「専用のデバイスまで作って、破格の値段でバラ撒くとはね……。本当に、今のエンターテインメント業界の集金構造は、恐ろしいほどにシステム化されているわ
青く明滅する『アイコネクト・スキャナー』の残光を見つめながら、白雪恵はナイロン手袋に包まれた顎に細い指をあて、感心したように、そしてどこか忌々しそうに首を振った。
「まあ、アイコネも基本プレイ無料のオンラインゲームだからね。ソフト自体はタダでダウンロードさせて、まずはユーザーの分母を爆発的に増やす。その上で、こういう外付けのハードウェアや、現実の食玩カードの購入で、段階的に、けれど確実に採算を取っていくのが運営の狙いなんだよ」
まつりは、白い軍手をはめた手で『コネクト・ギア』のメインパネルを操作しながら、淡々とシステム上の経営ロジックを解説していく。
「なるほど、そういうことね。最初に間口をこれ以上ないくらい広く開けておいて、一度中に入り込んだカモたちから、じわじわと『衣装の繊維代』を毟り取るわけか。実に見事なビジネスモデルだわ、癪だけど。……でも、衣服の価値をデータに置き換えて無限に消費させるなんて、ある意味で究極の服飾規範の破壊であり、再構築ね」
恵はマスクの奥でフッと皮肉めいた笑みを浮かべ、ゲームビジネスの冷徹な構造に深く納得していた。
アパレルという、現物の「布」と「流通」に縛られてきた世界の住人だからこそ、在庫リスクを一切持たずに、純粋なデータとユーザーのコーディネート欲だけで何百億、何千億という金を動かす『アイコネ』のシステムに、猛烈な脅威と興味を抱いているのだ。
そんな母親の哲学的とも言える呟きを背中で聞き流しながら、まつりは黒縁眼鏡の位置を人差し指でクイと直し、ふと思い出したようにディスプレイの仮想キーボードに指を走らせた。
「……あ、そうだ。今のうちに、アイコネの『事前登録キャンペーン』の受け取り手続きと、アカウントの連携処理をしておかないと。サービス開始まであと一週間だし、初日のスタートダッシュに影響が出ちゃうからね」
まつりが手慣れた様子で『コネクト・ギア』の統合管理画面から、アイコネの公式サーバーへとアクセスを開始する。画面には、全世界の事前登録者数がすでに大台である【500万人】を遥か彼方にぶち抜き、カウンターが狂ったように回転している様子が表示されていた。
その作業の様子を、隣から信じられないほどのゼロ距離で凝視してくる気配があった。
恵だ。彼女はいつの間にか、まつりの肩が触れ合うほどの位置まで顔を近づけ、その黒い不織布マスクの奥にある鋭い瞳を、まるで獲物を執拗に狙う砂漠の「鷹」のようにギラつかせながら、まつりの指先と設定画面の推移を凝視していた。
(……うわ、すごい視線を感じる……。お母さんの目が、完全に獲物を見つけた猛獣のそれだ……)
まつりは背中に冷や汗が流れるのを感じながら、作業を続ける。
恵の視線があまりにも熱く、かつ執拗だったため、彼はたまらずキーボードを叩く手を止めて、横を向いた。
「……ねえ、お母さん。さっきから、なんでそんなに穴が開くほど初期設定の仕方を見てるの? 画面の文字、全部暗記しようとしてない?」
「な、何言ってるのよ、バカ言わないで頂戴!」
恵は一瞬、図星を突かれたように肩をビクリと跳ね上がらせたが、すぐにスタイリストとしての威厳をまとうように、不織布マスクの奥でツンと鼻を鳴らして強がってみせた。
「機械の勉強に決まっているじゃない! 私はプロのクリエイターよ? 次世代のバーチャル空間で、衣服のテクスチャやポリゴンの骨組みがどうやって処理されて、アカウントに紐づけられるのか、そのシステム的な裏側を『学習』しているだけよ。今後の私のデザインワークに、電脳世界のロジックを取り入れるための、高尚なインプットよ!」
「そっか……。機械の勉強、ね……」
