ピンポーン──。
五月の清々しい日曜日の朝、まだ街全体が静かな眠りから完全に覚めきっていない午前八時ちょうど。
白雪家の静寂を切り裂くように、玄関のインターホンが鋭い電子音を鳴り響かせた。
その直後、我が家の静かな朝を跡形もなく爆破するような、狂気的なまでの熱量を孕んだ絶叫がリビングに木霊した。
「──やっと、届いたわ……ッ!! 待ちわびたわよ、黒猫の配達員さんッ!!」
そのあまりの爆音と、ドタドタと床を激しく踏み鳴らす地鳴りのような足音に叩き起こされた白雪まつりは、リビングのソファーの上で、まるで繭の中に閉じこもる芋虫のように、毛布に身を縮めて悶絶していた。
「……うう、頭が割れる……。地球が滅亡するタイプの地殻変動でも起きたの……?」
まつりは極度の、それこそ筋金入りの低血圧体質だった。
朝の起き抜けは血流が脳まで全く届いておらず、視界は常に霧がかかったようにボヤけ、思考の歯車は錆びついたように一回転するのにも数分を要する。
今日という日曜日、まつりは昨夜のうちに「明日は絶対に午前十時まで泥のように眠り続ける」と固く心に誓い、完全な休息モードに突入していた。
それなのに、母・恵の情熱の導火線に火がついた瞬間、彼のささやかな安眠計画は一瞬にして消し飛んだのだ。
一度は自室のベッドで叩き起こされ、ゾンビのようにふらふらとリビングまで這い出てきたものの、やはり身体が重力に逆らうことを拒絶し、そのままリビングのソファーへと力尽き、倒れ込んでしまったのである。
現在のまつりの頭には、平たくて柔らかい、裾の部分が控えめなフリル状になったナイトキャップが、心持ち斜めに傾いた状態でチョコンと乗っかっていた。
夜寝る前にこれを被ることで、翌朝の髪の毛のハネや広がりを抑え、あの「前髪のカーテン」の完璧な直毛ストレートのシルエットを維持するための、彼にとっての実用的な防衛アイテムだ。
しかし、ソファーの上で毛布を頭まですっぽりと被り、ナイトキャップのフリルだけをピコピコと覗かせながら縮こまっているその姿は、お世辞にも男子高校生の凛々しさとは程遠く、どこか迷い込んだ小動物のような、奇妙な愛らしさと哀愁を漂わせていた。
「パパさん! パパさん、起きて! ほら、ボサッとしてないで玄関を開けてちょうだい! 配送伝票にサインをして、私たちの『未来』を早くリビングに迎え入れるのよ!」
「ああ、分かった、分かったから恵、そんなに大きな声を出さなくても大丈夫だよ……。配送の型だって、驚いてハンコを落としちゃうからね」
玄関先からは、スリッパをパタパタと鳴らしながら慌てて対応する父親・暦の、優しくもどこか達観した声が聞こえてくる。
やがて、重いドアが開閉する音と、「いつもありがとうございます!」という恵の弾んだ声に続いて、ズシン、ズシンと、我が家の床の耐荷重をテストするかのような、重々しい物音がリビングへと近づいてきた。
リビングのドアが左右に力強く開け放たれ、そこに運び込まれてきたのは、大人の胴体ほどもある巨大な段ボール箱が「二台」、積み重ねられた状態で、暦の細い腕に抱えられていた。
「パパさん、そこ! 丁寧に、それこそ最高級のシルクのドレスを扱うように、優しくそのウォルナットの床に下ろして!」
「おいおい、言うのは簡単だけど、これ、想像以上にズッシリと重いよ……。恵、腰にくるね、これは」
「何を言っているの、これは私たちの電脳世界への入場券であり、新しいライフスタイルそのものよ! ほら、まつりもいつまで芋虫みたいに丸まっているの! 遂に来たのよ、私たちの時代が!」
恵のテンションは、朝の八時だというのに、すでに真夏の野外フェスの大トリを迎えたかのように最高潮だった。
「今の私はハイテンション恵ね!!」
