雪結(ユキネ)   作:旧作

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第十四話 父の諦念と、肩揉みの悲哀(土曜日の夜)

 

 

 

 

 あの熱狂と混沌に満ちあふれた、隣町の特設会場での大移動から命からがら帰宅し、ウエハースから信じられないような超希少カードを引き当てるという奇跡の暴走劇から、数時間が経過していた。

 

 

 

 

 

 時刻は土曜日の夜、午後八時を回ったところである。

 

 

 

 

 外の闇はすっかり深くなり、白雪家の古びたアパートのリビングには、いつも通りの静けさが戻っているかに見えた。

 

 

 

 しかし、室内の空気は未だに、あの百五十円のチョコウエハースから出現した二枚のプラスチックカード──『シャドー・ペトリ』の漆黒のアクセサリカードと、インディーズブランド『スノー・ラビット』が仕立てた純白のSRカード『クラシカルバニートップス』──が放つ、目に見えない電子の熱量によって微かに歪んでいるようだった。

 

 

 

 

 母親である恵は、キッチンで鼻歌を交えながら夕食の支度に勤しんでいる。

 

 

(それも、なぜかいつもより格段に豪華な、お祝い事でもあったかのようなメニューだ……)

 

 

 その背中からは、先ほどスマートフォンで『コネクト・ギア』を2台同時に予約購入した人間の、圧倒的なまでの全能感がオーラとなって立ち上っていた。

 

 

 

 

 そんな中、リビングの古びたソファの端で、白雪まつりは膝を抱えるようにして小さくなっていた。

 

 

 

 

 彼の心臓は、未だに「自分があのバニースーツを纏ってステージに立つかもしれない」という恐るべきシミュレーションの結果による羞恥心と、家庭内でのとんでもない大改革の予感によって、落ち着きなくドクドクと鼓動を刻み続けている。

 

 

 

 

 

 ガチャリ、と静かな空間に、玄関のドアが開く音が響いた。

 

 

 

 

「ただいま……。ふぅ、今週もようやく終わったか……」

 

 

 

 

 ネクタイを少し緩め、疲れ切った足取りでリビングへと入ってきたのは、まつりの父親である白雪(しらゆき)(こよみ)だった。

 

 

 

 

 今年で四十四歳になる暦は、都内にある中堅企業の総務部で中間管理職、いわゆる課長職を務めている、絵に描いたような生真面目なサラリーマンである。

 

 

 

 

 

 日々、上層部からの理不尽な要求と、部下たちからの様々な不満やトラブルの板挟みに遭いながら、会社の平和と秩序を守るために胃を痛めている。

 

 

 

 

 そのせいか、土曜日の夜だというのに彼の背中はいつにも増して丸まっており、中堅企業の総務部という、人間関係の泥沼を日々処理し続けるポジション特有の、深い疲労感と哀愁が全身から滲み出ていた。

 

 

 

 

 

「あ、お父さん。おかえりなさい。今週も遅くまでお仕事、お疲れ様」

 

 

 

 

 

 まつりはソファから立ち上がり、父親を迎えた。

 

 

 

 

 

 しかし、その時のまつりの外見は、あまりにも普段の「地味で陰気な男子高校生」の枠から逸脱していた。

 

 

 

 

 学校でのまつりは、前髪を目元まで長く伸ばし、極力周囲の視線を遮るようにして過ごしている。

 

 

 

 

 

 しかし今の彼の後ろ髪は、つい数時間前に恵の熱狂的な趣味とスタイリングによって、完璧に編み込まれた()()()()()()()()()()()の形に固定されたままだった。

 

 

 

 

 さらに、いつもなら顔の半分を覆い隠しているはずの前髪は、シルバーのクロスヘアピンによって上品にアップにされており、彼の持つ「白雪姫」と揶揄されてはいるが普通以下ほどの端正で中性的な素顔が、嫌応なしに完全に露出してしまっていたのだ。

 

 

 

 

 

 暦は、ビジネスバッグを床に置き、愛息のそのあまりにも見事な、そしてあまりにも見慣れないヘアスタイルを正面から捉えた。

 

 

 

 

