どれだけ現実に打ちのめされ、要領が悪く、周囲から「ドジで何もない奴」と蔑まれようとも、彼の芯にある真面目さと、勇気の本質は死んでいなかった。
昔、近所の大人たちから「いい子ね」と言われていた、あの根っからのお人好しで、親切な心根。
困っている人がいれば、自分がどれだけ不器用でも手を差し伸べようとする、内に秘めた果断さ。
彼はただ、現実という世界における「自分を表現する方法」を、何一つ持っていないだけだった。
唯一、自分を表現できる瞬間があるとすれば。
それは、誰もいないこの部屋で、お気に入りの音楽を小さな音量で流しながら、掠れた声で歌う時だけだった。
決して、プロのように上手いわけではない。手先と同じように、声帯のコントロールだって要領が悪く、時々音程を外してしまう。
けれど、歌っている時だけは、彼は「白雪まつり」という、現実の呪縛から解き放たれることができた。
自己主張を一切許されない学校生活の中で、歌うことだけが、彼が世界に対して「僕はここにいるよ」と叫ぶことができる、唯一の息継ぎの穴だった。
まつりはソファから立ち上がると、リビングを見渡す。
現在の白雪家は、あの頃と比べると、少しだけ静かだ。
間取りは一般的な分譲マンション。
共働きの両親のおかげで、生活に困窮しているわけではないが、家庭内のパワーバランスは数年前に比べて大きく変化していた。
家計の絶対的な屋台骨として、日夜仕事に奔走している父親の暦は、今や役職がついたのか、あの頃よりもさらに帰りが遅くなっていた。
出張も多く、家にいる時も疲れ果てて書斎で眠っていることがほとんどで、最近はまつりとまともな会話を交わした記憶がほとんどない。
あの時、「父さんも応援するぞ」と言ってくれた温かい手の手触りは、今や記憶の彼方に霞みつつあった。
しかし、その一方で。
母親である白雪恵との関係だけは、昔と変わらず、いや、むしろ年々おかしな方向へと進化しながら、極めて良好な状態を保ち続けていた。
「ただいまー。って、寝てたの、まつり?」
リビングのドアが勢いよく開くと同時に、室内の空気が一気に華やかな、けれどどこか家庭的な温度へと塗り替えられた。
両手に近所のスーパーの買い物袋をこれでもかとぶら下げた恵が、文字通り風を巻き起こすような圧倒的なエネルギーと共にエントリーしてきたのだ。
「……あ、ううん、おかえり、お母さん。ごめん、ちょっと、寝てた……」
まつりは、急激に光が差し込んできた網膜を痛そうに細めながら、のそのそとゾンビのように上体を起こした。寝起きのせいで、ただでさえ低い声がさらに掠れて消えそうになっている。
オドオドと視線を彷徨わせ、寝癖でさらにボサボサになった前髪を手で押さえようとした──その時。
まつりの眠気で霞んでいた瞳が、恵の全身のシルエットを捉えた瞬間、カチリと完全に覚醒した。
「……その服、新作のやつ!?」
まつりの口から、普段の彼からは想像もつかないほど、明確で、かつ驚愕に満ちた鋭い声が飛び出した。
白雪恵、現在四十二歳。
年齢だけを聞けば、世間一般では「おばさん」と呼ばれる領域に片足を突っ込んでいるはずの年齢だ。
しかし、彼女の佇まいには、そんな世俗的な衰えは微塵も感じられなかった。
結婚前、そして現在もアパレル関係の会社でパートとして働いている彼女は、常に最新のトレンドやファッションにアンテナを張り巡らせている。
その徹底ぶりは凄まじく、肌のケアやコスメの選択に至っては、年齢を感じさせない「若々しさ」と、大人の女性としての「成熟さ」を、奇跡的なバランスで両立させていた。
何より、彼女は非常にノリが良い。
息子であるまつりに対して、母親というよりは「ちょっと年の離れた親友」のような絶妙な距離感で接してくるのだ。
そこに立っていた恵は、四十二歳という年齢の重力を一切無視したような、実に見事なスタイリングを構築していた。
彼女が身に纏っていたのは、今週発売されたばかりのドメスティックブランドの、オーバーサイズ・ドルマンスリーブシャツ。
それも、ただ着るのではなく、フロントの裾だけを絶妙なニュアンスでハイウエストのワイドパンツにインし、袖口を少しラフにロールアップして手首の華奢なアクセサリーを強調するという、計算され尽くした着こなしだった。
首元には、顔色をワントーン明るく見せるための、透け感のあるシフォン素材のインディゴブルーのスカーフが巻かれている。
「あら、やっぱり気づいちゃった? さすがはお母さんの可愛い息子ね!」
恵は買い物袋をキッチンカウンターにドサリと置くと、その場でモデルのようにくるりと一回転して、自慢のコーディネートをまつりに見せつけた。
