五月の穏やかな朝の陽光が、白雪家のリビングの床に美しい木目のコントラストを描き出している。
本来であれば、ジョギングを終えてシャワーを浴び、淹れたてのコーヒーの香りに包まれながら、一週間後に控えた初夏のスタイリング計画をのんびりと練る、最高にファッショナブルで平穏な日曜日のひとときになるはずだった。
しかし、現在の白雪家のリビングを支配しているのは、初夏の爽やかさとは程遠い、今にも空間そのものを引き裂きかねないほどの「重低音の怒気」だった。
「──あり得ないわ。こんなの、絶対に何かのバグか、あるいは流通経済のドレスコードを根本から無視した集団催眠の類よ……!」
ソファーのクッションに深く沈み込み、両手で自らの美しい髪を根元からガシガシと掻きむしりながら、白雪恵は文字通り頭を抱えてブチギレていた。
その目は怒りと屈辱で血走り、普段の洗練されたトップスタイリストとしての冷静なオーラは完全に霧散している。
タブレット端末の画面に表示された「在庫なし」「次回入荷未定」「SOLD OUT」の無機質な文字列を睨みつける彼女の姿は、まるで戦場ですべての弾薬を失った悲劇の指揮官のようでもあり、あるいは自らの完璧なランウェイを暴風雨によって台無しにされた孤高のデザイナーのようでもあった。
恵がここまで激しく感情を爆発させ、己のプライドをズタズタにされているのには、アパレル業界に生きるプロフェッショナルとして、どうしても譲れない、そして絶対に許せない「敗北のプロセス」があったからに他ならない。
彼女は、この『アイコネ』第一弾食玩の一般発売日に向けて、それこそ一つの国家規模のプロジェクトを立ち上げるかのような、緻密にして完璧なスケジュール管理。
所謂、タイムマネジメントを遂行していたのだ。
「いい!? 私はね、この一週間のために、先月からアパレルの本職のシフトをミリ単位で調整したのよ! 突発的なクライアントからのオーダーや、急なスタイリングの修正が入らないように、すべての案件を前倒しで完遂して、現場のスタッフやパートの人たちにも『この日はどうしても外せない、我が家の美学に関わる最重要案件があるの』って、頭を下げてシフトの段取りまで完璧に、それこそ寸分の狂いもなく組み上げておいたのよ!? 当日の朝の、各店舗の物流トラックの動線リサーチだって、私のプロとしての情報網をフルに活用して、何時にどこのルートのコンビニに商品が届くかまで、完璧に逆算のロジックを組み立てていたのよ……っ!!」
恵の口から、怒涛の勢いで「
それはまるで、
彼女は単に「お菓子を買いに行って売り切れていた」から怒っているのではない。
プロのアパレル人間として、時間、人材、物流、そして自らのパッションという、すべてのリソースを完璧にコントロールし、必勝の布陣で挑んだにもかかわらず、そのすべての戦略が、一般層の異常な熱狂と、転売ヤーという名の「飢えたイナゴの大群」の前に、跡形もなく押し流されてしまったという「事象」そのものに激昂しているのだ。
どれほど優れたスタイリストであっても、市場そのものに「布地」という「素材」が存在しなければ、服を仕立てることはできない。
恵は発売日の当日、リサーチした店舗を完璧なタイムスケジュールで巡回した。
しかし、彼女が店に到着した時には、すでに棚は強欲な手によって掠め取られた後だった。
プロとしての高度なタイムマネジメント能力が、現実の市場の「モラルを置き去りにした飢餓感」の前に、完全に敗北した瞬間だった。
1BOXどころか、たったの「1パック」すら入手できなかったという厳然たる事実が、彼女のプライドに鋭いナイフを突き立てていた。
「せっかくパートの段取りまでつけたのに、お菓子がないなんてどういうことよ……! 運営は何をやっているのよ!? この私の完璧なコーディネート計画を、こんな不健全なインフレーションのせいでストップさせるなんて、ファッションに対する最大の冒涜だわ!! 私のリサーチが甘かったの!? それとも、この世界の流通構造そのものが狂っているの!? ああ、信じられない、私のプロとしてのキャリアに、こんなみっともない『在庫確保の失敗』という泥が付くなんて……っ!」
