雪結(ユキネ)   作:旧作

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第九話 爆弾発言と「最初の4枚」

 

 

 

 五月の朝の凍てつくようなビル風が吹き抜けていた赤レンガの広場は、太陽がその位置をじわじわと天頂へ移すにつれて、少しずつ、本当に少しずつではあるが、生温かい春の熱気へと変貌を遂げつつあった。

 

 

 

 

 しかし、コンクリートの照り返しと、密集した人間の体温が混ざり合う空間は、寒さが和らいだ代わりに、今度はじっとりとした不快な停滞感と、極限の疲労感に包まれ始めていた。

 

 

 

 

 長蛇の列は、亀の歩みよりも遅いテンポで、数分に一度、忘れた頃に数歩だけ前進する。その度に、周囲の若者たちからは「やっとかよ……」という、地を這うような溜息が漏れていた。

 

 

 

 

 

 そんな地獄のような待ち時間の中、白雪家の二人の間には、周囲の殺伐とした空気とは全く異なる、奇妙にクリエイティブで、そしてどこか牧歌的な時間が流れていた。

 

 

 

 画面の中の公式マスコットであるドルクトが、重複するコンボの破壊的なパワーを語り終え、スマートフォンが暗転した後のことだ。あまりの進みの遅さに、母・恵はついに手持ち無沙汰の限界を迎えていた。

 

 

 

 

「ねえ、まつり。ちょっとそのままじっとしててね。動くと全体のバランスが崩れちゃうから」

 

 

 

 

 恵の細く洗練された指先が、突如としてまつりの少し柔らかい後ろ髪へと滑り込んできた。

 

 

 

「う、うん……。でもお母さん、本当にこれ、並んでいる最中にやらなきゃダメなの……?」

 

 

 

「当たり前じゃない。これだけ退屈で、()()()()()()()なんだもの。それにね、まつり。あなたのその長い髪、素材は凄く良いのに、いつもボサボサに顔を隠すように伸ばしっぱなしで、本当にもったいないわ。アパレル人間の息子として、このスタイリングの乱れは放置できないの。ほら、顎をもう少し引いて」

 

 

 

 

「あ、はい……あと、それを言うなら()()()()じゃなくて、()()()()()()ね」

 

 

 

 まつりは白のカーディガンの袖に手を引っ込めたまま、借りてきた猫のように小さくなって、恵のなすがままになりながら冷静にツッコミを入れた。

 

 

 

 母親のこういう、大真面目な顔をして絶妙に言葉を言い間違える天然な悪癖には、物心ついた頃から付き合わされている。

 

 

 

 しかし、恵は息子の訂正など耳に入っていない様子で、「はいはい、むさた、むさたね」と適当に流しながら、実に楽しそうにまつりの後ろ髪をまとめ上げていった。

 

 

 

 

 恵の指先の手際は、流石にプロのそれだった。

 

 

 ボサボサだった後ろ髪を丁寧に梳かし、うなじの少し上の位置で、あえてきっちりと結ばずに、計算された緩さを持たせて左側のサイドへと流していく。

 

 

 

 毛束を優しく崩し、意図的な「抜け感」を作り出すその動きには、一切の迷いがない。

 

 

 

「よし、後ろはこれで完璧ね。綺麗な()()()()()()()()()の完成!」

 

 

 

「お、()()()()()()()()()……? 男なのに……?」

 

 

 

 まつりは、自分の首筋の左側にさらりと垂れ下がってきた髪の重みに、戸惑いを隠せなかった。

 

 

 

 

 思わず手で触れてみると、確かに自分の髪が、信じられないほど柔らかい質感で左肩の前へと流されている。

 

 

 

 

 

「今時、メンズのヘアスタイルにルーズサイドテールを組み込むなんて珍しくもないわよ。モードのランウェイを観てみなさい。全体をタイトにまとめずに、あえてルーズにサイドへ逃がすことで、ジェンダーレスな退廃美とアンニュイな雰囲気が生まれるんだから」

