二つの『M』という、あまりにも奇妙で、けれど今の二人を象徴するようなアルファベット一文字のプレイヤーネームが、漆黒のディスプレイの上に静かに定着した。
初期設定のステータスバーが「100%・セットアップ完了」という無機質な電子の文字を表示した瞬間、まつりは、これまで張り詰めていた神経が一気に弛緩していくのを自覚した。
白い軍手をはめ、不織布マスクを鼻の上まできっちりと密着させ、数十万のプレミア価値を持つ高精密デバイスに指紋ひとつ残さないよう神経を磨り減らしていたのだ。
極度の低血圧である朝の脳には、あまりにも過酷な情報処理の連続だった。
画面を見届けると、まつりは深く息を吐き出しながら、手首のゴムをパチンと鳴らして白い軍手を両手から剥ぎ取った。
続いて、耳から不織布マスクの紐を外し、じっとりと汗ばんだ額を手の甲で拭う。
「……ふぅ。とりあえず、ネットワークの構築、デバイスの初期ペアリング、そして事前登録報酬のジュエルのアカウント紐付けまで……全部のエラーチェックをクリアしたよ。これでお母さんの『コネクト・ギア』も、僕のギアも、一週間後のサービス開始の瞬間に、いつでも世界最速でダイブできる状態になったからね」
「見事な手際だわ、まつり! さすがは我が家のデジタルマスターね!」
恵は、自分のアカウント『M』が正常に登録され、画面の奥で10連分のコネクト・ジュエルが輝いているのを確認すると、不織布マスクの奥で相好を崩した。
彼女はまるで、最新のテキスタイルを完璧に仕立て上げた職人を称えるかのように、ナイロン手袋をはめた両手を大袈裟に叩いて歓喜している。
「あー……緊張した。……お母さん、僕、ちょっと緊張の糸が解けたら急に冷えてきちゃった。……トイレ行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃい。熱い緑茶の二杯目を淹れておいてあげるから、しっかり温まってきなさい」
まつりはソファーから腰を上げると、少しふらつく足取りでリビングを後にした。
廊下のひんやりとした空気が、設定作業の熱気で火照っていた身体に心地よく染み渡る。
洗面所を通り過ぎ、トイレの個室に入ってドアを閉め、便座に腰を下ろした瞬間、まつりはようやく本当の意味で「一人」になれた気がして、深いため息を漏らした。
(……一週間後。本当に、あの世界が始まるんだな……)
壁のタイルをぼんやりと見つめながら、まつりは自分の右手の平を何度も握り、そして開いた。
彼のクローゼットに閉まってあるカードファイルには、誰にも言えない秘密が眠っている。
あの最高級の、けれどあまりにも恥ずかしすぎる露出度を誇るインディーズブランド『スノー・ラビット』の『クラシカルバニートップス(SR)』。
そして、今朝設定のテストとして何気なくスキャンした、10円の檻から救い出した『ピュアホワイト・マットタイツ(C)』と『スタートダッシュ・ファーショートブーツ(N)』。
(すべてが揃ってしまった。僕が、あのバーチャルバニーガール『ラビ』として、あの広大な電脳世界のステージに立つためのドレスコードが……完璧な形で……)
想像するだけで、黒縁眼鏡の奥の目が激しく泳ぎ、心臓がトクトクと不穏な鼓動を刻み始める。
内向的で、目立つことを何よりも嫌い、学校では前髪のカーテンの奥に引きこもっているこの自分が、頭にウサ耳を生やし、純白のビスチェを纏って、何万人、何十万人というプレイヤーが行き交う仮想空間を歩くのだ。
その現実感が、デバイスの設定を完了させたことで、一気に現実の肉体へと押し寄せてきていた。
