問一答が——拒否の根拠を、飲酒禁止法の一点に絞った。法廷の記録に、刻まれた。これで被告は、今後の手続きにおいて、他の根拠を追加することが実質的に難しくなった。

 

榊原はそれを分かった上で、答えた。太田はそれを分かった上で、聞いた。二人の間で、声に出ない会話が、一往復した。

 

裁判長が次回期日を告げた。閉廷した。

 

廊下に出ると、修習生らしき一人が小声で仲間に言っているのが聞こえた。

 

「憲法論、神社への損賠で出してくる意味、わかる?」

「わかんない、普通じゃない構成だよな」

「でも被告が法律だけって認めたじゃないか。あれって——」

 

声が遠ざかった。気づき始めている。

 

エレベーターホールで、榊原とすれ違うと、一瞬、目を向けた。何かを確認するような目だ。太田は軽く頷くと、榊原も軽く頷いた。それだけだった。

 

外に出ると、津本からメッセージが来ていた。

 

*どうだった*

 

太田は少し考えてから打った。

 

*楔が、入った。*

 

返信は早かった。

 

*次が楽しみだな*

 

太田はスマホをポケットに入れた。空は晴れていた。東京地裁の前の通りを、人が歩いている。誰も、今日この法廷で何が始まったかを知らない。しがない弁護士は、コートの襟を立てて、歩き始めた。

 

---

 

その夜、太田は事務所に戻ってから、珍しくスマホを開いた。SNSを見る習慣は、あまりない。だが今夜は、少し気になった。

 

検索した。*大崎神社 三三九度 訴訟*

 

多くはない。大きくもない。だが、あった。

 

最初に目に入ったのは、法クラと呼ばれる界隈の投稿だった。アカウント名はロー生(猛勉強嫌)。正直なやつだ。プロフィールに「ロー生」とだけ書いてある。

 

「神社への損賠請求で憲法論四条項並べてくる訴状、誰か見た?請求額二百万で三三九度。普通じゃない構成なんだけど、これ地裁で終わる案件じゃない気がして落ち着かない」

 

リポストが十数件。返信がいくつかついている。

 

「どういうこと?神社訴えて何がしたいの」

「損賠の請求原因に違憲主張並べる意味がわからん、普通国を訴えるだろ」

「いや待って、これ神社を被告にしてる理由、もしかして……」

 

最後の返信は、そこで止まっていた。

 

別のアカウント。こちらは神道関係者らしい。

 

「三三九度の件、ご存知の方いますか。18歳で婚姻届を出した夫婦が水で三三九度を行ったとのこと。これは我々神職が長年抱えてきた問題でもあります」

 

返信の中に、宮司や神職らしきアカウントからのものが混じっている。

 

「知っています。うちでも同じ判断をしたことがある。あれは…心苦しいですね」

「飲酒禁止法と民法改正の矛盾、国会で誰も問題にしないのが不思議だった」

「法律に従っただけなのに、神社側が悪者になる構図がずっとおかしいと思っていた」

 

さらに別の場所に、少し毛色の違う投稿があった。若い女性のアカウントらしい。プロフィールに「今年結婚しました」とある。

 

「18歳で結婚した友達が、三三九度を水でやったって聞いた時、なんで?って思ったんだけど、飲酒禁止法があるからなんだって。でも民法では成人でしょ?アルコール入りの食品だって食べれるのに、なんかおかしくない?」

 

返信の中に、こういうものがあった。

 

「おかしいよ。で、今その矛盾を問う訴訟が東京地裁に出されてるらしい」

「え、本当に?」

「らしい」

 

太田はスマホを置いた。大きな炎ではない。どの投稿も、百件を超えるリポストにはなっていない。だが、出ては消え、出ては消え、続いている。法クラの界隈で。神職の界隈で。ごく普通の若い人間の間で。それぞれが別の角度から、同じ矛盾に触れていた。

 

翌朝、円山から連絡が来た。短いメールだった。

 

「昨日の公判、拝見しました。一点、確認させてください。被告代理人が飲酒禁止法の規定のみを拒否根拠として認めた点について、これは事前に調整された応答ですか」

 

太田はメールを読んで、少し考えた。返信した。

 

「傍聴は自由ですが、訴訟の内部についてはお答えする立場にありません」

 

しばらくして、返信が来た。

 

「失礼しました。ただ、もし差し支えなければ——一度、お話しできませんか。学術的な関心から、です」

 

太田はそのメールをしばらく見ていた。学術的な関心。円山肇が、学術的な関心でこの訴訟に付き合い始めている。

 

津本に転送した。返信は一言だった。

 

*会え*

 

太田は少し笑った。*お前が言うか。*

 

*言う*

 

太田は返信を打った。*わかった。* それからもう一行。*SNS、少し動いてるぞ。*

 

津本からの返信は、少し遅かった。それから来た。

 

*知ってる。見てる。まだ小さい。でも波紋は、広がるか消えるかしかない。*

 

太田はスマホを置いた。窓の外、朝の光が差し込んでいた。出ては消え、出ては消え続けている小さな波紋が、今どちらに向かっているかは、まだ分からない。だが太田には、津本の設計図の中に、この波紋の居場所が最初から用意されていたことが、今更ながらに分かった。

 

---

 

# 第三回弁論と地裁判決

 

第三回弁論は、あっけなかった。双方、新たな主張なし。それだけだった。

 

裁判長が双方を見渡した。

 

「双方、早期決着を望むということでよろしいですか」

 

「はい」太田は言った。

「異議ありません」榊原も言った。

 

裁判長は少し間を置いた。何かを確認するように、書類を一瞥した。それから。

 

「では、結審とします」

 

閉廷が告げられた。傍聴席がざわついた。早すぎる、という空気だ。

三回で結審。普通ではない。だが普通ではないことを、声に出した者はいなかった。

 

廊下に出ると、円山が待っていた。今日は名刺を出さず、静かに言った。

 

「太田先生」

「はい」

「この訴訟——地裁で終わるつもりはないですね」

 

太田は少し間を置いた。

 

「傍聴は、どなたでも自由ですので」

 

円山は少し笑った。初めて見る表情だった。

第一回公判から今日まで、この人物の顔はずっと鋭かった。笑うと、少し違う顔になるのを初めてみた。

 

「続きを、楽しみにしています」

 

それだけ言って、歩いていった。

 

判決は、二ヶ月後に出た。

 

太田は法廷をあとにし、改めてそれを読んだ。

 

主文。原告の請求を棄却する。

 

表面だけを見れば、敗訴だ。二百万円の請求は認められなかった。

 

だが太田は、主文を読み飛ばして、判決理由の後半を探した。

 

*なお、本件においては、婚姻可能年齢と飲酒可能年齢の間に生じた制度的齟齬が、神前婚姻儀礼という宗教的・文化的実践に具体的な影響を及ぼしていることは否定できない。この点については、立法府において適切な検討と対応がなされることが望ましい。*

 

たった二文だった。太田はその二文を、二度読んだ。

 

