わかりにくくて申し訳ない。
◇のあとは、プロローグの内容を夢で見ていたという前提でご覧ください。
いつもの猫背。いつものうつむき加減。
けれど、その足取りだけは、学校の廊下を歩く時のそれとは比較にならないほど、奇妙な力強さと速度を孕んでいた。
彼は無駄に行動力があった。
普段のオドオドした態度からは想像もつかないほど、自分の「興味」や「夢」の残骸に触れることに関しては、一切の躊躇を脱ぎ捨てて突っ走る悪癖があるのだ。
夕暮れ時の駅前は、家路につくサラリーマンや、他校の生徒たちで混雑していた。
制服のポケットに両手を突っ込み、人混みを避けるようにして改札へと向かおうとしたその時、まつりの視界の隅に、鮮烈な「色彩」が飛び込んできた。
駅の広場の片隅。拡声器を持ったスーツ姿のスタッフ数人が、大声を張り上げながら、道行く人々に何かを配っている。
「お願いしまーす! 来月サービス開始の、次世代ダイブ型VRアイドルゲーム、【AI-CONNECT】の公式パンフレットです! 年齢性別関係なし! 誰でも今すぐアイドルになれる、全く新しい世界を体験してください!」
アイコネ。
その単語が鼓膜を叩いた瞬間、まつりの身体が、まるで目に見えないワイヤーで引っ張られたかのようにピタリと制止した。
彼の色素の薄い瞳が、長い前髪の隙間から、スタッフが掲げている巨大な看板へと釘付けになる。そこには、網膜を灼くような極彩色のライトに照らされた、無数の美しいアバターたちのグラフィックと、あの幼い日の記憶の底で輝いていた、眩いステージの景色がこれ以上ないほどスタイリッシュに描き出されていた。
『AI-CONNECT(アイコネ)』。
それは、ただのゲームではない。現実の肉体やスペックに絶望した人間たちが、その魂をすべてデータへと変換し、全く新しい「理想の自分」として生まれ変わることができる、電子のゆりかご。
ゴクリ、と喉の奥で生唾を飲み込む。
まつりの胸の中で、しばらく眠っていたはずの、あの「ワチャワチャ」とした熱い感情が、マグマのようにグツグツと音を立てて鎌首をもたげてくるのが分かった。
(誰もが、アイドルになれる。性別も、年齢も、現実の姿も、何も関係ない世界……)
現実の僕は、最前列の隅の席で、作画コストを気にするようなモブ以下の存在だ。不器用で、手先も悪くて、要領も悪くて、誰とも喋れない『白雪姫』だ。
だけど、あの世界になら。
あの、すべてが真っ白な光で構築された仮想のステージの上になら。
僕の、この下手くそで、けれど誰にも邪魔されずに自室で磨き続けた「歌」を、届けることができる場所があるんじゃないか。
世界のどこかにいる、僕と同じように独りぼっちで、何もない誰かにとっての──「オンリーワンの特別」に、なれるんじゃないか。
一度火がついた彼の行動力は、もはや誰にも止められなかった。
普段なら、見知らぬ大人が大声を上げている場所に近づくことすら怯えるコミュ症の少年が、まるで何かの宗教の熱狂的な信者のような、恐ろしいほどに真っ直ぐな迷いのない足取りで、スタッフの元へと歩み寄っていた。
「あ……ああの、それ、一部、ください……っ」
声は小さく、相変わらずオドオドとしていたが、スタッフに差し出された彼の右手は、驚くほど固く、強く、意思を持ってパンフレットの端を掴んでいた。
「あ、はい! ありがとうございます! 事前登録もよろしくお願いしますね!」
手渡されたのは、ずっしりと重みのある、上質なコート紙で印刷された見開きの大判パンフレットだった。
表紙には、スタイリッシュなフォントで『AI-CONNECT Limited Launch』のロゴが刻まれており、そのメタリックな輝きが、夕暮れの街灯の下でギラリと反射した。
パンフレットを通学用カバンへ入れ、胸に抱きしめるようにして、まつりは満員電車の雑踏へと飛び込んだ。
周囲の大人たちに揉まれ、押しつぶされそうになりながらも、彼の両手は、胸元のパンフレット入りのカバンを決して離さなかった。折れ曲がらないように、大切に、まるで世界に一つしかない宝物を守るように。
