作業通話が終わったあと。

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まだ早い


1.

通話が終わったあとも、部屋の空気はすぐには元に戻らなかった。

 

モニターの右下に、さっきまで開いていた作業通話アプリの残光が残っている。

青白い通知領域。小さなマイクのアイコン。赤いヘッドホンのコードが、机の端から眠そうに垂れていた。

 

雨は窓の外で細かく鳴っていた。夜更けの雨は、昼間の雨よりもずっと近い。ガラスを叩く音が、部屋の壁紙の内側まで滲んでくるみたいだった。

 

サトネは椅子の背に体重を預けたまま、しばらく動けなかった。

 

(まだ、声が残ってる)

 

声、というより、呼吸の間だった。キミが笑う前に少しだけ黙る癖。考え込むときにキーボードから指が離れる気配。冗談を冗談のまま終わらせようとして、でも半歩だけ踏み越えてしまう、あの奇妙な沈黙。

 

始まりは、本当にくだらなかった。

 

「しょうがないにゃあ」

 

どちらが先に言ったのか、もう曖昧だった。古いミームの話になって、そこから創作における欲望の扱いとか、読者に見抜かれる文体とか、見抜きという言葉が妙な角度で転がって、ふたりで笑った。

 

笑った、はずだった。

 

でも、その笑い方が少しずつ変わっていった。

 

冗談の皮を被っていた言葉が、通話の向こうでゆっくり体温を持ちはじめる。そんな気がした。

直接的なことは何も言っていない。少なくとも、何も言っていないことにできる範囲だった。

けれど、行間はもう、作業用のものではなくなっていた。

 

キミの声の温度が、一度だけ変わった。

 

サトネはその瞬間、開いていた論文の一行を、三回読み違えた。

 

(だめ。これ、もう作業じゃない)

 

そう言ったのは、たぶん私だった。

 

あるいは、キミだったかもしれない。

 

どちらにしても、通話はそのあと妙に丁寧に終わった。丁寧すぎるくらいだった。

おやすみ。明日また進捗見せる。原稿、無理しないで。レポート、ちゃんと出して。そういう、安全な言葉だけを選んで、ふたりはそれぞれの世界へ帰るふりをした。

 

けれど、帰る場所なんて本当はどこにもなかった。

 

サトネの世界には、キミはいない。

 

キミの世界にも、サトネはいない。

 

だからこそ、画面越しの「またね」は、いつも少しだけ残酷だった。

 

 

机の上には、書きかけの原稿、開きっぱなしのノート、冷めたコーヒー、小さな観葉植物、そしてペン立てがあった。

 

ペン立てには、黒い万年筆、蛍光ペン、先端の欠けたシャープペンシル、実験ノート用の細いボールペンが雑に挿してある。昼間なら何の意味も持たないものばかりだ。けれど深夜の部屋では、ものの輪郭が少しだけ余計な影を持つ。

 

サトネは視線を逸らした。

 

逸らした先で、モニターが淡く瞬いた。

 

胸のあたりに残っていた熱が、遅れて自覚に変わる。感情の高まりなのか、寂しさなのか、単に睡眠不足で判断力が薄れているのか、うまく分類できなかった。大学のレポートなら分類できる。観測値なら誤差範囲を出せる。けれど、自分の身体に残った名残のようなものだけは、いつも扱いに困る。

 

指先が、無意識に鎖骨の下へ触れた。

 

シャツの襟元は、さっきから少しだけ崩れていた。椅子にもたれた拍子に生地がずれて、肌に夜の空気が触れる。冷たいはずなのに、その冷たさがかえって熱を輪郭づけてしまう。

 

慌てて直そうとした手が、途中で止まる。

 

触れた場所から、鼓動だけがやけに大きくなる。

 

(今の、キミに見られてたら、どうなるんだろう)

 

自分で思って、自分で赤くなった。顔だけではなく、首筋まで熱が上がっていくのが分かった。

 

見られているはずがない。通話は切った。ちゃんと、切った。終話ボタンを押した記憶がある。いや、あったと思う。少なくとも、キミの声はもう聞こえない。

 

