雪結(ユキネ)   作:旧作

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第十話 手洗いうがいと「無欲の勝利」(帰宅・開封)

 

 

 

 

 隣町でのあの、暴動の一歩手前とすら思える凄まじい長蛇の列に何時間も揉まれ続けた大移動は、白雪まつりの貧弱な体力と精神力を完全に消し飛ばすに十分な破壊力を持っていた。

 

 

 

 ターミナル駅から満員電車に揺られ、地元のアパートへと続くいつもの見慣れた坂道を登りきった頃には、五月の爽やかなはずの風も、じわじわと強くなる日差しを孕んで、ただただ体力を削り取っていくだけの不快な熱気へと変貌を遂げつつあった。

 

 

 

 

 アパートの共有階段を登り、ようやく辿り着いた古びたアルミ製の玄関ドアの前で、まつりは小さく息を吐きながら、手に持っていた折りたたみ式の日傘をパチンと音を立てて閉じた。

 

 

 

「ふう……! やっぱり我が家へと続くこの空気感が一番落ち着くわね! あの人混みは流石の私もちょっとしたサバイバルを覚悟したけれど、その分、戦利品の価値が跳ね上がるというものよ!」

 

 

 

 

 一方で、まつりのすぐ後ろから滑り込んできた母親の恵は、驚くほどに元気そのものだった。

 

 

 

 まつりは日傘の骨を一本ずつ折りたたみ、軽く払いながら、つい数十分前の駅からの帰り道の光景を思い出して、未だに顔の火照りが引かないのを感じていた。

 

 

 

 あの炎天下の帰り道、あまりの退屈さと、まつりのボサボサに伸びきった後ろ髪の素材の良さに目を付けた恵は、あろうことかストリートの真ん中で「ちょっとスタイリングさせて頂戴!」と暴走を始めたのだ。

 

 

 

 当然、直射日光を遮るためにまつりが差していた日傘の中に、恵は躊躇なく潜り込んできた。

 

 

 

『お母さん。髪を結ぶためとはいえ、一緒の日傘に入るのは……いくらなんでも距離が近すぎるよ……!』

 

 

 

 

『何を言っているのよ、日焼けはアパレル人間の大敵よ? それに、このハニーベージュのトレンチコートの色彩に対して、あなたの純白のカーディガンが同じ傘の下で並ぶことによる視覚的調和。ハーモニーを考えなさい。ほら、顎を少し引いて、じっとしててね』

 

 

 

 

 密着した肩から伝わる恵の上品な柑橘系の香水の香りと、至近距離で手際よく後ろ髪をまとめ上げていく彼女の細い指先の感触。

 

 

 

 

 コミュ症のまつりにとっては心臓が止まるかと思うほどの公開処刑だったが、その結果、現在のまつりの後ろ髪は、恵の卓越した技術によって、男児のものとは思えないほどに完成度の高い、美しくアンニュイな『ルーズサイドテール』へと結び上げられていた。

 

 

 

 ガチャリ、と鍵を開けて実家の狭い玄関口に一歩足を踏み入れる。

 

 

 まつりは日傘を傘立てに納めると、まずは両腕をきっちりと覆っていた黒いUVカットのアームカバーを、じわりと滲んだ汗の不快感から解放されるようにゆっくりと外した。

 

 

 

 

 肌が露出した腕に、実家のひんやりとした空気が触れて心地よい。

 

 

 

「お母さん。家に入ったんだから、お母さんもその大袈裟な帽子とサングラス、早く外してよ」

 

 

 

 まつりが振り返りながら促すと、恵は「そうね、室内でのドレスコードに切り替えなくちゃ」と言って、顔の半分を覆っていた大きな女優帽と、漆黒のデザイナーズサングラスをスマートに外した。

 

 

 

 現れたのは、何時間も外にいたとは思えないほど涼しげで洗練された、相変わらず端正な美貌だった。

 

 

 

 

