五キロメートルに及ぶ新緑の並木道を駆け抜けた朝のジョギングは、白雪まつりの血管の隅々にまで新鮮な酸素を送り届け、寝起きの低血圧で鉛のように重かった彼の肉体を完全に覚醒させていた。
「ただいま戻りました……!」
「ふぅ、最高のデトックスだったわね!」
アパートの玄関のドアを開けると、リビングからはトーストの香ばしい匂いと、父親の暦が淹れた二杯目のコーヒーの香りがふわりと漂ってきた。
まつりが着用しているネイビーのシンプルなスポーツウェアは、日差しが強くなり始める五月の紫外線を完璧に遮断する、高品質な高機能UVカット仕様のものだ。
これもアパレル人間の母・恵が「若いうちからの徹底的な光老化対策こそが、将来の肌のドレスコードを決定づけるのよ」と言って、まつりのためにわざわざ見繕ってきた一着だった。
まつりは洗面所へと向かうと、ジョギング中に額ににじんだ薄い汗を、肌を傷つけないように柔らかな清潔なタオルで優しく押さえるようにして拭き取った。
そして、鏡の前に立つ。
ジョギングの間、前髪が目元に下がって視界を遮るのを防ぐため、彼は昨日、母の恵から借りたシルバーのクロスヘアピンを使って、額の上へとすっきりとフロントの髪をまとめ上げていた。
まつりは細い指先を髪に滑らせ、その機能的なクロスヘアピンを一本、丁寧に、そして静かに頭部から外していった。
金属のピンが頭髪から解き放たれた瞬間──。
それまで上部へとタイトに固定されていた、白雪姫と揶揄されるほどの美しく色白い額を覆うように、長く、密度の高い、漆黒の前髪がパッと一瞬で解放された。
前髪はまつりの意思に従うようにして、彼の涼しげな目元と、現実の世界に対する繊細な警戒心を隠すための「いつもの完璧な防壁」となって、元の位置へと滑らかに流れ落ちていく。
部屋には付き物のカーテンのように
「ふぅ……」
鏡の中に映る、いつもの陰気で地味な「男子高校生・白雪まつり」の姿に戻ったことを確認し、彼は小さく安堵の息を吐き出した。
やはり、額を完全に晒しているスタイルは、家庭内とはいえ、内気な彼にとってはどこか落ち着かない「武装状態」だったのだ。
前髪のカーテンの裏側に身を隠して初めて、彼の心は真の平穏を取り戻す。
身支度を整え、スポーツウェアから動きやすい部屋着の白い薄手のカーディガンへと着替えてリビングへ戻ったまつりは、ダイニングテーブルの端に置かれた「あるもの」の存在に、ふと目を留めた。
「あ……そうだ。これ、まだ開けてなかったんだ」
そこに置かれていたのは、昨日、隣町のあの地獄のような大混雑の特設会場で死守した戦利品の残り──『アイコネ・チップス(うすしお味)』の袋が二袋だった。
昨日の帰宅直後は、ウエハースから飛び出した『シャドー・ペトリ』のレア(R)アクセサリと、インディーズブランド『スノー・ラビット』のスーパーレア(SR)『クラシカルバニートップス』という二大巨頭の出現により、リビングは興奮と羞恥の極限状態に陥っていた。
まつりは「主に母親のあまりにも激しすぎる暴走に精神的に疲れ果ててしまった」ため、とてもポテトチップスをのんびり食べるような気分にはなれず、そのまま放置してしまっていたのだ。
一方の恵も、その後はスマートフォンでの高額な『コネクト・ギア』二台同時のネット予約手続きや、量販店の在庫検索に完全に全神経を乗っ取られていたため、このチップスの存在を綺麗に失念していた。
結果として、二袋の『アイコネ・チップス』は、誰の手にも触れられることなく、日曜日の爽やかな朝の光の中で静かに取り残されていたのだった。
まつりがその袋を手に取って眺めていると、シャワーを浴びて髪をバスタオルで巻き上げた恵が、早くも新しいアパレル雑誌を小脇に抱えながらリビングへと戻ってきた。
彼女の鋭いスタイリストの目が、まつりの手元にあるスナック菓子のパッケージを捉える。
「あら、まつり。そういえばそれがあったわね! 『アイコネ・チップス(うすしお味)』! 昨日はウエハースの『スノー・ラビット』の衝撃があまりにも強すぎて、すっかりパッキングの裏側に意識がいかなくなっていたわ」
恵がテーブルに歩み寄り、まつりの隣から袋を覗き込む。
この『アイコネ・チップス』に同梱されているコーデカードは、ウエハースのように袋の内部にお菓子と並んで入っているタイプではない。
スナック菓子のパッケージの裏面に、特殊な透明粘着テープで「銀色のパック」が直接貼り付けられている、トレーディングカード系食玩としては極めてオーソドックスで、かつクラシカルな仕様になっていた。
この銀色の遮光パックの中に、プレイヤーの運命を左右する電子の刻印が、一枚だけ封印されているのだ。
「ウエハースであれほどの奇跡を起こした私たちのシックスセンスの『引き』だもの。このチップスのパックにも、絶対に何かしらのファッショナブルな運命が宿っているに違いないわ。……さあ、まつり。昨日の熱狂の続きを見せてもらおうじゃないの。このチップスのパック、二人で同時に開けましょ!」
