雪結(ユキネ)   作:旧作

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第十七話 家事の手伝いと、恵の辛辣な愛

 

 

 

 

 チップスのパックから飛び出した二枚目の『スノー・ラビット』──ノーマルパーツであるはずの『アクティブ・ライブイヤー』という純白のウサ耳ヘッドセットのカードは、白雪まつりの精神的な防波堤をいとも容易く粉砕してしまった。

 

 

 

 

 赤面し、羞恥の極限に達したまつりは、これ以上リビングに留まって母親の恵から「バーチャルバニーガール化計画」の容赦ない追撃という名のマシンガントークを受け続ければ、本当に自らの脳内ニューロンが焼き切れてしまうという強い危機感を抱いていた。

 

 

 

(ダメだ……。これ以上、アイコネのカードやアバターの話を続けたら、お母さんのアパレル脳にどんどん新しい燃料を注ぐことになってしまう。今はとにかく、この電子の熱狂から離れて、地に足のついた現実の、実生活のルーティンに意識を強制的にシフトさせないと……!)

 

 

 

 まつりは前髪のカーテンを指先で少しだけ整え、沸騰した頭を物理的に冷却するように一つ大きく深呼吸をした。

 

 

 

 そして、これ以上の暴走を食い止めるための最も平和的かつ建設的な手段として、目の前にある「現実の家事」に自らの身体を投じることを決意した。

 

 

 

 彼は椅子から立ち上がり、キッチンカウンターの向こう側で、朝の慌ただしさを残したまま佇んでいる恵へと向かって、極めて生真面目なトーンで声をかけた。

 

 

 

「……お母さん。何か手伝うことないかな? ジョギングも終わって、僕も身体がすっかり動くようになったし、何かできることがあればやらせてほしいんだけど」

 

 

 

 その息子の殊勝な申し出に対し、恵はアパレル雑誌からパッと目を離すと、嬉しそうにパチパチと瞬きをした。

 

 

 

「あら、まつり。自分からお手伝いだなんて、今日は随分と家庭内でのホスピタリティが高いじゃないの。素晴らしい心がけだわ! じゃあ、ちょうど良かったから、そこに溜まっている朝の食器を洗って、水切りカゴに並べてから、乾燥機に入れておいて頂戴。私はその間に、あなたのお父さんが読み終わった新聞の整理と、今日の洗濯物の仕分けをやってしまうから」

 

 

 

「わかったよ。お母さん。任せておいて」

 

 

 

 まつりは小さく頷くと、白い薄手のカーディガンの袖を丁寧に肘のあたりまで捲り上げた。

 

 

 

 そして、白雪家の少し年季の入ったステンレス製のシンクの前に立ち、水道の蛇口をひねった。ザーッという心地よい水の音がリビングに響き渡り、まつりはスポンジを手に取って、家庭用洗剤を数滴染み込ませた。

 

 

 

 真面目に、そして直向きにシンクに向かい合い、お皿やグラスの汚れを一枚ずつ落とそうと奮闘し始める息子のその後ろ姿。

 

 

 

 それを見つめながら、恵はリビングのダイニングテーブルで再び新聞を開き始めた夫の暦の方を向き、声を一段階トーンダウンさせて、満足げな優しい微笑みをその唇に湛えた。

 

 

 

 

「……ふふ。それにしても、まつりがこうして自発的に家事を手伝ってくれるなんて、本当に助かるわよね。学校ではお友達と上手くお喋りできない内気な子だけど、家の中では本当に優しくて、親思いの良い子に育ってくれたわ。あなた、そう思わない?」

 

 

 

「ああ、全くだな。総務部の中間管理職として色々な若者を見てきたが、我が息子ながら、まつりのあの実直さと真面目さは、今の時代、本当に貴重な美徳だと思うよ」

 

 

 

 暦も新聞の端から目を細め、息子の背中に向けて温かい視線を送っていた。

 

 

 

 白雪家のリビングには、日曜日の朝特有の、穏やかで平穏な家族の調和

 

 

 

 シンクロニシティが満ち溢れているかに見えた。

 

 

 ──しかし、その平和な調和は、わずか数十秒の後に、恵の鋭すぎるアパレル・アイによって一瞬にして破られることになる。

 

 

 

 

 

 恵は、洗濯物を仕分けるためにキッチンの脇を通ろうとしたその瞬間、シンクの前でスポンジを動かしているまつりの「手の動き」と、その信じられないほど非効率的な「作業プロセス」を完全に視界に捉えてしまった。

 

 

 

 

 

 その瞬間、彼女のスタイリストとしての、そして主婦としての徹底的な「美学と効率性」を司るセンサーが、激しいアラートを発した。

 

 

 

「……って、ちょっと待ちなさい。 my son(マイ・サン)!!!!」

 

 

 

 

 リビングの空気を切り裂くような、あまりにも突然の、そして本場仕込みの完璧で美しい発音による恵の叫び声が響き渡った。

 

 

 

「っ!?!?!?」

 

 

 