まつりは、マスクの奥で見え透いた嘘をついている母親に対し、それ以上の追及をやめて苦笑するにとどめた。
「機械の勉強」などと大層な御託を並べてはいるが、恵のその姿勢、その目の輝き、そして何より二台同時に『コネクト・ギア』を確保したという事実が、すべての答えを物語っていた。
彼女は「機械の勉強」をしたいのではない。
サービスが開始されたその瞬間に、自分自身もプレイヤーとして、その最先端の電脳世界へとダイブする気。
やる気が満々なのだ。
しかし、そんな恵の異常なまでの熱意の裏側には、プロのスタイリストとしての、あまりにも「悲惨な現実」が隠されていることを、まつりはデータオタクとして正確に把握していた。
結果として、プロのスタイリストであるにもかかわらず、恵は未だに自分の手で、物理的なアイコネのコーデカードを「
現実世界であれだけウエハースやチップスが全国的な品切れ(アイコネ飢饉)を起こし、転売ヤーによって市場の在庫が絶滅している状況下において、いくらプロのスタイリストのコネや財力があっても、物理的なパックを正規に買い占めることは不可能だった。
彼女の手元にあるのは、あの先行イベントの日に、執念で毟り取るようにして確保した、わずか2枚のカードだけ。
5つの部位(スロット)をすべて埋めることすら叶わない、絶望的なドレスコードの未完成状態。
だからこそ、この「事前登録キャンペーン」で配布される報酬こそが、現実世界でカードを1枚も満足に手に入れられなかったプレイヤーたちにとって、文字通り【
「……ねえ、お母さん。この事前登録報酬を受け取ると何があるの?」
ダイニングテーブルでコーヒーを優雅にすすっていた父親の暦が、画面の盛り上がりを見て尋ねた。まつりは画面を指差しながら、マスク越しに解説する。
「ゲーム内で使える有償・無償共通の基軸通貨──『コネクト・ジュエル』が、なんと初日から【ガチャ10回分相当】も一斉に無料配布されるんだよ、お父さん。登録者数が500万人を突破したからね。これを使えば、現実世界でカードを持っていなくても、ゲーム内の『デジタルクローゼット』で最初のガチャを回して、最低限の服を調達することができるんだ。だから、お母さんみたいにリアルでパックを剥けなかった人にとっては、これが命の綱なんだよ」
「なるほど、それは親切な救済処置だね。それなら、初日から服がなくて困る、なんてことは起きないわけだ」
「うん。まあ、基本無料ゲームだから、初日のステージに立つ初期アバターは、味気ない『デフォルト衣装』を着せられているから、決して『全裸』で放り出されるわけではないんだけどね……」
「デフォルト衣装? どんな服なんだい?」
「これだよ」と、まつりは画面にサンプルとして表示された、ゲーム開始直後のアバターのモデリングデータを呼び出した。
画面に映し出されたのは、何の装飾も、何のブランドロゴも入っていない、極めてシンプルで野暮ったい、上下グレーの『トレーニングウェア(ジャージ)』と、実用性だけを求めた量産型の白いスニーカー(靴)だった。
「──っ、な、何よこれ……ッ!! 冗談じゃないわッ!!」
画面を見た瞬間、恵がまるで見当違いなゴミを突きつけられたかのように、激しい拒絶の悲鳴をあげた。
「ジャ、ジャージ!? 聖なる電脳のランウェイの第一歩を、そんな部屋着みたいな、美学の欠片もない芋虫みたいな格好で歩けと言うの!? そんなの、スタイリストとしての私のプライドが、細胞レベルで断固として拒絶するわ! 全裸の方がまだ、肉体美という名の素材の暴力として成立している分、マシよ! こんなデフォルト衣装を着るくらいなら、私はログインした瞬間に、その10連分のジュエルとやらをすべて注ぎ込んで、デジタルガチャの海に身を投じるわッ!!」
「まあ、いいけどさ……。お母さんならそう言うと思ったよ。ジャージ、動きやすくて僕は好きだけどね……」