 

 

 

 

 恵は満足げに自分の作品を眺めているが、まつりの心境は複雑極まりなかった。

 

 

 

 ルーズサイドテール。

 

 

 それは、まつりが密かに嗜んでいるアニメやマンガの世界において、ある特定の属性を持つキャラクターたちに多用される髪型だった。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()……)

 

 

 

 あるいは、どこか包容力のある、優しくて儚げな大人の女性が結うための髪型ではないか。

 

 

 

 それを、一応は男子高校生である自分が、このオタクたちの密集地帯で施されているという事実に、まつりは猛烈な恥ずかしさを覚えた。

 

 

 

 しかし、恵のスタイリングはそれだけで終わらなかった。

 

 

 

「後ろがすっきりしてアンニュイなニュアンスが出たなら、次はその重苦しい前髪ね。これじゃああなたの綺麗な顔が半分も見えないじゃない。ほら、おでこ出しなさい」

 

 

 

 恵はトレンチコートのポケットの奥底を探り、カチリと金属の音を立てて、彼女が普段から愛用しているシルバーのスタイリッシュなクロス。十字モチーフのヘアピンを取り出した。

 

 

 

「お母さん、それって……あ、待って、お母さん、ち、近いです……っ!」

 

 

 

 再び、二人の顔がゼロ距離にまで接近する。学校の教室では机の上の消しゴムが落ちただけでパニックになるほどのコミュ症であるまつりにとって、この至近距離は心臓に悪すぎた。

 

 

 

 恵はまつりの前髪を優しく指先で持ち上げると、おでこがあらわになったその絶妙な位置に、クロスヘアピンをパチンと小気味よい音を立てて留めた。

 

 

 

 

 恵の指先から伝わる微かな体温と、至近距離で揺れる彼女のハニーベージュのトレンチコートの質感。

 

 

 

 そして、先ほどからずっと二人を包み込んでいる、あの柑橘系の上品な香水が、まつりの脳を軽く痺れさせる。顔を真っ赤に染め上げながら硬直するしかなかった。

 

 

 

 こうして、数時間の忍耐と待ち時間の末に完成したのは、後ろ髪を綺麗なルーズサイドテールにされ、前髪をシルバーのクロスヘアピンで上品にアップにした、どこか中性的でミステリアスな少年・白雪まつりだった。

 

 

 

 いつもなら前髪で隠れているはずの、白雪姫と揶揄されているが、美しくはない顔立ちのパーツが、今は妙に凛とした説得力を持って露出している。

 

 

 

 

「うん! 素晴らしいわ! 格段に顔の輪郭が引き締まって、ルーズな後ろ髪との対比で全体のシルエットに洗練された『エッジ』が効いたわね!」

 

 

 

「……もう、どうにでもして……」

 

 

 

 まつりは恥ずかしさのあまり、カーディガンの襟元に顔を埋めようとしたが、前髪が留められているせいでそれすらも上手くいかなかった。

 

 

 

 しかし、そんな親子のアパレルごっこも、突如として終わりを迎える。

 

 

 

 

 前方の群衆がドッと大きく雪崩を打つように動き、ホールの入り口に設置された特設テントの白い天幕が、すぐ目の前に迫ってきたのだ。

 

 

 

 

 長蛇の列の終着点。そこには、大量のダンボール箱に囲まれ、半ば発狂しかけた表情でレジを打ち続けるスタッフたちの姿があった。段ボールの中に入っているのは、彼らが数時間並んでまで追い求めた、あのアイテム。

 

 

 

 

『アイコネ・チップス』、あるいは『アイコネ・エアインウェハース』。

 

 

 

 

 どちらも一袋、一個「150円」の、どこにでもあるようなお菓子。

 

 

 

 しかし、その内部には、電子の世界の最強の鎧となる「コーデカード」が封入されている、運命の引き金だ。

 

 

 

 