憲法判断は、しなかった。違憲とも、合憲とも、言わない。

しかし裁判所は——逃げながら、確かに何かを残した。制度的齟齬。具体的な影響。立法府における対応が望ましい。

判決文の余白に、裁判所が書き残したメッセージだ。

 

太田は判決文を机に置いた。正直に言えば——これは、最高に望んだ結果だ。そう思った。

 

スマホに、津本からメッセージが来ていた。

 

*入ってたな。*

 

太田は少し考えてから、打った。

 

*入ってた。序章が、終わった。*

 

返信が来た。

 

*ああ。腐食が、始まった。*

 

太田はスマホを置いた。腐食。津本らしい言葉だ、と思った。化学屋の言葉だ。腐食は表面では見えない。内側から、じわじわと構造を変えていく。気づいたときには、もう取り返しがつかない。この判決の二文が、どこかで誰かに読まれる。制度的齟齬、という言葉が、静かに歩き始めた瞬間だった。

 

---

 

廊下で、円山に声をかけられた。

 

「少し、お時間ありますか」

 

そうして、大学の研究室に呼ばれた。

早稲田のキャンパスの、古い建物の三階。中に入ると、本棚が四面を埋めていた。判例集、憲法の体系書、比較法の文献。窓から、夕方のキャンパスが見える。

 

円山は机の向こうに座って、太田に椅子を勧めた。

 

「先生、今日は、何でしょうか」

 

円山は少し間を置いた。窓の外を一瞬見て、それから太田に視線を戻した。

 

「論文を、書こうと思っています」

「どのような」

「この訴訟について。射程限定型違憲判断への収束設計——として、分析したい」

 

太田は少し目を細めた。円山は、構造の名前まで、もう付けていた。

 

「先生は第一回公判から傍聴されていた。何かに気づかれたんですか」

 

「四ページ目です。最初から、そう言っています」

「三重の保護構造のことですか」

「そうです」円山は頷いた。本棚から、薄いファイルを取り出した。コピーした訴状だ。付箋が何枚も貼られている。「どう解釈しても、どこかの条項で受け止められる。十九条で逃げようとすれば十三条が待っている。これは——法律家の発想ではありません」

 

太田は黙っていた。

 

「体系の外側から、体系全体を見ている。構造を、建材の積み上げではなく、力学として設計している。そういう思考の跡が、この訴状にある。この訴訟を設計した人間は、法律の外側から法体系を見ている」

 

「私が設計しました」太田は言った。

 

円山は少し笑った。

 

「そうですか」

 

信じていない目だった。完全に、信じていない目だった。

 

「一つだけ聞かせてください。この訴訟——最終的に、どこに着地すると設計していますか」

 

太田は少し間を置いた。本棚の背表紙が、夕暮れの光を受けている。

 

「——傍聴は、どなたでも自由ですので」

 

円山は声を出して笑った。研究室に、その笑い声が広がった。初めて聞く、円山の笑い声だ。

 

「続きを、楽しみにしています」

 

太田は研究室を出た。廊下を歩きながら、スマホを取り出した。津本に打った。

 

*憲法学者が論文書くぞ。射程限定型違憲判断への収束設計、だと。*

 

返信が来た。

 

*タイトルまで付けたか。いい題目だ。*

 

太田はキャンパスの出口に向かって歩きながら、もう一行打った。

 

*明日、控訴する。*

 

*頼んだ。*

 

そうして、翌日。予定通りに控訴した。

 

---

 

# 東京高等裁判所

 

控訴から二ヶ月後。舞台は東京高等裁判所に移った。

 

第一回公判の朝。太田は開廷三十分前に廊下に立って、傍聴席への入場を待つ列を見ていた。

 

おかしい。明らかに、おかしかった。

 

二百万円の損害賠償請求。神前式のトラブル。地味な民事訴訟の傍聴に——二十人以上が並んでいる。バッジをつけた弁護士が数人、手帳を持った人間が何人か、大学のゼミらしき若い男女が後列を埋めていた。円山の姿もあった。今日は学生を数人連れていた。

 

半分以上埋まっている。通常、民事訴訟の公判に人が集まるなどありえない。地裁の第一回とは、別の訴訟になっていた。

 

そうして、地裁ではいなかったものたちが、そこにいた。スーツの男が二人。バッジはない。手元に分厚いファイル。だが当事者席にはつかず、傍聴席の最前列に座っている。訟務局の人間が様子を見に来た、と太田は直感した。まだ、参加はしていない。だが、来ていた。

 

ついに来たか。そう思った。来ることは分かっていた。今日はまだ偵察だ。だが、今日この法廷で何が出るかによって、あの二人は動く。動かざるを得なくなる。それも、設計の内だった。

 

廊下で緊張を落ち着けていると、榊原が隣に来た。

 

「賑やかになりましたね」榊原は静かに言った。

「そうですね」太田は言った。

 

二人はそれ以上、何も言わなかった。言う必要がなかった。今日、太田が何を撃つか。それを受けて、国がどう動くか。次の回に、榊原が何を返すか。三手先まで、二人の頭の中で、同じ図が描かれていた。

 

開廷とともに、裁判長が双方を確認する。そうして、控訴審における主張の整理を促した。

 

太田は立ちあがると、静かに述べた。

 

「控訴人代理人より、原審に加え、二点を主張いたします。第一に、本件適用を支える立法目的と、その手段との関係について」

 

太田は書類を手に持った。だが、目は落とさなかった。この部分は、頭に入っていた。

 

「未成年者飲酒禁止法の立法目的は、未成年者の心身の健全な発達の保護にあります。被告が三三九度を拒んだ根拠も、突き詰めればこの一点に帰着する。アルコールは未成年の身体に害を及ぼす。ゆえに神前の一盃も許されない、と」

 

一拍置いた。

 

「ならば伺います。満十八歳に達した婚姻当事者が、神前において一度だけ口をつける、一盃の神酒。その一盃が、当該当事者の心身に、具体的かつ不可逆的な健康被害をもたらす。それを示す医学的知見が、この国に、存在するのでしょうか」

 

法廷が、静かになった。

 

「存在しません。被告はこれを立証していない。立証し得ないからです。一盃の神酒の医学的有害性を示した文献は、本件において、ただの一つも提出されておりません」

 

太田は、ここで初めて、傍聴席最前列の二人を、視界の端に入れた。動かない。だが、ペンが止まっていた。

 

「立証責任の所在を確認させてください。基本的人権を制約する立法が、その正当性を問われたとき、制約を正当化する立法事実を示す責任は、制約する側にあります。原告が『無害である』ことを証明するのではない。被告が、『有害である』ことを証明しなければならない。そして、それができていない」

 

一拍。

 

「先例として、どぶろく裁判が想起されるかもしれません。自家醸造の禁止を合憲とした、あの判決です。しかし、あの事件が合憲判断となったのは——酒税収入の確保という、具体的で、計測可能な財政的公益を、明確に立証できたからです」

 

