ダイニングテーブルの上で、興奮と羞恥の嵐がようやくひと段落した頃、白雪家には奇妙な静寂が訪れていた。
白雪まつりは、まだ顔の火照りが完全に引ききらないまま、白のカーディガンの袖をそっと引っ張り、自分の髪型を意識して指先で軽く触れた。
先ほどまでトレンチコートを翻してスタイリストさながらに動いていた母・恵の手によって、まつりの後ろ髪は、あえて少し弛ませて片側に寄せる形の、非常に洗練された「ルーズサイドテール」に結い上げられていた。
前髪はクロスヘアピンで上品にアップにされているため、いつもは前髪の奥に隠れている、学校で『白雪姫』と揶揄されてはいるが、それほどの端正ではない。
中性的な顔立ちのパーツが、今は否応なしに露わになっている。
ルーズにまとめられた毛先が首筋の横で静かに揺れるその佇まいは、本人の内気な性格とは裏腹に、先ほど手に入れた純白のSR(スーパーレア)カード『クラシカルバニートップス』が持つ、どこか儚くも完成された世界観と、恐ろしいほどの調和。
正しくシンフォニーを見せ始めていた。
一方、母・恵は、ダイニングチェアーに深く腰掛け直すと、自分の引き当てた『シャドー・ペトリ』の【アクセサリ】カードと、まつりの『スノー・ラビット』の【トップス】カードを、リビングの蛍光灯の光に何度もかざしながら、マジマジと見つめ続けていた。
アパレル人間の鋭い観察眼が、カードの細部をスキャンしていく。
その時、恵の端正な眉が、怪訝そうにピクリと跳ね上がった。
「ねえ、まつり。それにしても、このカード……ちょっと不思議だわ」
「え? 何が……?」
まつりはルーズサイドテールの結び目を気にしながら、テーブルの上を覗き込んだ。
「これだけ精緻なグラフィックやブランドのロゴが印刷されていて、レアリティのホログラムまでギミック満載なのに……。裏返しても、端の方をどれだけ探しても、
「あ……本当だ」
言われてみれば、その通りだった。
カードの裏面には、美しいシステムデザインの幾何学模様とブランドの解説テキストが並んでいるだけで、現実のあらゆる商品に印刷されているはずの「コード」が綺麗さっぱり排除されていた。
完全なフラット。
ただの美しいプラスチックの板にしか見えない。
その疑問に答えるかのように、まつりは自分の『アイコネ・エアインウェハース』の袋の底に、もう一枚、お菓子でもコーデカードでもない「別の紙片」が残されていることに気づいた。
「お母さん、これ。ウェハースの袋にもう一枚、味気ない紙カードが入ってたよ。あ、これには大きなQRコードが印刷されてる。……ええと、『購入者限定・アイコネ講座 カード&セキュリティ編へのアクセスコード』だって」
「なによ、焦らしおって。電子の謎は電子で解けってことね。まつり、あなたのスマートフォンで早速それを読み取ってみて頂戴」
「うん、ちょっと待って……」
まつりはポケットから使い古したスマートフォンを取り出すと、カメラ機能を起動し、その紙片のQRコードを画面の枠内に収めた。
一瞬のビープ音と共に画面が自動で切り替わり、専用の特設動画サイトへとナビゲートされる。
そこにはデジタルなウサギの耳が跳ねるアイコンが踊っていた。
数秒のローディング画面を経て、液晶画面に鮮やかな光が飛び込んできた。
『ハロー、未来のトップアイドル諸君! 並びに敏腕プロデューサーの皆様方! 「アイコネ講座・カード&セキュリティ編」へようこそ! 僕だよ、みんなの頼れるマスコットにして、セキュリティの守護神・ドルクトだよ!』
スピーカーから飛び出してきたのは、あの赤レンガ広場の行列の中で聴いた、二頭身のウサギ型ロボット『ドルクト』の、鼓膜をキリキリと刺激するような甲高い電子音声だった。
画面の中のドルクトは、短い手足をバタバタと動かしながら、サイバー空間を模した背景の中でコミカルに踊っている。
恵は、先ほどの「親父ギャグ」の冷気によるダメージを思い出したのか、一瞬だけ露骨に嫌そうな顔をしたが、ゲームの仕様を解き明かしたいという知識欲が勝り、再び画面へと身を乗り出した。
『さあ、無事に地獄の物販列を生き残り、運命のカードを手に入れたラッキーな君たちに、まずはこのゲームの血脈とも言える【レアリティ】の構造について教えてあげるよ! しっかり耳の穴をかっぽじって聴くように!』
ドルクトが短いステッキを振り回すと、画面上に大きなピラミッド型のグラフが出現した。
『現在、カードに設定されているレアリティは全部で5段階!
一番底辺を支えるのが【C(コモン)】!
その上が【N(ノーマル)】!
さらにその上が【R(レア)】!
そして選ばれし者の輝き【SR(スーパーレア)】!
最後は……文字通り神の領域、天文学的な確率の向こう側に君臨する【SSR(シャイニー・スーパーレア)】!
