冷たい水でしっかりと顔を洗い、黒縁眼鏡を装着したことで、まつりの脳内クロックはようやく平時の稼働率を取り戻していた。
リビングへと戻ると、ダイニングテーブルの上には、母・恵が淹れてくれた淹れたての緑茶から、細く白い湯気がゆったりと立ち上っていた。
「はい、まつり。特製の濃いめの緑茶よ。頭の細胞をシャキッとさせなさい」
「……うん、ありがとう、お母さん」
まつりは湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりと口に含む。
程よい苦味と茶葉の芳醇な香りが、寝起きの弛緩した神経を心地よく刺激し、視界の隅々まで完全にクリアになっていくの。
一息つき、完全に頭が冴え渡ってきたところで、まつりは自室から持参してきた「あるふたつの道具」を厳かにテーブルへと並べた。
ひとつは、作業用の白い純綿の軍手。そしてもうひとつは、顔の半分を覆い隠す衛生用の使い捨て不織布マスクだ。
まつりは無言のまま、まず不織布マスクを耳にかけ、鼻のワイヤーを指先できっちりと押し潰して隙間なく顔に密着させた。
続いて、白い軍手に細い指を一本ずつ滑り込ませ、手首のゴムをパチンと鳴らす。
「……よし。これで第一段階は完了だ」
「ちょっと、まつり。そこまで重装備にする必要あるわけ?」
その異様な光景を、ダイニングの特等席から見ていた父親の暦が、新聞を少し下げて呆れたような、けれどどこか面白がるような声をあげた。
ただのリビングでのゲーム機の初期設定のはずが、まるで最先端の半導体クリーンルームか、あるいは重大な遺物を扱う考古学の鑑定現場のような緊張感が漂い始めたのだから無理もない。
しかし、マスクの奥から響くまつりの声は、徹頭徹尾、冷徹なロジックに支配されていた。
「何を言っているの、お父さん。むしろこれでも足りないくらいだよ……。今から僕たちが触れるのは、世界的な半導体不足と『アイコネ特需』のせいで、現在市場流通価格が定価の数倍、下手をすれば約十数万円、いや、下手をすれば数十万円の大台にまでオークションで跳ね上がっている、超高精密・最高級フルダイブガジェットなんだよ? まだ誰の指も触れていない、工場出荷状態の完全な処女。そんな芸術的なプロダクトの外殻に、僕の指の皮脂や指紋(あぶら)を1ミリグラムでも残すなんて、データオタクとして、ガジェットを愛する人間として、絶対にあってはならないことなんだ」
「数十万……。なるほど、それは確かに指紋の一つも恐れ多いね」
暦はまつりの熱弁に苦笑しながら納得したように頷いた。
だが、まつりがふと横を向いた瞬間、彼は眼鏡の奥の目を丸くすることになった。
よく見ると、隣に立つ母親の恵もまた、まつりと全く同じクラスの、隙間のない黒い不織布マスクを鼻の上までしっかりと着用していたのだ。
さらにその手には、アパレルデザイナーが高級なシルクやヴィンテージドレスを扱う際に用いる、最高級の薄手ナイロン手袋がはめられている。
「当然よ、パパさん。衣服であれ機械であれ、新しい世界の幕開けを告げるプロダクトに対する『敬意』は絶対よ。まつり、アンタとは気が合うわね。さあ、その神聖な手で、早く箱を開封しなさい!」
「……うん、お母さんもさすがだね。じゃあ、開けるよ」
白い軍手をはめた手で、まつりは巨大な段ボール箱の底から、ついに『コネクト・ギア』の本箱を引き出した。
厳重な緩衝材を取り除くと、現れたのは漆黒のマット加工が施された、驚くほど洗練されたヘルメット型のフルダイブ・デバイス本体だった。
人間の頭部ラインに完璧にフィットするよう計算された流線型のフォルム、鈍い光を放つセンサーアイ。
まつりは細心の注意を払いながら、外殻のポリカーボネートに傷をつけないよう、ゆっくりと本体をテーブルの上の清潔なクロスへと安置した。
「綺麗ね……。現実のアウターウェアとしても通用しそうな、無駄のないカッティングだわ」
