雪結(ユキネ)   作:旧作

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第十九話 フルダイブでも、転売ヤーは現れる

 

 

 

 

 

 

 あの怒濤の『アイコネ』限定先行体験会と、そこで手に入れた数個の限定食玩を巡る白雪家の狂騒劇から、数えて二週間という月日が流れていた。

 

 

 

 

 

 

 時間が経つのは本当に早いもので、あの日、隣町の特設会場で味わった目眩がするほどの人混みの熱気や、ウサギ型ナビゲーションロボット『ラビ』を巡る電子的な利権の生々しい気配、そして何よりも、我が家のリビングを文字通りパニックに陥れた『スノー・ラビット』のスーパーレア(SR)トップスの出現という衝撃の記憶すらも、五月の爽やかな季節の移り変わりと共に、少しずつ日常のグラデーションへと馴染みつつあるように思えた。

 

 

 

 

「──ふぅ、はぁ……。ふぅ、はぁ……」

 

 

 

 

 五月も中旬を過ぎ、朝の空気にはほんのりと初夏の瑞々しい汗の匂いが混じり始めていた。

 

 

 

 

 白雪まつりは、いつものようにネイビーの高機能UVカット仕様のスポーツウェアに身を包み、額の長い前髪を母親の恵から借りたシルバーのクロスヘアピンでタイトに固定したスタイルで、並木道のロードを軽快に駆け抜けていた。

 

 

 

 

 アスファルトを蹴る足元には、毎朝の過酷な運動に耐え続けている履き慣れたランニングシューズ。

 

 

 

 

 半歩先を走る恵の、一ミリのブレも崩れもない完璧なプロポーションの背中を追いかけながら、まつりは呼吸のピッチを刻み、頭の中でここ数日間の出来事を静かに回想していた。

 

 

 

 

 一週間前、ついに全国のプレイヤーが首を長くして待ち望んでいた『アイコネ・エアイン・ウェハース』および『アイコネ・チップス(うすしお味)』第一弾の()()()()()()が開始された。

 

 

 

 

 

 先行体験会に行けなかった何百万、何千万という全国の潜在的ユーザーたちが、一斉に現実の市場へと解き放たれる運命の日。

 

 

 

 

 まつりは、これでようやく市場に大量のカードが流通し、自分が怯えている「バニーガール化の運命」を覆すような、地味でカジュアルなコモンやノーマルのアバター1用の衣服カードが安価で手に入るようになるだろうと、極めて楽観的な観測を抱いていたのだ。

 

 

 

 

 

 だが──現実の世界という名のドレスコードは、十代の男子高校生の甘い見通しなど、あざ笑うかのように無残に踏みにじってみせた。

 

 

 

 

 現在、白雪まつりたちの住む地域一帯、いや、この国全体のホビー市場は、開発運営の想定を遥か斜め上へと超越した、想像を絶する規模の『()()()()()()』の直撃を受け、完全に機能不全に陥っていた。

 

 

 

 

「……ねえ、まつり。ちょっとあそこの角のノ◯ソン、スピードを落として棚の様子を見てちょうだい。一応、ラグジュアリーな生存確認のリサーチよ」

 

 

 

 

 

 

 前方を走る恵が、ランニングの美しいフォームを崩さないまま、キリッとした鋭い声で指示を出す。

 

 

 

 

「うん、わかった。……ちょっと、速度を落とすね」

 

 

 

 

 

 まつりは呼吸を整えながら、毎朝のジョギングコースのちょうど中間地点にある、地域でも比較的大きめの駐車場を備えたコンビニエンスストアへと視線を向けた。

 

 

 

 

 

 二週間前なら、朝のこの時間帯にはトラックの運転手や出勤前の会社員がのんびりと缶コーヒーを眺めているだけの、至って平和な街の風景だった場所だ。

 

 

 

 

 しかし、そのガラス窓越しに見える店内、お菓子売り場の一角は、遠目から見ても明らかに「異常」な色彩を放っていた。

 

 

 

 

 新商品のポップや『アイコネ第一弾、堂々発売!』と書かれた鮮やかな販促用の紙製什器だけが、虚しくも派手に飾り立てられている。

 

 

 

 

 だが、その棚の内部には、商品のパッケージはおろか、ただの一粒のチョコレートの粉すら残されていなかった。完全なる『無』。

 

 

 

 

 そこにあるのは、文字通りもぬけの殻となった、冷徹なスチールの棚板だけだった。

 

 

 

 

「……ダメだよ、お母さん。やっぱり、棚は完全に空っぽ。ウェハースやチップスが入っていた紙製のディスプレイだけが虚しく残っている状態だよ」

 

 

 

 

 まつりは並走する恵に、落胆の混じった声で報告した。

 

 

 

 

「チッ……、やっぱりね。これで今朝だけで四店舗目よ。全滅じゃないの……!」

 

 

 

 

 恵はランニングのピッチを落とすことなく、美しい眉を不快そうに跳ね上げ、美形な顔立ちに隠しきれない苛立ちの陰を落とした。

 