「なに? その売れないピンの若手芸人みたいなネーミング……」
その一方で、ソファーの上のまつりは、毛布の隙間からナイトキャップのフリルを震わせながら、消え入るような声で抗議の念を送り続ける、完全なローテンションだった。
「そんなことより、パパさん。悪いけど、もう一台の箱、玄関に残ってるから運ぶの手伝って」
「えっ、もう一台あるのかい? ああ、そうか、二台同時に頼んだんだものね……。よし、ちょっと待ってくれ」
暦は額の汗を拭いながら、再び玄関へと引き返そうとする。恵はその頼もしい背中を見送りながら、ソファーで完全に使い物にならなくなっている息子へと視線を向けた。
「まつり。私も出て来るから、アンタもいい加減にシャキッとしなさい!」
「……う、うん。お父さん、気をつけてね。主に……腰、本当にやらないでね……。我が家の物流システムが崩壊しちゃうから……」
毛布の奥から、まつりはカサカサとした枯れ葉のような声で、父親の腰の健康を労る言葉を投げかけるのが精一杯だった。
そうして容赦なく駆り出されていく暦の背中を見つめながら、まつりは毛布の中で、小さく「はぁ……」と深いため息を漏らした。
「今日は……朝のジョギングがないから、お昼近くまで合法的に寝ていられると思ったのにぃ……」
普段、土曜日や日曜日、そして祝日の朝といえば、白雪家では恵が主導する「美と健康のための朝のスタイリング・ジョギング」が定例行事となっていた。
プロのスタイリストとして常に最高の感性を保つため、そして服を美しく着こなすための体型を維持するため、恵は毎朝の運動を欠かさない。
そしてまつりは、その過酷な朝のルーティンに、毎度のように付き合わされているのだった。
しかし、それは決して、恵から「アンタも来なさい!」と理不尽に強制されているわけではなかった。
むしろ、まつりは自分の明確な「自らの意思」で、毎朝の眠気と闘いながら、彼女の後ろをトボトボと着いて行って、伴走を続けていたのだ。
なぜなら──。
まつり自身が、この白雪恵という母親の、「
彼女がデザインやスタイリングに向き合う時の、あの鬼気迫るほどの真剣な横顔。どんなに小さなパーツであっても、それがコーディネートの調和を乱すものであれば、絶対に妥協せずに対策を練り上げるその職人としてのプライド。
その姿は、クラスの誰よりも内向的で、自分の殻に閉じこもりがちだったまつりにとって、眩いほどに輝く「表現者」の理想像だった。
だからこそ、彼は自ら進んで、そのストイックな暴走の唯一の理解者であり、最も近くで支える「伴走者」になることを、自らの心に静かに誓っていたのである。
今日はたまたま、『アイコネ』のサービス開始前の一週間という特殊な期間であり、恵自身が「デスクワークと戦略立案に集中する」という名目でジョギングを休止していた。
だからこそ寝ていられると思ったのだが、まさかジョギング以上の大爆弾。
荷物の到着が朝一番に直撃するとは、データオタクのまつりと言えども予測不可能なエラーだった。
「よし、二台目も無事に着地だ。ふぅ、これで全部だね、恵」
暦が二台目の巨大な段ボール箱をリビングの床に下ろすと、ゴトォン、と重厚な音が響いた。
恵は、まるでクリスマスプレゼントを目の前にした少女のような、けれどその瞳には獲物を値踏みするプロのバイヤーのような鋭い光を宿らせながら、二つの箱の前に堂々と立ちはだかった。
「パパさん。まつり。遂に届いたのよ。これが、私たちの新しいランウェイ──フルダイブ型次世代デバイス『コネクト・ギア』よ!!」
恵が箱の天面をバリバリと豪快に剥ぎ取りながら、勝利の宣言をあげる。
その箱の隙間から覗く、洗練された近未来的な流線型のヘルメット型デバイスの輝きを見て、まつりはようやくソファーの上に上半身だけを起こした。