冷たい水で再び手を洗い、衣服の乱れを鏡の前で整える。前髪のストレートのラインを指先で丁寧に直し、黒縁眼鏡の位置をミリ単位で調整する。よし、と小さく呟き、まつりは再び戦場(リビング)のドアを開けた。
リビングに戻ると、そこには、先ほどまでの嵐のような騒がしさが嘘のように、穏やかで上質な日曜日の朝の空気が流れていた。
母・恵は、早速スマートフォンを開き、アイコネの公式データベースや先行プレイヤーたちのファッション考察ブログを、文字通り「狂ったような速度」でスクロールしながら、ナイロン手袋をはめた指先をせわしなく動かしている。
彼女の『機械学習』は、デバイスの設定が終わった今、さらに加速して、バーチャルの衣服のロジックを丸ごと喰らい尽くそうとしているかのようだった。
そして、そのリビングの特等席──日当たりの良い窓際のパーソナルチェアには、いつものように、大きな新聞を広げ、お気に入りのマグカップから静かにコーヒーをすする父親・暦の姿があった。
暦は、まつりが席に戻ってきたのに気づくと、新聞の端を少しだけ折り曲げ、その温和な、すべてを見通しているかのような優しい瞳を息子へと向けた。
「おかえり、まつり。大仕事、お疲れ様。朝から恵のあのエネルギーに付き合わされて、本当に大変だったね」
暦は苦笑しながら、コーヒーを一口含む。その姿は、白雪家という、美学と情熱の暴走列車が常に走り続ける家庭において、唯一無二のレールであり、絶対的な安心感をもたらす錨のような存在だった。
まつりは暦の向かいの席に静かに腰を下ろし、恵が新しく淹れてくれた二杯目の熱い緑茶を両手で包み込んだ。
「……うん。朝の八時からあのテンションで叫ばれると、正直、低血圧の僕にとっては、脳の血管が何本か千切れるんじゃないかって思うくらい疲れるよ、お父さん……」
まつりは、眼鏡の奥の目を少し細めながら、本当に疲弊した様子で愚痴をこぼした。実際、恵の行動力は災害に近い。
あの限定先行イベントの夕方に、すでに二台のギアを確保していたという事実だけでも、一般の男子高校生ならキャパシティをオーバーして気絶していてもおかしくないレベルだ。
しかし、まつりは緑茶を一口すすり、その温かさが胃の腑に落ちていくのを感じながら、自然と口元に小さな、けれど確かな微笑を浮かべていた。
「……でもね、お父さん。……正直に言うと、すごく、心強いんだ」
「ほう?」
暦は、マグカップを持ったまま、息子のその言葉に少し意外そうな、けれど嬉しそうな表情を浮かべた。
まつりは、ディスプレイの向こうで未だに「このデフォルトのジャージ衣装、カッティングが凡庸すぎて反吐が出るわ! サービス開始の瞬間に、絶対にデジタルガチャで最高のアウターを引いて破棄してやるわ!」と独り言を呟きながら画面を睨みつけている恵の横顔を、そっと見つめた。
「オンラインゲームなんて、僕、生まれて初めての領域だから……。いくらデータやガジェットの知識があっても、あの右も左もわからない、何百万人もの見知らぬプレイヤーがひしめき合う広大な電脳世界へ、たった一人で飛び込むのは、本当はすごく怖かったんだ。ネットの掲示板じゃ、初心者を騙すような規約の裏をかいた取引や、過酷なコミュニティの人間関係があるって書かれていたし……」
まつりは、緑茶の湯気越しに、自分の本音をぽつりぽつりと紡いでいく。
「でもね、あそこまで暴走気味で、周りの目なんて一ミリも気にしなくて……何より、衣服や美学っていう自らの芯。ルールみたいな物に対して、世界中の誰よりも真摯で、圧倒的なエネルギーに溢れている『お母さん』が、最初の同伴者としてすぐ隣にいてくれる。それだけで……僕がどんなに内向的で、ゲームの中で上手く喋れなくても、お母さんがその圧倒的なパッションで、目の前の壁を全部なぎ倒して進んでくれるような気がするんだ。だから、一人でやるよりかは、お母さんが隣にいてくれる方が、遥かに、何百倍も心強いよ」