恵が感嘆の息を漏らす。まつりは続けて、配線の接続や電源の初期チェックを行うため、箱の底に残された付属品を一つずつ取り出していった。
超高速データ転送対応のType-C編組シールドケーブル、頭部を保護するインナーパッド。
その最中、恵の鋭い視線が、箱の最深部に収められていた「もう一つの見慣れない独立したパーツ」に留まった。
「ねえ、まつり。このパーツはなにかしら? ヘルメット本体とは別になっているみたいだけど」
恵が指差したのは、掌にすっぽりと収まるサイズの、美しいマットホワイトのポリカーボネートで作られたコンパクトな拡張ユニットだった。
中央には緩やかな窪みが彫り込まれており、その周囲を円状のLEDラインが囲んでいる。本体のヘルメットとは対照的なカラーリングが、どこか近未来の特別な装置であることを主張していた。
「あ、それはね、お母さん。ゲームの根幹に関わる重要な周辺機器──『アイコネクト・スキャナー』っていってね」
まつりは軍手越しにその白いユニットを持ち上げ、ヘルメット型の『コネクト・ギア』の側面に用意されていた、専用のハードマウントへとカチリとドッキングさせた。
心地よい機械的な噛み合わせの音がリビングに響く。
そして、太い編組シールドケーブルを、スキャナーからヘルメット本体へと直結させた。
「これは、フルダイブ・デバイス本体に外付けされる、超高精度なICスキャンユニットなんだ。……お父さん、ちょっと見てて」
まつりは、昨日のうちにホビーショップの10円ストレージから発掘し、丁寧にスリーブに収めておいたコモンカード──『ピュアホワイト・マットタイツ』をポケットから取り出した。
そして、そのカードを『アイコネクト・スキャナー』のスキャンレーンと呼ばれる。
中央にある緩やかな窪みへと、非接触で静かにかざした。
ピピッ──。
短い電子音と同時に、これまで淡く白い光を放っていたスキャナーのサークルLEDが、
「成功だ。……お父さん、今スキャナーが青く光ったよね? これが正常にデータを読み込んだ合図なんだ。これにカードをかざすと、お母さんや僕が現実世界で持っているそのコーデカードのデータが、フルダイブした先のVR空間に、完璧な3Dモデルの『衣服』として現れるって考えていればいいよ」
「ほう……」と、暦は新聞を完全にテーブルへと置き、黒縁眼鏡の奥の目を輝かせている息子と、その手元で青く輝くスキャナーを興味深そうに見つめた。
「かざすだけで、ただのデータが『服』になるんだ? でも、どうしてそんなことができるの? 魔法じゃあるまいし、ただの紙のカードに、そんな立体的なドレスの情報が丸ごと入っているようには見えないけれど……」
「フフン、パパさん、それはね──」
恵がマスクの奥で得意げに胸を張ろうとしたが、まつりはそれを遮るように、眼鏡のブリッジを人差し指でクイと上げ、データオタクとしての明晰な解説を開始した。
「お母さんは、あの限定先行販売のイベントから帰ったあと、家で公式の技術解説動画を熱心に見ていたからシステムを知っていると思うけど……もう一度、おさらいとして教えるね。お父さんも、これを知っておくと、このゲームの凄さがよく分かると思う」
まつりはテーブルの上にカードを置き、その断面を指し示しながら言葉を紡ぐ。
「お父さんの言う通り、これはただの紙やプラスチックのカードに見えるよね。でも、この『アイコネ』のコーデカードの内部には、ミクロ単位の極薄なNFC(近距離無線通信)タグと、特殊なアンテナ回路が積層プレスされて埋め込まれているんだ。カードをこのスキャナーに『かざす』と、近距離無線通信技術によって、スキャナーとカードの間で秒間数百回という超高速のデータ同期が行われる。魔法なんかじゃなくて、最先端の通信技術の結晶なんだよ」
「なるほど、NFCタグか。スマートフォンの決済や、駅の改札でピッとやるあの技術の、さらに超高精度版というわけだね」