 総務部の中間管理職として、日頃から社員の服装の乱れやオフィスカジュアルの規定に目を光らせている暦の脳内センサーが、我が子のそのド派手な変貌に対して、一瞬だけ激しくアラートを鳴らす。

 

 

 

 

「まつり……。お前、その髪型は一体どうしたんだ? なんだか、随分と……その、編み込まれて、横に流れているというか、ピンで額が出ているというか……」

 

 

 

 

 暦が疲れ目に困惑の色を浮かべ、自分の頭を掻きながら尋ねる。

 

 

 

 しかし、まつりは自分の頭のサイドテールを指先で軽く弄りながら、全く動じることなく、むしろ淡々とした口調で、独特の感性を覗かせる言葉を返した。

 

 

 

 

「お父さん。僕の髪型のことは、今はいいんだ。それにこの髪型、ルーズサイドテール。結構、気に入ってるんだ。首のあたりが涼しいし、前髪が目に入らなくて視界がすごくクリアだから、本を読むときにも便利なんだよ」

 

 

 

 

「き、気に入っているのか……。いや、まあ、お前がそう言うならいいんだが。……それより、なんだかリビングの空気が妙に落ち着かないな。キッチンの恵の機嫌が良すぎるのも、逆に不穏というか、会社の役員面談の前日みたいな嫌な予感がするんだが……」

 

 

 

 

 

 暦は、総務部の中間管理職として長年培ってきた「社内のトラブルを察知する危機管理能力」。

 

 

 

 

 シックスセンスを発動させ、リビングの気配に微かな警戒心を抱いていた。彼はネクタイを完全に外すと、疲れ切った様子でソファへと深く腰掛け、両手で顔を覆った。

 

 

 

 

「すまん、まつり。今週は特に部内のトラブル処理が多くて、お父さんは本当に、心も体も疲れ切っているんだ。もし何か家庭内で新しい問題が起きているなら、お願いだから遠回しな言い方はしないで、単刀直入に言ってほしい。心の準備をするだけの体力が、もう残っていないんだ……」

 

 

 

 

 父親のその、魂が半分抜けかかったような懇願の言葉を耳にして、まつりはすっと表情を引き締めた。

 

 

 

 

 

 学校ではクラスの誰とも喋れない内気な少年だが、家族の前で、しかもこの最愛の父親が絶体絶命の危機に瀕しているとなれば、話は別だ。

 

 

 

 

 まあ、主に母親の暴走によってなのだが──

 

 

 

 

 まつりは藁をも縋る思いで、父親の正面に立ち、真剣そのものの瞳で、その決定的な言葉を告げることにした。

 

 

 

 

「わかった。……お父さん、単刀直入に言うね。結論から言うと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 リビングに、完全な、絶対的な静寂が訪れた。

 

 

 

 

 

 キッチンから聞こえていた恵のゴキゲンな鼻歌さえも、まつりのその言葉のボリュームに遮られたかのように、暦の耳には届かなくなる。

 

 

 

 

 

 暦は、両手で顔を覆ったままの姿勢で、完全に硬直していた。

 

 

 

 

 

 彼の脳内にある、中堅企業の総務部で鍛え上げられた高度な言語処理能力が、今、我が子が発した『お母さんがアイドルになるかもしれない』という日本語の文字列を、どうしても正しく理解することができずに、完全にエラーを起こしてシステムフリーズしている。

 

 

 

 

(……アイドル? 誰が? 恵が? 今年で四十二歳になる、俺の妻であり、現役のアパレルパートタイマーである、あの白雪恵が……アイドル……?)

 

 

 

 

 暦の脳裏に、数々の芸能事務所のオーディションや、きらびやかなステージの上で歌って踊る十代の少女たちの姿と、我が家で毎日「カッティングがー!」と叫びながらアイロンをかけている四十二歳の妻の姿が交互に浮かび、激しく衝突して火花を散らす。

 

 

 

 

 

 

 数秒の沈黙の後、暦はゆっくりと顔から手を離した。

 

 

 

 

 

 その顔は、会社の社長から直々に「来期から君が新規事業の総責任者だ」と告げられた時のような、絶望的なまでの困惑に染まっていた。彼は静かに頭を抱え、掠れた声で言った。

 

 

 

 