まつりは、恵の相変わらずの「衣服に対する狂気的なまでのこだわり」に呆れ果てながら、設定作業の最終段階へと移行した。アバターの基本データの作成、そしてサーバーに登録するためのアイデンティティの設定だ。
「じゃあ、お母さんの分のアカウント名(プレイヤーネーム)はどうする? 設定が完了すれば、あとからアイテムを使って変更することもできるけど、最初のゲーム開始の登録として、どうしても何かしらの文字列が必要なんだけど」
「アカウント名……?」
恵は、腕を組んで黒いマスクの奥で深刻に眉をひそめた。普段、ブランドのロゴやコレクションのタイトルを瞬時に決める彼女が、こと自分の電脳世界での「名前」となると、完全に思考の迷宮に迷い込んでしまったようだ。
「……『M』でいいわ。とりあえず、それだけで登録しておいて」
「え? 『M』? アルファベット一文字だけ? 珍しいね、お母さん」
「まだ決めかねているからね! 私の美学を完璧に体現し、かつ電脳世界の住人として相応しい、至高のネーミングをじっくりと思索中なのよ。だから、今は私のイニシャル(Megumi)の『M』で、仮置きにしておきなさい」
「わかったよ」
まつりは苦笑しながら、白い軍手の手指でキーボードの『M』のキーを叩き、彼女のアカウントをシステムに登録していく。
そして、その作業が完了した瞬間、システム画面は自動的に、もう一台の、まつり自身の『コネクト・ギア』の初期設定画面へと遷移した。
(あ……。そういえば……)
画面のプロンプトが、「プレイヤーネームを入力してください」という項目で静かに点滅を始める。
まつりは、自分の軍手の手元を見つめたまま、動きを止めた。
(僕の名前も……どうしよう? まだ、何も決まっていなかったな……)
自分自身が、あの純白のビスチェ、厚手のマットタイツ、そしてフェイクファーのショートブーツを組み合わせた、あの恥ずかしすぎる完璧なバニーガールのアバターとして、電脳世界に身を投じるための名前。
内向的で、クラスの片隅で気配を消して生きてきた自分が、アバターという仮面を被って、別の存在へと変貌するためのコードネーム。
あまりにも過酷な運命のパズルを前にして、まつりの思考もまた、母と同じように完全に停止してしまっていた。
画面の点滅を見つめながら、まつりは思わず、自分の本名である「Matsuri」の頭文字のキーへと、無意識に指を伸ばした。
ポチ、と、彼が叩いたのは、母と全く同じ、アルファベットの『M』の一文字だった。
それを見た恵が、マスクの奥の目を細めて、ニヤリと不敵に笑った。
「あら。──『M』。まつり、アンタもまだ、自分の真の名前を決めかねているのね? 私と同じじゃない」
「う、うるさいな……。僕はただ、お母さんと同じで、とりあえずの仮置きにしただけだよ。あとで、じっくり考えるからいいんだよ」
まつりは、眼鏡の奥の目を泳がせながら、慌てて登録完了のエンターキーを叩いた。
画面には、奇妙なほどにシンメトリーな、二つの『M』のアカウントが並んで表示されていた。
一人は、現実世界でカードを2枚しか持たず、事前登録のジュエルでジャージからの脱却(ガチャ)を狙う、情熱のクリエイター。
そしてもう一人は、母親の知らないところで、10円の墓場から完璧な『純白のバニー』のドレスコードを完成させ、その恥ずかしすぎる仮面を被る覚悟を決めかねている、内向的なデータオタクの少年。
二つの『M』が交錯する接続前夜。
白雪家のリビングのディスプレイには、まだ誰も見たことのない、けれど確実に世界を震撼させるであろう「電脳のドレスコード」へのカウントダウンが、静かに、そして青く刻まれ始めていた。
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