雪結(ユキネ)   作:旧作

12 / 14
第十一話 内気なバニーの優しさと母の心

 

 

 

 香ばしいココアウェハースの香りが漂うダイニングテーブルの上で、白雪まつりの指先は、まるで壊れやすい硝子の細工にでも触れるかのように微かに震えていた。

 

 

 

 

 先にパッケージを開封した母・恵が、現実の最高峰モードメゾンである『シャドー・ペトリ』のレア(R)アクセサリカードを引き当て、リビングの古びた天井を突き破らんばかりの歓声をあげたその直後である。

 

 

 

 室内を満たす強烈な興奮の余熱が、まつりの手のひらにある未開封の『アイコネ・エアインウェハース』の袋へと伝わり、プラスチックの薄い包装が体温で僅かに生温かく温められていくのを感じる。

 

 

 

 

 まつりは、自分の左肩のあたりに漂う、どこか落ち着かない「軽さ」と「異物感」に、そっと意識を向けた。

 

 

 

 あの地獄のような行列の最中、あまりの待ち時間の長さに退屈しきった恵が、「スタイリングの乱れは放置できない」と息巻いて、まつりの長い後ろ髪を強引にアレンジしたのだ。

 

 

 そのとき、恵がトレンチコートのポケットの奥底からガサゴソと取り出したのは、一本のクロスヘアピンだけではなかった。

 

 

 

(ギャルとかが、手首に付けていそうなシュシュだ……)

 

 

 

 まつりは、自分の左肩のあたりでふんわりと結ばれている、淡いパステルピンクのフリルがついたボリュームのあるシュシュの感触を確かめ、心の中でそう呟いた。

 

 

 

 実際のところ、まつりは『ギャル』という生き物のことをよく知らない。

 

 

 学校の教室の一番華やかな中心地で、大声で笑い合いながら最新のコスメやスクールバッグのデコレーション、あるいは週末のイベントについて賑やかに語り合っている彼女たちは、まつりにとって別の惑星の住人も同然だった。

 

 

 

 そんな世界の住人が愛用していそうな色彩が、今、自分の髪をまとめているという事実は、彼を内側からじわじわと気恥ずかしさで満たしていく。

 

 

 

 今のまつりの髪型は、後ろ髪を片側に寄せてラフに結い上げた『ルーズサイドテール』になっていた。

 

 

 

 前髪は例のシルバーのクロスヘアピンで綺麗にアップにされ、おでこがあらわになっている。

 

 

 

 

 自宅に帰り着いた母・恵は、すでにあのスタイリッシュなハニーベージュのトレンチコートをリビングのハンガーに掛け、大きなサングラスと帽子を脱ぎ捨てていた。

 

 

 

 現れたのは、白のシンプルなカットソーを驚くほどスマートに着こなした、いつもの美しくも我が道を突き進む母親の姿だ。

 

 

 

「さあ、まつり。お母さんは最高の『ドレスコード』を引き寄せたわ。次はあなたの番よ。その真っ白な指先で、まだ見ぬ電子の衣服を手繰り寄せてみなさい!」

 

 

 

 恵はダイニングチェアーに深く腰掛け、身を乗り出して息子の手元を凝視している。

 

 

 

 その目は、まるでこれから新しいコレクションの幕を開けるクリエイターそのものの鋭さと期待に満ちていた。

 

 

 

 まつりは、コクンと小さく喉を鳴らした。

 

 

 

 学校の教室では、常に世界の隅っこで気配を消し、誰の目にも留まらないように猫背を丸めている少年だ。

 

 

 目立たないこと、平均以下であること、他人の期待の枠外にいることこそが、彼にとって最大の安全保障だった。

 

 

 

 それなのに、この家の中では、あまりにも型破りでエネルギーに満ちあふれた母親の視線を一身に浴びている。

 

 

 

 まつりはゆっくりと、ピリ、ピリ、とウエハースの袋の端を裂いていった。

 

 

 

 袋の奥に指を滑り込ませると、お菓子の裏側に配置された、透明な保護フィルムの感触が指頭に触れた。

 

 

 それを不器用な手つきで慎重に引き抜いた瞬間──。

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 まつりの口から、呆然とした声が漏れた。

 

 

 

