眩い電子のホログラムが放つ虹色の残像と、母親の「バーチャルアイドル本気参入・コネクト・ギア二台同時購入」という凄まじい衝撃波に揺れた土曜日の夜が更け、新しい朝がやってきた。
白雪まつりにとって、土曜日の夜から日曜日の朝にかけての移り変わりは、文字通り「儀式」の連続だった。
昨夜、父親の暦の凝り固まった肩を揉み解し、彼を無事にお風呂場へと送り届けた後、まつりは自らも一日の汚れと興奮を洗い流すために浴室へと向かった。
入浴に際して、彼はまず、日中に恵の凄まじい熱量によって頭部に施されていたスタイリングを一つずつ解除していった。
前髪を上品にアップにしていたシルバーのクロスヘアピンを一本丁寧に抜き取り、後ろ髪の複雑な編み込みを固定していたパステルカラーのシュシュを優しく外す。
シャワーの熱い湯を浴び、恵の執念が詰まった『ルーズサイドテール』を指先で丁寧に解きほぐしていく時間は、まつりにとって「外向きの武装」を解除し、本来の静かで内向的な自分へと戻るための大切なプロセスだった。
お風呂から上がった後も、白雪家における「いつも通りの夜のルーティン」は、寸分の狂いもなく厳格に遂行された。
まつりは洗面台の前に立つと、まずは大きめのタオルで濡れた髪の水分を徹底的に吸い取った。
その後、実家の少し旧式の、けれど風量だけは一人前のドライヤーを起動し、頭皮から毛先にかけて完全に乾燥させた。
髪を濡れたまま放置することは、キューティクルを傷つけ、翌日の髪の質感を著しく低下させる。それはアパレル人間の母を持つ息子として、幼少期から脳内に叩き込まれた絶対の禁忌。
まさにタブーだった。
髪を乾かし終えると、次は肌のケアだ。
まつりが並べたのは、彼が自らの小遣いをやりくりして厳選した、お気に入りの男性用スキンケアコスメのボトルだった。
世間の男子高校生がドラッグストアの安価な洗顔料だけで済ませている中、まつりの洗面棚には、彼の繊細な体質と肌質に合わせたアイテムが美しく整列している。
彼はまず、手のひらに『
角質層の隅々まで水分がいきわたるのを待ってから、今度は水分を閉じ込めるための『
べたつきを嫌う男性の肌特性を考慮した、みずみずしくも確かな保水力を持つそのコスメたちは、まつりの「白雪姫」と称される色白い美肌を維持するための生命線だった。
仕上げに、まつりはおろした状態のサラサラの髪を丁寧にまとめ上げ、シルク製のネイビーのナイトキャップの中に優しく収めた。
枕との摩擦による髪の傷みを防ぐためのナイトキャップを被ることも、肌の保湿をするのも、ドライヤーを入念に掛けるのも、すべては彼にとって、呼吸をするのと同じくらいに当たり前の、身体に染みついた「夜のルーティン」に他ならなかった。
そうして万全のケアを施して眠りについたはずのまつりだったが、やはり昨日の『アイコネ・エアインウェハース』の開封劇による精神的な興奮は、睡眠中の肉体に少なからぬ影響を与えていたようだった。
明けて、日曜日。
午前六時三十分を回った頃、アパートの窓から差し込む五月の清々しい朝の光に満ちたリビングへ、まつりは足を引きずるような、極めて重苦しい足取りで起きてきた。
「……うぅ……、頭が、重い……」
寝起きのまつりの第一声は、掠れた微小な呻き声だった。
ナイトキャップこそどうにか頭部に残っていたものの、昨夜の寝返りの荒さは尋常ではなかったらしく、キャップの隙間から溢れ出た数カ所の毛先が、まるでウサギの短い尻尾か、あるいはアンテナのように、ピコピコと完全に明後日の方向へと激しく跳ねてしまっている。
いつもなら前髪で完全に隠れているはずの素顔が、その跳ねた髪の隙間から覗いているが、その表情は絵に描いたような「朝に弱い低血圧な少年」そのものだった。
リビングのダイニングテーブルでは、すでに休日用のラフなポロシャツ姿に着替えた父親の暦が、淹れたてのコーヒーを片手に新聞を広げていた。
暦は、リビングの入り口で寝癖をピコピコと揺らしながら幽霊のように佇む息子の姿を見て、苦笑いを浮かべながら声をかけた。
