雪結(ユキネ)   作:旧作

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現実(リアル)熱狂編
プロローグ 幼き日の残像


 

 

 

 暗がりの中に、その世界はあった。

 

 

 

 遮光カーテンをこれでもかと厳重に閉め切った六畳間のリビング。昼間であるはずの外部の光を完全に遮絶したその空間は、まるで世界の底に沈んだ潜水艦のようだった。

 

 

 

 唯一、部屋の主として君臨していたのは、壁一面を覆うほどに巨大な、旧世代型の高精細プラズマモニターと、その傍らに鎮座する初期型VRマシンの無骨な筐体である。

 

 

 

 機械が吐き出す特有の熱気と、ファンが小さく唸る規則的な駆動音。そして、ディスプレイから奔流のように溢れ出す、暴力的なまでの色彩と光。

 

 

 網膜をチカチカと灼くような、エレクトリック・ピンク。

 

 空間を切り裂くように奔る、サイバー・ブルー。

 

 幾千もの紙吹雪のように舞い散る、クリスタル・ホワイト。

 

 その光の渦の中心に、一人の少年が座り込んでいた。

 

 

 

 白雪まつり。まだ、自分の名前の漢字すら正確に書けるか怪しいほどに幼い、小さな男の子だ。

 

 

 まつりは、フローリングの床に直接膝を突き、上体を限界までモニターへと近づけていた。液晶のバックライトが放つ強い光が、彼のまだ柔らかく色素の薄い瞳を、まるでおとぎ話の魔法のようにきらきらと輝かせている。

 

 

 

 画面の向こう側では、一人のアイドルが踊っていた。

 

 

 現実の人間にはおよそ不可能な、重力を無視したような超絶的なステップ。指先一つ、髪の毛の一本に至るまで、完璧な計算とプログラムによって制御され、同時にそこへ血の通った『パッション』が吹き込まれた、バーチャル世界の最高傑作。

 

 

 

 アイドルが歌うたびに、デジタルで構築されたスタジアムが、何万人、何十万人という観客の歓声によって物理的に揺れているように見えた。

 

 

 スピーカーから響く重低音が、まつりのまだ小さな胸の肋骨を、ドクドクと直接叩きつけてくる。

 

 

 

「凄い……っ!!」

 

 

 

 まつりは、言葉にならない歓声を喉の奥から絞り出した。

 

 

 拳をぎゅっと握り締め、あまりの興奮に短い足をせわしなくバタつかせる。

 

 あまりにも画面に近づきすぎているため、液晶の熱が顔に直接伝わってきているはずだったが、そんな肉体的な感覚など、今の彼の脳内からは完全に消え失せていた。

 

 

「凄い!! ダンスも歌もカッコいい!! 心が、こう、ワチャワチャする……っ!」

 

 

「ワチャワチャ」という、子供特有の拙い表現。

 

 

 しかし、それ以上に的確に、彼の胸の中で爆発している熱量を表す言葉はなかった。

 

 

 心臓が、ただ速く打っているのではない。

 

 

 まるで胸の中に、捉えどころのない極彩色の花火が何百発も同時に投げ込まれて、それが不規則に、けれど最高に美しく破裂し続けているような、そんな感覚。

 

 

 

 網膜に焼き付いて離れないその輝きは、幼いまつりにとって、人生で初めて遭遇した「世界のすべて」だった。

 

 

 そんな息子の様子を、少し離れたソファから、一人の女性が優しげな眼差しで見守っていた。

 

 

 まつりの母親である、白雪恵だ。

 

 

 当時の彼女はまだ三十代前半。

 

 

 結婚前にアパレル関係の会社でバリバリと働いていた名残を感じさせる、スマートでどこか洗練された雰囲気を残した女性だった。

 

 

 

 彼女は、膝の上に畳みかけの洗濯物を載せたまま、テレビ画面と、そこにしがみつくようにして動かない愛息の背中を交互に見て、ふっと破顔した。

 

 

「ふふ。まつりはホントにVRアイドルが好きね」

 

 

 恵の声は、スピーカーから流れる大音量の電子音に消されそうになりながらも、不思議とまつりの耳にまっすぐ届いた。

 

 

 まつりはモニターから一瞬たりとも目を離さないまま、けれど弾かれたように何度も首を縦に振った。その小さな背中からは、言葉以上の肯定のエネルギーが満ち溢れている。

 

 

「うん!!」

 

 