ナイトキャップが少しズレて、片方の眉毛が隠れている。彼はまだ視界がハッキリとしない目を擦りながら、ガジェットオタクとしての冷静な分析回路を、微弱な電流で起動させた。
「……でも、本当によく、その『コネクト・ギア』を二台同時に、このタイミングで確保できたよね。お母さん。ネットの掲示板やSNSじゃ、このデバイス自体が、世界的な半導体不足と、アイコネの異次元の事前登録者数による『アイコネ特需』のせいで、完全にプレミア化してどこも品切れだって、毎日トレンドの最上位に入っているのに……」
まつりのその言葉に、ダイニングテーブルの椅子にようやく腰を下ろし、ふぅと息をついた暦も、大きく頷いて賛同した。
「ああ、まつりの言う通りだ。私も会社の昼休みに、ネットのガジェット系ブログや、経済ニュースのテック部門の記事を見たよ。どこの家電量販店も抽選販売の倍率が数百倍を超えていて、フリマアプリじゃ定価の倍以上の値段で転売されているって、問題になっていたじゃないか。我が家によくこれが二台も、しかも正規のルートから定価で届いたものだよ」
二人の至極真っ当な疑問と驚きを含んだ視線を受け、恵はフッ、と不敵な笑みを浮かべた。自らの美しい髪をバサリと手で払うと、彼女は腰に両手を当てて、胸を張った。
「フフン、私のプロとしてのタイムマネジメントと、衣服に対する執念を舐めないで頂戴。そんじょそこらの、アルゴリズムに頼り切った転売ヤーや、なんとなくブームに乗っかっただけの一般層とは、私の『初動のスピード』が根本から違うのよ。……私がこの二台を同時に予約手続きを済ませたのは、あの限定先行販売のイベントから、自宅に帰ってきた『あの日の夕方』よ?」
「夕方……? あのイベントが終わってすぐってこと……?」
まつりは、一瞬にして頭の霧が晴れるような、冷や汗が背中を伝う感覚を覚えた。
「そうよ! アンタが先行販売の会場から帰ってきて、私にあの『スノー・ラビット』のカードを見せてくれた、まさにあの直後よ! あの時、あの純白のビスチェ(クラシカルバニートップス)の、圧倒的なポテンシャルと、未完成でありながらも世界を震撼させるに足る『美学の可能性』を私に見せてくれたでしょう!? あの瞬間、私のスタイリストとしての細胞がすべて覚醒したの。この子は、この『スノー・ラビット』のドレスコードは、私たちが電脳世界のトップに立つための最高の素材になるって確信したわ。だから、アンタがリビングで放心している間に、私は家電量販店のプレミアムオンラインショップのサーバーを開いて、二台同時の予約手続きを、それこそコンマ一秒の狂いもなく完了させておいたのよ!」
「……あ、あの瞬間に、もうここまで見据えて動いてたんだ……」
まつりは、ソファーの上で完全に絶句していた。
自分がウエハースからバニーガールのトップスを引き当て、その露出度の高さと「自分がこれを着て歌って踊る」という過酷な運命に絶望し、頭を抱えていたあの日の夕方。
母はすでに、その絶望の裏側で「二台のフルダイブギアの確保」という、あまりにも迅速で、あまりにも狂気的な先行投資を完了させていたのだ。
プロのスタイリストの行動力と、一度火がついた時の執念は、カードゲーマーの予測の範疇を遥かに超えていた。
「さあ! 届いたからには、一刻も早くこのギアを起動させて、初期設定を終わらせるわよ! まつり、アンタはこういうデジタルの設定とか、ネットワークの構築とか、そういうデータ系の作業がプロ並みに得意でしょう!? ほら、早くそのナイトキャップを脱ぎ捨てて、私をあの輝かしい電脳のランウェイへとナビゲートしなさい!」
