公式マスコットであるウサギ型ロボット『ドルクト』が、その可愛い二頭身の見た目に見合わない生々しい「企業の権利とリーク対策」を語り尽くしたチュートリアル動画が唐突に暗転し、白雪まつりのスマートフォンの液晶画面は元の静かな漆黒へと戻った。
さっきまで画面の中で甲高い電子音声を響かせながら跳ね回っていたマスコットの残響が、嘘のように消え失せる。
西日へと移ろい始めた五月の柔らかな光が、築年数の経った古びた実家のアパートのリビングに差し込み、空気中に浮遊する小さな埃の粒子を黄金色に照らし出していた。
あまりにも劇的で、あまりにも密度の濃い情報と、何百倍もの倍率を潜り抜けてきた幸運の連続に、白雪家のダイニングテーブルの周りには、ぽっかりと穴が空いたような静寂が横たわっていた。
まつりは、自分の手元に置かれた2枚のカードをじっと見つめた。
1枚は、彼自身がウエハースの袋から引き抜いた、最高峰のレアリティであるSR(スーパーレア)『クラシカルバニートップス』。
一切の濁りがない純白の厚手サテン生地に、露出を抑えた上品な「控えめなVネック」のカッティング。そしてもう1枚は、最初に母親の恵が引き当てた、現実世界の最高峰モードメゾン『シャドー・ペトリ』の【アクセサリ】レア(R)カードだ。
夜の闇を体現したかのような美しいチェーンネックレスとイヤーカフのグラフィックが、プラスチックの薄い四片の中で静かに、けれど圧倒的な気品を放ちながら蛍光灯の光を反射している。
「これ……お母さんが引いたんだから、お母さんのものだよ。はい、これ」
まつりは少し照れくさそうに指先を動かし、漆黒の輝きを放つシャドー・ペトリのアクセサリカードをテーブルの向こう側へと滑らせた。
もともと「物欲センサー」の枠外にいた母親が、その貪欲さゆえに引き寄せた奇跡の結晶だ。アパレルを心から愛する彼女が持っているべきだと、まつりは純粋に思ったのだ。
「あら、ありがとう、まつり。それじゃあ、私のアパレル魂の証明として、大事に預からせてもらうわね」
恵は嬉しそうに目を細めると、洗練された細い指先でそのカードを愛おしそうに受け取り、胸ポケットへとそっと収めた。
まつりはその様子を見届けながら、ふと、リビングの入り口の壁に視線を向けた。
そこには、先ほど帰宅したばかりの恵が脱ぎ、木製のハンガーに丁寧に掛けられたハニーベージュのトレンチコートが静かに佇んでいた。
現実の過酷なアパレル市場という戦場で、数々のトレンドを追いかけ、あるいは生み出してきた彼女の戦友とも言える衣服。
そのコートの凛としたシルエットを見つめていると、まつりは自分の頭の片隅に、微かな重みを感じて手を伸ばした。
彼の指先が触れたのは、片側の肩口にゆったりと編み下ろされた、柔らかな毛束の感触だった。
あの過酷な赤レンガ広場の行列の最中、あまりの待ち時間の退屈さに耐えかねた恵によって、まつりの後ろ髪は手際よく「ルーズサイドテール」へと結い上げられた。
学校では他人の視線を遮るための防壁として、鬱陶しいほどに長く伸ばしっぱなしにしていたボサボサの髪が、今や恵のプロのスタイリングによって、どこか中性的でアンニュイな、絶妙な『崩しの美学』を宿したヘアスタイルへと変貌を遂げている。
前髪をクロスヘアピンで上品にアップにされていることも手伝って、今のまつりの佇まいは、彼自身が引き当てた『スノー・ラビット』のどこか儚げなバニースーツの世界観と、恐怖を覚えるほど完璧にシンクロし始めていた。
(お母さんに髪をいじられると、いつも全然違う自分になったみたいで、ちょっと落ち着かないな……)
まつりはサイドテールの毛先を小さく弄りながら、未だに羞恥心で耳の付け根が熱いのをごまかすように、ずっと胸の中で温めていた「本題」について、おずおずと切り出すことにした。
「ねぇ、お母さん。動画でも言っていたけど……このカードの能力を本当に使うためには、現実の世界で『コネクト・ギア』っていう、アイコネ専用のフルダイブ型VR機材が必要なんだ。……僕の、あの……『コネクト・ギア』の約束、なんだけど……」