基本的には、この5つの階層でアイコネのファッション市場は形成されているんだ!』
「ふむふむ、ここまでは、SSRの読み方が違うこと以外は、一般的なソーシャルゲームやトレーディングカードの構造と大差ないね」
まつりがルーズサイドテールを少し指先で弄りながら、腕を組んで分析する。
数々のゲームコミュニティやネットの海を回遊してきた彼にとって、このピラミッド型の階層構造自体は見慣れたものだった。
シャニースーパーレア、という響きがいかにもこのゲームらしい煌びやかさを放っている点を除けば、王道のシステムである。
『だがしかし! アイコネが従来の着せ替えゲームと決定的に違うのは、そのブランドとの結合度! インテグレーションだよ! なんと、現実の世界でも実際に販売されている本物のブランドの商品が、そのままコーデカードとしてデータ化されて出現するのは、真ん中の【R(レア)】からなんだ!』
画面上に、現実のストリートを歩くモデルの映像と、それがゲーム内の3Dグラフィックへとコンバートされる比較映像が流れる。
『そして! さらにその上を行く【SR】と【SSR】は、もう次元が違うんだよ!
ドルクトの声が一段と熱を帯び、画面には『SR』と『SSR』のカードが持つ、圧倒的なステータス補正と、ステージ上での特殊な光彩のシミュレーションが映し出された。
(オーラ……)
それを見た瞬間、まつりと恵は、同時にゴクリと息を呑んだ。
画面の端に小さく表示された「各レアリティの推定排出確率」のパーセンテージ。
それは、一個150円のウェハースから1枚引くには、あまりにも現実味のない、極小の小数点以下の数字が並んでいたのだ。
恵のR(シャドー・ペトリ)とまつりのSR(スノー・ラビット)が、どれほどの「神引き」だったか、そしてこのお菓子の中からの排出率がどれほど狂っているかを知り、二人は確率の厳しさにリアルに戦慄した。
しかし、ドルクトの解説はそこで終わらなかった。画面の中のウサギ型ロボットは、短いステッキでトントンと画面を叩き、補足説明のパネルを表示させる。
『あ、ちなみにね! ゲームオリジナルのインディーズブランドは、現実のハイブランドと違って、ゲーム内の基本インフラを支えるために、C(コモン)やN(ノーマル)といった最低レアリティからでもカードが排出されるようになっているんだよ!』
「あ……なるほど」
その一言を聞いて、恵がポンと手を叩いた。
「なるほど。スノーラビットは、ゲームオリジナルのインディーズブランドに当てはまるから、C(コモン)やN(ノーマル)からでも出るということだったのね」
恵は深く納得したように頷いた。先ほどまつりが引き当てた『クラシカルバニートップス』の、あまりにも細部まで計算され尽くした仕立ての美しさに感動していたが、そのブランドの根底にあるシステム的な位置づけが、ようやく氷解したのだ。
画面の中のドルクトが、フンスと鼻を鳴らして誇らしげに続ける。
『そうそう! 誰もが手に入れられる低レアから、最高峰の限定SRまで、幅広く衣装を提供している、まさに一般市民の味方とも言えるレーベルなんだ! 無課金プレイヤーでも、インディーズブランドをコツコツ集めれば、十分にオシャレを楽しめる親切設計ってわけ!』
「素晴らしい思想だわ」と恵は感心する。「ファッションを一部の特権階級だけのものにせず、広く大衆に開きつつも、最上級には誰もが憧れる最高のプレミアムな一着を用意しておく。インディーズだからこそできる、フットワークの軽さと優しさね」
『さあさあ、レアリティとブランドの凄さが分かったところで、君たちが今、最も首を傾げているであろう「あの謎」について解説しちゃおうかな!』
画面の中のドルクトが、カメラ目線で意地悪くニヤリと笑う。
スクリーンが切り替わり、カードの拡大図が表示された。
『画面の前の皆は思ったことでしょう……「手に入れたカードの表面にも裏面にも、バーコードやQRコードの類が一切ないことに……」ってね! フフン、さすがは現代っ子、疑問に思うよね! でも安心して! 不良品でも印刷ミスでもないんだよ! このコーデカードにはね、
「エヌ、エフ、シー……?」
恵が、まるで未知の古代呪文を聴いたかのように、ちんぷんかんぷんな表情で首を傾げ、眉間にシワを寄せた。
彼女はアパレルに関しては天才的な知性と直感を発揮するが、デジタルガジェットや通信技術の専門用語に関しては、完全に一般的な主婦以下の知識しか持ち合わせていなかった。
「ほら、お母さん」
まつりがすかさず、自分のルーズサイドテールを少し指先で弄りながら、身近にある最も分かりやすい例を引き合いに出して解説を入れる。
「NFCっていうのはね、お父さんが毎日の通勤で使っている、あの交通系ICカードの読み取りに使われている技術のことだよ。ほら、お母さんだってスーパーのセルフレジとか、家電量販店の決済で、スマートフォンやカードを機械に『ピッ』ってやって使うでしょ? あの技術だよ」
「あぁ! あの『ピッ』って奴ね!」
恵の表情が、一瞬で霧が晴れたように明るくなった。
「カードを直接重ね合わせたり、近づけたりするだけで、瞬時に電波で情報をやり取りする、あの便利なシステムのことね。なるほど、あれがこの薄いプラスチックのカードの中に埋め込まれているわけ」
『その通り!』
画面の中のドルクトがステッキを叩いた。
『カードの内部には、目に見えないほど薄くて精密なマイクロチップとアンテナが内蔵されているんだ! 君たちが未来のダイブするための専用デバイス【コネクト・ギア】を購入してゲームを始める時、その【コネクト・ギア】の専用デバイスにかざすことで、カードのデータがゲーム内へ瞬時に転送されるんだよ! 一瞬で衣服のデータが吸着・具現化!