 恵はそのまま流れるようなプロの所作でハニーベージュのトレンチコートを脱ぎ、玄関脇のコート掛けのハンガーへと綺麗に掛けた。

 

 

 

 しかし、その後の彼女の行動は、洗練されたアパレル人間としての佇まいからは程遠い、まるでクリスマスプレゼントを待ちきれない子供そのものの暴走だった。

 

 

 

 恵は廊下を大股で突き進み、ダイニングテーブルの上にこれ見よがしにビニール袋を置いた。

 

 

 そして、まるで長年追い求めていた幻のヴィンテージドレスを目の前にしたコレクターのように、その端正な顔立ちを期待に歪ませながら、袋の口へと細く洗練された指先を伸ばしたのだ。

 

 

 

 

「では、早速……! この運命の果実を開封してみようじゃないの……!」

 

 

 

 じりじりとした熱を帯びた恵の手が、プラスチックの包装袋を破り捨てようと、まさにその瞬間に達した時。

 

 

 

「──お母さん」

 

 

 

 リビングの入り口で、白のカーディガンの袖を律儀に捲り上げながら、まつりが低く、けれど極めて生真面目な、一種の冷徹さすら含んだ声を響かせた。

 

 

 

 後ろ髪はまだ恵によって編み込まれた綺麗なルーズサイドテールのままであり、前髪も彼女の持ち物だったシルバーのクロスヘアピンで上品にアップにされたままである。

 

 

 

 そのため、いつもなら前髪で隠れているはずの、白雪姫と揶揄されてはいるが、美しいとは言えない。

 

 

 

 何とも言えない顔立ちのパーツが、今は妙に凛とした説得力を持って母親を射すくめていた。

 

 

 

 

「ブー! 何よ、まつり。今、お母さんは人生の重大な分岐点に立っているのだけど?」

 

 

 

 恵が不満げに両頬を信じられないほど大きく膨らませ、袋の口を掴んだまま、あからさまな不満の意図を込めて動きを止める。

 

 

 

 

 効果音を自分で口にするあたり、完全に子供の駄駄っ子と同じである。

 

 

 

「お母さん。その前に、帰ってきたら、手洗いとうがい。ちゃんとしようね。外には目に見えないウイルスとか雑菌がたくさんいるんだから。特にあの人混みの中に何時間もいたんだよ? お母さん、いつも僕に『健康管理もスタイルのうち』って言ってるじゃないか」

 

 

 

 

 まつりは、まるで学校の風紀委員か保健委員であるかのような、寸分の狂いもない正論を突きつけた。

 

 

 

 

 彼は重度のコミュ症であり、外では一切自己主張ができない少年だが、家庭内におけるこういう「生活の基本ルール」や「生真面目な防衛策」に関しては、ズレた実直さを発揮して母親を制することが多々あった。

 

 

 

 

 恵は、息子のそのあまりにも隙のない正論の刃を前にして、一瞬だけあからさまに視線を泳がせ、掴んでいた袋の口から、おずおずと指先を離した。

 

 

 

「わ、わかってるわよ……。手洗いうがいでしょ。ちゃんと言われなくたってやるわよ。ちょっと、その……袋のナイロンの質感を、アパレル人間の触覚として確かめていただけなんだから」

 

 

 

 恵は子供のように唇を尖らせながら、不自然なほど大袈裟な足取りで洗面所へと向かっていった。

 

 

 

 その後ろ姿を見送りながら、まつりは、前髪が上がってよく見えるようになった額を指先で軽く掻き、小さく深い溜息を吐き出した。

 

 

 

(いや。絶対、そのまま手も洗わずに開ける気だったよね、これ……袋ナイロンやないし、バリバリのプラスチックやし、それに口でブーって、言ってもうてますやん……)

 

 

 

 心の中で何処ぞの日曜日のお祭り男風なツッコミを入れつつも、まつり自身も洗面所へと向かい、母親と並んで丁寧に泡で手を洗い、ガラガラとうがいを済ませた。

 