「……すまん。まつり、父さんが悪かった。俺の疲労のせいで、お前の言葉が幻聴のように聞こえたのかもしれない。頼むから、もう一回、一から、何がどうしてそうなったのかを説明してくれ。四十二歳でアイドルというのは、一体どういう高度な比喩表現なんだ?」

 

 

 

 

 

「比喩じゃないんだよ、お父さん。本当に、文字通りの意味なんだ」

 

 

 

 

 まつりは、父親の隣に腰掛け、今日の昼間に起きたすべての出来事を、順序立てて説明し始めた。

 

 

 

 

「今日、お母さんと一緒に、隣町の特設会場に『アイコネ』っていう、新しく始まるフルダイブ型VRアイドルのゲームのカードを買いに行ったんだ。そこでね、お母さんが一個百五十円のチョコウエハースから、あの超有名ブランドの『シャドー・ペトリ』のカードを引き当てたんだよ。それで、お母さんのアパレル魂に完全に火がついちゃって……」

 

 

 

 

 

「あ、ああ。アイコネか。テレビのニュースやネットの広告でも、大々的に取り上げられているな。最先端のVR技術を使った、新しい時代のエンターテインメントプロジェクト……。()()()()()()()()()()()()が『()()()()()()()()()()()()()()()()()』なんて騒いでいたから、名前だけは知っている。……だが、それがどうして恵がアイドルになる話に繋がるんだ?」

 

 

 

 

 

「……それでね、お母さん、そのカードのデータをゲーム内で使うための『コネクト・ギア』っていう、フルダイブ型の高額なVR機材をね、僕の十六歳の誕生日のプレゼントとして、買ってくれるって約束してくれたんだよ。それは本当にありがたいんだけど……」

 

 

 

 

 

 そこまで話した瞬間、暦の総務部的な「数字とスケジュールの管理能力」が、素早く反応してツッコミを入れさせた。

 

 

 

 

 

「待て、まつり。十六歳の誕生日って……お前の誕生日は、まだまだ先じゃないか!? まだ今は五月だぞ。お前の誕生日はもっと秋頃の、九月だろう? プレゼントの約束をするにしても、いくらなんでも気が早すぎるんじゃないか?」

 

 

 

 

 暦の指摘は、まさにぐうの音も出ないほどにごもっともだった。

 

 

 

 

 

 まつりはバツの悪そうな顔をして、ルーズサイドテールに結ばれた後ろ髪の毛先を指先でいじりながら、小さく息を吐いた。

 

 

 

 

 

「うん、お父さんの言う通りだよ。僕の誕生日は秋だから、まだまだ先。でも、お母さんは『アイコネのサービスが始まる来月が、衣服の歴史の転換点だから、そのタイミングで機材を揃えるのが、運命のドレスコードよ!』って言って、聞く耳を持ってくれなくて……。それだけなら、まだ僕への少し早い誕生日プレゼントっていうことで納得できたんだけど、問題はその先なんだ」

 

 

 

 

 

 

 まつりは声を潜め、キッチンの恵に聞こえないようにさらに真剣な顔になった。

 

 

 

 

 

「お母さん、自分の分の『コネクト・ギア』も、ネットの量販店で一緒に注文しちゃったんだ。合計二台。自分もその最高峰ブランドのカードを使って、アバターを作成して、アイコネのゲーム内のステージにプレイヤーとして、アイドルとして本気で参入するって言ってるんだよ。冗談じゃなくて、もうさっき予約完了の画面まで僕に見せてきたんだ。お母さん、マジなんだよ……!」

 

 

 

 

 

 

 まつりの口から明かされた、恵の「2台同時購入」および「四十二歳にしてバーチャルアイドル本気参入計画」という狂気の全貌を前にして、暦は再び深い沈黙へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 暦はゆっくりと視線を上げ、リビングの天井の一点を見つめた。その瞳は、まるで荒れ狂う大暴風雨の進路を見守る気象予報士のように、遥か遠い世界を見つめていた。

 

 

 

 

 

 長年連れ添った夫婦だからこそ、暦には痛いほど分かっていた。

 

 

 

 

 

 白雪恵という女性が、衣服のデザインや美学に関して一度そのスイッチを入れてしまったら、周囲の人間が何を言おうが、どれだけの常識を突きつけようが、絶対にその足を止めることはないという冷徹な現実を。