その顔には、自分のこだわりを完璧に見抜かれたことに対する、無邪気なまでの悦びが満ち溢れている。
「これね、パート先の店長に無理言って、社販の社販で一足早く回してもらったのよ。今季のトレンドである『リラクシー&マニッシュ』の最高傑作。どう? まつりから見ても、おばさん臭くないでしょう?」
「おばさん臭いどころか……うん、すごく、綺麗だと思う。シルエットの崩し方が、お母さんっぽくて、その……似合ってる」
「合格! 最高の褒め言葉をいただきました!」
恵は嬉しそうにパチンと指を鳴らすと、冷蔵庫へ向かって買ってきた食材を手際よく詰め込み始めた。
「まつりも今度着てみる?」
「いや、僕はいいよ……男物じゃないし」
「何言ってるの、今の時代はジェンダーレスよ! あ、そうだ、新しいリップの試供品貰ってきたから、後でまつりの唇で発色試させてね」
「ええ……?」
困ったように眉をひそめながらも、まつりの表情は柔らかい。
まつりが学校の冴えない外見とは裏腹に、ファッションやコスメのブランドに無駄に詳しく、コーディネートの基礎知識を完璧に叩き込まれているのは、間違いなくこの母親の英才教育──もとい、日々の爆撃のような影響によるものだった。
恵は、まつりが学校で「白雪姫」と呼ばれていることを知っている。
しかし、彼女はその事実を知った時、眉をひそめるどころか、満面の笑みでこう言ったのだ。
『白雪姫? 何それ、最高の褒め言葉じゃない! まつりは素材が良いんだから、あとはお母さんが極上のドレス(コーディネート)を着せてあげれば、世界中のお姫様を過去にする美少女にだってなれるわよ!』
ポジティブの暴力。
その突き抜けた明るさに、まつりは何度も救われてきた。
現実の学校生活がどれだけ灰色で、冷たい孤独に満ちていようとも、この家の中にだけは、自分を無条件で肯定し、あの日と変わらない熱量で接してくれる「味方」がいた。
けれど。
まつりの胸の奥にある、あの「ワチャワチャ」とした熱の塊は、それだけではどうしても収まりきらなかった。
恵がキッチンで夕食の支度を始める音が聞こえる中、まつりはリビングの隅に置かれた、古いタブレット端末に目を落とした。
画面に表示されていたのは、ここ数ヶ月、ネット上のあらゆるタイムラインを文字通り一色に染め上げている、一つの巨大な特報だった。
『次世代ダイブ型完全同期VRアイドル育成ゲーム──【AI-CONNECT(アイドル・コネクト)】、通称:アイコネ。来月、ついに世界同時サービス開始』
それは、かつてまつりが夢見た、あの世界の、完全なる上位互換にして決定版だった。
これまでのVRゲームとは一線を画す、最先端の意識ダイブ技術。現実の年齢も、性別も、容姿の美醜も、社会的地位も、一切が関係ない。
ログインした瞬間、すべての人間が「等しく真っ白なアバター」を与えられ、そこから己のセンスと、歌と、パフォーマンスの力だけで、何万人ものファンを魅了する「アイドル」へと生まれ変わることができる、電子の奇跡の空間。
画面に躍る『誰でも、何にだってなれる』というキャッチコピーを、まつりはじっと見つめていた。
(誰でも、アイドルになれる……)
現実の僕は、頭も悪くて、手先も不器用で、猫背で、オドオドしてて、要領も悪い、何もない人間だ。
学校では「白雪姫」なんていう、皮肉の混じった名前で呼ばれてる。
だけど。
もし、あの『アイコネ』の世界に行くことができたなら。
あの、すべてが新しく構築される、真っ白な仮想の世界の中でなら。
不器用な僕の、この掠れた歌声だって。
たった一人でいい。世界のどこかにいる、僕と同じように孤独で、何もない誰かにとっての──「オンリーワンの特別」になれるんじゃないか。
まつりの細い指先が、タブレットの画面を、そっと、けれど明確な意志を持ってタップした。
事前登録のボタンが、電子音と共に緑色に点灯する。
現実での彼は、引きこもりで、コミュ症で、引っ込み思案だ。
けれど、彼には「一度こうと決めたら、周囲が困惑するほどの狂気的な行動力を発揮する」という、最大の、そして唯一の武器があった。
巻き込まれたわけじゃない。誰かに背中を押されたわけでもない。
白雪まつりは、自分の意志で、あの幼き日の残像を追いかけるために、再びあの熱狂の戦場へと赴くことを決意した。
「……よし」
小さく、けれど芯の通った声で呟く。
彼の手のひらの中で、タブレットの画面が、来るべき新世界の光を予感させるように、眩しく明滅していた。
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