「本件にはそれがありません。未成年の飲酒を禁ずる根拠として持ち出せる正当化根拠は、健康保護ただ一つ。そしてその健康被害は、本事件の条件において立証されていない。どぶろく裁判は、本件を支えません。むしろ本件が、あの判決とは全く異なる構造にあることを、際立たせるだけです」

 

太田は、わずかに間を置いた。

 

「目的が正当であることと、その目的のために神前の一盃まで禁じることが正当であることは、別問題です。手段が、目的を大きく踏み越えている」

 

着席しかけて——しなかった。

 

「そして、第二に。憲法第十四条、法の下の平等について」

 

太田は、声の調子を変えなかった。

 

「市販されているアルコール含有菓子。ウイスキーボンボン、ラムレーズン。これらの商品に含まれるアルコール量は、製品によって異なりますが、一定量の摂取で血中アルコール濃度に影響を与え得るものも存在します。これらの購入と摂取について、飲酒禁止法は規制していません」

 

一拍置いた。

 

「奈良漬、粕漬け。伝統的な日本の食品です。アルコール含有量は製品によって数パーセントから十パーセントを超えるものまであります。未成年者の摂取を禁じる規定は、どこにもありません」

 

また一拍。

 

「エタノール含有スプレー。ウェットティッシュ。医療現場から家庭まで日常的に使用されています。皮膚への塗布による経皮吸収、気化したエタノールの吸入による曝露。これらによる体内へのエタノール摂取量は、計測すれば相当量に上る場合があります」

 

太田は、もう一度、傍聴席の最前列に座る二人の男に、視線を投げた。止まっていたペンは、まだ動かせていないようだ。

 

「神前式における三三九度の一盃。その制度上、双方満十八歳以上が確約され、神職の主宰のもとで執り行われる宗教的儀礼における、極めて少量の神酒。この一点のみを、飲酒禁止法が厳格に取り締まる。これらの間に、平等の原則に照らして、合理的な区別が存在するとは言えません」

 

太田は着席した。

 

傍聴席が、動いた。今度ははっきりと、音になった。憲法十四条。平等原則。損害賠償の控訴審に、五つ目の条項が並んだ。地裁では十三条、十九条、二十条、二十四条。そこに今、十四条が加わった。

 

奈良漬とエタノールスプレーの名が、最高裁を見据えた法廷で、正式な主張として記録に刻まれた。それが何を意味するか。

分かる人間には分かる。この法律を厳格に適用するなら、日本中の食卓と医療現場を、すべて取り締まらねばならなくなる。

 

裁判長が、書類に何かを書き込んだ。それから、被告側に主張を促した。榊原は、今日は深くは踏み込まなかった。「次回、まとめて反論いたします」とだけ言って、着席した。

 

裁判長が次回期日を告げると、太田は傍聴席の最前列を、もう一度見た。二人の男は、もういなかった。閉廷と同時に、出ていったのだ。

 

走った、と言ってもよかった。

次だ。そう、確信した。

 

---

 

# 霞が関の夜 I

 

午後十一時。法務省の会議室に、明かりが灯っていた。

 

集まっていたのは六人だった。訟務局の幹部が三人。訟務検事の橋本。それから、内閣法制局から呼ばれた人間が一人。最後に、飲酒禁止法の所管である厚生労働省から、一人。

 

橋本修二のキャリアは長い。国の代理人として法廷に立ち続けて二十三年。その間に手がけた案件は数え切れない。行政訴訟、国家賠償請求、憲法訴訟。原告が国を相手に勝訴を夢見て乗り込んでくる。橋本はそれを、淡々と退けてきた。冷徹な処刑人——業界でそう呼ばれていることを、橋本は知っている。むしろ、誇らしくも思っていた。

 

橋本の戦い方は、一貫していた。憲法判断に持ち込ませない。それだけだ。手続き論で入り口を塞ぐ。訴えの利益を争う。主張の不備を徹底して指摘する。争点を憲法から遠ざける。そうやって、数えきれない案件で、憲法判断の手前で訴訟を終わらせてきた。

 

この案件の訴状を最初に読んだとき、橋本の中で何かが引っかかった。おかしい。構成が、おかしかった。国を相手にしていない。国賠ではない。神社への損害賠償だ。なぜ、憲法論がここに入る。

 

そして今日。

高裁第一回で、原告代理人は、二つの主張を置いていった。

一つは、憲法十四条。奈良漬。ウイスキーボンボン。エタノールスプレー。この法律を厳格に適用するなら、それら全てを取り締まらねばならない、と。

そしてもう一つ——立法目的と手段の乖離。一盃の神酒に医学的有害性の立証はない。立証責任は、制約する側にある。どぶろく裁判は、財政的公益を立証できたから合憲だった。本件は、それができていない、と。

 

机の上に、その主張のメモがあった。

 

「これは、放置できません」厚労省の課長が、最初に口を開いた。「平等原則を持ち出された。奈良漬まで規制対象だと言われて、黙っているわけにはいかない。飲酒禁止法の所管として、適用は適法だと、はっきり主張すべきです」

 

「補助参加、ということですか」内閣法制局の参事官が言った。

 

「それしかないでしょう。被告の神社は、法律に従っただけだと言っている。国の味方のはずだ。被告側に補助参加して、適用の適法性を、国として主張する」

 

「それに——もう一つ、放っておけない理由があります」内閣法制局の参事官が、低く言った。全員が、参事官を見た。

 

「原告は、立証責任を、被告に振ってきた。一盃の医学的有害性を示す責任は、制約する側にある、と。問題は——その責任を、被告の神社では果たせないことです。神社は医学の専門家を抱えていない。立法事実を立証する術がない。このまま本案に入れば、有害性が立証されないまま審理が進む」

 

参事官は、一度、言葉を切った。

 

「立証なき制約は、過剰と判断されます。つまり——誰も立証しなければ、立証の欠落だけで、違憲と確定しかねない。そして、飲酒禁止法の立法事実を立証できるのは、この国の所管たる我々だけです。我々が入って立証しなければ、誰も立証しない」

 

会議室の空気が、変わった。十四条は、まだ「主張に反論する」段階の話だった。だが立証責任は——反論しなければ、座っているだけで負ける。

 

「それは…」厚労省の課長が、呻くように言った。「つまり、入らない、という選択肢が、そもそも無い、ということですか」

 

「無い、とは言いません」橋本が、初めて口を開いた。「ですが——入らなければ本案で崩れる。そういう構えにされている」

 

言ってから、橋本は、口を閉じた。

 

その引っかかりは、消えなかった。むしろ強くなった。

あまりにも、入りやすい。

 

原告が憲法論を本格化させ、被告がそれを十分に守り切れていないように見える。

だから、国が補助参加で入って、適法性を主張する。

筋は通っている。通りすぎている。

 

「橋本さん、どう見ます」訟務局長の津田が、橋本に振った。

 

橋本は、少し間を置いた。

 

「入り口が…開きすぎています」

 

「開きすぎ…とは?」

 

