雪結(ユキネ)   作:旧作

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第二十九話 妥協なき二枚のセレブ、ダイブ前夜のプライド

 

 

 

 フルダイブ型次世代VRゲーム『アイドル・コネクト』──通称『アイコネ』の正式サービス開始当日となる日曜日を、白雪家はついに迎えていた。

 

 

 

 

 あの騒々しくも、どこか熱を孕んでいた接続設定の日から、数えて一週間。

 

 

 

 振り返ってみれば、ウエハースの裏に隠された一枚のカードから始まったこの激動の一ヶ月間は、目まぐるしい速度であっという間に駆け抜けていった。

 

 

 

 しかし、時間の経過がどれほど速かろうとも、現実世界の過酷な現実は何一つとして変わっていなかった。

 

 

 

 

 スマートフォンの画面に表示されているのは、SNSのトレンド欄を毎日埋め尽くしている『#アイコネ飢饉』という、もはや呪詛に近いハッシュタグだった。

 

 

 

 

 日本全国、いや世界規模で巻き起こっている、コーデカードの絶対的な品切れ状態。

 

 

 

 それは大都市圏の大型ホビーショップや百貨店、コンビニの棚だけにとどまらず、まつりたちが暮らすこの地方の静かな田舎町においては、さらに致命的な飢餓感となって影を落としていた。

 

 

 

 

 そもそも入荷する絶対数が少なすぎるのだ。

 

 

 

 

 早朝から地元の小さなコンビニを何軒梯子しようが、隣町の大型ショッピングモールの玩具売り場に並ぼうが、手に入るのは「次回入荷未定」と書かれた虚しいポップの文字だけ。

 

 

 

 

 

 一パックはおろか、ウエハースの破片一枚すら買えないという、砂漠の真ん中で一滴の水を求めるような絶望的な状況が今もなお続いていた。

 

 

 

 

 白雪家のリビングのダイニングテーブルの上には、そんな地獄のような物量戦を潜り抜け、現在我が家が保有しているすべての「戦力」が並べられていた。

 

 

 

 

 まつりが手に入れた、あのすべての元凶にして純白の奇跡──インディーズブランド『スノー・ラビット』の『クラシカルバニートップス』。

 

 

 

 

 そして彼が十円ストレージから奇跡的に発掘した、コモンのマットタイツとノーマルのショートブーツ。

 

 

 

 

 そしてその隣には……母・恵が所有する、あまりにも心許ない、たった二枚のカードがぽつんと鎮座していた。

 

 

 

 

 

 一枚は、コモン(C)の『ビター・ハイカットスニーカー』。

 

 

 

 

 そしてもう一枚は、深みのある漆黒の背景に、冷徹なまでの美しさを湛えた銀色のブランドロゴが刻まれた、レア(R)のアクセサリカード──『ノクターン・リンク・チェイン&イヤーカフ』。

 

 

 

 

 それだけ、だった。

 

 

 

 

 五つの装備スロット(トップス、ボトムス、シューズ、アクセサリ、アウター)のうち、恵が現実の物理カードとして手元に用意できているのは、足元と首元・耳元の二箇所のみ。

 

 

 

 

 

 肝心の身体を包むトップスとボトムスは、完全に空欄のままだった。

 

 

 

 

 

「……ねえ、お母さん。やっぱり、今からでも少し車を走らせて、都市部の中古ホビーショップか、ネットのフリマアプリを見てみない? 確かにプレミア価格がついちゃってるけど、バラ売りのコモンカードや、ノーブランドのノーマル衣装なら、まだなんとか手に入ると思うんだ。このままじゃお母さん、ログインした瞬間に全身グレーのデフォルトジャージ姿になっちゃうよ? さすがにそれは……」

 

 

 

 

 

 見かねた白雪まつりは、黒縁眼鏡の奥の目を心配そうに揺らしながら、おずおずと提案した。

 

 

 

 

 

 データオタクであるまつりの計算では、ゲーム開始直後のステージでどれだけ優れたプレイングを披露しようとも、衣装の揃っていないアバターではブランド倍率。

 

 

 

 シナジーが乗らず、システム上のスタートダッシュで致命的な遅れをとることは明白だった。

 

 

 

 

 何より、普段の服飾に対するこだわりが地球規模である母親が、あの野暮ったい量量型のトレーニングウェアを着て電脳世界に立つなど、精神的な自傷行為に近いのではないかと考えたのだ。