恵は、段ボール箱からピカピカの『コネクト・ギア』を取り出し、まつりの目の前にグイッと突きつけてきた。メカの冷たい金属感と、新品のプラスチックの匂いが、まつりの鼻腔を刺激する。
「えぇ……。お母さん、待って、無理だよ。僕、まだ顔も洗ってないし、完全にパジャマのままだよ……? コンタクトレンズだって入れてないし、視界が30パーセントくらいしか機能してないんだ。こんな寝ぼけてる時に、繊細なフルダイブギアの初期設定なんてやったら、アカウントの連携ミスとか、取り返しのつかないシステムエラーが起きちゃうよ……」
まつりは、必死に手を振って恵の突進を止めようとした。実際、寝起きの状態で複雑なVRデバイスの設定を行うのは、データオタクとしてのプライドが許さなかった。
「……それもそうね」
恵は、まつりのヨレヨレのパジャマ姿と、頭に傾いて乗っかっているフリル付きのナイトキャップを、スタイリストとしての厳しい目で上から下まで品定めするように見つめると、小さく顎を引いた。
「確かに、新しい世界への第一歩を踏み出すのに、その緊張感のないパジャマ姿は、衣服に対するドレスコードとして完全に失礼(アウト)だわ。美学の始まりに、怠惰な妥協を持ち込むべきじゃないわね」
「いや……。僕はドレスコードの心配じゃなくて、単純に頭が回ってないから技術的なミスが怖いって意味で言ったんだけど……」
「取り敢えず、顔を洗って来なさい! その間に、私が最高にスッキリする熱い緑茶を入れておいてあげるから。パパさんの分もね」
「あ、ありがとう……。わかったよ、急いで洗面所に行って、眼鏡を取ってくるから、ちょっとだけ待ってて」
まつりは、ソファーからようやく這い出ると、重い足取りで自室へと向かった。
寝ぼけた手つきで机の引き出しを開け、古いプラスチックのケースから、一本の『黒縁の眼鏡』を取り出す。
因みに、まつりは高校に入学してからは、周囲の視線を遮るための「前髪のカーテン」のシルエットを邪魔しないよう、そして少しでも気配を消すために、普段はコンタクトレンズを着用して生活していた。
しかし、中学校までは、この少し野暮ったい厚みの、至って普通の黒縁眼鏡をかけて過ごしていたのだ。
家の中や、完全にリラックスしている時、そしてこれから始まる「画面やデータを凝視する過酷な作業」を行う時には、彼は今でもこの使い古した黒縁眼鏡を愛用していた。
カチャ、と耳の後ろにフレームをかけ、黒縁のレンズ越しに世界を捉えた瞬間、まつりの脳内の解像度が、一気に正常値へと引き上げられていく。
(……お母さんのあの熱量には、本当に朝から体力を削られるな。でも……)
洗面所で冷たい水を顔にバシャバシャと叩きつけながら、まつりは鏡に映る、前髪が濡れて少し額が覗いている自分の顔を見つめた。
(……でも、正直に言えば。オンラインゲームなんて、僕だって生まれて初めての領域なんだ。右も左もわからない広大な電脳世界へ、たった一人で飛び込むのは、本当は少しだけ、怖くて不安だった。だから……)
タオルで顔を拭き、前髪をいつもの位置へと丁寧にセットし直しながら、まつりは胸の奥で、静かな「本音」を認めていた。
(……だから、あそこまでパワフルで、衣服に対して誰よりも真摯で、どんなトラブルもその圧倒的なパッションでなぎ倒していってくれるお母さんが、最初の同伴者として隣にいてくれるのは……僕にとって、何よりも、最高に心強いんだ)
黒縁眼鏡の位置をクイッと指で直すと、まつりはリビングへと続く廊下を、先ほどとは違う、確かな足取りで歩き始めた。
白雪家の接続前夜、新しいギアを巡る親子の「電脳調律」が、今まさに幕を開けようとしていた。
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