 

 鏡の中に映る、ルーズサイドテールにヘアピンを留めた自分の奇妙な姿に、改めて現実の気恥ずかしさを覚えながらも、二人は再びダイニングテーブルの前へと戻ってきた。

 

 

 さあ、今度こそ本当の、本当の「最初の瞬間」だ。

 

 

 

 テーブルの上には、二袋の『アイコネ・チップス』と、二個の『アイコネ・エアインウェハース』が、静かに並んでいる。

 

 

 

 一袋、一個、わずか150円のお菓子。

 

 

 

 しかし、この中に秘められたプラスチックの四片が、彼らのこれからの日常を跡形もなく破壊し、電子の熱狂へと誘うトリガーになる。

 

 

 

 

「いい、まつり。まずはこの『エアインウェハース』からいくわよ。アパレルにおいて、小物は全体のコーディネートの骨組みを決定づける重要な要素。このウェハースの長方形の形状には、何かしらのクリエイティブな引きが宿っている気がするの」

 

 

 

 

 恵は独自のオカルトじみた理論を展開しながら、ついに、丁寧に手を洗ったばかりの指先で、ウェハースのパッケージの端をピリピリと慎重に裂いていった。

 

 

 

 

 袋が開いた瞬間、香ばしいウエハースのチョコの甘い香りが、白雪家のリビングにふわリと広がった。

 

 

 

 

 恵は、中に指を差し入れ、お菓子本体の裏側にピタリと張り付いていた、透明な保護フィルムで包まれたプラスチック製のカードを、そっと引き抜いた。

 

 

 

 

 

 その瞬間。カードの表面に施された、特殊なホログラム加工が、室内の蛍光灯の光を反射して、ギラリと眩いメタリックの輝きを放った。    

 

 

 

「──やったわっっっ!!!!!!!!」

 

 

 

 

 白雪家の狭いリビングの空気が、恵の雷鳴のような大歓声によって物理的に震えた。

 

 

 

 

 彼女はダイニングチェアーから勢いよく立ち上がり、手に入れたそのカードを、まるでオリンピックの金メダルでも掲げるかのように、まつりの目の前へと突き出してきた。

 

 

 

 

 

「見て! 見なさいまつり! お母さんのこの、圧倒的な『引き』を! s()i()x()t()h() ()s()e()n()s()e()を! 無欲の勝利とはまさにこのことよ!」

 

 

 

 

「うわっ、びっくりした……! シックスセンスだけもの凄いネイティブな発音してた……! それにお母さんのどこが無欲なの……! 最初からギラギラしてたじゃないか……! な、何が出たの……?」

 

 

 

 

 まつりは、母親のあまりのテンションの爆発振りと、突然飛び出した「シックス・センス」の本場仕込みの美しい発音に仰け反りながらも、ツッコミを入れずにはいられなかった。

 

 

 

 

 しかし、差し出されたカードの表面へと視線を走らせた瞬間、そのツッコミの言葉すらも喉の奥で氷結した。

 

 

 

 

 そこには、深みのある漆黒の背景に、銀色に美しく輝く、あの誰もが知る最高峰モードブランドの紋章が、誇らしげに刻印されていたのだ。

 

 

 

 

 

 細麗なカッティングで描かれた、夜の闇を体現したかのような美しいチェーンネックレスと、イヤーカフのグラフィック。そして、その隅にはっきりと印字されている、あの文字──。

 

 

 

 

「嘘……これ、ただのR(レア)じゃない……。お母さん、これ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だよ……!?」

 

 

 

 

 まつりの口から、驚愕の掠れた声が漏れた。   

 

 

 

 

 ゲームのサービス開始前、しかも一個わずか150円のおまけのカードから、あの伝統と格式を誇る最高級ブランドのアイテムが、本当にストレートに飛び出してきたのだ。

 

 

 