 

 

 

 

 

「……まつり。経験上、こんな時の母さんは、何を言っても止まらないよ」

 

 

 

 

 暦の口から漏れたのは、諦念という名の、絶対的な降伏宣言だった。

 

 

 

 

 

 

「会社でもな、こういう『天才肌で、自分のビジョンを百パーセント確信しているタイプ』の人間が動き出したら、総務部ができることは一つだけなんだ。止めることじゃない。その人間が暴れ回った後に発生する、莫大な予算の処理と、周囲の人間関係のフォローの準備を、あらかじめ裏で進めておくことだけなんだよ……。まさか、我が家でその総務部としての最大の危機管理を発動させることになるとは思わなかったがな……」

 

 

 

 

 

 

 暦の背中から、言葉では言い表せないほどの、深い悲哀と中間管理職としての哀愁がドロリと溢れ出し、リビングの空気を重く沈めようとする。

 

 

 

 

 

 その父親のあまりにも哀れで、けれど頼りがいのある背中を見て、まつりは自然と身体を動かしていた。

 

 

 

 

 

 彼はソファの上で膝立ちになると、暦のその丸まった両肩へと、自分の細く、白い両手をそっと置いた。

 

 

 

 

 

「……肩でもお揉みしますよ。お父様」

 

 

 

 

 まつりは、重度のコミュ症ゆえに外では絶対に他人を気遣うような言葉を発することができないが、家の中では、こうして疲弊した父親を労うための、生真面目で実直な優しさを発揮することが多々あった。

 

 

 

 

「……ありがとうな。まつり。お前のその優しい手が、今の俺の、すり減った魂の唯一の救いだ……」

 

 

 

 

 暦は目を閉じ、息子の細い指先が、自分の凝り固まった肩の筋肉を、一生懸命に揉み解そうとしてくれる心地よい刺激に身を委ねた。

 

 

 

 

 まつりは「ふん、ぬん」と小さな声を漏らしながら、父親の広い肩を揉み続ける。

 

 

 

 

 肩を揉まれている父親の背中からは、確かに、家庭内の大暴走に対する深い悲哀が漂っていた。けれど、その空間に流れる空気は、決して冷たいものではなかった。

 

 

 

 

 まつりは、肩を揉みながら、自分の内側にある不思議な感情について考えていた。

 

 

 

 

 学校という現実の社会では、僕のこういう「真面目で内向的な部分」や、母親のせいで無駄に詳しくなってしまった「ファッションやコスメの知識」、そして自分の唯一の逃げ道である「VRやゲームの知識」なんて、誰にも理解されないし、話す機会すら与えられない。

 

 

 

 

 ただの暗くて、気味が悪くて、前髪の長い『白雪姫』というレッテルを貼られて、世界の隅っこに押し込められているだけだ。

 

 

 

 

 

 しかし、この家の中では、この両親の前では、全く違っていた。

 

 

 

 

 どれだけ突飛で、どれだけ常識外れであっても、自分の内向的な性格も、持っている知識も、この両親だけは完全に受け入れて、日常の当たり前の風景として共有してくれている。

 

 

 

 

 

 お母さんが暴走し、お父さんがそれを深い諦めで受け止め、自分がその間を繋ぐようにして、生真面目に家の中のバランスを取っている。

 

 

 

 

 その奇妙な家族のあり方

 

 

 

 

 

 ドレスコードの完璧な調和の中にいることへの、強烈なまでの安心感と愛着が、まつりの胸を暖かく満たしていた。

 

 

 

 

「お父さん、結構、肩がガチガチに凝ってるよ。毎日、会社で大変なんだね」

 

 

 

 

 

「ああ……。総務部っていうのはな、まつり。誰もやりたがらない泥臭い仕事や、ルール違反をした人間の後始末を、全部引き受ける場所なんだ。だから、どうしても体中にストレスが溜まって、肩が凝る。……でも、まさか家に帰ってきてまで、妻の『アイドルデビュー』という、我が家の歴史上最大のルール違反の後始末について頭を悩ませることになるとはな……。本当に、人生は何が起きるか分からないな」