「お、お母さん、本当にお願いだから一回落ち着いて……っ! ほら、深呼吸、ヒッヒッフーってやって!」
シンクから駆けつけてきたまつりは、リビングに響き渡る恵の絶叫をどうにかして宥めようと、白い薄手のカーディガンの袖を振り回しながら必死に言葉をかけた。
前髪のカーテンの奥にある彼の瞳は、母親のあまりの剣幕に対する恐怖と困惑で激しく泳いでいる。
まつりは、怒りで肩を激しく上下させている恵の隣にそっと腰を下ろすと、彼女の手から今にも握り潰されそうになっていたタブレット端末を優しく、慎重に抜き取った。
これ以上恵が画面に力を込めれば、液晶画面が物理的に粉砕され、白雪家のガジェット出費がまた一つ増えてしまうのは火を見るより明らかだったからだ。
「……いい、まつり、パパさん」
恵は、まつりにタブレットを奪われてもなお、その鋭い視線を宙に彷徨わせたまま、ギリ、と奥歯を噛み締めて家族に向き直った。
その声は、先ほどの絶叫から一転して、静まり返ったリビングに不穏に響く地鳴りのような響きを帯びていた。
「正直、お母さんがゲット出来なくて、悔しい気持ちもわかる」
まつりは、その言葉を遮るようにして、自らの胸の奥にある「本音」を、恵の目を見つめながら静かに、けれど真っ直ぐに伝えた。
「……お母さん。僕、これでも本当に悔しいと思っているんだよ。お母さんが今回の発売日のために、どれだけの努力をして、どれだけ真剣に準備を重ねてきたか……僕は一番近くで、ずっとそれを見てきたから。だから、お母さんが一枚のカードも手に入れられなかったことが、自分のことのように悔しい。それは、本当に本当だよ」
まつりのその言葉に、嘘偽りは一切なかった。
確かに、まつり個人の「防衛本能」としての本音を言えば、これ以上『スノー・ラビット』のカードが増えなかったこと、アバターのバニーガール化を加速させる暴走燃料が市場から物理的に消滅したことに対して、内心ではホッと胸を撫で下ろしている部分が、間違いなく存在していた。
これ以上お菓子を開けなければ、あの恥ずかしすぎるドレスコードの全貌が完成することもない。それはコミュ症の男子高校生にとって、一時的な平穏の猶予を意味していた。
けれど、それとこれとは話が完全に別だった。
まつりは、母親である白雪恵という人間の「美学」を、誰よりも尊敬し、愛している。
彼女がアパレルの仕事を調整するために、夜遅くまでデスクに向かって書類を片付けていたこと。
パートのスタッフ一人ひとりに丁寧にお願いの連絡を入れ、家庭内の日課であるジョギングの時間を削ってまで店舗の動線をノートに書き出していたこと。
衣服に対して、そして『アイコネ』という新しい表現の舞台に対して、彼女が注ぎ込んできたあの純粋で、ストイックで、狂気的とも言えるほどの「熱量」。
「パッション」の正体を、まつりは痛いほどによく知っていた。
その努力が、ゲームを愛しもしない転売ヤーの強欲や、市場の歪んだシステムによって一瞬で無に帰されたのだ。
プロとしての誇りを傷つけられた恵の痛みが、まつりには自分のことのように理解できたし、だからこそ、彼女を襲っているその喪失感と怒りに対しては、心からの同情と、共有された「悔しさ」を抱いていた。
しかし、当の恵の精神的ストレスは、まつりの優しい慰めだけでは到底コントロールできないほどの臨界点に達していた。
「わかってくれる、まつり……? そうよ、私はね、ただお菓子が欲しかったわけじゃないの。あの日、アンタが引き当てたあの『スノー・ラビット』のSRトップスと、あのウサ耳ヘッドパーツ……。あの二つのピースを見た瞬間、私の中に眠るスタイリストとしての本能が、完璧な『純白のコレクション』のビジョンを脳内に描き出しちゃったのよ! 頭(ヘッド)と体(トップス)があるのに、足元(シューズ)と脚(ボトムス)がないなんて、そんなの衣服の構造として完全な『未完成』じゃない! 衣服のドレスコードが揃わないストレスが、今の私のクリエイティブな血管をどれだけ圧迫しているか、アンタにわかる!? ああ、頭がおかしくなりそうだわ!」
