ずっといっしょの終わり方 作:学マスオタク
終演後の楽屋前は、いつもより騒がしかった。
スタッフが口々に声をかけ、関係者が感想を伝え、次の予定を確認する。
新しい現場担当になる予定のプロデューサーも、そこにいた。若く真面目で、俺も既に何度か現場で顔を合わせている人物だった。
彼は俺の作った引き継ぎ資料を手に、何度も内容を確認している。
「本日はありがとうございました。紫雲さん、本当に素晴らしかったです」
彼が言うと、清夏さんはいつもの調子で笑った。
「ありがとーございます。次からもよろしくお願いしますね!」
自然な返事だった。
明るく、柔らかく、相手が安心する声。
プロのアイドルとして、完璧に近い対応だった。
その後で、清夏さんはちらりと俺を見た。
清夏さんは、何も言わない。
言わないまま、すぐに別のスタッフの方へ向き直る。
俺はその場で、後任の彼へと引き継ぎの挨拶を済ませた。
今後のスケジュール。
次回以降の現場体制。
連絡系統。
清夏さんの体調管理。
ライブ後のケア。
資料に書いたことを、資料に書いた通りに伝えていく。
自分でも驚くほど、淡々と話せた。
新担当は真剣に頷きながらメモを取っていた。
悪い人間ではない。清夏さんをぞんざいに扱うような人間でもない。
彼女のことを、きちんと見ようとしている。
改めてそれを自分の目で確認して、安心した。
同じくらい、寂しさが襲ってくる。
「最後に、本人と少し話してもよろしいでしょうか」
俺がそう言うと、新担当はすぐに頷いた。
「もちろんです」
もちろん。その言葉が、少しだけ可笑しく感じて、つい笑いが溢れた。
もう俺には、清夏さんと話すため許可を取るべき相手がいる。
話している間にいなくなっていた清夏さんは、会場裏の小さな廊下にいた。
リハーサルの日と同じ場所だった。
壁にもたれて、ペットボトルを片手に持っている。
髪は少し乱れていて、メイクも汗でわずかに崩れていた。
それでも、今の彼女は本番前よりずっと綺麗に見えた。
「お疲れ様でした」
「おつかれー」
清夏さんは軽く手を上げた。
「ね、今日のあたし、どうだった?」
「とても良かったです」
「ざっくりすぎ〜」
「では、具体的に言います」
「待って。今のは今ので嬉しいから、もうちょっと置いといて」
そう言って、清夏さんは少しだけ笑った。
その笑い方は、疲れている時のものではなかった。
廊下には、遠くの撤収音だけが響いている。
照明の熱も、さっきよりは少し引いていた。
人工的な暑さの中に、夜の冷えた空気が混じり始めている。
「で、Pっち的にはどこがよかった?」
「全部です」
「ずるー。そんなのばっかじゃん」
文句ばかりだと言うのに、清夏さんは楽しそうに笑っている。
まだ、俺たちの関係性は変わらない。俺は、紫雲清夏のプロデューサーだ。
「では具体的に言いますと、最初の一歩です」
「一歩?」
「ステージに出た瞬間、重心がまったくぶれていませんでした。観客の反応に合わせるのではなく、自分の呼吸で入れていた。二曲目のサビ前も、前回より目線の切り方が自然でした。最後の曲では、少しだけ右肩に力が入っていましたが、それでも表情が崩れなかった」
「やっぱり分析してんじゃん」
「すみません」
「でも」
清夏さんは、ペットボトルを胸の前で両手で持った。
「ちゃんと、見ててくれたんだね」
「約束しましたから」
そう答えると、清夏さんは目を伏せた。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「ありがと、Pっち」
小さな声だった。
俺は言葉を探した。
今日言うべきこと。
最後の現場担当として、伝えるべきこと。
引き継ぎ資料には書けなかったこと。
けれど、うまくまとまらなかった。
「清夏さん」
「なに?」
「俺は肩書き上、明日から清夏さんの担当プロデューサーではなくなります」
「うん」
「毎回現場に同行することも、なくなります」