 室内の蛍光灯の光を浴びたそのカードの表面には、先ほどの恵の『レア(R)』カードを遥かに凌駕する、見たこともないほど複雑で精緻なホログラム加工が施されていた。

 

 

 

 光の角度を変えるたびに、カードの輪郭をなぞるように虹色の電子の輝きが走り、まるでそれ自体が独自の意志を持って微弱な発光を繰り返しているかのように錯覚させる。 

 

 

 

 カードの最上部に、燦然と刻印されているのは二つのアルファベット。

 

 

 

【SR】──スーパーレア。

 

 

 

 現実のトップブランドがアイコネのためだけに描き下ろしたとされる、ゲーム内最高峰のレアリティの一角。

 

 

 それが、まつりが生まれて初めて購入した、わずか百五十円のチョコウェハースの中から、何の前触れもなく滑り出てきたのだ。

 

 

 

 しかし、まつりの目を釘付けにしたのは、その輝かしいレアリティの文字ではなかった。

 

 

 

 カード表面の中央に描かれたグラフィック、そしてその下部に記載されたブランド名を目にした瞬間、彼の思考は完全にフリーズした。

 

 

 

「なにこれ……?」

 

 

 

 まつりは、ルーズサイドテールの毛先を微かに揺らしながら、カードを凝視したまま首を傾げた。

 

 

 

「スノー・ラビット……? お母さん、これ、現実にあるブランドなの? 僕、お母さんから服のブランドのことは、ちょっとは、知っているつもりだったけど、聞いたことがない名前だよ」

 

 

 その口から出た疑問と言葉の響きは、およそ普通の男子高校生のものではなかった。

 

 

 

 世間の同年代の男子であれば、ファッションのブランドといえばスポーツウェアのメーカーか、せいぜいカジュアルショップの名前を数個知っているのが関の山だろう。

 

 

 

 しかし、まつりの口から出たのは、世界のトップメゾンや新進気鋭のデザイナーズブランドの存在を当然の前提とした上での、極めて専門的な違和感だった。

 

 

 

 それもそのはずだった。

 

 

 

 学校では陰気な『白雪姫』と蔑まれ、友達も一人もいない孤独なまつりだが、彼は世間の男子高校生なら絶対に知り得ないような世界中のハイブランド、コレクションの歴史、果ては最新のコスメブランドの知識に至るまで、無駄に、探るように詳しかった。

 

 

 

 それは彼が自発的に勉強した結果では決してない。

 

 

 

 目の前にいるファッショニスタであり、現役のアパレル人間である母・恵の、物心ついた頃からの「熱烈なマシントーク」の唯一の聞き役を、十数年間にわたって強制的に務めさせられてきたからだった。

 

 

 

 

 幼少期から食事の席でも、リビングのソファでも、恵は自分の頭の中に溢れる衣服への情熱を、すべて一人息子であるまつりに向かって弾丸のように浴びせかけ続けてきた。

 

 

 

 

 まつりはその過剰な情報量を拒絶することもできず、ただただ「うん、うん」と内気な相槌を打ちながら、そのすべてを脳の引き出しに仕舞い込んできたのだ。

 

 

 

 しかし、ただ聞き流すだけだったその膨大なデータは、まつりが成長するにつれて、少しずつ変化を見せ始めていた。

 

 

 

『ねえ、まつり、今季のあのメゾンのカッティング見た!?』

 

 

 

「あ……うん、あの大きなアシンメトリーの襟のやつでしょ? 構築的だけど、ちょっと日常で着るには重そうに見えたかも……」

 

 

 

『あら、いい着眼点じゃない!』

 

 

 

 そう、物心ついた頃からの英才教育(?)のせいで、まつりはただの聞き役から、次第に恵の言葉に対して()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 

 

 それは高度な専門用語を羅列するようなものではなかったが、「全体のシルエットのバランス」や「色の組み合わせが与える印象」といった、日常の衣食住に根ざした、けれど確かな審美眼に基づいた服の話だった。

 

 

 

 二人の間で交わされる会話は、いつの間にか、立派なファッショントークの体を成していたのである。

 

 

 

 そのまつりの網羅的な知識をもってしても、『スノー・ラビット』という名前は、どこの引き出しを探しても見当たらなかった。

 

 

 

「どれ、見せなさいまつり」

 

 

 