 まつりは驚きのあまり心臓が跳ね上がり、危うく手に持っていたお皿をシンクの中に落としそうになりながら、ロボットのようなぎこちない動きで母親の方を振り返った。

 

 

 

 

 前髪の隙間から覗くその瞳は、完全に恐怖に怯える小動物(ウサギ)のようだった。

 

 

 

 

 

「ねえ、まつり。アンタ、本当に手先が不器用よね!!! 一体全体、どうしてそんなに不経済で、非効率的なスポンジの動かし方ができるのかしら!? 見ていて私のタイムマネジメント感覚がゲシュタルト崩壊を起こしそうだわ!」

 

 

 

 

「お、お母さん……っ!? 酷くない? その言い草は……! 僕はこれでも、凄く真面目に、お皿を綺麗にしようと思って一生懸命洗っているんだよ……?」

 

 

 

 

 

 せっかく良かれと思って家事を手伝っている手前、それ以上激しく声を荒らげて言い返すことはできないものの、あまりにもバッサリと、容赦なく切り捨てられたその言い草に対して、まつりは不満そうに唇を尖らせた。

 

 

 

 

 不器用なりに精一杯の努力を尽くしているのに、なぜそこまで辛辣に言われなければならないのかと、彼の生真面目な自尊心は少しだけ傷ついていた。

 

 

 

 

 しかし、当の恵の目には、その唇を尖らせてふて腐れている息子の姿は、決して不快なものではなかった。

 

 

 

 むしろ、その辛辣な言葉の裏側には、彼女の「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」への、言葉にできないほどの深い愛着と愛おしさが、これでもかと滲み出ていた。

 

 

 

 

 恵は腰に両手を当て、まるでお説教をするファッションデザイナーのような堂々たる態度で、まつりに向かって言葉を続けた。

 

 

 

「酷くなんてないわよ、完全なる客観的事実を告げているだけだわ。いい? まつり。アンタの頭脳の中にある、ファッションやコスメの専門知識、それから衣服の歴史や色彩の調和に関するロジック、それから……そうね、アンタがさっき熱弁していた『VRアイドル』や『アイコネ』の仕様に関するデータや知識。それらに関しては、そこらの中途半端な専門学校生と比べると、あなたは劣るレベルよ」

 

 

 

 恵は一度言葉を区切り、まつりの目を真っ直ぐに見つめた。

 

 

 

「でもね、私が見たって本当に感心する所もあるの。プロの私から見ても『お、まつり、なかなか筋のいい視点を持っているじゃないの』って、思わず唸らされるような独特の感性や、知識の深さを、アンタは確かにその小さな頭の中に持っているわ。そこは間違いなく、私の息子としての素晴らしい才能よ」

 

 

 

 

「お母さん……」

 

 

 

 褒められたのかと思い、まつりが少しだけ表情を緩めかけたその刹那、恵の言葉のナイフは再び容赦なくその核心を突き刺した。

 

 

 

「──それなのに! 持っているというのに……! どうして物理的な、実生活の単純作業になると、途端にそんなにポンコツで、不器用で行き届かない動きになっちゃうのかしらね!? 脳内の高度なロジックが、どうしてその指先の末梢神経に一ミクロンも伝達されていないのよ! いい? スポンジの泡をそんな風に無駄に円運動させたら、お皿のフチの油汚れがスライドして裏側に付着するだけでしょ! 直線的に、かつエッジを意識して一方向に拭い去るのが、クレンジングの基本であり、食器洗いのリアル・ワークよ!」

 

 

 

 恵は息を吸い、さらに致命的な過去の履歴。

 

 

 データを突きつけた。

 

 

 

「第一、アンタは前科があるでしょう! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()じゃないの! 知識は一丁前なのに、物質を扱う能力が壊滅的に欠如しているのよ!」

 

 

 

 

「うぅ……それは……、あの時は、洗剤の泡が予想以上に滑りやすくて、僕の摩擦係数の計算が少しだけ甘かったというか……」

 

 

 

 

 まつりは完全に論破され、消え入りそうな声で言い訳を呟きながら、再び前髪のカーテンの奥へと顔を埋めるようにして俯いてしまった。

 

 

 

 

 確かに、母親の言うことは一言の反論の余地もないほどに、全面的に正しかった。

 

 

 

 

 まつりは自らの胸の中で、冷静にその事実を認めざるを得なかった。

 

 

 

 

 自分の頭の中にあるファッションやコスメの知識、そして『VRアイドル』に関する知識。それらは、世間一般のプロの専門家や、その道を専門に学ぶ学生たちに比べれば、まだまだ「劣っている」というのが客観的な事実だ。

 

 

 

 

 

 自分はただ、部屋の片隅で膨大なデータを収集し、それを独自の感性で組み立てて楽しんでいるだけの、一人の内向的なオタクに過ぎない。

 

 

 

 そして何より、手先が致命的に不器用なことも、完全に当たっていた。

 

 

 

 どれだけ頭の中で「完璧な衣服の構造」や「効率的な家事のシミュレーション」を構築できていたとしても、それをいざ自分の「肉体」という物理的なデバイスを使って現実の世界に出力しようとすると、途端に配線がショートしたかのように、不器用で、ぎこちなくて、ポンコツな動きになってしまう。