簡単に言うとコーデされる仕組みになっているんだよ!』
「視覚的なノイズを排除するための選択ね」
恵は、デザイナーとしての視点から再びカードを評価した。
「もしカードの表面に、安っぽい白黒のバーコードや、巨大なQRコードがベタベタと印刷されていたら、せっかくの最高峰ブランドのロゴや、美しいドレスのグラフィックという『世界観』が台無しになってしまうわ。カードそのものを一枚のアートワーク作品として完成させるために、あえて目に見えない無線技術を採用した。……ゲーム開発陣の、ビジュアルに対するプライドを感じるわね」
まつりも納得の表情で頷いた。
カードそのもののコレクション価値を高めるための、極めてスマートな仕様だ。
しかし、画面の中のウサギ型ロボットが次に口にした言葉は、そんな親子のクリエイティブな感動を、一瞬で現実の冷徹な氷水で洗い流すような、あまりにも世俗的でシビアな内容だった。
『──ま、格好いい理由はそれくらいにして、本当の最大の理由はね!
ドルクトは、可愛い顔のまま、おどろおどろしいBGMを背景に流しながら、冷酷な現実を突きつけてきた。
『ネット社会の現代、もしネットの掲示板やSNSに「SR当たりました!」ってQRコードの写真をアップされちゃってみなよ? 一瞬で何万人ものハイエナプレイヤーたちにコードを不正コピーされて、150円の売り上げが何千万円もの損失に化けちゃうんだよ! だからアイコネは権利と利益を徹底的に守るために! 物理的なカード本体がその場に存在して、暗号化されたNFCチップを物理的に直接非接触スキャンしない限り、絶対に衣装が具現化しないシステムにしたんだ! コピー品や画像の無断転載は、我が社の法務部が裏で大量のお金を引き連れて、絶対に許さないからね! ケケケッ!』
ドロドロとした電子音と共に、画面の中のドルクトが、マスコットらしからぬ濁った目で、お札のマークが飛び交うエフェクトの中で不敵に笑う。
その、あまりにも夢のない「大人の事情」と「大企業の生々しい防衛策」を前にして、白雪恵の顔から、先ほどまでのクリエイティブな熱気が完全に消え失せた。
彼女は、スマートフォンの画面を指差したまま、完全な「引き顔」になって固まっていた。
「ねぇ。この子……一応、このゲームの公式マスコットよね?」
恵の口から、氷点下の呟きが漏れた。
「……なんでそんな夢も希望もない権利のこと言ってるのよ。可愛い見た目をしておいて、子供たちに向かって、権利のことや損失のことばかり嬉々として語っているのよ。子どもたちの夢のために、魔法とか、そういうメルヘンな言葉で世界観を構築しなさいよ。リークとか、ハイエナとか、法務部とか、お金が待ってる背景とか……言葉のチョイスが生々しすぎて、さっきの親父ギャグよりよっぽどタチが悪いわ」
恵は本気で呆れたようにため息をつき、白のシンプルなカットソーの襟元を正した。
ファッションの世界において、ブランドの権利やコピー品対策が重要なのは彼女自身プロとして痛いほど理解している。
しかし、それを子供も見るであろうゲームの公式チュートリアルで、ウサギの姿をしたマスコットに「法務部」だの「損失」だの「お金」だのと言わせる開発元の徹底したリアリズム。
あるいは悪趣味さには、流石に引かざるを得なかったようだ。
「あはは……。でも、お母さん、それだけこのゲームに莫大なお金と、現実のブランドの信用が懸かってるってことの裏返しなんだよ……」
まつりはルーズサイドテールの毛先を指で弄りながら、苦笑いでマスコットのフォローを試みた。
『それじゃあ、今回の講座はここまで! 発売までの一ヶ月、カードを失くさないように大切に保管して、楽しみに待っててね! バイバイ!』
パッと画面が暗転し、スマートフォンは元の静かな液晶画面へと戻った。
動画が終わり、再び静寂に包まれたリビング。
まつりは、手元にある『スノー・ラビット』のSRカードを見つめながら、これから始まる一ヶ月の長い待ち時間と、その先にある未知の電子のステージに思いを馳せていた。
権利やセキュリティの生々しさに引かされはしたものの、この小さなプラスチックの板に埋め込まれた目に見えない『刻印』。
プロトコルが、間もなく自分たちの日常を劇的に変える鍵になることだけは、二人の胸に確かな事実として刻まれていた。