恵は再びソファーに背中を預け、天井を仰ぎ見た。
彼女にとって、コーディネートが未完成のまま放置されることは、絵描きがキャンバスの半分を白紙のまま放置させられているような、あるいは音楽家が楽曲のサビの手前で演奏を強制停止させられているような、耐え難い「精神的苦悶」だったのだ。
市場の異常性のせいで、そのパズルを完成させる権利すら奪われているという現実が、彼女のスタイリストとしての魂を激しく苛んでいた。
ダイニングテーブルの向こうでは、父親の暦が、妻のそのあまりの荒れ模様に小さく溜め息を漏らしながら、空になったコーヒーカップを静かにキッチンへと運び始めていた。
総務部の中間管理職として、日頃から職場の様々なトラブルや「理不尽なシステムエラー」に対処してきた暦の目から見ても、今回の『アイコネ』を巡る市場の暴走は、一過性のブームという枠を完全に超越した、ある種の「社会現象としての狂気」を孕んでいるように見えた。
「……まあ、恵。まつりの言う通り、君の努力は僕もよく知っているよ。だが、これが『現実(リアル)の市場』というドレスコードの厳しさでもあるんだ。ネットがこれだけ普及して、誰もが瞬時に情報を共有できる時代だ。君のようなプロの戦略すらも、圧倒的な数の暴力と、アルゴリズムによる買い占めの前には、時に無力化されてしまう。ここは一度、ゲームの正式サービスが開始されて、流通が安定するのを待つしか……」
「パパさん、だからそれは生ぬるいって言っているでしょう!?」
恵はソファーから弾かれたように立ち上がると、腰に両手を当てて暦をキッと睨みつけた。
「いい? 衣服のトレンドっていうのはね、ナノ秒単位で移り変わっていくものなのよ! 一ヶ月後の正式サービス開始なんて待っていたら、その頃には市場の流行は全く別の方向へシフトして、この『スノー・ラビット』の持つ初期の瑞々しいアヴァンギャルドな輝きが、手遅れになって色褪せてしまうかもしれないのよ! 私は『今』、この五月の爽やかな朝の空気の中で、あの純白のウサギのパズルを完成させたいの! それなのに、世界が私にそれを許さないなんて……ああ、本当に、転売ヤーの靴底、全部ガムテープがへばりついて取れなくなればいいわ!!」
「お、お母さん、だから呪いのバリエーションをアパレルの地味な嫌がらせの方向に増やすのはやめて……!」
まつりは、恵の背中をトントンと叩きながら、苦笑いを浮かべるしかなかった。
母の「ドレスコードが揃わないストレス」は、すでに完全に限界を超えて、周囲のすべてを巻き込む暴風雨と化していた。
プロとしてのプライド、デザイナーとしての執念、そして息子を最高のステージに立たせたいという暴走気味の親バカな愛情が三位一体となり、白雪家のリビングの空気圧を異常なまでに高めていく。
まつりは、恵の怒りの咆哮をその身に受け止めながら、自らの白い薄手のカーディガンのポケットの中に隠された、スマートフォンの平たい感触を、指先でそっと確かめていた。
お母さんが、どれだけの努力をして、どれだけの悔しさを抱えているか、僕はちゃんと知っている。
だからこそ──。
(お母さんのその努力と熱量を、こんな理不尽な市場のせいで、絶対に無駄にさせたりはしないよ。お母さんがプロの戦略で手に入れられなかった『素材(カード)』なら……、今度は僕が、僕だけのオタクのロジックと、誰も見向きもしない現実の隙間を使って、必ず見つけ出して、お母さんの目の前に届けてみせるから)
前髪のカーテンの奥で、まつりの瞳の中に、低血圧の朝には決して見せることのない、静かで、冷徹な、カードゲーマーとしての「本気の光」が宿り始めていた。
母の絶叫が響き渡るリビングの片隅で、少年は自らの内に秘めたデータ分析能力を極限まで研ぎ澄まし、間もなく訪れる放課後の「反撃の時間」へ向けて、静かにその爪を研ぎ始めるのだった。
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