 

 

 

 そう、一般販売が開始されたその瞬間から、まつりたちの住む地域の店舗という店舗は、文字通り「()()」という言葉の通りの壊滅的な被害を被っていた。

 

 

 

 

 

 近所の小規模なコンビニエンスストアはもちろんのこと、地域住民の生活を支える大型スーパーマーケットの食玩コーナー、果ては駅前の調剤薬局に併設された小さなお菓子売り場やドラッグストアに至るまで、あらゆる商業施設から『アイコネ』のロゴが入った銀色のアルミパッケージが、忽然と姿を消したのだ。

 

 

 

 

 

 

 発売日の早朝、店舗の開店と同時に店内に雪崩れ込んだ熱狂的なファンや、あるいは組織的な動きを見せる一団によって、棚に並んだBOXは数秒のうちに買い物カゴへと掃き清められた。あるスーパーでは、店員が段ボール箱から商品を棚に並べる前に、カートごと強奪されるような騒ぎさえ起きたという。

 

 

 

 

 

 現在では、どこのお店に行っても「アイコネ食玩シリーズは次回入荷未定です」「お一人様一会計につき一個まで(※現在在庫切れ)」という、お詫びと警告の白い張り紙が、まるで敗戦のビラのように寂しくペタペタと貼り付けられているのが常態化していた。

 

 

 

 

 市場の飢餓感は、物理的な実店舗の限界を遥かに超えて、インターネットの電脳空間へとさらに深く、悪質に浸透していた。

 

 

 

 

 

 ジョギングを終えて一度アパートへと帰宅し、シャワーを浴びていつもの白い薄手のカーディガンに着替えたまつりは、ダイニングテーブルの椅子に深く腰掛け、スマートフォンの画面をスクロールしながら、その絶望的な数字の羅列にため息を漏らしていた。

 

 

 

 

 ネット通販の最大手サイトや、個人間取引が主流のフリマアプリの画面を開けば、そこはもはや経済のモラルが完全に崩壊した、強欲と虚飾のドロドロとした戦場だった。

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()

 

 

 

 

 子供がお小遣いを握りしめて買いに行けるはずの、至って健全なスナック菓子であり、ウエハースであるはずの商品。

 

 

 

 

 

 

 それが、フリマアプリの上では「2()0()()()()1()B()O()X()()()()()()()」のものが、なんと『1()B()O()X()()()()()()()()()()()』という、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 そんな()()()()()()()()()()()()()()()()()()で堂々と出品され、しかもそれが「SOLD OUT」の赤い文字で次々と埋め尽くされているのだ。

 

 

 

 

 

 

「……()()()()()()。ただのお菓子なのに、どうしてこんな値段で取引されて、しかもみんなそれを買っちゃうんだろう……。これじゃあ、本当にゲームを楽しみたいと思っている普通のプレイヤーの手には、一生カードが行き届かないよ」

 

 

 

 

 

 まつりは前髪のカーテンの奥で、現代社会の持つ底なしの物欲の濁流に、強い目眩と嫌悪感を覚えていた。

 

 

 

 

 

 ネットの普及している現在、情報の拡散スピードは光の速度と変わらない。

 

 

 

 

 

 どこどこの店舗に在庫があった、どこの倉庫から横流しされた、という真偽不明の情報がSNS上で飛び交い、それに踊らされた人々がさらに市場の混乱を加速させる。

 

 

 

 

 

 『アイコネ』というゲームが持つ、衣服をデータとして纏い、自らの存在を拡張するというあまりにも魅力的で先進的なコンセプトは、皮肉なことに、ゲームが開始される前の現実世界において、最も醜悪な「人間の独占欲」と「金銭への執着」を炙り出す結果になってしまっていた。

 

 

 

 

 その時、リビングのソファにドサリと崩れ落ちるようにして座り込み、タブレット端末で熱心にプレミア市場の動向を監視していた恵が、画面を睨みつけたまま、その綺麗な形をした唇から、地獄の底から響くような極めて低く、冷徹な声を漏らした。

 

 

 

「……転売ヤーめ……」

 

 

 

 

 恵はポツリと、けれど明確な殺意に近いオーラを全身から放ちながら呟いた。

 

 

 

 

 その美しい指先が、タブレットのガラス画面をミシッ、と不穏な音を立てて強くきしませる。

 

 

 

 

「本当に、浅ましくて、見窄らしくて、ファッショナブルの『ファ』の字すら持ち合わせていない、社会のフィラメントたちね……! 衣服という神聖な表現媒体を、ただのマネーゲームのチップとしてしか扱えないなんて、その感性の貧相さには涙が出てくるわ! 転売ヤーめ、アンタたちの着ている服はね、どんなに高級なブランドロゴが付いていようとも、その精神の汚物で全てドブネズミ色に染まっているのよ!!」

 

 

 

 

 

 恵はリビングの天井に向けて絶叫し、その圧倒的なまでの怒りを露わにした。

 

