第三十話 未知なる電脳への恐怖、白き世界のマスコット
リビングの壁に掛けられた時計の針が、午前九時五十分を指す。
正式サービス開始の午前十時まで、あと残り十分。
テーブルの上には、完全に充電を完了させ、淡い待機光を放っている二台の重厚なフルダイブ・デバイス『コネクト・ギア』が並んでいた。
恵は、その近未来的でどこか冷徹なヘルメット型のデバイスを見つめながら、ここにきて初めて、不織布マスクの奥で小さく息を呑んだ。
アパレルやデザインの領域では世界のトップを走る彼女だったが、こと「最先端のバーチャルリアリティ」という未知のテクノロジーに関しては、まったくの素人であり、未経験者だったのだ。
「……ねえ、まつり。本当に、これを頭に被ってスイッチを入れるだけで、私たちの意識は現実の肉体を離れて、その『アイコネ』の世界へ飛ばされるのよね……?」
恵の声が、心持ち少しだけ震えているのを、まつりの鋭い耳は聞き逃さなかった。
「ダイブ中って、現実の身体は完全に眠ったみたいになって、意識を失うのよね? なんだか……改めて考えると、少し怖いわね。本当に大丈夫なのかしら。SF映画みたいに、意識が現実に戻ってこられなくなったりしない?」
プロのスタイリストとしての強固な鎧の隙間から、一人の「初めてVRゲームに触れる大人の女性」としての、素朴な不安と恐怖が覗いていた。
それを見たログイン前のまつりは、自分の頭のアイコネ・ギアの位置を正し、黒縁眼鏡のブリッジをそっと指先で押し上げると、いつもより少しだけトーンを落とした、けれど芯のある穏やかな声で微笑みかけた。
「母さん。大丈夫だよ」
まつりは、自分の顔に当てていた衛生用の不織布マスクへと手を伸ばした。
「……あ、そうだ。ダイブする前に、マスクは外しといた方がいいよ。僕もそうするから。フルダイブ中は呼吸の感覚もバーチャルに移行するから、現物のマスクが顔に張り付いていると、脳がバグって息苦しさを誤認しちゃうことがあるんだって」
「あ、そうなのね……」
恵はまつりの指示に従い、外に出る時とコネクト・ギアを触る時に、一週間ずっと着けていた黒い不織布マスクを耳から外し、テーブルへと置いた。
まつりも自分の白いマスクを外し、二人とも素顔を晒した状態で、深く息を吸い込む。
まつりは、白い作業用軍手を外した自らの素手を伸ばし、恵のナイロン手袋を外した素肌の手を、上からそっと包み込むように握った。
「僕はすぐ隣にいるから。システムの設定は全部僕が完璧に管理しているし、もし何かエラーが起きそうになっても、データオタクの僕がすぐにログアウトのプロシージャを起動させるから。お母さんは何も心配しないで、ただあの広大な世界と、そこに広がる新しい衣服の可能性だけを見ていればいいんだよ」
「……まつり」
恵は、息子の黒縁眼鏡の奥にある、静かで揺るぎない信頼に満ちた瞳を見つめ返し、深く深く息を吐き出した。
その手の震えは、いつの間にか完全に止まっていた。
「そうね。アンタという最高の伴走者がシステムを握っているんだもの。私が怯えてどうするのよ。……よし、行きましょう。電脳世界のシャドー・ペトリが、私を待っているわ!」
「うん。じゃあ、ギアを装着して……。カウントダウンを始めるよ」
二人はそれぞれの『コネクト・ギア』を頭部へと深く装着した。
視界がヘルメットの内壁によって完全に遮断され、暗黒が訪れる。
耳元で、デバイスの冷却ファンが静かに駆動を始める、微細な風の音が聞こえた。
『──システム、オールグリーン。生体接続(リンク)を開始します。カウントダウン、3、2、1……コネクト』
脳内で響く無機質なシステムアナウンスの直後、まつりと恵の意識は、重力という名の現実の檻から一瞬にして解き放たれ、光速の電子の奔流の中へと、深く、深く、吸い込まれるようにダイブしていった。
急激な浮遊感の後、意識が、どこまでも広大で、境界線の存在しない、純白の虚無の空間へと飛ばされる。
「……ここは?」
恵の声が、現実の肉体の振動ではなく、脳内に直接響くクリアなデジタルデータとして聞こえた。
まつりがゆっくりと目を開けると、そこは床も壁も天井もなく、ただただ全方位が眩いほどの白で満たされた、ゲーム開始前の初期化空間、ロビーだった。
「うわ。見て、デフォルト衣装のジャージになってる!!」
まつりは自分の身体を見下ろして、思わず声をあげた。
二人の姿は、現実世界の部屋着や私服から、瞬時に『アイコネ』のシステムが規定する初期状態へと置き換えられていた。
しかし、それはまつりが想像していたような、家の中で着るようなだらしない「部屋着」の類では、断じてなかった。
身体を包んでいるのは、極めて実用的で、アスリートの肉体ラインを無駄なく引き締める、上下グレーの機能的な『トレーニングウェア(ジャージ)』。
そして、足元にはしっかりとホールド感のある量産型の白いスニーカー。
部屋着としてのスウェットではなく、あくまでステージという名の戦場に立つ前の、肉体をニュートラルに保つための「本格的なアスレチック・ウェア」としてのジャージ。
機能美の極致とも言えるその姿に、まつりはデータオタクとして「なるほど、動きやすくて、計算されたモデリングだ」と腕をブンブン振り回しながら感心した。
「冗談じゃないわッ!! 何よこの色気のない塊はッ!!」
だが、隣に立つ恵にとっては、それはただの「美学の拷問」でしかなかったようだった。
「ようこそ、アイドル・コネクトの世界へ!!」
その時、空間のいたるところから音が反響するように、やたらと陽気でマスコット的な、高めの電子音声が響き渡った。
二人の目の前の空間がピカピカと明滅したかと思うと、そこにポリゴンが急速に組み合わさり、頭が大きく身体が極端に小さい、デフォルメされた奇妙な生き物が姿を現した。
「動画とかで、知ってると思うけど、改めて! 一応、始めまして! 私は『ドルクト』。このアイコネの世界の案内役であり、みんなを導く公式マスコットさ!」
自らをドルクトと名乗ったそのマスコットは、短い手足をパタパタと動かしながら、空中を浮遊して親しげにウィンクをしてみせた。
「始めまして、よろしくね」
恵は、目の前の奇妙なマスコットに眉をひそめつつも、大人の気品を崩さずに挨拶を返した。
「今日は正式サービス開始日だからね! 人が信じられないくらい多くて、外のメインサーバーは大混雑しているんだ! だから、まずはこの個別の白い初期化空間で、安全に二人の『キャラメイク。アバター作成』を完成させて貰おうと思ってね!」
ドルクトは短い手を叩き、二人の前に、これから始まる壮大な運命の選択肢となるホログラムウィンドウを浮かび上がらせるのだった。
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