「うん」
「清夏さんの隣に、別の担当者が立つことになります」
「うん」
清夏さんは、一つずつ頷いた。
感想もなく、表情も変わらない。
「それでも」
そこで言葉が止まった。
それでも。
その先が、業務文書の言葉では出てこなかった。
関わります。支えます。見守ります。必要があれば対応します。
どれも正しい。
でも、どれも足りない気がして、言い淀んだ。
清夏さんは、黙って俺を見ていた。
急かす言葉はなかったが、代わりに答えを用意することもしない。
その沈黙が、なぜだか俺には信頼の証であるかのように感じた。
だから俺は、数年前の自分が逃げた言葉を、もう一度拾い直すことにした。
「清夏さんが必要とする限りは、必ずそばにいます」
清夏さんの目が、わずかに揺れた。
「それ、前にも聞いたよ」
「はい」
「その結果、今日こうなってるんだけど」
「そうですね」
「信用していいやつ?」
「前よりは」
我ながら薄っぺらい言葉だが、それでも一本前進だろう。
清夏さんは、堪えきれない様子で笑った。
「なにそれ。てきとーすぎない?」
「前は、あまり深く考えていませんでしたから」
「ひど。さいてーだね」
「申し訳ありません」
「じゃ、今は?」
清夏さんは、まっすぐにこちらを見た。
レッスン室の床に座り込んでいた時と同じ目だった。
ステージの上で観客を見ていた時とも違う。
プロのアイドルとしての顔でも、誰かに見られるための顔でもない。
ただ、俺に答えを求めている顔だった。
「今は、約束として言っています」
清夏さんは何も言わなかった。
ただ、ペットボトルを握る指に少しだけ力が入っていた。
「あたしのプロデューサーじゃなくなっても?」
「はい」
「現場に来なくなっても?」
「はい」
「あたしがもっと忙しくなって、Pっちが全然知らない仕事とか増えても?」
「はい」
「──あたしが、アイドルじゃなくなっても?」
その問いだけ、少し声が小さかった。
俺は気づかれないよう、静かに息を吸い込んだ。
余計な言葉は、もういらない。
「はい」
短く答える。
清夏さんは、困ったように笑った。
「もう、担当とかプロデューサーとか関係ないじゃん」
「そうですね」
「じゃあ、あたしたちの関係ってどーなるの?」
「……わかりません」
正直に答えると、清夏さんは少しだけ驚いた顔をした。
「Pっちがわかんないとか言うの、珍し」
「適切な名称がありませんから」
「またそういう言い方する」
清夏さんは笑った。
今度は早くない。いつも通りの笑顔。
「じゃあ、あたしが決めていい?」
「はい」
「じゃあ……」
彼女は少し考えるように視線を上げた。
会場裏の白い照明が、オレンジの髪に淡く乗っている。
夕陽ではない。
ステージの照明でもない。
けれどその色は不思議と、あの日のレッスン室に似ていた。
「ずっといっしょの人」
清夏さんが小さく呟く。
ずっといっしょの人。成人してプロのアイドルになった彼女の口から出たその言葉は、どこか幼稚で、それでもなんとなく腑に落ちる感覚があった。
言ったあとで、自分でも恥ずかしくなったのか、みるみるうちに清夏さんの頬が赤く染まる。
「……やっぱ今のなし! ダサい、恥ず」
「いえ、それでいきましょう」
「なしって言ってるじゃん」
「いいと思います」
「よくない。忘れて!」
「無理ですね」
「うっざ!」
清夏さんはそう言って、俺の胸元を軽く拳で叩いた。
本当に軽い力だった。
怒っているわけではない。
照れているだけだとわかるくらいには、長く彼女を見ていた。
だから、その拳を受け止めることも、避けることもしなかった。
「Pっち」
「はい」
「ばいばい」
また、その言葉だった。
けれど、さっきとは少し違っていた。
震えも、強がりも、早すぎる笑顔もない。
清夏さんは、きちんと俺を見ていた。
「ばいばい、プロデューサー」
彼女はそう言って、小さく息を吐いた。
その一言で、ようやくわかった。