「この訴訟は、地裁から一貫して、国を当事者にしていません。神社対夫妻の私人間の争いとして組まれている。なのに。今日、立証責任や平等原則という、国の所管に正面から触れる主張が出た。まるで——国に、入ってこい、と言わんばかりに」

 

会議室が、少し静かになった。

 

「罠、だと?」津田が言った。

 

「断定はできません。ですが——補助参加で入った瞬間に、何かが起きる構えになっている。その可能性は、捨てきれない…」

 

厚労省の課長が、口を挟んだ。「では、放っておけと?奈良漬が違法だと法廷で言われたまま、国が沈黙していろと?それこそ後で問題になる。所管官庁として、適法性を主張しないわけにはいかない」

 

橋本は反論しなかった。課長の言うことにも理がある。国が沈黙すれば、適用は不当だと認めたように見える。それもまた、まずい。

 

進むも、引くも、まずい。

橋本は、その構図そのものに、設計者の影を感じた。だが、それを言葉にする材料が、足りない。

 

「補助参加を、申し立てます」津田が、決定を告げた。「適用の適法性を、国として主張する。橋本さん、あなたが入ってくれ」

 

橋本は、頷いた。頷きながら、胃の奥に、小さな冷たいものが、残っていた。

 

会議室を出るとき、橋本は、もう一度、机の上のメモを見た。

 

奈良漬。エタノールスプレー。こんなものを並べて、国を法廷に引きずり出す。誰が考えた。原告代理人の太田という弁護士の経歴は、すでに頭に入っていた。離婚と相続の街弁。こんな構えを描ける人間には、見えない。

 

——誰だ。

 

その問いの答えが出ないまま、橋本は、補助参加の準備に入った。

 

---

 

# 高裁第二回公判

 

傍聴席は、前回より多かった。バッジをつけた弁護士の数が、明らかに増えていた。前回は数人だったが、今日は十人を超えている。

 

そして——前回は傍聴席にいた二人の男が、今日は当事者席の脇に座っていた。手元に、分厚いファイル。

 

国が。訟務局が、補助参加で正式に法廷に入った。

 

太田は、その席を一瞥した。来た。設計図通りに、来た。

 

平等原則と医療的な立証という餌に、国は食いついた。今日、この法廷に、自分から足を踏み入れた。

 

榊原が、隣の被告席に座っていた。

 

表情は、変わらない。だが太田には分かった。この四十年選手は、今日のために、ずっと刃を研いでいた。

 

開廷すると、裁判長が書類を確認した。

 

「国より、被告側への補助参加の申し立てがなされております。本日は、まず補助参加について——」

 

「裁判長、少しよろしいでしょうか」

 

榊原の声だった。静かな声だ。

しかし法廷の空気を、すっと変える種類の静かさだった。四十年、法廷に立ち続けた人間が、ここぞという場面で持ち出す声だ。

 

裁判長が榊原を見た。「どうぞ」

 

榊原は立った。急がなかった。書類を手に持ったまま、一拍置いた。傍聴席の全員が、榊原を見ていた。補助参加人席の二人も、榊原を見ていた。

 

「補助参加の許否を判断いただく前に、被告として、申し上げておくべきことがございます」

 

榊原は、まず一発目を、置いた。

 

「本件において、被告大崎神社は——別途、国を被告とする国家賠償請求訴訟を、提起してございます」

 

傍聴席が、わずかに動いた。

 

「大崎神社は、2022年の民法改正において、婚姻可能年齢と飲酒可能年齢の制度的齟齬を放置した立法不作為により、神前式における三三九度の実施を拒否せざるを得ない状況に追い込まれた。その結果、本訴訟を提起され、社会的な批判に晒され、挙式数の減少という営業上の損害を被っています。これらは全て、国の立法不作為に起因するものであるとして——国に対し、損害賠償を請求しております」

 

傍聴席が、今度は大きく動いた。音はない。全員が、息を止めて、榊原を注視した。

神社が、国を訴えていた。その事実が、法廷の空気の中に広がっていった。補助参加人席の二人の顔から、わずかに、血の気が引いた気がした。

 

榊原は続けた。声の調子は、変えなかった。

 

「ゆえに——本訴において被告側に補助参加せんとする国と、被告大崎神社とは、同一の制度的齟齬をめぐり、利害を真っ向から敵対させる関係にあります。一方の訴訟で味方として並び、他方の訴訟で被告として相対する。そのような相手と、本訴における訴訟戦略や書面を共有することは——到底、できません」

 

榊原は、補助参加人席の方を、見なかった。ただ、裁判長だけを見ていた。

 

「もし国が、真に被告を補助せんとするのであれば——まず、被告が提起した国家賠償請求を、全て認めていただきたい。それがなされない限り、利害を敵対する相手の参加は、本件被告が憲法第三十二条により保障された、裁判を受ける権利を、侵害するものであります」

 

ここで、榊原は、二発目に移った。一拍も、置かなかった。

 

「そして——補助参加人たる国が、本訴において主張せんとするところは、飲酒禁止法の適用は適法である、という一点であると承知しております。ならば、申し上げる」

 

榊原の声が、ここで初めて、ほんのわずか、強くなった。

 

「前期日において、原告代理人が指摘された——市販のアルコール含有菓子。奈良漬。エタノール含有スプレーへの言及を援用します。これらに含まれるアルコールは、現に、未成年者の体内に摂取されております。国が、飲酒禁止法の適用は厳格かつ適法であると主張されるのであれば——これら全てもまた、厳格に取り締まられねばなりません。神前の一盃の神酒を違法とし、奈良漬を放置することは、法の下の平等に反します」

 

榊原は、ここで、初めて補助参加人席に、目を向けた。

 

「国は、本日この法廷で、適用の適法性を主張されるのでしょう。ならば、その主張は——日本中の食卓と、医療現場と、菓子売り場の、全てに及びます。被告は、その帰結を、国がどう引き受けるのか、伺いたい」

 

榊原が着席した。

 

法廷が、静かになった。完全な、静寂だった。

 

補助参加人席で、橋本は、すぐには、状況を呑み込めなかった。

 

何を、言われた。

 

国賠を、先に認めろ。それは、分かる。

補助参加が利害敵対なら32条に触れる、という理屈。予期はしていなかったが、筋は追える。

問題は、二つ目だ。奈良漬。エタノールスプレー。菓子。あれは——何だ。

 

橋本は、頭の中で、いま起きたことを、もう一度、再生しようとした。我々は、飲酒禁止法の適用は適法だと、主張しに来た。当たり前の主張だ。法律は有効で、神社はそれに従った。それのどこに、奈良漬が出てくる。

 

隣の若手が、小声で囁いた。「室長、これは……何を、言われているんですか」

 

橋本は、答えられなかった。

 

分からなかったからではない。分かりかけているのに、その分かりかけている先が、あまりにも、おかしな場所を指していたからだった。適用は適法だ、と言う。すると、同じアルコールを含む奈良漬も、取り締まれという話になる。取り締まれるわけがない。では、取り締まらないなら——適用は適法だ、という主張が、揺らぐ。