 ようやく自分たちの番が回ってくる。レジの金属音がカチカチと響き、前の若者が大量のチップスを抱えて去っていく。

 

 

 

 その、まさにレジ前へと足を踏み入れた瞬間だった。

 

 

 

 それまで、まつりの髪をルーズサイドテールに弄りながらも、動画の内容について深い思考の海に沈んでいた恵が、ふっと足を止めた。

 

 

 

 彼女のトレンチコートの裾が静かに揺れ、その美しい瞳が、特設ステージに飾られた『アイコネ』の巨大なロゴマークを真っ直ぐに見つめる。

 

 

 

 

 そして、何かを完全に決意した恵が、世界をひっくり返すような大爆弾を、極めて静かに、けれど絶対の確信を込めて落とした。

 

 

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 その言葉が、まつりの鼓膜に届いた瞬間。

 

 

 

「……お母さんっっ!!??? 

 

 

 白雪まつりは、生まれて初めてではないかと思うほどの、現実の世界における最大級の絶叫を炸裂させた。

 

 

 

 あまりの声量に、周囲の疲弊しきったオタクたちや、メガホンを持ったスタッフが一斉にビクッと身体を震わせ、白雪親子の方へと視線を向けた。

 

 

 

 しかし、まつりはそんな周囲の目など気にする余裕すらもなかった。長い前髪をヘアピンで留められ、おでこがあらわになったその顔から、大量の冷や汗が流れるのを感じる。

 

 

 

「な、何言ってるの!? お母さん、冗談でしょ!? これ、フルダイブ型の最新VRアイドルゲームだよ!? お母さん、今日までアイコネの『ア』の字も知らなかったし、ゲームなんてスマホのパズルゲームくらいしかやったことないじゃないか!」

 

 

 

 

 冗談だ。退屈な待ち時間の末に、お母さんが得意のノリで放った、タチの悪いジョークに違いない。

 

 

 

 

 まつりは必死に自分にそう言い聞かせ、笑い飛ばそうとした。しかし、隣に立つ白雪恵の目は、断じて冗談を言っている人間のそれではなかった。

 

 

 

 

 それは、彼女がアパレル会社で誰も思いつかないような新しいブランドの立ち上げを宣言した時の、あるいは、目の前のマネキンのコーディネートが完璧に決まった瞬間と同じ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 

 

 

 

「冗談なんかじゃないわよ、まつり。お母さんはいつだって本気よ」

 

 

 

 恵はトレンチコートのポケットに両手を深く差し込んだまま、フッと不敵な、けれど最高に魅力的な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

「さっきの公式動画を見て、完全に確信したわ。あのゲームは、ただの子供騙しの遊びなんかじゃない。現実のファッション業界の美学が、バーチャルという新しいキャンバスを見つけて、本気で市場を開拓しに来た最前線の戦場よ。同系統、同ブランド、そしてあの、3つのボーナスがすべてスタック。『重複』するっていう狂ったルール。……あんなものを見せられて、アパレル人間としての私の血が、黙っていられるわけがないじゃない?」

 

 

 

 

 恵の言葉には、不思議なほどの質量と、有無を言わせぬ説得力が宿っていた。

 

 

 

 彼女の脳内ではすでに、先ほどのコンボの計算式が美しく組み上がり、まだ見ぬ電子のステージで、自分の息子をどのようにプロデュースし、どのような衣装で世界のトレンドをハックしていくかという、壮大なロードマップが爆発的に描き出されていたのだ。

 

 

 

 

 数日後、彼女が長年勤め上げた大切なパート先を、ズレた生真面目さで完璧に引き継ぎを終わらせて突如退職し、息子と共にバーチャル世界へフルダイブする──そんな、周囲の誰もが正気を疑うような大暴走へと繋がる絶対の導火線に、今、完全に、迅速な轟音と共に火が点いた瞬間だった。

 

 

 

 

「で、でも……っ!」

 

 

 