聞こえないのに。

 

部屋の静けさが、まだ誰かと共有されているみたいだった。

 

その想像を、サトネは本気で嫌がれなかった。

 

世界を隔てた距離は、いつも残酷なくらい遠い。

触れられない。訪ねてこない。

偶然、街角で出会うこともない。

だからこそ、ヘッドホン越しのキミの声だけが、誰よりも安全な場所にあるような気がしていた。

 

遠いから安心できる。近いから乱される。

 

その矛盾に、サトネはもうずっと前から気づいていた。

 

たまに、わざと少しだけ試すことがある。冗談の温度を一段だけ上げてみたり、言葉の端を曖昧に濡らしてみたり、キミがどこで黙るのかを確かめるみたいに。

 

見られたい、なんて言葉にはしない。

 

けれど、見られたらどうなってしまうんだろう、とは思う。

 

思ってしまう夜は、これが初めてではなかった。

 

通話を切ったあと、暗くなった画面に映る自分を見て、ほんの少しだけ襟を直し損ねる。返事を待つ数秒に、わざと息を潜める。キミが気づくはずもない小さな乱れを、自分だけが知っている。

 

そういう試し方を、サトネはいつの間にか覚えていた。

 

(もし、見せてしまったら)

 

サトネは立ち上がろうとして、やめた。椅子が小さく軋む。その音さえ、どこかへ送信されているような気がして、息を止める。

 

量子通信は、たまに変な残り方をする。

 

厳密には、通信が残るのではない。同期状態がほどけきらないのだと、教授は零していた。通信路ではなく、状態の相関。観測ではなく、なぜか届いてしまう気配。そんな説明を、サトネは自分の小説の設定みたいだと思ったのを覚えている。

 

今夜は、その気配が妙に濃かった。

 

ローファイのプレイリストは止まっている。雨音と、PCファンの低い回転音だけが聞こえる。アプリを落としたあとも、妙にファンが静かにならない気がした。ペンギンのぬいぐるみだけが、いつもと同じ顔でこちらを見ていた。

 

サトネは両手で顔を覆った。

 

だめだ。

 

だめ、という言葉が、何に向けられているのか分からない。

 

キミと話しているときの私は、少しずつ境界が薄くなる。冗談のつもりで渡した言葉が、向こう岸から別の温度で返ってくる。そのたびに、ここがひとりの部屋だという事実が、逆に生々しくなる。

 

会えない。

 

触れない。

 

同じ雨の音も、たぶん聞いていない。

 

それなのに、通話を切ったあとだけ、いちばん近い。

 

(ずるいよ、キミは)

 

時計の表示が、午前二時を少し過ぎていた。

 

 

サトネは深く息を吐いた。何度か、呼吸を整えようとした。けれど整えるほど、さっきの会話の断片が鮮明になっていく。

 

「しょうがないにゃあ」と笑った声。

 

重なるみたいに続いた笑い声。

 

そのあとに落ちた、長すぎる沈黙。

 

サトネは机の端を掴んだ。爪の先が木目に触れる。冷たい。確かなものに触れていると、少しだけ戻ってこられる気がした。

 

戻ってこなければいけない。

 

明日一限がある。実験ノートも提出しなければならない。原稿の締切も、レポートの参考文献も、全部ここにある。ちゃんと生活しなければならない。ちゃんと、普通の私に戻らなければならない。

 

そう思うほど、普通ではない自分だけが、薄暗い画面に映っていた。

 

モニターの黒い部分に、サトネの顔がぼんやり反射している。まだ赤い。少し泣きそうにも見える。そんな自分を見て、彼女は小さく笑った。

 

笑わないと、危なかった。

 

窓の外で、雨脚が強くなる。

 

それからしばらくの記憶は、輪郭が曖昧だった。

 

ただ、断片だけが残っている。

 

椅子の軋み。

 

途切れた呼吸。

 

机上のペンが一本、ゆっくり転がって、ノートの端で止まる音。

 