「おはよう、まつり。……相変わらず、まつりは低血圧だな。顔が半分、まだ眠りの中に置いてけぼりになっているぞ。血圧が上がってくるまで、少しそこに座って温かいお茶でも飲むか?」
総務部の中間管理職として規則正しい生活を崩さない暦は、朝の白雪家のこの光景を何度も見届けてきた。
まつりのこの、朝一番の極端なエンジンのかかりの悪さは、白雪家の日常におけるお馴染みのドレスコードのようなものだった。
しかし、まつりは寝癖のついた頭を左右に小さく振ると、細い指先で自分の目元を軽く擦り、低血圧特有のハスキーな声で、けれどしっかりとした意志を込めて言葉を返した。
「……ううん、大丈夫だよ、お父さん。座ったら、本当に二度寝しちゃうから。……おはよう、父さん。じゃあ、僕たちは今から朝のジョギングしてくるから、先、朝ご飯、食べててね。お母さんの準備ができたら、すぐにスタートするから」
「お、おいおい、本当に大丈夫か? 昨日のあの、大混雑の行列で一日中連れ回された疲れが、まだ残っているんだろう? 無理をしないで、今日くらいはそのジョギングとやらを休みにしても、恵だって怒りはしないと思うが……」
暦が心配そうに新聞から目を上げて尋ねる。
しかし、まつりがそう答えた直後、リビングのドアが勢いよく開き、すでに完璧な機能美を誇るアパレルブランドの最新ランニングウェア。
純白のナイロンパーカーに、タイトな黒のレギンスに身を包んだ恵が、弾けるようなエネルギーを全身から放ちながら滑り込んできた。
「何を言っているのよ、あなた! アパレルを愛する者が、昨日の疲れごときで日課のルーティンを崩すなんて、それこそ最大のスタイル違反よ! さあ、まつり、ウェアに着替えて頂戴! 昨日はあの地獄の行列のせいで、朝のジョギングが丸々一日分スキップされてしまったんだから。今日という最高の日曜日の朝の空気の中で、二日分の汗を流して、身体の中の古いエネルギーを完全にデトックスするわよ!」
「うん、分かってるよ、お母さん。今すぐ着替えてくるね」
まつりは、恵のその鼓膜を震わせるようなハイテンションな号令に対しても、驚くほど冷静に、当然の義務を受け入れるようにして自室へと引き返していった。
その息子の後ろ姿を見送りながら、暦はコーヒーを一口啜り、呆れたように小さく肩をすくめた。
暦の目から見れば、恵のこの、睡眠時間を削ってでも美と健康のルーティンを遂行しようとするストイックさは、時に暴走気味の狂気、あるいは周囲を巻き込む災害のように映ることが多々あった。
昨日、あれほどの長蛇の列の中で体力をすり減らし、夜は夜で『アイコネ』の機材を二台も勢いで予約したというのに、翌朝には一ミリの衰えも見せず、むしろ昨日以上の熱量でジョギングへ向かおうとする母親。
普通なら、十代の男子高校生であれば「今日くらい勘弁してよ」と部屋に引きこもり、布団を頭から被って反抗してもおかしくない場面だ。
それなのに、まつりは嫌がるどころか、自らの明確な意志の元に、この母親のストイックな熱量に日々付き合い続けている。
それは決して、
まつり自身が、この母親の「衣服や美学に対して、一ミリの妥協も許さない圧倒的な生き様」を、心の底から尊敬し、愛しているからこそ、彼は自ら進んで、そのストイックな暴走の唯一の伴走者。
パートナーになることを選択していたのだ。
数分後、まつりはネイビーのシンプルなスポーツウェアに着替え、跳ねていた寝癖の髪を昨日貸してもらったクロスヘアピンで額の上へとすっきりとまとめ上げて戻ってきた。
(顔が見えるのは恥ずかしいけど、折角、貸してくれたから)
前髪が上がったことで、低血圧特有の少し眠たげな、けれど涼しげで美しい目元が露わになっている。
「よし、メンバーは揃ったわね! ルートはいつもの川沿いの並木道、五キロのロングコースよ! 白雪家の日曜朝のコレクション、スタートよ!」
「うん、行こう。……行ってきます、お父さん」
「ああ、行ってらっしゃい。二人とも、怪我だけはするなよ」
暦の穏やかな見送りの声を背中に受けながら、まつりと恵はアパートの玄関を飛び出し、五月の爽やかな朝の空気の中へと走り出した。