 まつりは、母親のその計り知れない行動力と破天荒さに圧倒されながらも、どうにか現実のルールに引き戻そうと、慌てて声を張り上げて釘を刺した。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()()() 並び直すこともできないんだから、大人買いしてスタートダッシュなんて絶対に無理だからね!」

 

 

 

 そうなのだ。今日の特設会場は、あまりの群衆の多さに、スタッフが悲鳴を上げながら「おひとり様、各商品お一つずつ!」と連呼していた。

 

 

 

 

 どんなに金を持っていようが、どんなに情熱があろうが、現時点のルールでは、一人につきチップス一袋、ウェハース一個しか手に入らない。

 

 

 

 

「ふふ、分かっているわよ、まつり。お母さんをそこらのルール破りの暴徒と一緒にしないで頂戴。衣服を愛する者は、いつだってその場所の『ドレスコード』に従うのがマナーよ」

 

 

 

 

 恵は涼しい顔で微笑むと、優雅な足取りでついにレジの目の前へと進み出した。

 

 

 

「いらっしゃいませ……! チップスとウェハース、お一つずつでよろしいですか……っ!?」

 

 

 

 目の下の隈を激しくしたスタッフが、機械的に声を張り上げる。

 

 

 

 恵は財布から流れるような動作で千円札を取り出し、トレンチコートの袖を少し引き上げながら、確固たる声で告げた。

 

 

 

「ええ。この子の分と合わせて、チップスを二袋、エアインウェハースを二個。合計四つ、頂戴」

 

 

 

「ありがとうございます! チップス二袋、ウェハース二個で、合計『600円』になります!」

 

 

 

 カチン、カチン、カシャーン。

 

 

 

 レジスターが小気味よい音を立てて開き、お釣りの400円が恵の手元へと渡る。

 

 

 それと同時に、ビニール袋に詰められた、たった二袋のポテトチップスと、二個の小さなエアインウェハースが、まつりと恵の手に手渡された。

 

 

 ルールを破ることなく、二人が購入できた最大数の戦利品。

 

 

 

 

 数時間の過酷な忍耐の対価として手に入れたのは、合計600円の、あまりにも軽くて小さなお菓子の袋。

 

 

 

 しかし、そのおまけの袋の中には、これから二人の運命を、そして世界のトレンドを根底から揺るがすことになる、たった4枚のコーデカードが静かに眠っていた。

 

 

 

「さあ、手に入れたわね、まつり」

 

 

 

 テントの外に出て、五月の柔らかな日差しを浴びながら、恵は手の中のビニール袋を投資信託の証明書のように大事そうに抱え、悪戯っぽく微笑んだ。

 

 

 

 

 後ろ髪を綺麗なルーズサイドテールにされ、前髪をクロスヘアピンで留められたまつりは、自分の手の中にある150円のお菓子の重みをじっと噛み締めながら、ようやく深く息を吐き出した。

 学校では誰とも喋れない、最前列の隅っこで縮こまっている、ただの不器用な少年『まつり』。

 

 

 

「私も、始めようかしら」と大マジな目で宣言し、すでに2台のダイブギアを購入する算段を立て始めている、あまりにも破天荒で美しく、型破りな母親『恵』。

 

 

 

 資本も、権力も、人脈もない。手元にあるのは、たった4枚の、何が出るかも分からないランダムのカードだけ。

 

 

 

 けれど、この瞬間の白雪親子の瞳には、周囲の誰よりも熱く、そして誰よりも鋭い、新世界への野心が確かに宿っていた。

 

 

「……うん。行こう、お母さん。僕たちの、アイコネへ」

 

 

 

 冷たい朝の空気は完全に消え去り、広場には新しい季節の始まりを告げる、目も眩むような光が降り注いでいた。

 

 

 不器用な少年が『ラビ』という名のアバターを纏い、破天荒な母が『ミルキー』としてその背中を支え、バーチャルアイドルの頂点へと駆け上がるための果てしなき挑戦の幕が、今、静かに、けれど厳かに切り開かれた。

 

 

 

 

 






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