 

待て。

 

橋本は、自分の思考が、妙な方向に滑り出すのを感じた。これは、論点をずらされたのではない。論点を、ずらされたなら、引き戻せばいい。違う。違うのだ。自分たちの主張そのものが——「適法だ」というその一言が——何か、別のものに勝手につながっていく。

我々が強く主張すればするほど。その主張が、自分たちの首を、別の場所で。絞めにくる。

 

何だ、これは。

 

橋本は、二十三年、法廷に立ってきた。攻撃には、形がある。こちらの主張を崩しに来る。証拠を覆しに来る。手続きの瑕疵を突いてくる。どれも、向かってくる方向が、見える。だが、今のは——向かってくる方向が、なかった。殴られた、という感触すら、薄い。ただ、自分たちが立っている足場が、自分たちの言葉によって、少しずつ、傾いていく。そういう、奇妙な、重力のような何かだった。

 

橋本は、まだ、この時点では、その傾きの全体像を、見ていなかった。見えていたのは、ただ一つ。ここで「適法だ」と言い返してはいけない、ということだけだった。言えば、もっと深く、傾く。それだけは、本能で、分かった。

 

法廷は、まだ、静寂だった。

 

国は、四つの問いを、同時に突きつけられていた。

一つ——神社の国賠を認めるか。認めれば、立法不作為を自ら認めることになる。どれほどの神社に、国賠を認めることになるのか。認めなければ、補助参加は憲法32条違反の地雷を踏む。

二つ——飲酒禁止法の適用が適法だと主張するか。主張すれば、奈良漬もエタノールも取り締まれという話になり、日本中を敵に回す。

どちらも主張しなければ、何のために補助参加したのか分からなくなる。

そして、なにも言わずに撤退は…もはや考えたくもなかった。

 

四つの選択肢。そのどれを選んでも、国は傷を負う。

 

補助参加人席の二人が、顔を寄せて、何かを囁き合っていた。一人が、手元の書類をめくった。だが、そこに答えは、書いていないようだった。

書いてあるわけがなかった。こんな攻められ方を想定した書面など、この世に、存在しなかった。

 

裁判長は、しばらく書類を見ていた。それから、補助参加人席に目を向けた。

 

「補助参加人——本日、何か、主張はございますか」

 

二人の男のうち、年長の方が立ち上がった。橋本だった。

 

「——本日は、補助参加の許否について、裁判所の判断を仰ぐ段階と承知しております。実体的な主張については、次回期日に書面にて提出いたします」

 

時間を、稼いだ。それしかできなかった。

 

太田は、正面を向いたまま、手元の書類に視線を落としていた。書類には、何も書いていなかった。書く必要がなかった。今この瞬間、法廷で起きていることは——あの新橋の夜に、津本が静かに語っていたことだった。

場外乱闘。強力な敵ユニットを、マップの外で戦わせる。

 

裁判長が口を開いた。

 

「では、補助参加の許否、ならびに補助参加人の主張については——次回期日までに、書面を提出していただきたい」

 

閉廷が告げられた。

 

---

 

廊下に出ると、声が出ていなかった。傍聴席から出てきた人間たちが、互いに目を見合わせている。言葉を探しているようだった。

補助参加人席にいた二人は、スマホを手に、足早に廊下を歩いていった。

 

太田は少し離れたところで、壁に背をつけてそれを見ていた。

榊原が来ると、二人は並んで、廊下の窓の外を見た。

 

「お見事でした」太田は言った。

「台本通りです」榊原は言った。「あとは、国がどう動くか」

 

榊原は、窓の外を見たまま、続けた。

 

「国は、次回までに、選ばなければならない。国賠を認めるか。憲法32条違反を呑むか。日本中を敵に回すか。それとも——退くか」

 

「退きますかね」

 

「退くでしょう」榊原は静かに言った。「あの橋本という男、立ち上がったとき、まだ何が起きたか、完全には掴んでいない顔をしていた。だが——『適法だ』と言い返さなかった。そこだけは、本能で避けた。あれが分かる人間なら、持ち帰って全部を見通したとき、退く以外の道がないことに、気づく」

 

その夜、SNSは動いていた。地裁のときとは、比べものにならなかった。

 

「高裁で神社が国を訴えてるって、どういうこと?」

「補助参加するなら国賠を先に認めろって言ったらしい。これ前代未聞じゃないの」

「しかも奈良漬とエタノール全部取り締まれって被告が言ったらしいぞ」

「法クラが全員騒いでる。何が起きてるんだ」

 

太田はスマホを取り出して、津本にメッセージを打った。*今日の高裁、終わった。国賠と平等原則、同時に落とした。SNSが燃えてる。*

 

返信が来た。

 

*二発?。*

 

太田は、その一行を、少し見た。打ち返した。*違うのか。*

 

*三つだ。*

 

津本の返信は、続けて来た。

 

*補助参加は、法的にはさせられる。だから法で止めない。心理で止める。それでも踏み込む奴のために、実コストを置く。奈良漬も除菌剤も洋酒菓子も全部規制しろ、と。できるわけがない。それでも居直る奴のために、十四条を置く。奈良漬を見逃して三三九度だけ罰するのは、十四条平等の原則に反する扱いだ、とな。*

 

太田は、画面を見ていた。

 

*三つが、円になってる。心理から逃げると実コストに落ちる。実コストから逃げると十四条に落ちる。十四条から逃げると、実コストに戻る。出口がない。どこから出ようとしても、隣に落ちる。*

 

太田は、ゆっくりと打った。*界面か。*

 

*そうだ。*返信が来た。*一点に、三つの応力を集めた。そこから、構造全体が割れる。あとは、国が溶けるのを待つだけだ。*

 

---

 

# 霞が関の夜 II

 

午後十一時。法務省の会議室に、再び明かりが灯っていた。

 

集まった人間の顔は、前回より暗かった。

 

橋本は、机の上の記録を見ていた。補助参加で入った。入った瞬間に、二つの爆弾が、同時に炸裂した。

国賠の存在。平等原則の罠。どちらも、橋本は予期していなかった——いや、予感はあった。入り口が開きすぎている、と自分で言った。だが、入らざるを得なかった。

 

立証責任は、こちらにあった。被告の神社では、立法事実を立証できない。入らなければ、立証の欠落だけで、本案が崩れる。だが、入ったら爆発した。

進めば爆ぜ、退けば沈む。最初から、そういう構えだった。

 

「問題を整理します」橋本は重く、口を開いた。「我々の選択肢は、二つ。補助参加を維持して、適用の適法性を、正面から主張し続ける。あるいは——退く」

 

「維持した場合、どうなる」局長の津田が言った。

 

橋本は、答えようとした。だが、その前に、内閣法制局の参事官が低い声で言った。

 

「維持はできません」

 

全員が、参事官を見た。

 