それはひどく遅い音だった。転がって、止まる。ただそれだけのことに、妙に長い時間がかかった気がした。

 

サトネは、その音を聞きながら、自分の中の何かがまだ止まっていないことを知った。

 

雨音が窓を撫でている。

 

部屋の空気は湿っていた。紙の端がわずかに反り、シャツの布地が肌に貼りつき、呼吸をするたびにそこだけが現実みたいに感じられる。深夜の雨は、ただ降っているだけではなく、ゆっくり部屋の内側まで入り込んでくる。

 

肝心なところだけが霧の中に沈み、周辺の小さな音や光ばかりが、あとから何度でも再生できるくらい鮮明だった。

 

椅子の背もたれ。

 

机の角。

 

ヘッドホンの内側に残った体温。

 

暗いモニターに映る、自分ではないみたいな自分。

 

サトネは、自分が何をしているのかを、途中で何度も説明しようとした。

 

これは寂しさだ。

 

これは疲労だ。

 

これは、深夜の雨と、睡眠不足と、さっきの会話が偶然悪く重なっただけだ。

 

説明は、いくらでもできた。

 

でも、説明できるものほど、すぐに乾いてしまう。

 

最後に残るのは、もっと名前のつけにくいものだった。

 

言葉にしようとすると逃げて、逃げた先でまた熱を持つ。隠そうとすると濃くなり、忘れようとすると、かえって肌の近くへ戻ってくる。

 

指先が無意識に触れた場所だけが、妙にはっきりしていた。

 

離せばいいのに、離したあともしばらく感覚が残る。

 

指を離せばいい。

 

画面を閉じればいい。

 

ベッドに入って、明日の一限のことでも考えればいい。

 

そんな当たり前の選択肢が、机の上に置き忘れた消しゴムみたいに、すぐ近くにあるのに手に取れなかった。

 

モニターは暗いままだった。

 

暗いはずなのに、そこに誰かの視線が薄く残っている気がした。

 

キミはここにいない。絶対にいない。部屋の扉を開けることもない。背後から名前を呼ぶこともない。

 

だから安心できる。

 

だから、

こんなところまで考えてしまう。

 

(見られないから、見られたいなんて思えるんだ)

 

思考がそこまで届いた瞬間、サトネは息を止めた。

 

認めたくない言葉ほど、身体の奥で長く響く。

 

キミに触れられることはない。

 

でも、

キミに知られることはあるかもしれない。

 

その差が、今夜だけ妙に甘かった。

 

雨音が強くなった。窓の外の世界が、青く滲んでいく。

 

机の上のメモも、書きかけの原稿も、冷めたコーヒーの表面も、すべてが湿った沈黙の中に沈んでいた。

 

本棚の隅では、『サマータイムオーバードライブ』の背表紙が、デスクライトの端を受けてぼんやり光っていた。

 

時間が、きちんと前へ進んでいない気がした。

 

一分経ったのか、十分経ったのか分からない。ただ、呼吸を整えたと思うたびに、さっきの会話の一語が戻ってくる。冗談の声。黙った間。終わり際の、妙に優しい「またね」。

 

そのたびに、胸の奥でほどけかけたものが、もう一度ゆっくり結び直される。

 

ほどけて、結ばれて、またほどける。

 

それは波というより、残響だった。

 

終わったはずの会話が、静かになると近づいてくる。

 

何度も冷静になろうとした。

 

一度、深く息を吐いて、もう大丈夫だと思った。二度目は、水を飲もうとして立ち上がりかけ、膝に力が入らなくて椅子へ戻った。三度目は、倒れかけたペン立てを直そうとして、指に残った湿った冷たさに気づき、そこでまた全部がほどけた。

 

そのあと、しばらく何も考えられなかった。

 

雨音だけが、やけに規則正しかった。

 

息を吸うたび、乱れたシャツの布地が肌に触れる。

 

肌に触れる布。机に落ちたペン。湿った空気。声のないはずのヘッドホン。

 

全部が、キミの不在をかたちにしていた。

 