 

 

 

 

 

 しかし、その親切心からの提案に対し、恵はダイニングテーブルの椅子から毅然とした態度で立ち上がり、リビングの空気を一瞬で凍りつかせるほどの鋭い声で言い放った。

 

 

 

 

 

「──お断りよ、まつり。私の傑作(スタイリング)に、妥協の『お古』は一ミリも許さないわ!」

 

 

 

 

 彼女の言葉には、一切の迷いも、妥協の余地もなかった。

 

 

 

 

 黒い不織布マスクの奥から覗く瞳は、まるでコレクション前夜の張り詰めたランウェイを見つめるデザイナーそのものの、鬼気迫る鋭利さを孕んでいる。

 

 

 

 

「私は使わない。まつりはそれ(中古のカード)を使ってもいいけどさ。外で誰が袖を通したかも分からないような、誰かが手放したハズレ枠の残滓。残りカスを私のコーディネートに混ぜるなんて……そんなこと、私のデザイナーとしてのプライドが、スタイリストとしての魂が、天地がひっくり返っても断固として拒絶するわ!」

 

 

 

 

 

「お、お母さん……。でも、これはただのデジタルデータだよ? 誰かが現物を着て汚したわけじゃなくて、NFCチップのコードを読み取るだけだから、お古と言っても新品とデータ的には全く同じなんだけど……」

 

 

 

 

「そういう問題じゃないのよ、まつり!」

 

 

 

 恵はナイロン手袋をはめた手で、机の上のRカード──『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』をそっと指先でなぞった。

 

 

 

 

【SHADOW PETRI】。

 

 

 

 深みのある漆黒に輝くその銀文字。それは、世界のモード系ファッションを牽引する、フランス発祥の歴史ある老舗最高級ブランドの名前だった。

 

 

 

 

「光を際立たせるための、絶対的な闇」をコンセプトとし、黒という色彩のゲシュタルトを極限まで追求したミニマルかつ攻撃的なカッティング。

 

 

 

 現実世界のアパレル業界においても、パリ・コレクションの頂点に君臨し続けるその『シャドー・ペトリ』の美学は、恵が学生時代から心の聖書。

 

 

 

 バイブルとして崇め、自身のデザイン哲学の根幹に据えてきたものだった。

 

 

 

 

「カードは単なるデジタルデータじゃないの。それは、電脳世界という新しいキャンバスに、私たちの魂を吹き込むための『最高級の素材』なのよ! 見てちょうだい、この細麗なカッティングで描かれた、夜の闇を体現したかのような美しいチェーンネックレスと、イヤーカフのグラフィックを。この一枚には、シャドー・ペトリの職人たちが積み上げてきた、歴史と気品。エレガンスのパラメータが物質化して詰まっているの。そこに、どこぞの馬の骨とも知れないノーブランドの、適当に売り払われたノーマルカードを混ぜ合わせるなんて……そんな汚れたドレスコード、美学に対する冒涜であり、スタイリストとしての私の『死』を意味するわ!」

 

 

 

 

 

 こういうときの母は、狂信的なまでに強情だった。

 

 

 

 

 現実の利便性やシステム上の数値。スコアなど、彼女の絶対的な美意識の前には、路傍の砂利同然。

 

 

 

 どれほど過酷な状況であろうとも、自分が認めた「最高の本物」だけで身を固めることこそが彼女の生き様であり、そこに一切の妥協の余地はない。

 

 

 

 

「取り敢えず、中古のカードでスロットを埋めた方がゲームとしては有利だよ」と、まつりはデータオタクの正論としてもう一度食い下がろうとしたが、「うるさいわね! 凡庸なジャージを着ることよりも、汚れた美学を身に纏うことの方が、私にとっては万死に値するのよ!」と、完全に怒られてしまった。

 

 

 

 

 まつりは両手を上げて降参のポーズを取り、それ以上の説得を諦めた。

 

 

 

 

(……ダメだ。こうなった時のお母さんは、世界中の軍隊が押し寄せてきても一歩も引かない。ここは、お母さんのデザイナーとしてのプライドを最優先にするしかないな……)

 

 

 

 

 結局、白雪家は、恵の追加カードを一切購入しないまま、手元にあるコモンのハイカットスニーカーと、シャドー・ペトリのアクセサリカード、この「二枚のセレブ系カードだけ」を持って、サービス開始の当日を迎えることになったのだった。

 

 

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