 恵が文字通り目を皿のようにして、まつりの手元からカードをひったくるように奪い取った。

 

 

 その視線がカードの裏面に印字された詳細テキストを捉える。

 

 

 

『クラシカルバニートップス』

 

 レア度:SR(スーパーレア)

 

 スロット:【トップス】

 

 スタイル:【ラブリー系】

 

 タイプ:兼用コーデ(アバター1/アバター2 共通)

 

 ブランド:『スノー・ラビット』

【アイコネ限定の“インディーズ”ブランド。現実の老舗ハイブランドとは異なり、アイコネのゲームデータ内にのみ存在する】

 

 

「なるほどね……! そういうことか。バーチャル空間の中にしか存在しない、ゲームオリジナルのインディーズブランドだわ!」

 

 

 

 

 恵が納得したように声を弾ませる。しかし、次の瞬間、彼女の目は完全に「プロの服飾デザイナー」としての冷徹な鑑定眼へと切り替わった。

 

 

 

 カードに描かれた衣装のグラフィックを、一ピクセルたりとも見逃さないと言わんばかりに凝視する。

 

 

 

 カードに描かれていたのは、一言で表現するならば『バニースーツ』だった。

 

 

 

 ベースとなっているのは、美しいボディラインを極限まで引き立てる、伝統的な「ビスチェ(コルセット風のトップス)」に「レオタード」を組み合わせた、王道中の王道とも言えるデザイン。

 

 

 

 本来であれば、大人のエンターテインメントの舞台で、観客の目を釘付けにするための、非常に大胆な衣装である。

 

 

 

 

 しかし、その『スノー・ラビット』が仕立てた純白のバニースーツは、まつりと恵が知る現実のどれとも全く異なる、奇妙な精神性を内包していた。

 

 

 

 

「……なに、この仕立て。信じられないわ」

 

 

 

 恵の口から、感嘆とも戦慄とも取れる、低く絞り出すような声が漏れた。

 

 

 

「お母さん……?」

 

 

 

「まつり、これを見なさい。普通、バニースーツというものは、デコルテから胸元にかけてを大胆に露出させて、肉体美をこれでもかと強調するのが鉄則よ。それがこの衣装の持つ最大の武器だから。……なのに、この『スノー・ラビット』のデザイナーは、全く逆のことをしているわ」

 

 

 

 

 恵の細い指先が、カードに描かれたトップスの胸元をなぞる。

 

 

 

 本来であれば深く抉られているはずの胸元は、開きすぎない「()()()()V()()()()」へと完璧に計算されてリデザインされていた。

 

 

 それは鎖骨のラインが最も綺麗に、かつ上品に見える絶妙な位置でミリ単位のカッティングが施されており、肌の露出による恥じらいや精神的な抵抗感を覚えるプレイヤ──―すなわち、まつりのように「内気で、自分を前に出すのが苦手な人間」の心理に深く寄り添った、非常にガードの固い設計になっていたのだ。

 

 

 

「それだけじゃないわ。この色の表現を見て頂戴。一切の濁りがない、『純白』。完璧なピュアホワイト。

 

 

 しかも、光沢を極限まで抑えた、マットで上品な質感の厚手サテン生地をベースにしているわ。そしてこの、控えめなVネックの縁……。ここにうっすらとあしらわれているのは、初雪の結晶を模したような、信じられないほど繊細なレースよ。これはただの『可愛い服』じゃない。派手なオーラで目立たせるのではなく、ステージのライトを浴びた瞬間に、観客の中に『守ってあげたくなるような儚さ』を強烈に喚起させる、ラブリー系ならではの工夫が狂気的なまでに凝らされているわ……」

 

 

 

 

 プロのアパレル人間として、完璧にノックアウトされたかのように、恵は何度も唸り声をあげていた。

 

 

 

 現実の布の限界やコストといった制約をすべて飛び越え、ただ「着用者の精神を守り、かつ魅了する」ためだけに作られたデジタルドレスの美学に、彼女のクリエイターとしての魂が激しく揺さぶられていた。

 

 

 

 しかし。

 

 

 

 その隣で、母親の解説をリアルに脳内映像化してしまった白雪まつりの顔面は、今や完全に限界を迎えていた。

 

 

 

 兼用コーデ。アバター1、アバター2共通。

 

 