「そうなのよ! ただのブランドカードじゃないわ! これ、シャドー・ペトリが現実の世界で、まさに今季のコレクションの目玉として発表したばかりの、限定シルバーアクセサリーラインの完全デジタルコンバート版じゃないの! あのデザイナーが、現実の布地と貴金属の限界に挑むために作った、あの伝説のイヤーカフ……! それが、まさかこんな、チョコウェハースのおまけから出てくるなんて……!」

 

 

 

 

 恵はカードをマジマジと見つめながら、まるで少女のように瞳をキラキラと輝かせ、狂喜乱舞していた。

 

 

 彼女にとってこれは、単なるゲームの「強いデータ」が当たったという話ではない。

 

 

 

 

 自分が現実の世界で焦がれ、尊敬し、その美学に平伏してきた最高峰のデザインが、自分の手の中に、完璧なデジタルカードという形で顕現したという、アパレル人間としての絶対的なカタルシスだった。

 

 

 

 

「凄い……凄いよ、お母さん。ゲームのガチャとかカードパックって、普通はこういう目玉のブランドアイテムなんて、何十回、何百回って買わないと出ないように設定されているはずなのに……。一発目でこれを引くなんて、本当に凄いよ」

 

 

 

 

 まつりは、自分のことのように胸を熱くしながら、素直な称賛の言葉を母親に送った。

 

 

 それと同時に、彼の脳内には、ネットの掲示板やゲームのまとめサイトでよく見かける、ある一つの有名なネットスラングが思い浮かんでいた。

 

 

 

 

「……ねぇ、お母さん。ゲームの世界にはね、欲しいと思っている人の元にはカードが出なくて、何も考えていない人の元にばかり良いカードが出るっていう、()()()()()()()()っていうオカルト現象があるんだよ。お母さんには、そのセンサーが全く感知しなかったのかな? ……あ、でも、さっきも言ったけどお母さん全然無欲じゃなかったから、もしかしてその物欲センサー自体を、お母さんのアパレルへの執念が力技で破壊しちゃったのかもね……」

 

 

 

 

「物欲センサー? 何よそれ、面白い概念ね。でも、センサーなんて私の前では無力よ!」

 

 

 

 恵はカードの表面のホログラムの輝きを何度も角度を変えて確かめながら、フフンと鼻を鳴らした。

 

 

 

「お母さんの欲は『ゲームで勝ちたい』っていう狭い欲じゃなくて、この世界の『本物の美学に触れたい』っていう、もっと高尚で、ディープな欲だったの。だから、カードの方が私のその熱いアパレル魂に共鳴して、自ら引き寄せられてきたのよ。──さあ、お母さんは最高のスタートを切ったわ! 次はあなたの番よ、まつり。あなたのその、ルーズサイドテールを揺らす真っ白なウエハースの中には、一体どんな『可能性』が眠っているのかしら?」

 

 

 

 

 恵は、トレンチコートを脱ぎ去ったアクティブな姿のまま、ダイニングテーブルの上に残された、まつりの分のウェハースを細い指先でパッと指し示した。

 

 

 

 

「……うん。僕も、開けるね」

 

 

 

 まつりは少し緊張した面持ちで、コクンと唾を飲み込んだ。母親がこれほどの「神引き」を見せてしまった後だ。

 

 

(……無地Tシャツとかだったら、どうしょ?)

 

 

 自分のカードが、ブランドのロゴすら入っていない、何の特徴もない最低レアリティのコモンだったらどうしようという、特有のプレッシャーが彼の小さな胸を締め付ける。

 

 

 

 けれど、彼は手を伸ばした。

 

 

 

 自分の髪を優しくサイドテールにまとめてくれた母親の指先の残香と、ヘアピンで上げられた額に感じる室内の温度を意識しながら、まつりは自分のウェハースのパッケージへと、静かに、けれど確かな期待を込めて指をかけた。

 

 

 ピリ、とプラスチックの袋が裂ける音が、静かなリビングに響き渡った。

 

 

 







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