 

 

 

 

 彼女にとって、衣服やそれを彩るカードとは、着用者のアイデンティティを輝かせ、生活に彩りと絶対の美学をもたらすための「聖遺物」に他ならない。

 

 

 

 

 それを、ゲームをプレイすらしない人間が、ただ倉庫に右から左へと横流しし、不当な利益を得るために軟禁しているという事実は、プロのアパレル人間としての、そして一人のクリエイターとしてのプライドが、到底許容できるものではなかったのだ。

 

 

 

 

「お、お母さん、落ち着いて……っ。タブレットの画面が割れちゃうから! ほら、お父さんからも何か言ってよ!」

 

 

 

 

 まつりは慌てて、ダイニングテーブルで静かに休日用のコーヒーを啜っていた父親の暦に助けを求めた。

 

 

 

 

 

 暦は、いつものように総務部の中間管理職としての深い包容力と、白雪家のブレーキ役としての冷静さを崩さないまま、ふぅ、と温かいコーヒーの湯気を吹き消し、妻の方を向いて穏やかに声をかけた。

 

 

 

 

 

 

「まあ、恵の言うことも一理ある。総務部の視点から見ても、市場の健全な流通を阻害する転売行為は、企業のブランド価値を著しく毀損する最大のガバナンス違反だからね。だが、怒っても在庫が増えるわけじゃない。ここは一度頭を冷やして、運営側の増産のプレスリリースでも待つのが大人の対応というものじゃないか?」

 

 

 

 

 

 

「お父さん、甘いわよ! 増産なんて待っていたら、一ヶ月後の正式サービス開始のスタートダッシュに完全に遅れてしまうわ! 私たちが手に入れたあの『スノー・ラビット』のSRトップスと、まつりのあのウサ耳ヘッドパーツ……。あの二つのピースを完璧な『トータルコーディネート』へと昇華させるためには、一刻も早く残りの部位(ボトムス、シューズ、アクセサリ)の素材を確保しなければならないのよ! それなのに、素材そのものがこの世から消滅しているなんて、デザイナーに『布を使わずに服を作れ』って言っているようなものよ! ああ、忌々しい! 転売ヤーのクローゼット、全部虫食いのウールで埋め尽くされてしまえばいいのよ!」

 

 

 

 

 

 

「う、うぅ……。お母さんの呪いが、どんどん具体的でアパレル特有の生々しいものになってる……」

 

 

 

 

 

 まつりは、恵のあまりの熱量と暴走気味の怒りに気圧されながらも、心の中では、ほんの少しだけ、本当に一ミクロンだけ、この「アイコネ飢饉」という最悪の状況に対して、奇妙な安堵感を抱いている自分に気がついていた。

 

 

 

 

 

(……でも、これでお店にお菓子が全然売っていないってことは、お母さんがこれ以上、新しいカードをBOX買いして増やすこともできないってことだよね? ってことは、僕がこれ以上、あの『スノー・ラビット』のバニーガールのパーツを強制的に引き当てさせられて、外堀を埋められる心配も、当面の間はなくなったってことなんじゃ……)

 

 

 

 

 

 そう、市場にモノがないということは、確率の暴力によって自らのアバターが「純白のバニーガール」へと改造されていく恐るべきプロセスもまた、物理的に完全停止したことを意味していた。

 

 

 

 

 これ以上の暴走燃料が増えない。

 

 

 

 

 それは、内気で地味な男子高校生としての平穏な現実を死守したいまつりにとって、怪我の功名とも言える、唯一の救いの光のように思えたのだ。

 

 

 

 

 

 しかし、白雪まつりという少年は、カードゲームの歴史やデータの構造を愛する、生粋の「データオタク」であった。

 

 

 

 

 

 彼はこの時、母親の恵の激しい怒りのマシントークを前髪のカーテンの奥で聞き流しながら、自らの脳内にあるスマートなロジックの引き出しを静かに回転させ、この異常な飢餓市場の「その先」にある、ある一つの冷徹な『市場の間隙』。

 

 

 

 

 言わば、バグについて、すでに個人的なシミュレーションを開始していたのだった。

 

 

 

 転売ヤーが買い漁り、一般プレイヤーが飢えに喘ぎ、ネット通販が数万円のプレミア価格で大炎上している、この歪みきった電脳都市の現実。

 

 

 

 

 

 だが、そんな狂った世界であっても、データの法則と、人間の心理がもたらす「偏り」を完璧に計算し尽くせば、誰にも見つかっていない、自分だけの『完璧な抜け道』。

 

 

 

 

 まさにブルーオーシャンが、必ずどこかに隠されているはずなのだ。

 

 

 

 

 まつりは、興奮して鼻息を荒くしている恵の横顔を盗み見ながら、自らの白い薄手のカーディガンのポケットの中で、静かにスマートフォンの画面を指先で操作し、学校の近くにある「ある場所」の地図情報を、密かに画面に表示させるのだった。

 

 

 

 

 

 

 







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