「適用が適法だと主張するなら、その論理を、貫かねばなりません。未成年のアルコール摂取が問題だと言うなら——奈良漬も、ウイスキーボンボンも、エタノール除菌剤も、同じです。法の下の平等。我々が三三九度への適用を適法と言った瞬間、それらすべてを規制対象と認めたことになる。法理として、逃げられません」

 

「規制すればいい、とは言えないのか」津田が言った。

 

今度は、厚労省から出向している審議官が、口を開いた。顔が、白かった。

 

「言えません。エタノール除菌剤は——コロナ以降、玄関に、店舗に、病院に…電車にも置かれています。あれを、未成年から遠ざける? 撤去する? 執行は、不可能です。それに——」

 

審議官は、そこで、言葉を切った。続きを言うのを、ためらうように。

 

「それに、あれを社会の隅々に置けと旗を振ったのは、我々です。コロナのとき。官邸主導で。総理が、会見で、消毒を呼びかけた。その我々が、同じアルコールを未成年から取り上げると、裁判で主張する——前言と矛盾します」

 

会議室の温度が、一段、下がった。

 

「ならば」と、津田が、少し声を強めた。「規制はしない。奈良漬も、除菌剤も、放置する。ただ、三三九度の適用についてだけ、適法だと主張する。矛盾は、押し通せばいい。国家は、これまでも——」

 

「それが…一番、まずい」

 

橋本だった。自分の声が、少し掠れているのに、気づいた。

 

「奈良漬を見逃して、除菌剤を放置して、アルコール入り菓子を放置して。三三九度の一盃だけを、違法とする。その瞬間、それは『未成年をアルコールから守る』ではなくなります。同じアルコール摂取のうち、宗教儀礼の…量が限られた一盃だけを、選び出して罰することになる。他の全部を、見逃して」

 

橋本は、机の上に、指で三つの点を、置いた。

 

「憲法十四条。法の下の平等。合理的な理由のない、差別的取扱い。——奈良漬を放置して三三九度だけを罰するという、その選別そのものが、十四条違反の証拠になります」

 

参事官が、ゆっくりと言った。「では、整理すると——」

 

「正面から適法と主張すれば、奈良漬まで規制する義務を負う。執行不可能だ」厚労の審議官。

 

「規制せず居直れば、選別的処罰で、十四条違反になる」参事官。

 

「十四条から逃げようとすれば、結局、全部規制するしかなく——執行不可能に、戻る」橋本。

 

誰も、次の言葉を、継がなかった。

 

橋本が、机の上の三つの点を、線で、結んだ。

 

三角形に、なった。

 

「円です」橋本は言った。「どの頂点から出ようとしても、隣の頂点に落ちる。隣を破ろうとすれば、その隣が待っている。出口が——ない」

 

会議室が、完全に、静まり返った。

 

津田が、その三角形を見ていた。長いキャリアで、無数の訴訟を見てきた男だった。その津田が、声を落とした。

 

「……これを強行したら、どうなる」

 

その問いに、誰も、すぐには答えなかった。だが——部屋にいる全員の頭の中で、同じ計算が、同時に走り始めていた。それぞれの専門領域から、それぞれが、その先を、見ていた。

 

最初に口を開いたのは、また、厚労の審議官だった。声が、震えていた。

 

「……榊原は…間違いなくそれを、外に出すでしょう。記者会見で。『国は本日、未成年のアルコール摂取は一律に規制対象であると主張した』と。除菌剤を、奈良漬を、ウイスキーボンボンを、国が規制対象と認めた、と」

 

「業界が動く」経産からの出向者が、続けた。「菓子。漬物。酒造。一斉に、所管に殺到する。複数の省庁が、同時に火だるまになる」

 

「国会で、使われます」参事官が言った。「野党が、予算委員会で大臣に問う。『除菌剤を未成年から取り上げるのか、イエスか、ノーか』。イエスと言えば、社会が荒れる。ノーと言えば——係争中の、国の主張が崩れる」

 

「俺達のクビではすまん…だろうな。大臣のクビが飛ぶだろう」津田が、呟いた。「それも、一人では、済まん。いくつの所管ががまたがっていると思う」

 

そして、部屋が、一瞬、沈黙した。

 

その沈黙を破ったのは、橋本だった。橋本は、自分でも、なぜそこまで口にするのか、分からなかった。だが、見えてしまった以上、言わないわけに、いかなかった。

 

「……大臣だけでは、済みません」

 

全員が、橋本を見た。

 

「補助参加を強行した場合、主体は、『国』です。一省庁の暴走では、ない。国が、国として、法廷でそう言った。その責任の宛先は——内閣になる。そして、除菌剤を社会に置けと号令したのは、官邸主導の、政府全体の方針だった。総理が、会見で呼びかけた」

 

橋本は、続けた。声が、自分のものでないように、聞こえた。

 

「野党は、大臣のクビなど用はない。本会議で、直接、総理に問います。『総理、あなたが置けと言った除菌剤を、あなたの政府は今、未成年から取り上げると裁判で主張している。どちらが、政府の方針か』」

 

「……円環が」参事官が、掠れた声で言った。「本会議場で、もう一度閉じる」

 

「総理がイエスと言えば、政権が国民を敵に回す。ノーと言えば、国の訴訟が、総理自身の言葉で崩壊する」橋本は言った。「どちらの答弁も——政権の死です。そして、答弁しない、は…国会では通らない」

 

会議室の、誰も動かなかった。

 

「内閣が」津田が、ほとんど聞こえない声で、言った。「総辞職する以外なくなる…か」

 

その言葉が、部屋に落ちた瞬間、全員の顔から、血の気が、引いた。

 

一枚の、補助参加の決裁書。この部屋で押す一個のハンコ。それが——内閣を倒す。現場の訟務が押す一押しが、政権の生死のスイッチになっている。そんなもの、誰が押せるのか。押した瞬間、押した人間は、憲政史に名を刻むだろう。内閣を、一つ潰した官僚として。そして、最初に焼かれるのは、引き金に最も近い。この部屋の——自分たちだ。

 

長い、長い沈黙。会議室は、静まり返っていた。

 

「この設計は」橋本は、最後に言った。「我々の知性そのものを、我々を止める力に変えている。鈍ければ、踏み込めたでしょう。気づかなければ、ハンコを押せた。だが、我々は気づいてしまう。これは…そのまま、自分の首を絞める縄になっている」

 

津田が、長い間、目を閉じていた。それから、低く言った。

 

「……この設計をした人間は、誰だ」

 

橋本は、答えた。

 

「原告代理人は太田誠一という弁護士ですが——太田ではないと思います。法律の外側から法体系を見ている人間の発想です。調べましたが、設計者の痕跡は、出てきません」

 

「調べろ。この設計の出所を、早急に調べろ」

 

しかし、何も出てこなかった。太田の事務所を調べた。中小企業の顧問契約が数件、相続案件が年に十数件。事務員が一人。古いビルの一室。設計者の痕跡は、どこにもなかった。

 

そうして、1週間後。方針が定められた。

撤退だ。

 