まつりのその言葉は、飾りのない、純粋な本心だった。
これまで家庭内において、恵の敷く過酷なドレスコードや、アパレルデザイナーとしての容赦のないファッショニスタ的感性に、恐怖し、怯え、ジョギングに付き合わされてきたまつりだった。
しかし、その「圧倒的な生き様」を誰よりも近くで見つめ、誰よりも尊敬し、愛しているからこそ、彼は自らそのストイックな暴走の唯一の伴走者になることを誓ったのだ。
その母の狂気とも言える情熱が、今度は見知らぬ電脳世界という戦場において、自分を守り、引っ張ってくれる最強の『盾』であり『矛』になる。
これほど頼もしい同伴者は、世界中のどこを探しても存在しない。
暦は、まつりのその言葉を静かに聞き終えると、新聞を完全にテーブルへと置き、マグカップをコト、と静かな音を立てて置いた。
そして、男同士の、父親としての、深く、そして温かい眼差しを息子へと真っ直ぐに向けた。
「……そうか。まつりがそこまで恵のことを理解して、信頼してくれているなら、父親としてこれ以上安心なことはないよ」
暦は椅子の背もたれにゆっくりと身体を預け、リビングの奥で未だにデータの衣服と格闘している妻を見つめながら、優しく微笑んだ。
「恵はね、一度火がついたら誰にも止められないし、周りが見えなくなって、時に突拍子もない行動で周囲を巻き込んでしまう。でもね、彼女が信じた『美しさ』や、彼女が選んだ『道』には、絶対に嘘がないんだ。それは、私が誰よりもよく知っている。……まつり。ママを、よろしくな。電脳世界っていう新しい場所でも、彼女の最高の伴走者でいてやってくれ」
「……うん。朝からあのテンションに付き合うのは、本当に体力がいるけどね。でも、任せてよ、お父さん。お母さんの足元。システムのサポートは、僕が完璧にこなしてみせるから」
まつりは、黒縁眼鏡の奥の瞳に、データオタクとしての、そして白雪恵の息子としての、静かで確かな決意の炎を灯しながら、力強く頷いた。
「よし、ママのプロファイリングは完璧よ!」
その時、恵がスマートフォンを勢いよくテーブルに叩きつけ。
もちろん、ナイロン手袋越しに細心の注意を払って、高らかに勝利の宣言をあげた。
「アイコネのバーチャル空間における繊維の挙動、およびレアリティごとのコンボ倍率のロジックはすべて脳内にインプットしたわ! サービス開始日の日曜日、ログインした瞬間に、私は私の美学のすべてをあの世界に叩きつけてみせる! まつり、アンタも遅れを取るんじゃないわよ!」
「はいはい、わかってるよ、お母さん。……でも、まずはその前に、ちゃんとお昼ご飯を食べて、体力をつけてからにしてよね」
「当然よ! 最高の戦いの前には、最高の栄養補給が必要だわ。パパさん、今日のお昼は私が特製の、色彩バランスが完璧なイタリアンサラダとパスタを作ってあげるわ!」
「お、それはありがたいね。楽しみにしているよ、恵」
暦が嬉しそうに目を細め、白雪家のリビングには、いつもの、けれどどこか新しく、熱い未来を予感させる穏やかな笑い声が満ちていった。
窓の外からは、五月の初夏の心地よい風が、白雪家のカーテンを優しく揺らしている。
『アイコネ』サービス開始まで、あと一週間。
親子の確かな絆と、それぞれの胸に秘めた『美学』という名のドレスコードを抱きしめながら、少年と母親の、そして電脳世界へと続く運命のカウントダウンは、静かに、けれどどこまでも熱く、その刻みを刻み始めるのだった。