清夏さんは、俺との関係を終わらせようとしているのではない。
終わるものだけを、ちゃんと選んでいる。
あの日の約束をなかったことにするのではなく、今日の形に結び直そうとしている。
俺は彼女に、何度教えられれば気が済むのだろう。
「はい」
俺は頷いた。
「さようなら、プロデューサーの俺」
「なにそれ、自分で言うんだ」
「言わなければ、終われない気がしたので」
「……そっか」
清夏さんは笑った。
「明日から。あたしたち、どうなるの?」
彼女は少しだけ首を傾げる。
その仕草は、昔よりずっと大人びて見えた。
それでも、距離の詰め方だけは変わらない。
こちらが一歩引く前に、先に入ってくる。
「明日からも、必要なら呼んでください」
「必要じゃなかったら?」
「望むなら呼んでください」
「あたしが望まなかったら?」
「その時は、遠くから見ていますよ」
清夏さんは目を細めた。
「やっぱり、あたしのこと見てるんだ」
「はい」
「きも」
「すみません」
「嘘、ごめん。やっぱ、嬉しい」
清夏さんはそう言って、ようやく肩の力を抜いた。
遠くで、スタッフが清夏さんの名前を呼ぶ声がした。
次の予定があるのだろう。
彼女の時間は、もう彼女一人のものではない。
俺一人のものでもない。
清夏さんはその声に返事をしてから、もう一度こちらを見た。
「じゃ、行くね」
「はい」
「Pっち」
「なんでしょうか」
「ちゃんと、またねって言ってほしい」
これで最後。紫雲清夏の担当プロデューサーとしての肩書きは、もうなくなる。
いつもの調子で「清夏さん、また明日」と言うとして、直前で言葉を止めた。
最後に残すべきなのは、肩書きと紐づいた呼び方ではない気がした。
「またな、清夏」
清夏は一瞬目をぱちくりと瞬かせた後、満足そうに笑って大きく頷いた。
「うん。またね、Pっち」
そう言って、彼女は廊下の向こうへ歩いていく。
スタッフが彼女を迎える。
新しい担当者が、次の予定を確認する。
清夏はそれに頷きながら、いつもの明るい声で返事をした。
その姿はもう、俺の隣にいた頃の姿ではなかった。
彼女は一度だけ、静かに振り返った。
俺がまだ見ていることを確認するように。
あるいは、見ているとわかっていたことを確かめるように。
俺は小さく頷きを返すと、清夏もまた、満足そうに大きく頷いた。
後日俺は、引き継ぎ資料の最後に一行だけ追記した。
本人は、本当に大切なことほど軽い言葉で伝えることがある。
その時は言葉の軽さではなく、視線の向きと、笑うまでの間を見てください。
それは業務文書として適切ではないかもしれない。
けれど、新しい担当者には必要な情報だと思った。
その下に、もう一行だけ書き加える。
保存ボタンを押す。
ファイル名の末尾の日付は、もう期限には見えなかった。
ただ、終わった日付としてそこにあった。
ずっといっしょ。
彼女はそう言った。
昔の俺は、それを約束として扱わなかった。
今も、その言葉の正しい意味はわからない。
ただ、少なくとも。ずっといっしょでいるためには、終わらせなければならない関係もあるのだと思う。
プロデューサーとしての俺は、あの日、清夏に別れを告げた。
清夏も、俺に別れを告げた。
けれどそれは、俺たちにとって、関係を終わらせる言葉ではない。
彼女が振り返る。
俺が見ている。
その距離が変わっても、変わらないものはある。
書き加えた引き継ぎ資料を共有ドライブにアップしなおして、もう一度最初から目を通した。
末尾に踊る、感傷じみた俺の感想。
ずっといっしょに、いてあげること。
その言葉が誰から誰に向けた言葉なのか。その答えまでを引き継ぐ必要は、もうどこにもなかった。
お読みいただきありがとうございました
匿名投稿にしているので、最後に自我出して前作載せておきます。秦谷美鈴の話です。
お時間あれば一緒に読んでいただけると嬉しいです。
https://syosetu.org/novel/412019/