 つまり、男である自分が『アイコネ』の世界にフルダイブした際にも、この衣装を身に纏うことがシステム上、完全に可能であるという残酷な現実。

 

 

 

 

「ば、バニースーツなんて僕、恥ずかしくて着られないよっっ外でもこんな、ルーズサイドテールなんて変な髪型にされてるのに、ゲームの中でまでそんな破廉恥な格好をするなんて無理だよ……っ!」

 

 

 

 

 まつりは、ルーズサイドテールを結ぶパステルピンクのシュシュを揺らしながら、顔を真っ赤にして大慌てで抗議した。

 

 

 

 おでこが出ているせいで、その羞恥の色彩が隠すことなく恵の前に晒されてしまう。

 

 

 

「何を言っているのよ、まつり! これは服よ! 着用者の精神を補強し、新しい自分へと生まれ変わらせるための『仮想の鎧』なのよ! この素晴らしい仕立ての鎧が、あなたという最高の素材の元にやってきたのよ!?」

 

 

 

「無理なものは無理だよ……!」

 

 

 

 まつりは、机の上の2枚のカードを見つめた。

 

 

 

 そして、フッと何かを決意したように視線を固定すると、自分の手元にあった純白のSRカードを引き寄せ、代わりに、恵が引き当てた漆黒の『シャドー・ペトリ』のカードを、そっと母親の手元へと押し戻した。

 

 

 

「……お母さん。この『シャドー・ペトリ』はお母さんが引き当てた物だから、お母さんが使って……」

 

 

 

「え……? まつり?」

 

 

 

 恵が驚いたように目を丸くする。

 

 

「僕、知ってるから。お母さんが昔から、どれだけ『シャドー・ペトリ』っていうブランドに憧れを持っていて、そのデザイナーの美学を尊敬しているか。今回のアイコネの提携ニュースを見たときも、お母さん、本当は私がいち早くあの服を纏いたいって、一瞬だけ凄く遠い目をしてたでしょ。……だから、これはお母さんのカードだよ。僕のわがままに付き合って何時間も並んでくれたんだから、これはお母さんが使うべきだよ」

 

 

 

 それは、まつりなりの精一杯の、母親への気遣いであり、優しさだった。

 

 

 

 物心ついた頃から、恵の口から何百回、何千回と聞かされてきた『シャドー・ペトリ』という名前。

 

 

 その歴史、その偉大さ、その服をこの手で触ることがどれほどの奇跡か。

 

 

 母親のその「憧れ」の重さを誰よりも知っていたのは、他ならぬ聞き役のまつりだったのだ。

 

 

 

 恵は、押し戻された漆黒のカードと、ルーズサイドテールを揺らしながら自分を真っ直ぐに見つめてくる息子の瞳を、交互に見つめた。

 

 

 

 いつもなら「何を言ってるのよ!」と強引に自分の意見を押し通すはずのファッショニスタが、その時ばかりは、言葉を失ったように静かに佇んでいた。

 

 

 

 息子の、濁りのない、けれど頑固なまでの優しい意志。

 

 

 

 どんなに流行を支配し、衣服のルールを熟知したファッショニスタだったとしても、その純粋な息子の意思にだけは、母は絶対に勝てないのだった。

 

 

 

 

 それが、恵の母親という面。心だった。

 

 

 

 恵はゆっくりと息を吐き出すと、トレンチコートを脱いだ白いカットソーの胸元に手を当て、観念したように、けれどこの上なく愛おしそうな微笑みを浮かべた。

 

 

 

「……わかったわ。使わせて貰うわね。まつり。ありがとう」

 

 

 

 恵のその言葉は、一人のプロとしてではなく、息子の成長と優しさを真正面から受け止めた、一人の「母親」の温かい響きに満ちていた。

 

 

 

 リビングの窓からは、五月の柔らかな夕暮れの光が差し込み、テーブルの上の純白の『スノー・ラビット』と、恵の手に収まった漆黒の『シャドー・ペトリ』を、対照的かつ美しく照らし出していた。

 

 

 二人のバーチャルへの挑戦は、この互いを想う小さな一歩から、静かに、けれど確実にその幕を開けようとしていた。

 

 

 






ここまでお読みいただきありがとうございます!少しでも先が気になったら、お気に入り登録や評価をいただけると執筆の励みになります!


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。