一歩、外へ足を踏み出した瞬間、ひんやりとした朝の風がまつりの色白い頬を撫で、眠気で燻っていた彼の脳細胞を心地よく覚醒させていく。
五月の朝の並木道は、新緑の葉が朝露に濡れて美しく輝き、鳥たちのさえずりが静かな住宅街に響き渡っていた。
昨日のみっともないほどの人混みや、電子の利権を語るウサギ型ロボットの殺伐とした気配とは完全に切り離された、圧倒的なまでの「現実の美しさ」がそこにはあった。
恵は、軽やかな足取りでまつりの半歩先を走りながら、規則正しい呼吸のピッチを刻んでいた。
そのランニングフォームは、無駄な脂肪が一切削ぎ落とされた彼女の美しいボディラインを最も効率的に躍動させる、計算され尽くしたスタイリッシュなものだった。
「ふぅ、はぁ……。やっぱり、朝の空気は最高ね、まつり! 現実のこの、五感で感じる風の抵抗や、足の裏から伝わるアスファルトの硬さ……。これらをしっかりと身体に叩き込んでおくからこそ、バーチャル空間という『完全な偽物の世界』にダイブした時にも、自分の軸がブレずに済むのよ。衣服を着こなすための体幹。
コアは、現実のロードの上でしか鍛えられないわ!」
「うん……、ふぅ、はぁ……。お母さんの言う通りだね。……僕も、走っていると、頭の中の、モヤモヤしたものが、すっきりしてくるよ……」
まつりは、恵のスピードに遅れないように必死に足を動かしながらも、一定のペースを維持して走り続けた。
彼の体力は、決してクラスの運動部の男子たちのように頑強なものではなかったが、この母親との毎朝のジョギングのおかげで、細い身体の奥底には驚くほどしなやかでタフな、持久力は普通の人以下とはいえ、備わっていた。
まつりは、走りながら、先ほど恵が口にした『バーチャル空間』という言葉の響きを、自らの胸の中で反芻していた。
昨日手に入れた、あの『スノー・ラビット』のSRカード。内気なプレイヤーの心理に寄り添った、露出を控えた純白のサテン生地のバニースーツ。そして、お母さんが本気で予約した二台の『コネクト・ギア』。
現実の世界では、自分は誰にも理解されない孤独な存在だ。
自分のこの、スキンケアに対する生真面目なこだわりも、ドライヤーやナイトキャップを使う夜のルーティンも、学校の男子たちに知られれば「男のくせに気味が悪い」と笑われるのがオチだろう。
だからこそ、彼は前髪を長く伸ばし、現実のドレスコード。
世間の常識という名の見えない檻の中で、息を潜めて生きてきた。
けれど、この母親は、自分のその繊細なこだわりを「最高の素材」。
アセットとして扱い、毎朝こうして同じ目線で、同じ世界を走ってくれている。
お母さんのこの、圧倒的なまでのストイックさと暴走気味の熱量は、時に周囲をハラハラさせるけれど、それは同時に、自分のような世界の隅っこにいる人間の心を、強引に、けれど最高にスタイリッシュに引っ張り上げてくれる、唯一の救いの光でもあった。
(だから……僕は、お母さんの暴走に付き合うのが、全然嫌じゃないんだ。むしろ、この人と一緒に走っている時だけが、僕は本当の意味で、自分の息ができる時間なんだよ)
並木道を吹き抜ける爽快な風が、まつりのヘアバンドの下の額ににじんだ汗を、優しく拐っていく。
二人の影が、朝日に照らされながら長い並木道のアスファルトの上に美しく並んで伸び、そして小気味よいリズムを刻みながら、どこまでも、どこまでも遠くへと駆け抜けていく。
白雪家の日曜日の朝のルーティンは、ただの健康管理のための運動ではなかった。それは、これから始まる電子の戦場に向けて、彼ら親子の絆と、衣服に対する絶対の美学を現実の世界に深く、強固にアンカリングするための、神聖な儀式そのものだったのだ。
五キロのコースを走り終え、心地よい疲労感と達成感に包まれながら二人が我が家のアパートへと戻ってくる頃には、まつりの低血圧は完全に吹き飛び、その瞳には、未来の熱狂を見据えるための、澄んだ、力強い光が宿り始めていた。
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