暦がサラリーマンとしての知識から得心がいったように頷く。
「そう、その通りだよ、お父さん。でも、アイコネの凄いところはそこからなんだ。このスキャナーがカード固有の暗号化されたIDコードを読み取ると、接続された『コネクト・ギア』を経由して、ゲームサーバーからその衣装の膨大な『繊維パラメータ』が瞬時にダウンロードされるんだ。単なるビジュアルのグラフィックデータだけじゃない。その服がどんな布地で作られているかという『テクスチャデータ』、生地の厚みを示す『デニール数』、引っ張られた時の『伸縮率』、そしてアバターが動いた時にどう揺れるかという『質量特性』まで……。それらすべての物理演算データが一瞬で処理されて、フルダイブした僕たちの視界の中で、本物の衣服としてアバターの体に吸い込まれるように吸着・換装。ドレスアップ
されるんだよ」
まつりの熱を帯びた丁寧な解説を聞きながら、暦は感心したように腕を組んだ。
「なるほどねぇ……。つまり、この小さな白い機械は、現実世界の物理的なカードを、バーチャル世界の『電子の繊維』へと一瞬で織り上げる、電脳世界の織機みたいなものなんだな」
「電脳世界の織機……。パパさん、たまにはスタイリッシュな表現をするじゃない。その通りよ!」
恵が我が意を得たりとばかりにナイロン手袋の手を叩いた。
「それにしても、本体のヘルメットだけでも高価なのに、わざわざそんな専用の外付けデバイスまで開発して、セットにするなんてね。ユーザーにとってはありがたいけど、メーカー側は相当なコストがかかっているんじゃないかい?」
暦が今度はコスト面からの疑問を呈した。企業のインフラ投資のような視点を持つ父親らしい問いかけだったが、これに対しても、まつりは淀みなくロジックを返した。
「そこが、この『アイコネ』というプロジェクトの、最大にして最も狡猾なビジネス戦略なんだよ、お父さん。……さっきお母さんも言っていた通り、アイコネは基本的にソフトのダウンロードも、毎月のプレイ料金も『基本無料(Free to Play)』のオンラインゲームなんだ」
「基本無料? あんなに大掛かりなVR世界なのに、タダで遊べるのかい?」
「うん。だからこそ、運営はこういう『周辺機器』や、現実世界の『食玩カード』の販売のところで、莫大な採算を取っているわけなんだよ。この『アイコネクト・スキャナー』だって、単品での市場価格は2,980円と、専用の精密機器としては異常なほど安価に設定されている。デバイス自体の利益はほぼゼロ、いや、むしろ赤字かもしれない」
「なるほど……。デバイスを限界まで安く広く普及させて、まずは全員の家に『電子の織機』を設置させる。そうすれば、ユーザーはゲームを遊ぶために、現実世界のコンビニやショップで、あの『コーデカード』を大量に買い漁ってスキャンし続けざるを得なくなる……。つまり、カードの消費という終わりのないライフラインを確立するための、計算された撒き餌というわけだね」
「そういうこと。お父さん、理解が早くて助かるよ」
まつりは、自分の説明に完璧に賛同し、ビジネスモデルの本質を見抜いた父親に、マスクの奥で小さく微笑んだ。
「本当に、損して得取れを地で行く、恐ろしいビジネスモデルだわ……」
恵はナイロン手袋に包まれた手で、ヘルメットの側面に鎮座する『アイコネクト・スキャナー』の、冷たい、けれど鮮烈なコバルトブルーの残光をじっと見つめていた。
その瞳には、単なるゲームのプレイヤーとしてではない、プロのクリエイターとしての深い驚嘆と、これから始まる「データの衣服」との戦いに対する、並々ならぬ闘志が静かに、けれど激しく燃え上がっていた。
リビングを包むのは、淹れたての緑茶の香りと、最先端のガジェットが放つ独特の熱気。
まつりの手によって無事に組み上げられ、正常な起動を示した青きスキャナーユニットは、白雪家の二人の男女を、間もなく訪れる壮大な電脳のランウェイへと、静かに、確実に誘おうとしていた。