 

 

 

 

 

 暦が自虐的に笑うと、まつりも小さくクスリと笑った。ルーズサイドテールのおさげが、その動きに合わせて肩口でピコピコと可愛らしく跳ねる。

 

 

 

 

 

「あ、そうだ、お父さん」

 

 

 

 

 

 まつりは、暦の肩から手を離すと、ソファから立ち上がってキッチンの様子を伺った。

 

 

 

 

 

「お母さん、今日の夕ご飯の準備で、凄くテンションが上がってるみたいだから、お父さんが帰ってきてすぐにアイコネの話をしたら、またマシントークが始まって、お父さんの体力が完全にゼロになっちゃうと思うんだ。だから、今のうちに……」

 

 

 

 

 まつりは、暦に向かって、そっと優しい笑顔を向けた。

 

 

 

 

「お父さんの分の夜ご飯、レンジで温め直しておくね。お母さんには、僕から『お父さん、凄く疲れてるから、まずは先にお風呂に入ってもらうね』って伝えておくから。先にお風呂に入って、さっぱりしてきて」

 

 

 

 

 その、気配りが行き届きすぎている息子の完璧なコンシェルジュのような提案に、暦は目を開け、心底救われたような表情でまつりを見上げた。

 

 

 

 

 

「ありがとう。まつり。お前は本当に、気が利く良い子だな……。外見はいつの間にか、恵のせいで随分とスタイリッシュなことになっているが、その中身の生真面目さと優しさは、間違いなく俺の自慢の息子だ」

 

 

 

 

 暦はソファから立ち上がり、お風呂場へと向かうために廊下へと歩き出そうとした。

 

 

 

 

 しかし、その途中で、何かを思い出したようにピタリと足を止め、振り返って、まつりに向かって真面目な顔で、けれど少しだけ心配そうな声をかけた。

 

 

 

 

「……あ、そうだ、まつり。一つだけ、忠告だ」

 

 

 

「え? 何?」

 

 

 

 

「キッチンで夜ご飯の準備を手伝ったり、後で食器を洗ったりする時は……絶対に、お皿やグラスを割るなよ?」

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 

 まつりは、一瞬だけ言葉に詰まり、苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

「お前はな、ファッションやコスメの知識、『VRアイドル』の知識に関しては、専門家には劣るが、本当に凄いものを持っている。

 

 

 

 ……だが、その割には、昔から手先が本当に不器用というか、物理的な家事になると、途端にポンコツになるからな。

 

 

 

 最近も、()()()()()()()()()()()()()()をシンクで滑らせて割ったばかりだろう? 恵の機嫌が最高潮の時に、高価なお皿でも割ったら、それこそ我が家の総務部の手に負えない大惨事になるからな。気を付けるんだぞ」

 

 

 

 

「う、うん……。分かっているよ、お父さん。今回は本当に、細心の注意を払って、絶対に割らないように気を付けるね」

 

 

 

 

 

 まつりは、顔を少し赤くしながらも、生真面目にコクンと頷いて約束した。

 

 

 

 

 

 知識も天才的とはいえないが、物理的な作業になると途端にドジを踏む。

 

 

 

 そんな自分の致命的な欠陥であるポンコツさすらも、父親はすべて把握して、笑い話に変えてくれている。

 

 

 

 

「よし、じゃあお言葉に甘えて、先にお風呂に入らせてもらうよ。恵、お風呂に入るぞ!」

 

 

 

 

「ええ、ゆっくり入ってきなさい! 今夜は最高のご馳走なんだから!」

 

 

 

 

 キッチンからの恵の元気な声と、お風呂場へと向かう暦の足音を聴きながら、まつりはキッチンへと移動し、父親の夕食をレンジにセットするために動き出した。

 

 

 

 

 窓の外では、五月の夜風が静かにアパートのガラス窓を揺らしている。

 

 

 

 現実の世界の閉塞感とは無縁の、この優しくて少しだけおかしな白雪家のリビングで、家族の絆という名の温かいドレスコードに包まれながら、まつりたちの夜はゆっくりと、けれど確実に、間もなく訪れる電子の熱狂へのカウントダウンを刻みながら、更けていくのだった。

 

 

 

 

 






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