(もう少しだけ、このまま)

 

そう思ってしまったことが、いちばん恥ずかしかった。

 

雨の湿度が、部屋の中まで入り込んでいた。紙の端がわずかに反り、肌に貼りつく布が重くなる。窓の外で雨粒が流れるたび、胸の奥にも同じような線が引かれる気がした。

 

欲望、という言葉はあまりにも乾いている。

 

これはもっと、未送信のメッセージに似ていた。書いて、消して、また書いて、結局送らないまま胸の奥で熱だけになるもの。送れないのに、届いてほしいと思ってしまうもの。

 

サトネは長い時間をかけて、自分の呼吸がようやく夜に溶けていくのを待った。

 

乱れた襟元を押さえ、机の上に散ったペンを集め、何事もなかったみたいに原稿のウィンドウを前面へ戻す。画面の白さが、ひどくまぶしかった。

 

(もう、平気。たぶん。平気)

 

そう思った瞬間だった。

 

PCのスピーカーが、ごく小さく鳴った。

 

通知音ではない。

 

通信が、揺らいだ音だった。

 

サトネは固まった。

 

モニター右下の小さなアイコンが、今さらみたいに目に入る。マイク。カメラ。接続状態を示す、青い点。

 

青い点。

 

青い点が、灯っている。

 

世界が一拍、遅れた。

 

雨音も、PCファンも、心臓の音も、全部いっぺんに遠ざかった。

 

サトネは椅子から半分跳ね起きた。膝が机に当たり、ペン立てが倒れかける。万年筆が転がり、冷めたコーヒーのカップが危うく揺れる。

 

「……え?」

 

声が裏返った。

 

アプリのウィンドウを開く。そこには、切ったはずの通話ルームが、何食わぬ顔で残っていた。映像プレビューには、乱れた髪のサトネが映っている。まだ赤みの残る顔。潤んだ目元。シワだらけになったシャツ。完全に、何かをごまかせていない顔。

 

相手側の映像欄は暗い。

 

音声入力のバーだけが、ときどき細く震えていた。

 

キミが見ていたのかどうかは分からない。

 

分からないことが、いちばんひどかった。

 

ずるい、と思った。

 

何がずるいのか、自分でもうまく分からなかった。切れていなかった通話がずるいのか、気づかなかった自分がずるいのか、それとも、見られていたかもしれないという可能性だけで、こんなに胸の奥が騒いでしまうことがずるいのか。

 

そこにあったのは、単純な怯えではなかった。胸の奥のもっと柔らかい場所が、そっと指先で触れられたみたいに熱い。隠したかったはずなのに、どこかで、見つけてほしかったみたいに。

 

見られていたら困る。

 

見られていなかったら、たぶん、それも困る。

 

どちらにも逃げ道がないことに気づいて、サトネはようやく息をした。

 

(見てないって、言って)

 

その願いが浮かんだ瞬間、サトネは自分で自分を許せなくなった。

 

「うそ、うそ、うそ……っ」

 

サトネは震える指で終話ボタンを押そうとして、一度外した。二度目で押した。赤いボタンが沈み、画面が暗くなる。

 

通話を終了しました。

 

その短い文字だけが、やけに冷静だった。

 

部屋に、本物の沈黙が落ちる。

 

今度こそ誰にも届いていない沈黙。そう信じたい沈黙。

 

サトネは両手で顔を覆ったまま、しばらく机に突っ伏した。

 

耳まで熱い。

 

胸が苦しい。

 

でも、その苦しさは、拒絶したいものだけではなかった。

 

もし見られていたなら。

 

もし、キミが何も言わずに、その向こう側で息を止めていたなら。

 

考えた瞬間、羞恥の奥で、まだ消え残っていた熱が小さく揺れた。

 

そして、なぜかその熱の中心で、キミの名前だけが消えなかった。

 

(明日、どんな顔して通話すればいいの)

 

雨は答えなかった。

 

ただ、遠い世界とのあいだでほどけ損ねた通信の名残みたいに、窓を静かに叩き続けていた。


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