津田が言った。「三十二条違反を承知での強行。そんなものができるわけがない。ましてや、それをしたところで、榊原が素直に訴訟戦略や心情を共有するのか。しない。四十年、国の代理人を向こうに回してきた人間が、国の担当者と並んで座って、訴訟方針を話し合うと思うか。そうして、それを強行した果てに待っているのは…破滅だ」

 

それが、決め手となった。補助参加申請を、取り下げる。

 

会議が終わり、人が引いた後も、橋本は会議室に残っていた。机の上の記録に、もう一度、目を落とした。

 

二十三年、国の代理人をやってきた。憲法判断に持ち込ませない。それが、自分の仕事だった。入り口で塞ぐ。争点をずらす。原告がどれだけ熱を込めて乗り込んできても、橋本は冷静に、その熱を、手続きの壁で受け流してきた。

冷徹な処刑人。その字名を、嫌だと思ったことはない。仕事を、正確にこなしてきた証だと思っていた。

 

だが、今回は違った。

 

塞ぐべき入り口はなかった。ずらすべき争点は、既に相手が絞り込んでいる。受け流すべき熱が——そもそも、ない。

原告は、怒っていない。被告も、怒っていない。誰も、国を憎んでいないのだ。

ただ、矛盾が、静かに、正されようとしているだけだった。

 

憎しみのない訴訟は、戦いようがない。橋本が二十三年かけて磨いた技術は、すべて、相手の「勝ちたい」という熱を前提にしていた。その熱がない場所では、橋本の剣は、空を切るだけだった。

 

橋本は、少し笑った。自嘲ではなかった。むしろ、感嘆に近かった。

 

この設計をした人間は、国を倒そうとしていない。国を、戦いの土俵にすら上げていない。土俵の外に、丁寧に置き去りにしている。そして、誰も傷つけずに、欲しいものだけを、正確に取っていく。あれだけの破壊力を、内閣を倒し得る刃を、握っていながら——抜かない。抜けば国が死ぬと分からせて、抜かずに、退路だけ残してある。補助参加の取り下げという、自分たちが安全に降りられる道が。不自然なほど、丁寧に空けてあった。

 

——見事だ。

 

橋本は、手帳に書いた。*次の戦場は、国賠だ。*

 

書いてから、その「次の戦場」という言葉を、自分で少し疑った。次の戦場で、自分は何を守るのだろう。守ろうとすれば、奈良漬を規制し、除菌剤を撤去し、国民を敵に回さねばならない。守ること自体が、破壊になる。守るべきものが、もう、よく分からなくなっていた。

 

---

 

# 高裁第三回弁論

 

傍聴席は、満席だった。補助椅子まで出ていた。

 

開廷前の五分間、傍聴席はまだ気づいていなかった。最初に気づいたのは、前列に座っていた弁護士の一人だった。補助参加人席を見て、少し止まった。隣に何かを言った。その声が、波のように広がる。

 

*来てない。国が、来ていない。*

 

国の席は、空だった。

 

開廷とともに、裁判長が書類を確認した。

 

「補助参加申立人より、書面が提出されています。内容を確認します——補助参加の申し立てを、取り下げる、とのことです」

 

傍聴席が、静かになった。一秒。二秒。それから——どよめきが、高裁傍聴席を満たした。裁判長が手を上げて、静寂。

 

太田は正面を向いたまま、動かなかった。国が、退いた。設計図通りだった。しかし——実際に起きると、少し違う感触があった。霞が関の、あの分厚い壁が——一歩、後ろに下がった瞬間だった。

 

裁判長が、双方を見渡した。

 

「では、本日をもって、補充主張の確認を行います。双方、新たな主張はありますか」

 

「ありません」太田は言った。「第一回において主張した、憲法十四条の点を、維持いたします」

 

裁判長が榊原を見た。「被告側は」

 

榊原が立った。

 

「被告も、これまでの主張を維持いたします。一点のみ、改めて申し上げます」

 

榊原は、空席となった補助参加人席を、一瞬だけ、見た。

 

「国は、退きました。退いたということは——本件における飲酒禁止法の適用が、国として擁護するに値しないものであった、ということに他なりません。被告は、その法律に従わされた。被告もまた、被害者であります」

 

榊原が着席した。

 

法廷が、静かになった。今度は違う種類の静かさだった。逃げ道が、完全に塞がれた後の静けさだった。原告は平等原則で攻め、被告は国賠と平等原則で攻め、そして国は、戦わずして退いた。残ったのは、一つに絞られた問いだけだ。神前の一盃を、違憲とするか、否か。

 

裁判長が書類を見た。しばらく、見ていた。十秒か、十五秒か。その時間が、法廷にいる全員に、長く感じられた。

 

裁判長が口を開いた。どこか、恐る恐るという表情で。

 

「——本件は、結審とします」

 

傍聴席が、静かになった。一秒。二秒。三秒。それから——どよめきが、地裁の比ではない規模で、傍聴席を満たした。

 

閉廷が告げられた。廊下に出た、その瞬間だった。

 

全員が、スマートフォンを取り出した。全員が、だ。例外がなかった。ある者は画面を開いて、必死に打ち込んでいた。ある者は既に耳に当てていた。弁護士バッジをつけた者も。ゼミ生らしき者も。手帳を持ってきた者も。全員が、同じ動作をしていた。

 

太田は廊下の端に立って、その光景を見ていた。津本が一週間で積み上げた設計図が、今日この廊下で、現実の輪郭を持ちながら広がっていく。

 

スマホを取り出した。津本にメッセージを打った。

 

*結審した。国は、戻ってこなかった。*

 

*裁判長の顔、どうだった。*

 

*恐る恐る、という感じだった。*

 

しばらく間があった。返信が来た。

 

*それでいい。怖くなければ、動かない。*

 

---

 

# 訟務局、再び

 

田町俊介は、傍聴席から戻って、自分のデスクに座っていた。座っていた、というより、座り込んでいた。

 

田町は中堅だった。キャリアは十二年。実務畑だ。手続きを丁寧に積み上げて、争点を整理して、淡々と処理する。橋本から声がかかったとき、田町は少し驚いた。「高裁の傍聴に行ってきてくれ。様子を見てきてくれ」

 

だが——傍聴席に座って、弁論を聞いて、廊下に出た瞬間に、田町は理解した。これは、今まで見てきたものと、違う。

 

奈良漬とエタノールスプレーを全部取り締まれ。被告側の弁護士が、改めて、そう言った。本気ではない、と分かった。分かった上で、衝撃があった。裁判長の顔を見ると、恐る恐るという表情で、結審を告げた。あの裁判長が、逃げ場を失っていた。

 

デスクに戻ってから、二十分が経った。田町はまだ、報告書を書けていなかった。立ち上がろうとしたが、力が入らなかった。それでも立ち上がり、デスクの電話に手をかけた。

 

「橋本です」

「田町です。高裁の件、報告します——」

 

---

 

総務局第二会議室。橋本、局長の津田、厚生労働省次官の朝倉がいた。

 