 

 

 

 

 

 お気に入りのマグカップを粉砕したあの瞬間の、ガシャーンという絶望的な破片の音は、未だにまつりのトラウマとして深く刻まれていた。

 

 

 

 

 ダイニングテーブルの向こうでは、父親の暦が「ほら言わんこっちゃない」という表情で、静かにコーヒーを啜りながら、親子のそのコミカルなやり取りを温かい目で見守っていた。

 

 

 

 

 昨日、暦がまつりに言った『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』という忠告が、まさに今、完璧な形で証明されてしまったわけだ。

 

 

 

 恵は、完全に意気消沈して小さなウサギのように丸くなってしまった息子の背中を見て、ふっと声を柔らかくし、その頭を優しくポンポンと叩いた。

 

 

 

「まあ、いいわ。アンタが真面目に私を助けようとしてくれた、その『マインドの美しさ』には、満点をあげちゃうから。ほら、そのお皿は私が仕上げをするから、お水で手を洗って、袖を下ろしなさいな」

 

 

 

「……うん。ごめんなさい、お母さん。ありがとう」

 

 

 

 まつりは大人しくスポンジを置き、流水で綺麗に手を洗うと、捲り上げていた白いカーディガンの袖をゆっくりと元に戻した。

 

 

 

 手先は不器用で、家事の手伝いとしてはポンコツな結果に終わってしまったけれど、彼の胸の奥には、母親からの「辛辣だけれど、自分のすべてを理解し尽くしてくれている深い愛」が、確かな温もりとなってじんわりと広がっていくのを感じていた。

 

 

 

 恵はシンクを引き継ぎながら、思い出したようにまつりの背中に向かって、明るい声をかけた。

 

 

 

「あ、そうだわ、まつり。終わったらで良いから、そこの机の上に置いてある、アンタの分の朝ご飯、早く食べちゃって頂戴ね。せっかくジョギングで良い汗を流したんだから、早めに栄養を補給しないと、筋肉のゴールデンタイムを逃しちゃうわよ」

 

 

 

「あ……ありがとう、お母さん。そういえば、僕、起きてからまだ何も食べてなかったから、お腹がペコペコだったんだ」

 

 

 

 まつりは言われるがままに、ダイニングテーブルへと移動した。

 

 

 

 暦の向かい側の席に座ると、そこには、まつりのために用意された白雪家の「いつも通りの、完璧な日曜日の朝食」が、美しく並べられていた。

 

 

 

 机の上には、炊きたてのふっくらとした白いご飯、湯気がふわりと立ち上るお豆腐とワカメの温かいお味噌汁、そして、丁寧に混ぜ合わされて程よく泡立った、大粒の納豆。

 

 

 

 それは、どれだけ家庭内が『アイコネ』の電子の熱狂に揺れ動こうとも、どれだけ母親がバーチャルアイドルデビューという狂気の計画をぶち上げようとも、決して変わることのない、白雪家という確固たる現実の、そして日常の象徴そのものだった。

 

 

 

「いただきます」

 

 

 

 まつりは静かに手を合わせ、お箸を手に取った。

 

 

 

 お味噌汁を一口含むと、出汁の優しい風味が五臓六腑にしみ渡り、ジョギングの疲れを芯から癒していく。白いご飯の上に納豆を乗せて口に運ぶその瞬間、まつりは、この何気ない、けれど絶対的な安心感に満ちた家庭の風景に、心からの愛着を感じずにはいられなかった。

 

 

 

 外の世界では、クラスの誰とも馴染めず、地味で陰気な存在として扱われている自分。

 

 

 

 けれど、この家の中には、自分の知識の偏りも、手先の不器用さを含めたポンコツさも、そしてこれから始まるかもしれない、あの純白のウサギ。

 

 

 バニーとしての奇妙な運命すらも、すべてを笑い声と共に受け入れ、肯定してくれる、最高の両親がいる。

 

 

 

(お母さんはあんな風に言うけれど……。もし、本当に僕が、あの『スノー・ラビット』のカードを使って、アイコネのステージに立つことになるんだとしたら……。その時も、きっとこの二人は、僕の背中を、一番近くで、一番スタイリッシュに押してくれるんだろうな)

 

 

 

 まだ見ぬ一ヶ月先の、電子のバーチャル空間。

 

 

 

 純白のバニースーツに、今日引き当てた『アクティブ・ライブイヤー』の白いウサ耳ヘッドセットを頭に乗せた、自分のもう一つの姿──無名のアバター『ラビ』としての誕生へのカウントダウンは、今、この日曜日の朝の、家族の温かい笑い声と、お味噌汁の湯気の向こう側で、静かに、けれど確実に、その歩みを進めていた。

 

 

 

 まつりは、納豆ご飯を美味しそうに頬張りながら、前髪のカーテンの奥にある瞳を少しだけ細め、間もなく訪れるであろう、衣服と電脳が織りなすパラドックスに満ちた未来へ向けて、静かに、けれど心地よい覚悟を決めるのだった。

 

 







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