電車が彼の住む街の駅に到着し、改札を抜けて、いつもの見慣れたマンションのエントランスをくぐる。
エレベーターの鏡に映る自分の姿は、相変わらず猫背で、前髪が長くて、どこからどう見ても冴えない日陰者の『白雪姫』のままだ。
けれど、鞄の中に眠る一冊のパンフレットが、彼の皮膚のすぐ下にある血流を、確実に熱く、速く、脈打たせていた。
現実のどん底から、仮想の頂点へ。
何もない少年が、その内に秘めた無駄な行動力と、死ぬ気で行動する勇敢さの導火線に、今、自らの手で静かに火をつけた瞬間だった。
まつりはドアを開ける。
◇
──パチ、と。
乾いた、ひどく冷機を孕んだ電子音が、静寂を切り裂いた。
「…………ぁ」
まつりは、小さく息を漏らしながら、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、極彩色のスタジアムでも、眩いエレクトリック・ピンクの光でもなかった。
うっすらと埃の積もった、何の変哲もない、どこか黄ばんだ賃貸マンションの天井。
窓の外からは、夕暮れ時の、どこか物悲しいカラスの鳴き声と、遠くを走るトラックのロードノイズがかすかに響いてきている。
夢、だった。
いや、夢というよりは、過去の記憶の出涸らしのようなものだ。
まつりは、ソファの上でゆっくりと上体を起こした。
(そっか、僕、帰って来たあと、寝ちゃったんだ……)
自然と、背中が丸まる。いつもの、周囲から「自信のなさが服を着て歩いている」と揶揄される、典型的な猫背の姿勢だ。
(懐かしい夢だったな……)
彼は、自分が着ている白のカーディガンの袖を、無意識のうちにきゅっと固く握りしめていた。手のひらには、じんわりと嫌な汗が滲んでいる。
「……何、やってるんだろ、僕」
ぽつりと呟いた声は、誰に届くこともなく、狭い自室の空気に吸い込まれて消えた。
あの幼き日の熱狂から、一体何年の歳月が流れただろう。
現在の白雪まつりは、公立高校に通う、どこにでもいる──いや、どこにでもいる「普通」よりもさらに一段、いや数段下の位置にいる、しがない男子高校生の一年生になっていた。
現実というやつは、幼い子供の夢を容赦なく踏みつぶしていく、残酷な砂時計のようなものだ。
成長するにつれて、まつりは嫌というほど自覚させられた。自分には、何一つとして「突出した才能」がないということを。
勉強をさせれば、クラスの平均点に届かせるだけで息も絶え絶え。
手先は不器用で、家庭科の調理実習では人差し指を包丁で切りかけるか、火傷を負いかける。
運動神経に至っては絶望的で、何もない平らな廊下で、自分の足のもつれに躓いて派手に転ぶこともあるほどだ。
要領が悪く、物事を要領よく立ち回るセンスが決定的に欠落している。日常茶飯事だ。
そのため、いつしか自分に対する自信というものは完全に霧散し、人と話すときはいつもオドオドと視線を彷徨わせ、声をかけるタイミングを計りすぎて結局一言も喋れずに終わる、重度のコミュ症へと成り下がっていた。
顔立ちだって、十人並み以下だ。前髪を長く伸ばしているのは、自分の冴えない顔を少しでも隠したいという防衛本能の表れだったが、それが余計に「暗い奴」という印象を周囲に植え付け、完全に裏目に出ていた。スタイルが良いわけでもない。
しかし、まつりはお決まりの言葉を小さく呟いた。
「……よし」
その瞳には、もはや周囲を怯える陰気な少年の面影はなかった。ただ真っ直ぐに、まだ見ぬ真っ白な新世界への、純粋な執念だけが灯っていた。
白雪姫は王子様のキスで目覚めた。
しかし、白雪 まつりには王子様は居ない。そのために自身でガラスの棺を動かすしかない。覚悟を決めた。
そう、自身の夢「『誰かにとってのオンリーワン(特別)』なアイドルになること」と向き合う覚悟を――
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