リビングに響き渡った母親・恵の怒りの雷鳴から、さらに数日が経過した平日の放課後。
白雪まつりは、初夏の温かい西日が差し込む通学路を、いつものように一人静かに歩いていた。学校の制服であるブレザーの第一ボタンまでしっかりと留め、周囲の喧騒から自らの内面を守るように、長く密度の高い漆黒の前髪のカーテンを深く下ろしている。
学校という、彼にとって最もエネルギーを消費する社会空間から解放されたものの、彼の足取りはいつもの帰路とは異なる方向へと向けられていた。
まつりがやって来たのは、学校から少し離れた幹線道路沿いに位置する、地域でも最大級の規模を誇る総合大手のホビーショップだった。
プラスチックと塗料の匂い、そして無数のカードゲームのシュリンクが放つ独特の熱気が混ざり合う店内は、平日の夕方だというのに、学校帰りの学生や熱心なコレクターたちでそれなりの活気を帯びている。
まつりは、その賑やかな店内を、まるで見えない透明人間のように気配を消して静かに進み、店舗の奥に設置されたトレーディングカードの「シングルカード販売・買取コーナー」へと向かった。
その広大な什器の棚や、ガラスケースの中に整然と並べられた『アイコネ』の特設コーナーを見つめながら、まつりは前髪のカーテンの奥にある涼しげな瞳をすっと細め、胸の中で深く、静かな独白。
モノローグを紡ぎ出した。
(……やっぱり、僕の読んだ通りだ。完全に計算通りに、市場のデータがここで収束している……)
まつりは、ガラスケースの足元にうず高く積まれたプラスチック製の箱──通称「ストレージボックス」の山を見て、自らの勝利を確信していた。
世間では、プロのアパレル人間である母親の恵を含め、誰も彼もが『アイコネ第一弾、どこにも売っていない!』『転売ヤーの買い占めのせいでパックが手に入らない!』と絶叫し、絶望の淵に沈んでいた。
現実の店舗の棚はどこもかしこも空っぽで、ネット通販では数倍のプレミア価格が横行している。
だが、まつりはその狂乱の発売直後の時期、あえて一歩も動かなかった。コンビニに走ることも、ネットの争奪戦に参戦することもしなかった。
『アイコネ・エアイン・ウェハース』と『アイコネ・チップス』の一般発売から、数えてちょうど「
この、世間一般から見れば完全にブームの初動から遅れ、熱狂が一段落したかのように見える中途半端な「
彼がこの二週間と数日の停滞を選択したのには、現代のネット社会におけるユーザーの動向と、人間の強欲がもたらす心理的タイムラグを計算し尽くした、
(ネットが完全にインフラとして普及している現代において、食玩の開封データや封入率の集計スピードは異常なほどに速い。発売から数時間で、有志の手によって何千BOX分もの開封結果がスプレッドシートにまとめられ、SNSで共有される。そして、ユーザーたちは一斉に『何が当たりで、何がハズレか』を完璧に把握するんだ)
そこからが、人間の行動心理の面白いところだとまつりは分析していた。
市場を埋め尽くしたあの強欲な転売ヤーたちや、あるいは特定の高レアリティだけを狙う熱狂的なコレクターたちの行動パターンは、驚くほど画一的で、
彼らの目的は、最初から最後まで一貫して、最高レアリティであるSSR(シャイニー・スーパーレア)や、現実の有名アパレルブランドと提携したR(レア)、そして、限定SR(スーパーレア)だけだ。
それらを引き当てるため、あるいはその価格が高騰しているうちに利益を確定させるため、彼らは発売直後の数日間に、目眩がするほどの狂気的な熱量で何百、何千というパックを「BOX買い」し、文字通り剥きまくった。
しかし──そこにこそ、このゲームの過酷な5スロット仕様がもたらすパラドックスというべき、「巨大な歪み」が発生する。
(アイコネは、
目的のレアカードを引き当てて満足したコレクターであっても、あるいは価格の高騰が一段落して「これ以上の転売の利益は出ない」と見限った効率主義の転売ヤーであっても、自分が絶対に使うことのない、そしてネットの個人間取引。
フリマアプリに出品したところで送料や手数料にすらならないような、市場価値の全くない『ハズレ枠』の低レアリティカードを、
彼らにとって、ブランドロゴの入っていないコモンやノーマルのカードは、大切な部屋のスペースを無駄に圧迫する、ただの邪魔な「プラスチックと紙切れの山」でしかないのだ。
衣服の輝きを持たない、ステータス補正も最小限の汎用データ。そんなゴミ同然の残滓を、いつまでも手元に置いておくことは、彼らの強欲なタイムマネジメント精神が絶対に許さない。
(じゃあ、彼らはその手元に残った、数十枚、数百枚という大量の『不要なコーデカード』をどうやって処分するか? 一枚一枚フリマアプリに出品するのは面倒だし、
かと言って、C(コモン)とN(ノーマル)の束を抱き合わせで売るのも効率が悪すぎる。
だから、
それこそが、今まつりが立っている、この潤沢な買取資金力と安定した在庫処分ルートを持っている『大手のホビーショップ』だった。
発売直後の大混雑の時期は、お店側も買取の査定でパニックになっているし、ユーザーもまだパックを剥くのに必死だ。
だが、発売から「
つまり、世間のお店から「パック(未開封商品)」が完全に消滅して飢餓状態に陥っているこの瞬間こそが、大手ホビーショップのバックヤードやストレージコーナーにおいて、大量の「剥かれ済みの低レアリティカード」が最も飽和し、投げ売りされる『カードの墓場』。
まさにまつりにとっては、
「……ふぅ」
まつりは前髪の隙間から、整然と並ぶストレージボックスの青いプラスチックのフチを見つめた。
店内では、液晶画面に映し出されたSSRの買取価格「五万円」という派手な数字を見て、学生たちが「すげえ!」「一発当てたら大儲けじゃん!」と声を弾ませている。
だが、まつりにとってそんなガラスケースの向こうの高嶺の花は、
彼が狙うのは、強欲な人間たちが「価値がない」と見捨て、1枚10円という屈辱的な価格で投げ捨てた、世界の隅っこに転がる『真っ白な可能性』の『繊維』。
(お母さんは、プロのスタイリストとして完璧な新品の最高級クオリティにこだわって、市場の正面から挑んで敗北してしまった。……でも、僕のやり方は違う。誰も見向きもしないハズレ枠の中にこそ、僕たちを救う完璧なドレスコードが眠っているはずなんだ)
まつりは静かに右手を伸ばすと、1枚10円の檻──無数のカードが隙間なく詰め込まれたストレージボックスの端に、その細く、繊細な指先をそっと滑り込ませた。
カード同士が擦れ合う、パサパサという乾いたプラスチックの音が、彼の放課後の反撃の開始を告げる静かなシグナルとなって、ホビーショップの片隅に小さく響き渡った。
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