まつりの言葉は、後半になるにつれて少しだけ歯切れが悪くなった。
なぜなら、彼の十六歳の誕生日は、カレンダーをどれだけめくってみても
アイコネの正式サービス開始は来月に迫っている。
誕生日プレゼントとして機材を買ってもらうという名目にするには、時期があまりにも前倒しになりすぎていた。
高校生のお小遣いでは絶対に手の届かない最新の精密機器。
それを今このタイミングでねだるのは、いくら甘えさせてくれる母親相手とはいえ、内気なまつりにとっては相当な勇気が必要なことだった。
しかし、そのささやかな躊躇は、目の前に座る破天荒な母親の姿によって、一瞬で跡形もなく吹き飛ばされることになる。
「うん。わかっているわよ、まつり」
恵は胸ポケットのカードに片手を添えたまま、視線はテーブルの上の純白のカードに釘付けにさせたまま、何でもないことのように快諾した。
「あなたの誕生日はまだ先だけれど、衣服の革命。アイコネが始まるのは来月なのよ? そんな歴史的な瞬間に、衣服を愛する白雪家の人間が、機材がないからってスタートラインにすら立てずに指をくわえて見ているなんて、そんなの美学の敗北だわ。前倒しだろうが何だろうが、あなたの分の機材はちゃんとお母さんが最高の一台を用意してあげるから、安心しなさい」
「あ……ありがとう、お母さん……っ!」
まつりの顔に、パッと心からの安堵と喜びの笑顔が咲いた。
これで、学校という息の詰まる閉塞的な空間以外に、自分だけの本当の居場所が手に入る。あの『控えめなVネック』で自分の内気な心を守ってくれる純白の鎧を纏い、新しい自分として電子の海を泳ぐことができるのだ。
だが、安堵したのも束の間、まつりは母親の視線が、未だにカードの表面から一ミリも動いていないことに気がついた。
恵の長い睫毛の奥にある瞳は、ただ息子へのプレゼントを快諾した母親の優しいそれではなく、新進気鋭のデザイナーが未開拓の巨大な市場を見つけた時の、あのギラギラとした、獲物を狙うハンターのような輝きを帯びたままだった。
恵は、スマートフォンの画面を滑らかな手つきで操作しながら、極めて平然とした、日常の世間話のようなトーンで、とんでもない爆弾を落とした。
「──それでね、まつり。お母さん、ちょっと考えていたのだけど」
「え? 何を……?」
リビングの空気が、ピキリ、と物理的に凍りついたような錯覚を、まつりは覚えた。
「……え?」
まつりの笑顔の形のまま、顔の筋肉が完全に硬直する。
「もう一個って……お母さん、まさか、それって……」
「ええ、その『まさか』よ、まつり。あなたに一台。そして、私自身のために、もう一台よ。合計二台。今から家電量販店のオンラインショップで、二台同時に予約手続きを済ませてしまうわ」
恵の画面をタップする指先には、一ミリの迷いも、一早の躊躇も存在しなかった。
画面に映し出されている予約ページの購入数量セレクトボックスが、堂々と「2」に変更されるのが、まつりの位置からでもハッキリと見えた。
「ちょっと待って、お母さん! マジだったんだ……っ!?」
まつりは、椅子から転げ落ちそうになりながら、本日何度目になるか分からない絶叫をあげた。
「さっき赤レンガ広場で動画を見ていた時も、同じようなこと言ってたから、お母さんの得意の悪いジョークだと思って聞き流そうとしてたのに……! 本気で自分用にもあの高額なフルダイブ機材を買うつもりなの!? お母さん、ゲームなんてスマホのパズルゲームくらいしかやったことないのに、いきなり最新のVRの世界に飛び込むなんて、いくらなんでも無茶苦茶だよ!」
「無茶苦茶なんかじゃないわよ、大真面目よ。本気と書いて、マジよ。まつり」
恵はスマートフォンを操作する手を一切止めないまま、フッと不敵で、最高に魅力的な笑みを浮かべた。
「あなた、お母さんのアパレル人間としてのプライドを舐めないで頂戴。こんなに素晴らしい『シャドー・ペトリ』のイヤーカフが私たちの元にやってきて、しかも『スノー・ラビット』なんていう、現実の限界を飛び越えた天才的なインディーズブランドの仕立てをこの目で見せつけられたのよ?