「良いアイデアだね。賛成だよ。お母さん。でも、シックスセンスの『引き』ってなに?」
恵はそう言うと、一袋のポテトチップスを手に取り、裏面の銀色パックの端を器用に指先でつまんだ。
まつりも釣られるようにして、もう一袋のチップスを手に持ち、その裏側に張り付いている銀色のパックへと指をかける。
昨日のウエハースでのSR引きの記憶が蘇り、まつりの胸の奥が、再びドクドクと小さく緊張のビートを刻み始める。今度は一体、どんな衣服の断片が飛び出してくるのか。
恵は楽しそうに目を細め、カウントダウンの音頭を取った。
「いくわよ、まつり。──せーの!」
パサリ、と同時に銀色の遮光アルミパックが、左右に綺麗に破り裂かれた。
まつりは、破れたパックの隙間から、中に滑り込んでいるプラスチック製のカードの端を慎重に指先で挟み、外へと引き抜いた。
その瞬間、日曜日の朝の澄んだ光を浴びたカードの表面が、独特のメタリックな輝きを放つ。昨日のSRのような派手な虹色のホログラムエフェクトこそないものの、そのカードの背景には、まつりにとってあまりにも見覚えのある「ある意匠」が、明確な個性を伴って描かれていた。
カードの上部に印字されたブランドのロゴマーク。それは、雪の結晶とウサギのシルエットを組み合わせた、あの限定インディーズブランドの紋章──。
「やった……! また……
まつりは、普段の陰気で内向的な彼からは絶対に想像もつかないほど、無意識のうちに右拳を力強く握り締め、胸の前で小さなガッツポーズを繰り出していた。
学校では自分の感情を百分の一も表現できない少年が、この瞬間だけは、自らの内に眠るカードゲームやデータ収集に対する純粋なオタク的熱狂。パッションを、完全に爆発させていた。
「嘘でしょう!? またそのバーチャルインディーズを引き当てたの!? あなた、そのブランドのデザイナーに完全にストーキングされているんじゃないかしら!?」
恵も驚愕の声をあげ、まつりの手元を覗き込んできた。
まつりが引き当てたカードの詳細は、以下の通りだった。
カード名:『アクティブ・ライブイヤー』
レア度:N(ノーマル)
スロット:【ヘッド(頭部アタッチメント)】
スタイル:【ラブリー系】
タイプ:兼用コーデ(アバター1 / アバター2 共通)
ブランド:『スノー・ラビット』
「ヘッドパーツ……! しかも、昨日のトップスのドレス。
クラシカルバニートップスと、完全に同じ兼用タイプ、同じブランドの、同じウサギモチーフのアイテムだよ……!」
まつりは、興奮を抑えきれない様子でカードのスペックを読み上げていた。
ゲームのコレクションにおいて、同じブランドのアイテムを複数のスロットで揃える「同ブランドコンボ(レーベル・ソリッド)」は、アバターの見栄えだけでなく、ゲーム内のステータスやステージでのシンクロ率を飛躍的に高めるための基本にして王道の戦略だ。
それを、わずか数個の食玩の購入だけで、トップスとヘッドという最重要部位においてストレートに成立させてしまったのだ。これは確率論を超えた、まさに「チップスの奇跡」と呼ぶにふさわしい引きだった。
「ふむ……。レア度こそN(ノーマル)だけど、このビジュアルの完成度は素晴らしいわね。シャドー・ペトリのカードはお母さんに渡して、あなたもあれで完全に納得したでしょう? だからこそ、あなたの元には、あなたのための『純白』がこうして吸い寄せられるように集まってくるのよ」
「ええ。そうね。シャドー・ペトリのイヤーカフはお母さんのカード。それはもう、僕の中で完全に整理がついているよ。……でも、お母さん、このカードの見た目のグラフィック、よく見てよ……」
まつりはガッツポーズを解くと、突如としてその声のトーンを落とし、前髪のカーテンの奥にある瞳を、じっとりと困惑の色で染め始めた。
カードの中央に描かれていたグラフィック。
それは、一切の濁りがない純白の厚手サテン生地で作られた、美しくも愛らしい「
耳の付け根のベース部分はスマートなカチューシャ状になっており、そこから頬のラインに沿うように、極細のインビジブル・ヘッドセットマイクがエレガントに伸びている。
ステージ上で両手にマイクを持つ必要がなく、完全にフリーハンドでダンスパフォーマンスに専念できるように設計された、機能美溢れるサイバー・ウサ耳パーツだ。
グラフィックとしての美しさは、プロのアパレル人間である恵の目から見ても文句のつけようがないものだった。
しかし、それを目にした恵の端正な顔立ちに、じわじわと、底意地の悪い、けれど最高に楽しそうな「悪魔の微笑」がニヤリと浮かび上がっていく。