 まつりは叫ぶように答えた。

 

 画面の中のアイドルが、最高のクライマックスを迎えた楽曲のラストで、カメラに向かって完璧なウィンクを投げかける。

 

 

 その瞬間、スタジアムを埋め尽くした無数のサイリウムの光が、まるで夜空の星々が一斉に流星となって降り注ぐかのように激しく波打った。

 

 

 その光景に完全に心を奪われ、魂まで仮想世界へと持っていかれた少年は、胸の奥底に大切に眠っていた、けれど誰にも言えなかった「一番の秘密」を、衝動のままに口にしていた。

 

 

 

「うん。僕、絶対にVRアイドルで有名になりたいんだ」

 

 

 

 それは、まだ「男の子」だとか「女の子」だとか、現実の性別や年齢、あるいは自分の容姿がどうだとか、要領が良いか悪いかといった、人間を縛り付けるあらゆる「限界」を知る前の、純粋無垢な魂の叫びだった。

 

 

 何もない自分。不器用で、ドジで、いつも何もない空間で転んでしまうような、何一つ突出したところのない自分だけど。

 

 

 あの画面の向こう側の、すべてが光で構成された美しい世界になら。

 

 

 あの、誰もが自分の名前を呼んで、自分だけを見てくれる、そんな「誰かにとってのオンリーワン」の場所になら、自分も行けるのではないか。

 

 

 いや、行きたい。行って、あの光の一部になりたい。

 

 

 子供の、あまりにも無謀で、けれどそれゆえに何よりも硬質な、絶対の夢。

 

 

 普通の母親であれば、「アイドルだなんて」とか、「そんな夢みたいなこと言ってないで宿題しなさい」と、笑ってあしらうか、現実的な説教で遮ってしまう場面だったかもしれない。

 だが、白雪家は少し違っていた。

 

 

 

 カチャリ、と玄関の鍵が回る音が、大音量のカオスの中に静かに混ざり込んだ。

 

 

「ただいま」という、少し疲れてはいるけれど、どこか温かみのある低い声。

 

 

 仕事用の安っぽいスーツの上着を肩に引っかけ、ネクタイを少し緩めた男が、リビングのドアから顔を覗かせた。まつりの父親である、白雪暦だ。

 

 

 暦は、暗い部屋の中で電子の光に照らされている妻と息子の姿を見て、苦笑しながらも、その表情をすぐに父親のそれに和らげた。彼はカバンを床に置くと、まだ幼いまつりの頭に、大きな、少しゴツゴツとした手のひらをぽんと載せた。

 

 

「父さんも応援するぞ」

 

 

 暦は、まつりの目線に合わせて少し腰を落とし、優しく、けれど確かな重みを持ってそう言った。

 

 

 彼は技術的なことや、バーチャルの最先端なんていう難しいことはよく分かっていなかった。毎日、ただ家族を養うために泥臭く会社へ行き、頭を下げ、夜遅くに帰ってくる、典型的な真面目一徹のサラリーマンだ。

 

 

 

 けれど、息子がこれほどまでに目を輝かせ、自分の意志で「こうなりたい」と言った夢を、頭ごなしに否定するような狭量な男ではなかった。

 

 

 

 むしろ、自分が現実の荒波の中で擦り切れているからこそ、息子には、自分の信じた綺麗な世界で、思いきり羽ばたいてほしいと願っていたのかもしれない。

 

 

 頭の上に載せられた父親の手のひらは、とても温かかった。

 

 

「うん、ありがとう、お父さん!」

 

 

 まつりは満面の笑みを浮かべ、今度はしっかりと父親の目を見て頷いた。

 

 

 傍らでは、母親の恵が「もう、お父さんまで調子いいこと言って。でも、やるからには衣装のセンスは私が一から叩き込んであげるからね!」と、早くもズレた方向のやる気を燃やして笑っている。

 

 

 温かい家族。

 

 

 遮断された暗闇の中で、けれど世界で一番眩しく輝いていた、電子の光。

 

 

「有名になりたい」というよりは、「誰かの特別になりたい」と切に願った、あの純粋な初期衝動。

 

 

 誰もが自分の未来を疑わず、ただ目の前の美しい熱狂だけを信じていられた、幸福な時間。

 

 

 それが、白雪まつりという少年の、すべての始まりの風景──。

 

 





 アイドル物を少ししか、知らない、見たことがない作者がアイドル物を描いたらどうなるのか?という実験作です。

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