それを、あなたがステージで踊るのを、リビングのモニターの裏側から指をくわえて眺めているだけなんて、そんなの生き地獄だわ。私もそのダイブギアのデバイスに、このカードを『ピッ』ってやって、あなたのすぐ隣で、電子の衣服が人間の精神にどんな調和……シンフォニーをもたらすのか、この肌で、この魂で、直接確かめたいのよ!」
現実のアパレル会社で、数々の無理難題を形にしてきた彼女の圧倒的な行動力が、ゲームという未知の領域に対して、完璧にロックオンしてしまっていた。
その、常識の枠を遥か彼方に置き去りにして突き進む母親のガチっぷりと、凄まじい熱量に、まつりは若干どころか、強烈に引きながらも、同時に自分の胸の奥底で、もう誰にも止めることのできない「熱狂のカウントダウン」が爆発的な音を立てて始まったことを、確かに確信していた。
自分が『アイドル』のアバターとなって電子の海へ飛び込むなら、この破天荒な母親は、間違いなく『同じくアバター』として、そのすぐ後ろから、誰も見たことのないような最高峰のコーディネートと美学の武器を引っ提げて、世界を相手に大暴れしにやってくるのだ。
まつりは、ルーズサイドテールの毛先を指先で強く握りしめながら、降伏を認めるように深い、けれどどこか嬉しさを隠せない溜息を吐き出した。
「はぁ……。もう、お母さんがそこまで言うなら、僕が何を言っても無駄だよね。……でもね、お母さん。僕、今から一つだけ、簡単に想像できちゃう未来があるよ」
「あら、何かしら? 私のスタイリングが世界を席巻する未来?」
恵が画面から目を離し、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。まつりは苦笑いを浮かべながら、その未来の光景を言葉にした。
「ううん。そうじゃなくて……。アイコネのサービスが開始されるってなったら、お母さん、ゲームに熱中しすぎるあまり、今働いているあのアパレルのパート先を、ズレた生真面目さで『完璧に引き継ぎだけは終わらせて、綺麗に退職する』お母さんの姿が、もう今から簡単に想像できちゃうよ! パートの同僚の人たちに『次の新しいプロジェクトに専念しますので!』とか大真面目な顔で宣言して、みんなをポカンとさせるんだ、絶対に!」
まつりのその、母親の性格を百パーセント理解しきった上での、あまりにも解像度の高い予言に、恵は一瞬だけ驚いたように目を見張った。
接着剤のように固まっていた彼女の表情が、一瞬で崩れ、リビングいっぱいに楽しげな笑い声が響き渡る。
「ウフフ! あははは! 流石は私を十数年見続けてきた私の息子ね、本当によく分かっているじゃない!」
恵はスマートフォンの画面をポンと叩き、予約完了の通知画面をまつりに見せつけながら、親指を立ててみせた。
「大丈夫よ、心配しないで。お母さんは社会人としてのドレスコード……マナーを弁えているわ。パートはサービス開始前日までは、きっちり、完璧に、一ミリの落ち度もなく続けるから! 引き継ぎのノートだって、次の人が困らないようにギチギチに書き上げて置いていくわよ。アパレルを愛する者は、去り際だってスタイリッシュで美しくなきゃいけないの。──さあ、予約は完了したわ!」
「本当に買っちゃったよ……」
まつりは呆然としながらも、どこか心地よい敗北感に浸っていた。
「さあ、話がまとまったところで……」
恵はスマートフォンの画面を消すと、ふう、と小さく息を吐いて椅子に背中を預けた。
「何だか、もの凄く頭を使った気がするわ。長時間の行列の疲労も相まって、糖分が完全に枯渇しているのを感じるわね。まつり、折角だから、この開けたばかりのウェハースを食べてみましょうよ」
「うん、そうだね。お母さんが淹れてくれた紅茶、まだ温かいし」
ダイニングテーブルの中央には、恵が開封の直前に淹れてくれた、アールグレイの紅茶が陶器のカップの中で美しい琥珀色の湯気を立ち上らせていた。
柑橘系のベルガモットの華やかな香りが、ウエハースのココアの甘い香りと混ざり合い、リビングを瞬時に上品なティータイムの空気へと塗り替えていく。
まつりは、透明な保護フィルムから綺麗に取り出された、長方形の『アイコネ・エアインウェハース』をそっと手に取り、口へと運んだ。