「この訴訟に、どう戦う?」朝倉が言った。「止められないのか。民訴を停止させるような——」

 

「戦う?」津田の声が、静かに朝倉の言葉を遮った。「違います。私たちは完全に、訴外です。私たちは、何もできない。これは当事者が存在する民事訴訟です。原告は霧島夫妻。被告は大崎神社。国は補助参加を取り下げた。この訴訟を外部から止める、どういう根拠で止めるのですか。行政が、進行中の民事訴訟に介入する根拠が、どこにありますか」

 

「つまり」朝倉が言った。「指を加えて、黙って見ていろ、と?」

 

会議室が静かになった。

 

「結果としては」橋本が口を開いた。「そうするしかない。そう、設計されています」

 

「設計」と朝倉が繰り返した。「誰が設計したんだ」

 

「まだ、分かっていません」

 

津田が静かに言った。「この設計の目的は何だ、橋本」

 

「最小限の着地点です。全員が致命傷を負わない場所に、着地させる。適用違憲という着地点であれば…三三九度への適用、一点に限って違憲とされるのであれば、飲酒禁止法の根幹は傷つかない。国が全面敗訴することもない。だからこそ——国は、この設計の外から、何もできない」

 

朝倉が、ゆっくりと言った。「これを設計した人間は、国の敵じゃないのか」

 

橋本は少し考えた。「敵、というより——最初から、国を敵にするつもりがなかったのかもしれません」

 

津田が立ち上がった。「今日の会議は、ここまでだ。国賠の審理が始まれば、また別の議論になる。だが現時点で、高裁の訴訟に対して我々にできることは、もう、ない」

 

---

 

# 高裁判決

 

最終弁論から二ヶ月後。高裁判決が出た。

 

太田は一人、事務所で判決文を読んでいた。

 

主文は、短かった。

 

*本件飲酒禁止法の神前婚姻儀礼への一律適用は、以下の極めて限定された条件下において、憲法第十三条の保障する自己決定権および第二十条の保障する信教の自由に反し、違憲である。*

 

*条件:神前婚姻式における三三九度の儀において、婚姻当事者本人の意思に基づき、神職の主宰のもと、参列者の立会いのもとで行われる、儀礼としての一盃の神酒の授受。*

 

*原判決を取り消す。被控訴人は控訴人らに対し、金百万円を支払え。*

 

*なお、本判決が示す違憲判断の射程及びその根拠については、最高裁判所による確定的な判断が示されることが、法的安定性の観点から望ましい。*

 

太田は読み終えて、しばらく動かなかった。

 

適用違憲。高裁が、適用違憲と書いた。

射程は——極めて限定されていた。神前式。婚姻当事者。神職主宰。衆人環視。一盃。この全条件が揃う場面が、一年間に全国でどれだけあるか。数十件、あるかどうか。法律の根幹は、傷ついていない。ただ、この五つの条件が重なる、極めて特殊な場面においてのみ、その適用が違憲だと言われた。

 

損害賠償は、請求額二百万円のうち、百万円。満額は認められなかった。それも、設計図の射程通りだった。全面的な勝利ではない。誰も完全には負けない。それがこの訴訟の形だった。

 

最後の一文に、太田は二度目を通した。法的安定性の観点から望ましい。高裁が、自分から最高裁に向けて、扉を開けていた。

 

裁判所は——最も傷の少ない着地点を選んだ。しかしその着地点は——設計図が示していた場所だった。

 

スマホが鳴った。霧島からだった。

 

「太田さん。妻が泣いています」

「そうか」

「嬉しくて、だそうです。百万円が」

 

太田は少し黙った。満額の半分だ。それで喜んでいる。あの嫁さん、なかなかしたたかだと驚いた。

 

窓の外を見ると、東京の空が、夕暮れの中で赤く染まっていた。

 

「——お、おお…まぁ、よかった。うん」

 

「太田さん、もう一度、三三九度をしたいと言っています。今度は——本当の三三九度を」

 

太田は窓の外を見たまま、水で済ませた一盃のことを、思った。

 

「…大崎宮司に、連絡してみろ。まだ、退いていなければ」

「——はい」

 

電話が切れた。

 

太田は立ち上がった。事務所の棚から一本取り出した。フロール・デ・カーニャ。新橋の地下のバーで、津本と飲んだのと、同じ銘柄だ。グラスに注いだ。一人で、飲んだ。

 

津本に電話した。一コールで出た。

 

「見たか」

「見た」

「どうだ」

 

津本は少し間を置いた。

 

「上出来だ」

 

太田は少し笑った。

 

「お前、それだけか」

「それだけだ」

それに、津本が続けた。

「まだ最高裁がある。終わってないぞ」

「わかってる。だが今夜くらいは——いいだろ」

 

そういって、太田は少し黙った。窓の外の夕暮れが、少し深くなっていた。

 

「——そうだな」

 

神社側の上告は、判決当日の午後に出た。

予想していた。太田も、榊原も、互いに確認するまでもなく、わかっていた。

判決が確定すれば、神社側の国賠の根拠が固まる。上告しなければ——国賠で自分の首を絞めることになる。

 

だが大崎神社が上告したところで、高裁判決をひっくり返すつもりは、どちらにもなかった。最高裁という最も重い場所で、もう一度確定させる。

それが上告の目的だ。

大崎神社が上告する。その事実が、訴訟の次の段階への入口を開ける。

設計図に、最初から書いてあった動きだ。この訴訟を邪魔させるような根拠は、全くなかった。

 

太田は津本にメッセージを打った。*神社側が上告した。予定通りだ。*

 

*知ってる。最高裁まで、頼んだぞ。*




この話の主役は、太田でも津本でもなく、橋本だと思っています。

これまでの話は「設計する側」の視点で進んできました。

だからこそ今回は、設計される側に、初めて長く視点を置きました。
橋本は敵ではありません。二十三年、国の代理人として誠実に仕事をしてきた、有能な実務家です。
その彼が、自分の専門性と経験のすべてを使って状況を分析するほど、出口がないことに気づいていく――この感覚を書きたくて、この話を書きました。

「鈍ければ踏み込めた。気づかなければハンコを押せた」というセリフは、この訴訟の設計の本質を、一番外側から言い当てている言葉だと思っています。

津本が組んだ罠は、相手を騙すための罠ではありません。相手が誠実であればあるほど、自分で答えに辿り着いてしまう、という種類の罠です。

これは三々九度の前半で太田が津本に対して感じていたものと、表裏の関係にあります。

奈良漬とエタノールスプレーという、あまりに日常的なものを、憲法十四条の武器として使う場面は、書きながら一番楽しかった部分です。
法律論として正しいことと、それが滑稽に見えることは、両立します。
むしろ、滑稽に見えるほど、その指摘から逃げられなくなる――そういう構造を、榊原という四十年選手の声で語らせることができたのは、収穫でした。

最高裁大法廷。最後の舞台がどう動くのか。乞うご期待!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。