「ふ、ふふ……。あはは! 面白いじゃないの、まつり! 今度は『白い耳』? これで昨日引き当てた、あの控えめなVネックのカッティングが施された純白のバニースーツ(トップス)と、このウサ耳ヘッドセットが揃ってしまったわけね。……これ、客観的に見て、システム側からの明確なメッセージだわ。
「も~~~~~お母さんっっっ!!!! 辞めてよねっっっ!!!!!」
まつりは、瞬時に自分の顔面が沸騰したかのように真っ赤に染まるのを感じ、両手で顔を覆い隠しながら、ダイニングテーブルの上で激しく抗議の声をあげた。
せっかくジョギングの後にクロスヘアピンを丁寧に外して、前髪のカーテンを解放して恥ずかしさを隠していたというのに、母親のそのあまりにも的確で容赦のないツッコミのせいで、防壁の裏側の素顔まで完全に羞恥の色彩で焼き尽くされてしまう。
「バ、バニーガールのアバターだなんて、僕は男なんだから絶対にあり得ないよ! たまたま兼用タイプのカードが二枚続けて出ただけで、これはただの確率のイタズラなんだから! 僕はフルダイブしたって、絶対に普通の、目立たない男子高校生のアバターで遊ぶんだからね!」
「往生際が悪いわよ、まつり。衣服というものはね、着用者を選ぶのと同時に、衣服の側からも着用者を強烈に指名するものなの。この『スノー・ラビット』の仕立ての美学が、あなたのその色白い肌と内気な精神性。
あなたのそのキャラクターを求めて、二度もあなたの前に顕現したのよ? それに、このウサ耳の解説テキストを読みなさいな。持ち主の感情に応じて、耳のモーターが勝手にピコピコ動いて本心が筒抜けになるデメリットギミックがあるんですって? 素晴らしいわ! あなたがステージの上で恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、頭の上の白い耳がヘニャリと折れ曲がって、観客の保護欲を狂気的なまでに刺激するのよ! こんなの、計算で作れる演出じゃないわ、天才の仕業よ!」
「そんなのただの公開処刑だよ! 恥ずかしさで脳のニューロンが焼き切れて、コネクトギアから強制ログアウトになっちゃうよ! 嫌だ、絶対に嫌だ!」
まつりは涙目になりながら、自らのバニー化という恐るべき近未来の運命から、どうにかして必死に目を逸らそうと、脳内の知識の引き出しをフル回転させて、必死の反論。
ロジックを組み立て始めた。
「それに! それにほら、お母さん! 落ち着いて考えてみてよ! アイコネのトータルコーディネートは、全部で五つのスロットが必要なんだよ!? 今手元にあるのは『トップス』と『ヘッド』の二つだけ。
まつりは、カードのシステム仕様を盾にして、必死に防波堤を築こうとした。
「この先、残りの三つのパーツで、全然違うブランドの、例えばもの凄くゴツゴツしたミリタリー系のズボン(ボトムス)とか、サイバー系のスニーカー(シューズ)が出たら、このウサ耳とバニースーツの組み合わせなんて、チグハグになってコーディネートとして完全に崩壊しちゃうでしょ!? それに、アイコネの正式サービス開始まで、まだ丸々一ヶ月も先の話なんだよ!? 一ヶ月もあったら、世界中のプレイヤーがカードを買い漁って、もっと別の、地味で普通の、僕にぴったりのカジュアルウェアのカードがたくさん市場に流通するはずなんだ。だから、僕がバニーになるなんて、絶対に、絶対に決まってないんだからね……っ!」
まつりは前髪の隙間から、ゼェ、ゼェ、と荒い呼吸を漏らしながら、自らの「バニー回避理論」を熱弁しきった。
それを見た恵は、アパレル雑誌のページをパラリとめくりながら、フッと鼻先で優しく、そしてどこか哀れみの混じった慈愛の笑みを浮かべた。
「ふふ、いいわ。そこまで必死になって運命のドレスコードから、あがき、逃げ回るあなたの姿も、それはそれで内気なウサギらしくて、見ていて最高に愛くるしいもの。……一ヶ月の猶予ね。いいでしょう、その一ヶ月の間、あなたがどんなに普通の服。カジュアルさを求めて足掻くのか、お母さんは特等席で見物させてもらうわ。でもね、まつり。アパレルを愛する神様が一度編み上げたプロトコル。
計画はね、そう簡単に人間の小細工では書き換えられないものなのよ……?」
恵のその、すべてを見透かしたかのような絶対的な予言の言葉に、まつりはそれ以上言い返す言葉を失い、ただただ自分の部屋着のカーディガンの袖をぎゅっと握りしめて、赤くなった顔を俯かせるしかなかった。
チップスの奇跡がもたらした、二片目の純白の刻印『アクティブ・ライブイヤー』。
それは、まつりがどれだけ拒絶しようとも、彼をバーチャル世界の深淵──無名のアバター『ラビ』としての絶対的な誕生へと導くための、逆らうことのできない運命のカウントダウンの音を、日曜日の静かなリビングに、より一層大きく、鮮明に響かせる結果となったのだった。
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