サクッ、と小気味よい、信じられないほど軽やかな砕ける音が、静かな室内に響く。
「……! 美味しい……っ!」
まつりは目を丸くした。
「これ、普通のウエハースと全然違うよ。お母さん、食べてみて」
「どれどれ……。あら、本当ね! この軽さ、ただの安価なお菓子だと思って侮っていたけれど、食感が凄く繊細だわ」
恵も上品に口元を隠しながら、ウエハースを一口齧り、その驚きに目を見張っていた。
「多分これ、チョコの中に細かい空気がたくさん入っているんだと思うんだ。このサクフワ食感が癖になるね。ウエハースの層もすごく薄くて、何層にも綺麗に重なっているから、口の中でモタつかずにスッと溶けていく感じがする。150円のカードのおまけにしては、お菓子としてのクオリティが信じられないくらい高いよ」
まつりは、持ち前の観察力と分析力を発揮して、ウエハースの断面を見つめながら補足した。
デジタルデータの構造だけでなく、こういう身近な物質の「仕立て」に対しても、彼の脳は無意識にその理由を探ろうとする癖があった。
それは間違いなく、衣服の構造を常に分析している恵の血筋の証明でもあった。
ベルガモットの香る温かい紅茶を一口すすり、サクフワのウエハースを咀嚼する。
その贅沢な調和は、何時間も立ち尽くしていた彼らの身体の細胞一つ一つに、心地よい糖分として染み渡っていった。
二人の声が、完璧なタイミングで重なった。
ウエハースを半分ほど食べ進めたところで、まつりと恵は、全く同じ「現実的な問題」に直面し、お互いの顔を見合わせた。
「カード集めるためとはいえ、これ、一日に何枚も食べられないよね……」
「だよね、お母さん……。これかなり結果が厳しそうだよ。お菓子自体は文句なしに美味しいけれど、エアイン構造で軽いとはいえ、ベースはしっかりとした甘いチョコとウエハースだもの。一回のお茶の時間に食べられても、せいぜい一個か二個が限界だよ。カードが欲しいからって、一日に十個も二十個も一気に開けたら、胃が完全にノックアウトされちゃう」
まつりは、苦笑いを浮かべながら手元のお菓子の袋を見つめた。
「それに、賞味期限だってあるしね。それに開けっ放しにして放置しておいたら、この繊細なサクフワ食感が台無しになって、空気中の水分を吸ってすぐにシケっちゃうよ。そうなったら、このお菓子の最大の美学が死んでしまうわ」
恵も、ウエハースの袋の端をきっちりと折り畳みながら、真剣な表情で頷いた。
カードのリーク対策にはNFCタグという最先端の知性を見せたアイコネの開発陣だったが、おまけのお菓子をどう消費するかという「現実の胃袋のキャパシティ」に関しては、プレイヤーの根性に丸投げしているようだった。
テーブルの上には、まだ手をつけていない、もう一つの戦利品である『アイコネ・チップス』の袋が、夕日を浴びて静かに残されていた。
「お母さん、チップスは明日にしましょうか?」
まつりは、自分の胃袋の容量と、これ以上の糖分・塩分の過剰摂取を警戒して、提案した。
「そうね……そうしましょうか。衣服もコーディネートも、一度に全てを詰め込みすぎたら、ただの品のない過剰。
コーデのオーバーキルになってしまうもの。この美味しいウエハースの余韻を楽しみながら、今日のところは、この最初の二片の奇跡を噛み締めることにしましょう」
恵は満足げに微笑むと、残ったウエハースをゆっくりと口に運び、アールグレイの紅茶を最後の一滴まで優しく飲み干した。
窓の外では、五月の夕暮れの空が、燃えるような茜色と、深い夜の訪れを告げるネオンブルーへと、美しいグラデーションを描きながら移り変わっていこうとしていた。
その美しい色彩の重なりは、まるで彼らがこれから飛び込む、無限の可能性に満ちたバーチャル世界のステージそのもののようだった。
手元にあるのは、わずか四片のカード、そして合計600円のお菓子の重み。
しかし、ここから、不器用で繊細な少年『まつり』と、破天荒で最高にスタイリッシュな母『恵』の、世界のトレンドを根底から揺るがすことになる、果てしなきバーチャルアイドルへの挑戦のプロトコルが、確かに、そして厳かに切り開かれたのだった。
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